Y 尹東柱

ユン・ドンジュ(尹東柱)は、朝鮮半島が日本の植民地になっていた最後の時代を生きた詩人です。

彼自身は朝鮮の解放をその眼で確かめることなく、福岡刑務所で獄死しました。治安維持法第五条違反の罪で、懲役2年の刑をいいわたされ、服役中に亡くなったのでした。日本の官憲に殺されたも同然の死にかたでした。

彼が生まれたのは1917年11月、現在は中国国内になる北朝鮮の北方、当時の呼びかたで間島(カンド)省、和龍(ファリョン)県、明東(ミョンドン)村に生まれました。北間島(ブッカンド)地方は、一種の開拓村で、東柱のお祖父さんとお父さんが移住してきたのでした。彼はそこで幼児洗礼を受けています。家族がカトリック教徒でした。明東村がカトリック教徒の村だったといっていい村のありかたをしていたようで、その村でお祖父さんは長老の役を果たしていました。

東柱が生まれる二ヶ月前に、同じ明東村で、従兄弟の宋夢奎(ソン・モンギュ)が生まれています。宋夢奎の名前は、尹東柱の短い生涯に大きな役割を果たした人物として記録しておく必要があります。

なお、この1917年7月、間島地方における韓人に対する警察権が、中国から日本へ移管されています。尹東柱は、朝鮮半島における日本官憲の権力強化の一つの節目に生を享けたという意味で、なにか象徴的です。

8歳のとき、明東小学校に入学します。その年、日本で治安維持法が公布されました。

彼の年表などを読んでいますと、このころ(1920年)創刊された児童雑誌『こどもの生活』などを購読していたと誌されています。家庭の知的な雰囲気に包まれた環境、彼自身の10代最初の頃の関心のありかたなどを特定しようというのでしょう。幼いときから、知的で内省的な子供だったということでしょうか。従兄弟の宋夢奎が後で触れることになるように、行動的でおそらく激情的な性格だったので、よけいその対立的な構図をつくってみたいという伝記作者の願いもあるのでしょう。

ABCの当日は、略年譜を配布しました。それをここに再掲します。つぶさに読んでいただくと、彼の生涯のアウトラインが浮かんでくるはずです。

17歳のときに書いた詩のタイトルなど、いくつかの詩作品のタイトルを挙げていますが、17歳のは、おそらく彼の最初の作品として遺っているもの、そのほか最初に同人誌に載っけた作(と思われるもの)、公共の雑誌に載った最初の作品など、タイトルを挙げておきました。ここに挙がっているものは最後にブログの付録にします。金柔政訳「尹東柱抄」(もちろん当日お配りしました)に入っておりますので、読んで下さい。

尹東柱略年譜

  • 1917 11 30 間島(カンド)省和龍(ファリョン)県明東村に生れる。
           戸籍は1918年生。幼児洗礼を受ける。
  •    09 28 従兄弟宋夢奎(ソンモンギュ)誕生。
       07 間島地方の韓人に対する警察権が中国官憲から日本官憲へ移管。
  • 1919 03 01  独立運動。 03 13龍井(ヨンジョン)で独立運動宣言大会。
  • 1928 12   (6歳)妹恵媛(ヘウオク)誕生。
  • 1925 04 04 (8歳)明東小学校入学。O5 08 治安維持法公布。
  • 1927 12   (10歳)弟一柱(イルジュ)誕生。
  • 1928~30 『こどもの生活』(1926~44.1)など購読。
  • 1931 03 15 (14歳)明東小卒、大拉子(ターラーズ)の中国人小学校6学年編入学。
  • 1932 04   (15歳)龍井の恩真中学校入学(宋夢奎とともに)。03 満州帝国建国宣言。
  • 1933 04    (16歳)弟光柱(クワンジュ)誕生。11 朝鮮語学会、ハングル綴字法統一案発表。
  • 1934 12 24 (17歳)「生と死」「蝋燭一本」「明日はない」
  • 1935 09 01 (18歳)平壌の崇実中学校3学年編入。
           「空想」(『崇実活泉(ユンシルファルチョン)』15号)。
  •        宋夢奎は4月頃家出、南京で独立運動に参加、翌年帰郷逮捕。要視察人となる。
  • 1936 03 末 (19歳)崇実中、神社参拝問題により廃校、光明学園中学部4年編入。
           「ひよこ」「ほうき」(『カトリック少年』11、12月号)。
  • 1937 (20歳)「しょうべんたれの地図」「なにをくってくらす」「うそ」(同1、3,10月)。
        進学問題で父と対立。祖父の仲介で文系を選ぶ。
  • 1938 02 17 (21歳)光明中卒。04 09延禧(ヨンヒ)専門学校入学(宋夢奎も一緒)。
  •    02 朝鮮陸軍志願兵令公布。  03 朝鮮教育令改定、中学校の朝鮮語教育廃止。
  • 1939 (22歳)「月を射る」(散文)「遺言」「弟の印象画」(詩)(『朝鮮日報』学生欄)。
  •    11 創氏改名令公布、1940 2 11 施行。
  • 1941 12 17 (24歳)戦時学生短縮により延禧専門学校4学年を3ヶ月繰上げ卒業。
           「天(そら)と風と星と詩」自費出版の試み。平沼と改姓。
  • 1942 01 24 (25歳)「懺悔録」。日本へ発つ前の一ヶ月半を故郷で過ごす。
  •     04 02 立教大学英文科入学。4~6「やすやすと書けた詩」他。夏休み帰郷。
  •    10 01 同志社大学英文科入学。 08朝鮮総督府、延禧専門学校を接収、日本人校長を置く。
  • 1943 07 14 (26歳)逮捕。(07 10宋夢奎逮捕。)12 06 検察送り。
       03 朝鮮に徴兵令公布、08施行。
  • 1944 04 13 (27歳)治安維持法第5条違反の罪により懲役二年の刑。福岡刑務所へ。
  •    01 前年10月実施の朝鮮学徒兵制により韓人学徒兵入営始まる。
       04 総督府、学徒動員体制確立。
  • 1945 02 18 福岡刑務所内で死去。

尹東柱は、21歳になる年、明東村を出てソウル(当時は日本の朝鮮総督府によって京城と名付けられていました)へ出てきます。延禧(ヨンヒ)専門学校に入学します。進学問題でお父さんと争った末に獲得した文学へ道を進むのですが、このとき同時に従兄弟の宋夢奎も延禧専門学校に入っています。

宋夢奎は尹東柱と一緒に育った兄弟のような間柄ですが、性格、感受性はずいぶんと対照的だったようで、略年譜にも期しておきましたが、宋夢奎は18歳のとき家を飛び出し、南京(ナンキン)へ行って中国の独立運動に参加していたようです。返ってきたところを逮捕され、「要視察」の身分になっています。おそらくその後も(もちろんそれまでにも)、朝鮮のおかれている情況やなにをなすべきかなどについて東柱のといろいろ議論したことでしょう。宋夢奎は尹東柱の生涯に、その生活に影のように連れ添っています。もし、宋夢奎がこんなふうに尹東柱のかたわらにいなかったならが、尹東柱の治安維持法違反による逮捕はなかったかもしれません。

それほど、夢奎は東柱の傍にいたのですが、それにしては、東柱の遺した詩や文章に政治的なメッセージがないのは不思議なくらいです。

尹東柱が遺したもの、それは詩だけだったといっていい(ほんの少し文章がありますが、それも散文詩といっていいような短い詩的な文章ですから)。その詩はハングルで書かれています。1938年3月、すでに植民地朝鮮での中学校の朝鮮語(母国語)教育は朝鮮総督府によって禁止・廃止され、翌年には「創氏改名令」が公布され、朝鮮の人たちは朝鮮という土地に生まれ住んでいながら日本語で読み書きし日本式の姓を名乗らされ、日本語の発音で姓を名乗らなければならなくなっていました(尹東柱は平沼東柱と名乗ります)。ハングルで、授業をやり文章を公表すれば、日本軍の憲兵がやってきて引っ立てていく情況におかれたのです。

そんななかで、ハングルで詩を綴るということは、きわめて危険なことですが、詩自体に直接反日本支配へのメッセージを籠めたものはありません。尹東柱が遺したものは詩だけだった、というとき、その詩は叙情詩だけだったといいかえることができます。

彼の遺したものといえば、ほかに蔵書があります。日本語の本で、当時の昭和十年代の哲学、キルケゴールとか(ゴッホの伝記や画集ももっていました)、堀辰雄、三好達治ら四季派の詩集、その堀や三好の背景だったフランシス・ジャムやリルケの訳詩集などありますが、マルクス・レーニン主義関係の本はありません。

2

延禧専門学校を戦時学制の特例で3ヶ月繰り上げて卒業した東柱は、日本へ留学しようとします。宋夢奎も留学していて、その跡を追うように東京の立教大学から京都の同志社大学へ移ります。宋夢奎は京都大学にいましたが、下宿は同じ建物でした。その建物がかつてボクが京都にいたとき勤めていた京都芸術短期大学の分校(高原校舎)と同じ番地だったので、そのことについては1995年『死ぬ日まで天を仰ぎ―――キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局)に書きました。

この本は宇治郷毅氏、森田進氏その他の人々の共同執筆です。ボクがその執筆陣の仲間に入れてもらえたのは、上記のお二人のおかげで、こうして「尹東柱」を書く仲間の一人になれたことを感謝しています。二人はどちらも韓国語に堪能、宇治郷君(いつもそう呼んでいるのでそう記しますが)は国立国会図書館の副館長を勤め、朝鮮・韓国の図書館史についても権威だけど、ボクにとっては、大学時代の同期の友達で、大学時代以来、ずっとつきあいの続いている稀な友人の一人です。尹東柱のことを発掘し、ボクに教えてくれたのも宇治郷君です。まだ伊吹郷訳『空と風と星と詩―――尹東柱全詩集』(影書房1984)が出版される前で、彼は彼で独力で尹東柱と同志社の関係を調べいわば尹東柱を発掘したのでした。

森田進氏もボクの大学の二年先輩で、同志社大学美学専攻を卒業したあと、早稲田の国文に学士入学し、日本文学の専門家になって現在は恵泉女子大学教授。交換教授として釜山で教鞭を執ったこともあります。

こんな肩書より、彼自身詩人で何冊も詩集を出し、韓国・在日問題のほかハンセン病患者さんの行方やありかたを追ったり、つねに〈弱者〉の生き方へ眼を配り、そうした韓国詩人、在日韓国人詩人の訳詩集、ハンセン病患者詩人の詩集も出しています。

最近、『在日コリアン詩選集』(佐川亜紀と共編、土曜美術社2005)というのを出しました。

ながながと二人のことを書きましたが、ボクにしてもなかなかお二人をボクに引きつけて紹介出来る機会がないので、この機会にと思った次第。あとでこのお二人の尹東柱の訳詩を紹介するので、このお二人に対するボクの積年の感謝の気持ちをこういう形でまず表明しておきたいと思います。

お二人とも、深く尹東柱に関わっていて、宇治郷氏にも『詩人尹東柱への旅』(緑蔭書房2002)という著書があるし、森田氏は先述の『死ぬ日まで天を仰ぎ―――キリスト者詩人・尹東柱』の巻頭を氏の新訳の「尹東柱詩集」で飾っています(最近その新版を出して尹東柱の詩の部分をほとんど「全詩集」と呼んでいいものに増補しました)。

尹東柱は、延禧専門学校を卒えるとき、その記念に詩集を出版しようと考えました。いままで書きためたものを集めて選び、一冊にしようとしたのですが、これは周りの人から賛成を得られませんでした。この時制下、ハングルの詩集を出すのはとても危険だったからです。で、彼は三冊だけ手書きの原稿を作り、『天(そら)と風と星と詩』と名付け、学校の恩師や友達のチョン・ビョンウックにプレゼントしました。もう一冊は自分のためです。

この三冊のうち、教授に渡した一冊は、教授が自分の身の安全を考えて「処分」したようです。尹東柱自身が携えて日本へも持って行った一冊は、逮捕されたとき、証拠物件として押収され、京都の下鴨署か地方裁判所に敗戦のときまでは他の詩集や証拠書類と共に保管されていたはずです。日本が戦争に敗けると、尹東柱(や宋夢奎、彼も福岡刑務所で獄死します)を摘発し刑務所送りに加担した京都の特高刑事や裁判官たちは、自分の身の安全のため、それらの証拠物件を燃やしてしまったようです。尹東柱の携えていた『天(そら)風と星と詩』一冊は現存しません。

三冊のうちの最後の一冊、これがあったばかりに、尹東柱という詩人が、朝鮮解放後、朝鮮民族の人たちに知られることになります。もちろん日帝植民地下、ハングルで詩を書き続けた「英雄詩人」として、です。

その一冊は、友達のチョン・ビョンウックが持っていたもので、彼はそれを戦争に徴兵されるとき(この徴兵は日本政府が米英連合軍と戦うために朝鮮の若者も壮年も学生も駆り出したものです)、お母さんにこれはとても大切なものだから大事に隠しておいてくれと頼んだのだそうで、お母さんはそれを壺に入れて地中に埋めておいたのだといいます。この最後の一冊が、日本が負け朝鮮半島から退いたあと現れ、尹東柱という詩人がいたことを、朝鮮半島の人たちもはじめて知ったのでした。

こうして尹東柱は、韓国の国民詩人となり、小学校や中学校の教科書に彼の詩が収録され、韓国で彼の名を知らない人はいないくらいです。

彼の書いた詩のうち、日本に留学しているあいだに書いたものは、立教大学に半年間いたとき書いたもの数篇のみしか伝わっていません。もっとあったでしょうし、京都時代(10ヶ月)に書きためていたはずです。

下鴨警察に拘留されている東柱を訪ねた従兄弟(宋夢奎とは別のいとこ)がちょうど東柱が取り調べを受けているところに出会わした回想があります。なにやら東柱は書かされていて(自分の詩を日本語にしていたらしい)、わきにどんと積まれた紙束が一尺(30センチ)以上あって、担当の刑事が、これが証拠書類だと言ったとか。

いずれにしても、その紙束は彼が日本にきて書いた詩の束なのか、と思うとそれらが全部灰になったことを悔しく、且つ僕らの親の世代の人たちはこんな始末におえない愚かなことをしたのだ・・ということと、僕らもまた情況次第でこんなことはやってしまうかもしれないと恥ずかしく思い合わせます。

さて、この彼が、母国を去る前に、青春の一つの区切りの記念に出版しようとして果たせなかった詩集が『天(そら)と風と星と詩』でした。この巻頭に一篇の8行の短い詩があり、(7行+1行といいたい構成です)、この詩が「序」詩として、とりわけ有名です。尹東柱を少しでも知っている人なら、「ああ、あの〈死ぬ日まで・・・〉の詩人ね!」というほどです。

この詩が日本語に訳され出版されたのが1984年。敗戦から40年も経ってやっと日本語になったのですが、その「序」詩の最初の日本訳は、「日本人」が、日本語生活者ならでこそ犯してしまった間違いを犯しています。それは、あとで申しますように、いろんな事情があって、じっくりその間違いを検討し、共有しておかなければいけないことなのです。

その前に、これは小さなことなのかもしれないけれど、この序は、一般に『天(そら)と風と星と詩』の「序」詩といわれて通じることも問題にしておきています。たしかに「序」に当る位置にその一篇はありますが、原稿は「序」という言葉は見あたらないということです。

それから、この「序」詩の日本語訳に検討に入る(これは「その3」でやります)前に、詩集のタイトルの日本語訳を検討しなければなりません。とくにその「天(そら)」が議論の対象になります。

ボクは『天(そら)と風と星と詩』としてきましたが、『空と・・・』としている人もいます。原文の「ハヌル」に当たるハングルには「天」と「空」と両方の意味があります。尹東柱はカトリック教徒として生まれ、福岡刑務所に服役中も新訳聖書の日英対訳版を差し入れに頼んだりしていますから、クリスチャンであるということから「天(てん)」と訳すべきだという断固とした主張を持って訳しているのが森田進氏です。

その通り。とも思います。しかし一方、彼の他の詩篇の中に「空」と訳してもいい「ハヌル」もあり、このタイトルは神の座す「天(てん)」でもあり星の瞬く「空(そら)」でもあるその両方のイメージを備えた(多義的なままの)「ハヌル」であるように訳した方がいいのではないか、とボクは考えたくて、今年の三月、横浜国立大学の大学院を修了するに当り、「尹東柱」で修士論文を書いた金柔政とも議論し、彼女も賛成してくれた訳として『天(そら)と風と星と詩』を選びました。

金柔政さんによれば、尹東柱の原文は、とてもとても平易な韓国語なので、その味わいを生かすなら「そら(orてん)とかぜとほしと詩」(「詩」は原文でも漢字)としたいというほどです。

どの訳が絶対で決定的でなければならないか、ということより、一つの訳語の決定にこんなに問題が潜んでいるということをつねに察して読むということが大切だし、そういう読みかたこそ豊かな鑑賞をさせてくれると思います。

「ハヌル」というハングルには、「晴れた空」というときの「空」の意味もあり、キリスト教でいう「天」「天国」という意味もあり、古代の観念としての自然造化・万物創造の主、天(あめ)、加微(かみ)のことも意味し、さらにというか、したがってというべきか、自然の理、調和のような人の力を超越したものを指し、「ハヌルに任せる」、つまり「運命に委ねた」という意味でも使われる。しかも、仏教ではブッダのことも「ハヌル」というそうです。

「ハヌル」に様(さま)に当たる「ニム」をつけると「ハヌニム」。これは直訳すれば「そらさま」か。この「ハヌニム」ということばは上帝、天帝、上天ともいった漢字がふさわしい、汎神論的神、絶対者を指して言い。キリスト教ではGodを指して使われてもいます。ついでながら、「ハナニム」というとキリスト教で「ひとつさま」という意味のGodのことです。

「ハナニム」(ひとつさま)、「ハヌニム」(そらさま)、と「ハヌル」の音の相似性も忘れてはいけないと思います。「ハヌル」はこんなふうに多義的で、つまりハングルという言語の持っている古代性というか初原性がこういった言葉にいまも生きているということでしょうか。

尹東柱は、直観的にその多義的初原性を愛していたのでしょう。彼の詩に「ハヌル」はしばしば登場します。それを一語で訳し通していてはいけないと思います。

3

配布した資料では、ハングルの原詩と、六種類の現在手に入る日本語訳を並べてみました。ブログではハングルは載せられませんので、ともかく日本語訳の問題点を拾う形で順次紹介していきたいと思います。

まずとりあげるべきは、本邦初訳の伊吹郷訳(1984)。

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば

今宵も星が空に吹きさらされる。


まず「空」とやっているところですね。誤訳とまでは言いませんが、他の5人の訳者、つまりその後の訳者はみんな「天」を選んでいるということだけは指摘しておきましょう。つまり、その後の訳者はおそらく尹東柱の詩の文脈から考えて、「空」という日本語で訳してしまう物足らなさに気づいているということでしょうか。

次の「恥辱(はじ)」もそうですが、伊吹訳は総体に日本語に対する思いこみというか、自分好みの偏り、いいかえれば批判性の欠如が出過ぎているようで、尹東柱の原文は「プックロミ」=「恥かしさ」で、わざわざ「恥辱(ちじょく)」という硬い漢語を選んでそれに「はじ」というルビを打たなきゃ意味が汲みとれない詩句ではありません。

訳者が自分の好みで日本語を選んで尹東柱の原詩に押しつけたとしかいいようがなく、その結果、原文の平易な言葉遣いから生まれてくるやさしい詩の姿がいかにも、ものものしくなっています。そのものものしさが始めにあって、結びの一句、「今宵も星が風に吹き晒される」の「吹き晒され」(これも問題の多い議論すべき訳)と呼応しています。

その意味では日本語の詩としてそれなりの統一感とメッセージを持った訳となっているといえます。しかし、尹東柱のもとの詩からは、離れてしまいました。茨城のり子さんが、この伊吹訳詩を引用して尹東柱をたたえていましたが、茨城さんは原詩との比較を怠ったのでしょう。

この伊吹訳で、一番の問題点は、六行目の「生きとし生けるものをいとおしまねば」です。原文は「すべての死んでいくもの(物事)を愛さなくっちゃ」(原文は「愛さなければ」というよりもっと日常的な用語のニュアンス)です。

「生きとし生けるものを」に「死んでいくもの」も含んでいるから別に問題にするほどのことはなかろう(A)という訳者側の反論があるかもしれません。それに「生きとし生けるものを・・・」という句はなかなか響きもいいし、心に沁みこむじゃないか(B)という声も聞こえそうです。

(A)の意見は開き直り以外にはないので、問題外ですね。尹東柱はここでは「生きようと願って精一杯がんばって、もの〔人間も動物も植物もいや石も川も、というべきか〕を愛しまねば」と思ってここの一句を書いたのではない、過ぎ去って逝ってしまったもの〔物事〕への哀惜をこめて「すべて死んでいくものを愛さなくっちゃ」と書き付けたのです。

伊吹訳のこの部分が誤訳であることは、尹東柱を研究している人たちのあいだではもう定説になっていて、その後の訳者は同じ撤を踏みません。みんな「死に行く」か「死んで行く」としています。(「すべての絶え入るものを・・・」と一寸気取った訳をしている人も一人いましたが、金時鐘訳。)

なぜ、伊吹氏は「すべて死んで行く者を」としか読めない部分を「生きとし生けるものを」と訳したのか、これについて考えておく必要があります。

それが(B)の意見にもとづいているからです。そこでなぜこの「生きとし生けるもの」という語句が響きよく心に沁み込むのか、を問題にしなければなりません。その議論は、ボクはすでに『死ぬ日まで天を仰ぎ・・・』(日本基督教出版局)でも京都造形大通信教育部教科書『文芸論』ででもやっているので、また繰り返すことになりますが、この「生きとし生けるもの」という一句はじつに一千年ものあいだ「日本人」に愛されてきた一句だからです。

これは、「古今和歌集」の「序」(かな序)に紀貫之が書いていたのです。日本の詩の起源を語るものとして、「生きとし生けるもの、いずれか歌を読まざりける」というところ、それが後世口ずさまれつづけて、われわれ日本語の詩を愛する人びとの心と脳の襞に沁みこんだ言葉となっていったのです。

伊吹氏はきっとここは「生きとし生けるもの」だ、となにげなくまるでインスピレーションに打たれたようにこの一句を選んで「すでに死んで行く者に」に代えたのでしょう。それが陥し穴でした。

尹東柱は圧倒的に暴力的に押しつけてくる日本語の強制にひそやかに抵抗して、自分たちの民族の言葉で詩を書こうとしていたのです。もちろん、東柱は日本語を愛していたと思います。日本語の抒情詩やフランス近代詩の日本語訳、哲学書などいっしょうけんめい読んでいました。

しかし、そうして日本語を愛し、日本語から学びながら、その日本語が母国の言葉を踏みにじっていくのを護ろう、それだけは誰にもさせまいとハングルで詩を書いていたはずです。

そんな一句を、そしてその一句にこめたまごころを、日本人が日本語生活者である故の身勝手さから踏みにじっているのが、この「生きとし生けるもの」なのです〔訳者は無意識の裡にそうやっています。だからこそ恐いし、より罪深くさえあるのです〕。

1987年でしたか、かつて尹東柱が学んだ同志社大学の構内に尹東柱の碑が建てられました。その碑に選ばれたのが、この「序」だった。それは当然といえます。なによりもまず、尹東柱といえばこの「序」詩です。

しかし、その文面は伊吹訳だったのですから、ちょっと首を傾げたものです。というのも、その「尹東柱詩碑建立委員会」が記念に本を出していて、そのなかでは「生きとし生けるもの」を批判した別訳を載せているからです。それを紹介しておきましょう。


死ぬ日まで 天(そら)を仰ぎ
一点の恥ずることなきを、
葉あいを 縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた。
星を うたう心で
すべて 死んでゆくものたちを愛(いとお)しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に――――むせび泣く。


必要以上に語と語のあいだに空白(アキ)を置いているのも気になりますが、せっかく「生きとし生けるもの」ではなく「すべて死んでゆくものたち」としたのはよかったと思いつつ、最後の「むせび泣く」に来て、あっと驚いてしまいました。この最後の一行をどう訳すか、これこそこの詩の訳の作業の最大の難関です。

その議論に入る前に、「生きとし生ける」がいまだに使われている恥ずかしいというか、情けない例を、もう一つ指摘しておくべきかと思います。ごくごく最近ボクも知った話で、「Y」のテーマとして7月22日に尹東柱の話をしていたときにはボクも知らなかったニュースです。京都造形芸術大学(かつての京都芸術短期大学)のあの高原校舎に尹東柱の碑が建ったというのです。

その建物のことを書いて尹東柱を偲んだボクとしては、かつて働いて給料をもらっていた大学が、その尹東柱との縁を記念する碑を建てるのか、と、そこまでの話なら喜んで終わらせたかったのですが、詳しい内容を知って驚いた、というかまったく情けなくなってしまいました。

というのは、その碑に選ばれた詩がまたもや「序」で、しかも伊吹訳だったのです。その大学の通信教育部の教科書にボクがあの日本語の誤り(とそ罪深さ、尹東柱自身に対する背信)を書いているのに、通信教育で勉強した人たちから疑問も反論も出ないのも情けない(ボクはなんのために、誰のためにあの教科書を書いたのだろうって腕を組んで悲しくさえなりました)。

それに、碑を建てた人たちが、尹東柱のことをこれほども勉強しないで、ただ碑さえ建てたらいいとお祭り騒ぎをやっているのは、ほんとに情けない限りです。その選んだ詩がわりと近くにある同志社の碑と同じ誤訳の詩であることは、同じのを選んでいるというだけでもまるで尹東柱の詩はこれしかない、これしか知らない、というようで恥ずかしいし、さらにそうしてわざわざ選んだのが誤訳で、尹東柱自身の気持ちを逆なでする日本語なのですから。「一点の恥もないことを」という詩を挙げて恥を晒しているとしかいいようのない。滑稽ですらあります。

これが現代の日本の知的現状なのでしょうか。

4

「序」の詩の日本語訳で最もやっかいな問題があるのは最後の一行、伊吹郷訳で「今宵も星が風に吹き晒される」となっているところです。比較するために、他の伊吹以降の6人の方々の訳を(先に引用していますので重複しますが)以下にご紹介します。


死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒される。
          (伊吹郷訳)1984


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥もないことを
葉群れにそよぐ風にも
私は心を痛めた。
星をうたう心で
すべての死んでいくものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩んでいかねば。

今宵も星が風にこすられる。
          (森田進訳)1995、2005


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥なきことを、
葉かげにそよぐ風にも
わたしは心苦しんだ。
星をうたう心で
すべて死にいくものを愛さなくては
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今夜もまた 星が風に吹きさらされる。
          (宇治郷毅訳)1995


息絶える日まで天(そら)を仰ぎ
一点の恥の無きことを、
木の葉にそよぐ風にも
私は心痛めた。
星を詠う心で
全ての死に行くものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩み行かねばならない。

今夜も星が風に擦れている。
          (上野 潤訳)1998


死ぬ日まで 天(そら)を仰ぎ
一点の恥ずることなきを、
葉あいを 縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた。
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛(いとお)しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に――――むせび泣く。
          (尹東柱詩碑建立委員会訳)1997


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている。
          (金時鐘訳)2004


議論をこの最終行に限って各訳を比べてみましょう。「今宵」(伊吹、森田、委員会)と「今夜」(宇治郷、上野、金時鐘)のちがいは、議論するほどのことでもないでしょう。

  • (1)「吹き晒される」伊吹訳、宇治郷訳
  • (2)「こすられる」森田訳
  • (3)「擦れている」上野訳
  • (4)「――――むせび泣く」委員会訳

一つの原語がこんなにいろんな日本語になるのです。それ自体この語のすばらしさを証明している(一つの言葉でじつに多様な輻輳したイメージとメッセージを伝えている)のですが、この元の言葉は、仮名にしてみると「スチウンダ」と書けるでしょう。その原形は「スチダ」で原意は、

  • 1.すれすれに通り過ぎる。かすれる。触れる。擦(こす)れる。たとえば、枯葉の擦れる音。そこから「袖が振れる」という意味も帯び、仏教で「縁がある」という意味で使われるそうです。次に、
  • 2.かすめる(銃弾が耳元を「かすめる」)。よぎる(考えが「よぎる」など)

という意味もあります。

森田訳はその意味でいちばんすなおな訳だと評価できます。ただ、「スチウンダ」ということばの持っている多様性を、「こすれる」という日本語は持っていないので、原詩の輻輳した響きが伝えられないという問題がのこります。

上野訳も同様で、日本語だけを読んでどんなイメージが作れるのか読者は迷ってしまいます。「迷わせる」のと「多義的」とは決定的にちがいます。

伊吹訳、宇治郷訳の「吹き晒される」「吹きさらされる」は、森田訳の方法と逆の方向から日本語にしようとした成果といえます。つまり、この詩の作者、尹東柱という人とその生涯などのことをあらかじめ頭に入れて、そういう詩人にふさわしい意味を、この多義的な一語から掘り出そうとして選んだ日本語といえます。伊吹さんは一貫してそういう訳をしていて、それが「生きとし生けるもの」という誤訳にまで踏みはずしてしまったのですが、宇治郷氏はもう少し冷静にこの詩を読みながら、尹東柱の気持ちを汲みとろうとして「吹きさらされる」を選んだのでしょう。

でも、ボクにはやっぱり、この日本語訳は尹東柱の「悲劇性」を少し誇張しすぎるような気がします。

あと二つの訳、委員会の「――――むせび泣く」は、意訳というより、原詩にないダッシュまで入れて、原意からはずれすぎているどころか、思い入れたっぷりの自分好みの訳で満足しているというふうです。でも、こんなふうに訳したいという人たちがいる(尹東柱にについてそんなふうな気持ちと考えで向き合っている人たちが、こうして一冊の本になるくらいいる)ということは忘れてはいけないことでしょう。

金時鐘は在日歴のとても長い詩人で、その厳しい生きかたをボクは尊敬しつづけていますが、「今宵も星が 風にかすれて泣いている」は、ちょっとオーヴァーランかなと思います。「風と星がかすれる」という表現へ、金時鐘さんが「かすれる(スチウンダ)」という語にご自身のイメージをかぶせられた気配があります。たしかに「ウンダ」という語だけだと「泣く」と意味があることも働いているでしょう。

ボクは、ハングルは出来ない、ただ尹東柱を読むために少し勉強しただけで(ボルヘスを読みたいためにスペイン語をやったようなこともありました)、ボクの横国時代の最後の学生(大学院生)の一人、金柔政にいろいろ教えてもらってこんなことを書いています。

それと、韓国語の勉強に関してはもう一人、王信英さんというソウルの大学で日本語と日本文学を教えておられる方が、10年前、こちらに来ておられたとき、いろいろ議論したり教えてもらったことも忘れずに記しておかねばなりません。王さんは、尹東柱の研究家でもあり、尹家にのこる東柱の手稿を全部整理してその写真版を刊行されています(日本の留学が終わったあと)。

この本はすごく役に立ちます。というのも、尹東柱の詩は方言が強く、ちょっと間違いではと思う表現を(わざとそうしていると思うけれど子供っぽい表現や、明東地方の方言、今となっては古くなった言い回しなど)しており、手稿をみると、そういうところを、鉛筆で直してあります。それが明らかに尹東柱とはちがう手です。たぶん、刊行に当って、手を入れた人がいたのでしょう。

その他人の手で直された方が出版物には掲載されてきたので、〈生の〉尹東柱を知りたいと思うとき、この写真版は欠かせません。王さんからこれを送ってもらって、ボクももういちど尹東柱の詩と向き直すことができました。

そんなこんなで王さんとは、とくにこの最後の一行について議論し、教えてもらったことを思い出します。その後、横国大でも尹東柱について話をして、金柔政が修論でとり上げることになって、そこでも議論しました。その金柔政の訳をつぎに掲げておきましょう。


死ぬ日まで天(そら)を仰ぎ
一点の恥のないことを、
一枚の葉にそよぐ風にも
ぼくは心を痛めた。
星をうたう心で
すべての死んでゆくものを愛さなくちゃ
そしてぼくに与えられた道を
歩んでいかねば。

今夜も星が風にそっと触れてゐる。
          (金柔政2006)


これは、日本語訳最新版でもあるし、そこにいたるまでにボクもいろいろ口を出しているので、ともかくはこれを決定訳としたいのですが、みなさんいかがですか。「今夜も星が風にそっと触れてゐる」ところに旧仮名遣いの「ゐ」を使ってみたところにお気づきでしょうか、「愛さなくっちゃ」というような口語を使ったのも、原文にある口語風の表現を尊重してみたのです。一方で、たとえば「スチンダ」(「スチダ」の現在形)を「スチウンダ」としており、この「ウンダ」はちょっと古語風の響きがあるのです。

こういったことを金柔政はいろいろ考慮してこんな訳にしています。この「ゐ」が気にかかるかもしれませんが、さっと読むときはいがいと気にならないし、全体の調子を壊さないので、ボクはこれはいいじゃないかと思っているのです。

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そのほか、金柔政訳と他の六篇とちがうところ、まず主語を「ぼく」としているところですね。これはハングルの「ナ」が、英語の「I」と一緒で、主体によって日本語では「私」にも訳せ、「俺」にも訳せるわけで、尹東柱ならやはり「ぼく」ではないか、というわけです。

ほんとうは全文全語句をこうやって点検すると、それはそれで面白いのですが、ここではもう一つだけ、他の6人の方の訳とちがう日本語を紹介して終わりましょう。

三行目の「一枚の葉」です。「葉あい」(伊吹・委員会・金時鐘)「葉群れ」(森田)、「葉かげ」(宇治郷)、「木の葉」(上野)とここはさまざまです。原語「イップセ」はたとえば0・ヘンリーの短編小説「最後の一葉」の訳にも使われているように「葉一枚」という意味なのでそれを金柔政の訳では生かそうとしています。

あまり、小さい言い回しにこだわりすぎないで、作品をゆったりとじっくりと味わいたいのですが、この「序」はいろんな運命を辿っており、そこに〈詩〉の運命と、日本語のありかたが人間の生きかたに通じているような問題を感じるのでこだわってみました。

この「序」の詩は、〈死ぬ日まで天(そら)をあおぎ/一点の恥もないことを・・・〉と始まり、この一行で多くのこの詩を読む者を打ちのめすのですが、それはこの一行がきわめて道徳的な人間の生きかたの根源をみつめたメッセージによっているからです。

地上にすっくと立ち、天=空、神様が坐す空の上を見上げ、自分の生涯と生きかたに思いを馳せ、その自分がこの世になくなる遙かな時を見つめています。つまり、そのときの詩人の眼差しは、ただ頭上の空を見上げているだけでなくて、神のいると思われる眼に見えない彼方を、自分の死ぬときという、これも見定めることのできない時の遠い彼方へ眼を向けている。自分の死ぬ時は予測できない遠い日のこととも思っているが、案外明日にでも不意に訪れる近い出来事かもしれない。その揺れる不確かさと詩句の多義性が響きあっています。この多義的なイメージが、この詩の一行を人々の心へ迫らせていることはたしかです。

「恥」というのは、きわめて倫理的な言葉ですが、これも、たとえば別の「道」という語で尹東柱が〈石垣を探り泪(なみだ)してふと/見上げれば天(そら)は恥ずかしいほどに青いのです〉と謡うように、非常に内面的な恥じらいの感情でもあります。

尹東柱が使っている「恥」の用例を全部拾い集めて比較してみるというようなことは興味あり且つ大切な作業ですが、それは別の機会に譲りまして、ともかくこの「道」という詩篇の例と引き比べ、尹東柱の感じている「恥」の、その内面的な意味合いをこの「序」の詩でも汲みとっておくことは大切か、と指摘するにとどめましょう。

この最初の一行の響きは、ただ一人のちっぽけな存在が全身で受けている人類の歴史総体の摂理というか運命(ここは「さだめ」とルビをうちたい)のようなものへの戦いといったらいいでしょうか。

そのとき「星」と「風」は特別な意味を帯びてきます。

つまり、「星」は自分のいる現在(いま)をはるかに超えた歴史の姿を象徴し、「風」はいま自分という存在を感じさせるものです。〈一枚の葉にそよぐ風にも/ぼくは心痛めた〉とあるように、風は、そのたった一ひらの葉を、いま、揺らしていることによって、詩人の心を打つ、そういうあっというまに過ぎ去っていく「現在」の象徴です。

ですから、最後の一行は、〈歴史〉としての「星」が、〈現在〉としての「風」にそっと触れている、そんな感動を言葉にしています。そして、そのときていねいに読んでおきたいのは、尹東柱が〈星が風に触れている〉と謡っていることです。つまり、主体としての〈人間〉の側の〈現在〉が〈歴史〉へ手を伸ばすのでなく、〈歴史〉が(〈歴史〉の象徴としての「天」上の「星」が)、〈現在〉へそっと触れようとしているというのです。〈歴史〉の方から〈人間〉=(私)=〈現在〉へ近づいてくるものを感受するというのは、その逆とちがって、とても貴重なことだし、困難なことでもある、それを願いのように、尹東柱は謡ったのです。

尹東柱がこのちがいをどこまでしっかりと把握してこの詩を書いたかは判りませんが、少なくともわれわれがそう読みとれるように書いた、その直観がすばらしいと思うのです。

尹東柱の詩について、語りたいことは、これからだという気がします。東京で書いた「やすやすと書けた詩」は、ABCではじっくり読みましたが、ここでは省略して、今回はこの辺で終っておきます。

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