屏風歌から落語へ—「ちはやぶる」歌の想像力

二〇二三年一月二十八日の〈土曜の午後のABC〉は、前回ちょっと触れた在原業平の「ちはやぶる」歌に焦点を当ててみようと思います。

この歌一首から、二つの興味深いテーマが拾えます。

一つは、枕詞「ちはやぶる」の運命とでも名付けますか、日本の文学芸術の歴史の流れのなかで、まさに龍田川の紅葉のように色と形を変えつつ現在にまで流れてきているその言葉の変容振りです。そして、その変容が現在へ問いかけるものを考えること、です。

もう一つは、先の問いを歴史の流れの縦の軸としますと、その縦軸の幹を横に截った断面から見えてくるものです。

つまり、「ちはやふる」の歌が、文学教養主義の解釈から絵画、能、意匠etc. とさまざまな生活の営みの素材となっていくこと(それだけでも大した遺産なのですが)、その極め付けが落語の素材になっていることです。それを、《屏風絵から落語へ—「ちはやぶる」歌の想像力》とでも名付けましょうか。これが、今回のテーマです。

この断面を観察してみると、そこに、日本文化の美意識とでも言うか、日本列島で日本語を使ってものを考え語り書き、描きする人間に通底する思考反応の型と呼んでいいものを見つけることが出来る。断面が、そういう形をしていて(楕円形です)、そこに、諸活動の痕跡と痕跡の線をつなぐ濃い点(二つ、〈無文字文化〉と〈文字文化〉)がある。それは、ほかでもない、わたしたちが日々活用し頼りにしている思考の型。思考を働かせるときに、それを使っている、日頃は、それがどんな型かあまり意識しないで、それに任せている、感情や思考の慣性の原型(モデル)です。

もし風土のようなものが決定条件となって、「民族」と呼ばれる人間の集団が一つの思考や行動の共通した形を見せているとしたら、そういう「民族」的な思考感情の特徴を図式化した型です。

ですから、それを「日本的思考の原型」と呼んでみるならば、当然、日本以外の諸民族、ヨーロッパや他のアジア、アフリカ、オセアニア諸民族にも(「国」という言葉を控えています。「民族」なら英語に直せばpeopleと言えて、nationalism の陥穽(わな)に囚われないで考えが進められそうです)、それぞれの特徴ある固有の型を持っているはず、持っていなければならない。そういうことへも、考えを巡らしていければと考えています。

こうした考えを培って、私たちの〈自己vs.他者〉の関係への眼差しが、少しでも豊かになれれば、と願います。