作品が用意している三つの感興―作品のない美術史へ

美術全集や美術史は、諸時代の成果を、作品の画像を載せそれ説明して行くという形を取ります。

しかし、それぞれの時代、とくに時代が古くなればなるほど、遺されている作品は少ない。

いまはないのだから仕方がないのだけれど、遺っている作品をどれだけ集めても、完璧な美術史は書けない語れない、ということです。

というより、現在手にし得る作例の背後には、計り知れない失われた仕事が隠れている、ということです。ある時代の美術を語ろうとするとき、つねにこのことを心得て語ることは

大切だと思います。

もっとのちの時代の、われわれの時代に近い時代の仕事を観、語るときも、その時代の作者は、現在のわれわれが画像や遺品を通して心得ている昔のことについての知識、つまり伝統意識は、ずっと豊かだったにちがいない。われわれは、ついいま所有している情報ですべてを判断してしまいがちです。とくに明治維新を経て、すべてをヨーロッパ近代の方法で見、判断する習慣を身につけたわれわれ現代人は、実証条件を限定することを条件の完全化と考えて結論を合理化し、結果昔の人の知と美の働きについての知識がとても貧しくなっていることを、謙虚につねに問い直す姿勢を忘れず観察しなければなりません。

たとえば、圓山應擧が18世紀(江戸中期)大乘寺の客殿の絵襖を制作したとき、佛間の正面の孔雀の間と、脇に設えられた山水の間、そのあいだに置かれた芭蕉の間は、それぞれ画風が違いますが、これは應擧が勝手にオリジナルな構想を企てたのではなく、はるかに平安時代から続く、寺院や内裏の建築装飾の伝統を踏まえているのです。

孔雀の間は水墨による漢画の伝統、芭蕉の間も濃彩手法の漢画、そして山水の間は、孔雀の間とは異なる水墨のみの手法による文人画の伝統。大乘寺の客殿の絵襖を鑑賞するとき、それを心得ているとずっと奥深い近づきかたが出来、絵襖を観ている感興も高まります。

そんなことを教えてくれるのは、いまや作品は遺っていない、つまり画像は見られない記述からなのです。

『古今著聞集』は、そういう文献の一つです。

前回も、ちょっと紹介しましたが、今日は、もういちどあらためて、この『古今著聞集』「画図」篇を正面から読んで行きたいと思います。全部で23話、収められていますが、今日はそのうちの冒頭から、「序」と3話、用意しました。この冒頭の話がとくに重要だと思います。これは、逸話(「著聞」)というより、寝殿造に始まる建物の装飾の伝統原則を伝えているようです。

画像と共に見ることの出来る作品も、「作品のない美術史」の経験を積んでいくことによって、目の前にある画像の、その背後に隠れているものが観えてくることを願いつつ。