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老子と無文字文化

3月26日(金)のABCで、日本の<無文字文化>のことを整理しておきました。 この<無文字文化>は決して過去の過ぎ去った遠い時代のお話=歴史ではなく、現代の爛熟した<文字文化>時代にあっても、大きな働きをしていることを、予感として確認出来たと思います。 今日5月15日(土)は、その問題を踏まえて、もう少し先へ進んで行きたいと思います。 問題の一つは、『老子』が書かれたころの中国の<無文字文化>はど […]

岡倉覚三のアジア愛  あるいは、なぜ岡倉はAsia is one.をその後言わなくなったのか

なにかの出来事を「歴史」のひとこまとして語ろうとするとき、それを実証するために、その出来事を目撃した人、経験した人の証言を引用する。当の本人はなにも言っていなくても、その出来事、それに関わった人物の身近にいた人の証言は身近な存在であったというだけで信用度が高くなる。それが、その出来事から遥かのち、何十年も経ってからの回想であっても、その証言者が身近な人だったという理由だけで、信用され引用され、「事 […]

「⽼⼦」再⼊⾨

2021年4 ⽉10 ⽇の<⼟曜の午後のABC>は、 「⽼⼦」再⼊⾨ と名付けましょうか。またまた『⽼⼦』に戻ります。 「⼊⾨」というのは、ボクを含めてみんなで⼊⾨し直すという意味を含んでいます。 「⽼⼦」は、──もっともこの場合「⽼荘」思想はと⾔うべきで、2000年にわたって「⽼⼦」と「荘⼦」はいっしょくたにされ、読まれて来ましたから。──その「⽼荘」思想が、中国⼤陸の知識⼈、とくに詩⼈画家たち […]

<無文字文化>論まとめ

宮澤賢治がゴッホを(ちょうどゴッホが「⽇本」にそれをみていたように)⼤切な発想源としていたことを、前回勉強しました。もちろん、ゴッホは宮澤賢治を知りません。しかし、⼆⼈はとてもよく似ています。⼆⼈ともども、「修羅」を⾃覚しています。 この世の、とくに貧しい⼈びとのために、役に⽴ちたいと強く願い、そこに「まこと」の道を求め、それが成就できない⾃分に修羅を観ていました。(ゴッホは「修羅」という⾔葉を知 […]

宮沢賢治「春と修羅」からゴッホ「星月夜」へ

2月19日(金)のABCは、プルーストが『失われたときを求めて』のなかでときどき使う括弧( )の意味深さを考えるところから、宮澤賢治がこの( )を独特の使いかたをしていること、そしてまた、日本語の文脈のなかで( )はどんな働きをする可能性を持っているかを思い巡らせてみたいと、『春と修羅』の「序」を読んだのでした。 3月13日は、もう少し賢治の詩と( )を追いかけてみます。 「春と修羅」という詩篇を […]

プルーストから賢治へ—喩としての括弧

2月19日(金)のABCは、《プルーストから賢治へ》と名付けました。「賢治」とは宮澤賢治のことです。 6日(土)の「プルースト」で、プルーストの文章のなかで括弧、つまり( )の使われかたがとても意味深く、そのことを考えていると、日本語の使い手では、宮澤賢治が、この括弧を絶妙に駆使していますねって話になりました。プルーストの( )付き文章を見つめながら、思わず脱線していたのですが(この「脱線」こそプ […]

プルースト『失われた時を求めて』の森へ(5)ミルク売りの少女

1月に読んだ「車窓から見る日の出」の描写と、それからすぐに続く「谷間の小さな駅のミルク売りの少女」との出会い(「出会い」と言えるかどうか、むしろ「少女を発見」と言ったほうがふさわしい)—これは、「日の出」の三倍くらい長い文章量ですが、そこを新たな気持で訳してみました。「車窓の日の出」は『失われた時を求めて』のなかでも美しい、というかイメージ豊かな文章で、ボクは以前ABCで読みました、「祖母さんが眺 […]

『失われた時を求めて』の森へ(4)夜明けの汽車の窓の日の出

プルースト(Marcel Proust 1871〜1922)の『失われた時を求めて A la recherche du temps perdu』、最初の「第一巻 スワン家の方へ Du côté de chez Swann」がグラッセ書店から刊行されたのは、1913年11月でした。自費出版でした。 ガリマール書店、ファスケル書店から出版を断られて(1912年12月)、一年後です。その後ガリマール書店 […]

『失われた時を求めて』の森へ(3)無意志的記憶とマドレーヌ

とうとうコロナに囲い込まれたまま、2020年を終えることになりました。今年最後のABCは、zoomだけで、がんばります。 このところ、プルーストを読み続けていますが、年末のABCは、「マドレーヌ」の一節をとりあげました。以前、『失われた時を求めて』の巻頭の有名な一句を読み比べましたが、あの一行、《長い時にわたって、早めに寝床(とこ)に就くことにしていた。蠟燭(ろうそく)を消すとすぐ、目は閉じ、「も […]

『失われた時を求めて』の森へ(2)「反サントブーヴ論」と翻訳。

今回のメインは、プルーストの未完の原稿「反サント・ブーヴ」論の一節をめぐって、 翻訳に不可能はない、しかし完璧な翻訳というものはない。 というテーマのもと、プルーストの伝えようとしたことから、翻訳とはなにか、そして表現するということはどういうことかを問い直し、文字・言葉による表現の構造的原理とでも名づけたい問題へと考えを巡らせていきたいと考えております。