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「燕子花屏風」の遠近(おちこち)

4月15日から恒例の光琳作「燕子花図屏風」が根津美術館で展示されています。 今回は、この機会に、この屏風を眺める愉しさを繙いてみたいと思います。 名付けて「燕子花屏風の遠近(おちこち)」。    

「写生」をめぐって

2023年3月11日(土)のABCは、 「写生」という言葉を巡って考えてみたいと思います。 「写生」という語を現代では「スケッチ」の訳語ぐらいに受け止めているのがフツーでしょう。 新潮社『世界美術辞典』もそんな解説をしています。 これは、明治以降、ヨーロッパの芸術思想を学んで行こうとする結果、定着した観念・定義です。 そして、その言葉は、美術の領域だけではなく、文学(正岡子規)でも、さらに文章教育 […]

「ちはやぶる」歌に辿る日本の美と知の細道散歩

二〇二三年二月二十五日の〈土曜の午後のABC〉は、  「ちはやぶる」歌に辿る日本の美と知の細道散歩 と名付けてみました。 考えたいことは、前回の続き、というか、そのまとめの試みです。 つまり、「ちはやふる…」の和歌一首が辿らせてくれる日本の美と知の歴史の旅なのですが、「歴史の旅」とはちょっとおおげさかな、と「歴史の細道散歩」としてみたわけです。 この歌は、「龍田川」というテーマで、その後一千年に亘 […]

屏風歌から落語へ—「ちはやぶる」歌の想像力

二〇二三年一月二十八日の〈土曜の午後のABC〉は、前回ちょっと触れた在原業平の「ちはやぶる」歌に焦点を当ててみようと思います。 この歌一首から、二つの興味深いテーマが拾えます。 一つは、枕詞「ちはやぶる」の運命とでも名付けますか、日本の文学芸術の歴史の流れのなかで、まさに龍田川の紅葉のように色と形を変えつつ現在にまで流れてきているその言葉の変容振りです。そして、その変容が現在へ問いかけるものを考え […]

鎌倉時代の伝統と近代—作品のない美術史より

暦が新しくなりました。 2023年と書くと、あ、100年まえの1923年9月は関東大震災だったな、と。そして、ことしは卯年だと思うと、12年前の卯年には東北大地震があったな、と喜ばしい連想は押しやられて、こんなことをまず思い浮かべてしまいました。 どんなことがあるかもしれませんが、そのときそのとき出来ることを精いっぱいやっていけたらと、願っています。 みなさんにとって、よい一年になりますように。 […]

作品が用意している三つの感興―作品のない美術史へ

美術全集や美術史は、諸時代の成果を、作品の画像を載せそれ説明して行くという形を取ります。 しかし、それぞれの時代、とくに時代が古くなればなるほど、遺されている作品は少ない。 いまはないのだから仕方がないのだけれど、遺っている作品をどれだけ集めても、完璧な美術史は書けない語れない、ということです。 というより、現在手にし得る作例の背後には、計り知れない失われた仕事が隠れている、ということです。ある時 […]

作品が用意している三つの感興

仁和寺の御室(延喜四年908造営)に巨勢金岡が描いた馬が夜な夜な部屋を抜け出して近辺の田圃へ稲を食べに行ったという話、内裏の障子の馬は萩の戸の萩を食べたとか、『古今著聞集』に伝える話を、圓山應擧さんは、どのくらい信じて孔雀の絵に取り組んでいたのかなぁ、と大乗寺の孔雀の間にお邪魔しながら、考えたりしていました。 應擧(敬意を表するため旧字で書きます)さんは、享保十八年1733の生まれ、寛政七年179 […]

「鳥」と「海」と「舟」—ボードレールから荘子へ—

十一月十二日(土)のABCのテーマは、 「鳥」と「海」と「舟」—ボードレールから荘子へ— です。 先日、『八雁』に連載しているエッセイの最新版をお送りしましたが、これは、蕪村の「二重のきゝ」のことを考えていて、同時代のヨーロッパの詩や絵画の仕事もこうした「下心」が働かされていることをちょっと考えておきたいと、ヴェルレーヌの「なによりも音楽を」で始まる詩のことを書こうとして、ペンを執ったら、ボードレ […]

ヴェルレーヌの〈二重のきき〉

「二重(ふたえ)にきゝを付」けるのが俳諧物の極意だと、蕪村が言っていることを、あれこれと考えてきましたが、語りながらボクはふいとヴェルレーヌのART POÉTIQUE という詩篇を思い出していました。 そのことを締切が近づいている『八雁』の連載エッセイの話題にしようかなとペンを執ったのですが、書き出すとなんとなくヴェルレーヌではなく、ボードレールのことを書いてしまうことになりました。(それはそれで […]