Q ドン・キホーテ

「ドン・キホーテ」は、小説のタイトルでABCの今回のシリーズは作品名ではなく、人物の名前を選んで行こうとしてきたのですが、今回だけは、小説のタイトルです。Qで始まる人物で誰を選ぼうかと考えているとき、ドン・キホーテがボクの前に立ちはだかって、ドン・キホーテを小説論としてではなく、人物論として語ってみようかと思ってみたわけです。

とはいえ、しょせんはセルバンテスという作家が創作した「人物」ですから、結局小説を論じるということになってしまうとは思います。その上、小説としてこの作品は、ボクがABCでずっと語りたい、考えたいと思っている「人間=自己」対「世界」の関係意識の変遷というテーマの下、近代の長篇小説(ロマン)の先駆けとなった重要な作品です。ちょうど前回とりあげたプルーストが「ロマン」の終焉を告げた作品を書いたのと対極的な位置にあるわけです。

そのことを思い合せながら、「ドン・キホーテ」という人のことを語ってみたいと思います。

その前にまず、この『ドン・キホーテ』という小説を書いた作者、ミゲル・デ・セルバンテス・サーヴェドラのことをスケッチしておきましょう。

彼は、1547年に生まれ、1616年に亡くなりました。享年69歳でした。生まれた日ははっきりしていなくて、10月9日にマドリード近郊の大学町アルカラ・デ・エナレスにあるサンタ・マリア・ラ・マヨル教会堂で誕生受洗したという記録がのこっています。

9月29日が「聖ミゲル」の日ですから、受洗日に近いこの日が誕生日だという説が有力でした。しかし、当時は新生児の死亡率が非常に高く、誕生受洗は、生まれて一両日中に行われたものだ、10日も前というのはありえない、とするとミゲル・デ・セルヴァンテスの誕生日は10月8日か9日だという反論もあります。

ご苦労さまなことです。生前はそんなに大事にしていなかったのですが、のちにスペインが誇る世界の大文豪と称えられ、誕生日の確定をやっきになってやりだしたのですね。

亡くなったのは、1616年4月22日。翌日、自宅(マドリード、レオン通り—現在は「セルバンテス通り」となっております)近くの修道院に埋葬されましたが、どこに遺骸が埋葬されているかもいまだに判っていません。

彼が58歳のときに書いた『ドン・キホーテ』は大ベストセラーになったのですが、印税契約ではなく、原稿を買い取る形で出版されたものですからミゲル・デ・セルバンテスにはまったくお金が入ってきませんでした。あまりの評判に英訳、仏訳も出され、ヨーロッパでも評判をとったのですが、その当時のスペインは、セルバンテスを特別に扱おうという考えは全くなかったようで、彼は貧乏のうちに息を引き取ったのでした。

評判をとり、贋作『ドン・キホーテ』が出され(1614年、アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネダ作『偽作ドン・キホーテ』日本語訳もちゃんと出ています!)、彼は、後篇を執筆出版します(1615)。その後篇(第二部)の巻頭に、「検閲証明書」というのが載っていますが(当時は、こうしてカトリック教会の検閲を通過して出版できたのです。そうして出版物には検閲証明や長々しい献辞などが巻頭に収まるのがふつうでした。本編とは関係ないというのでしょう、牛島信明訳岩波文庫2001年刊などでは、この検閲証明は訳出されていません。去年出た荻内勝之訳版ではそこが訳されています。新潮社のこれを読むと当時の事情など判って、また別の面白さがあります)、「学士マルケス・トーレス」という人の書いた検閲証明のなかで、セルバンテスがいかに貧乏しているかが書かれています(当日はそこのところをコピーしてお配りしました)。

ところで、セルバンテスの亡くなった日、4月22日ですが、従来は4月23日とされてきて、22日と判明したのも最近の研究の成果です。4月23日はシェークスピア(1564−1616)と同じ日で、これもまたセルバンテス伝説のためには大切な因縁であったのかもしれません。のちにも言及しますように、『ドン・キホーテ』の出版年と『ハムレット』の上演公刊の年も同じ1605年なのです。しかし、水を差すようですが、スペインはすでにグレゴリオ暦を採用しており、当時のイギリスはまだユリウス暦を使っていましたから、同じ「4月23日」でも11日ずれがあるのです。

ま、ともかく、こんなふうにして、セルバンテスと『ドン・キホーテ』は、世界に知られて行きイギリスにシェークスピアがいたように、わがイスパニアにセルバンテスあり、とスペインの人は誇りにしております。スペインへ行くと、どのお家にも、聖書と立派に製本された『ドン・キホーテ』は飾ってあるそうです。

ということは、とても有名な小説だけど、「読まれる」ことは少ないということでしょう。これは、スペインだけの現象でなく、いまや世界中に知られた「英雄」ドン・キホーテですが、その作品を読み切ったという人は少ない。

ドン・キホーテがこんなふうに有名になるのは、やはり19世紀に入ってからが決定的なのですが、ドイツ・ロマン派の哲学者・文学者を皮切りに、誰もが『ドン・キホーテ』を賛美し憧れるようになります。ドストエフスキーも、たとえば『白痴』という小説は、ドン・キホーテとの影響関係を考えないですますわけにはいかない作品です。「『ドン・キホーテ』は人間の天才によって創造されたあらゆる書物のなかで、最も偉大な最も憂鬱な書物だ」とドストエフスキーは『作家の日記』の中に記しており、これは、ドストエフスキーだけでなく、世界中の誰もが認めるところでしょう。

ツルゲーネフには「ハムレットとドン・キホーテ」という講演があります。

アメリカへ眼をやれば、マーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』など、ドン・キホーテを見据えた作品です。

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日本ではどうかというと、これがまた凄い人気です。横浜市中央図書館でちょっと「ドン・キホーテ」関係の本を検索してみましたが、なんと317点出てきました(そのうちの10点ほどは量販店ドン・キホーテの成功物語だったのですが。もっともこちらは、「ドン・キホーテ」ではなく、「ドン.キホーテ」です)。ドン・キホーテは、日本でも有名人、英雄です。セルバンテスの作品『ドン・キホーテ』論としては全く関係ないのだけれど、「ドン・キホーテ」に自分をなぞらえ、エッセイ集のすべてに『ドン・キホーテの…』とタイトルを付けているひともいます。不可能にみえる事業に挑戦する勇気の持ち主(男)を「ドン・キホーテ」となぞらえ、称える習性が、いつのまにか「日本」(だけではなく、世界的な現象だとは思いますが)に浸透してしまったようです。

スペインへ旅行すると、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの人形やそれに因んだ土産物を買って帰る人も多いです。画家でドン・キホーテばかり描いた人もいました。

不可能な事業に挑戦する勇気の持ち主・その代名詞として偶像化された「ドン・キホーテ」についてはあとでまた触れます。ここでは、もう少し日本近代の文学の世界で「ドン・キホーテ」がどんな役割をしていったかをみておきたいと思います。

日本で最初に『ドン・キホーテ』が紹介されるのは、明治26(1893)年です。市川左団次の座付作者だった松居松葉という人が、英訳版を翻訳して出版しました。題して『鈍機翁冒険譚』(博文館刊)。ここでは登場人物はすべて漢字名に直されていて、ドゥルシネーアは「寿期寧、之、都芽楚(じるしねあ、ど、とぼそ)」、ロシナンテは「驢馴喃(ろじなんて)」。( )はルビです。そしてサンチョ・パンザが「三公、半左(さんこう、はんざ)」とくれば膝を打ちたくなります。訳者曰く、「人名地名を漢字にしたるは読者の見やすからんとてなり」と。当時の人は、外国人名をカタカナで表記される方が判り難かったというわけです。

この『鈍機翁・・・』は、明治29年には改装再版されており、古本市場でもそんなに高価な本ではありませんから、当時からよく売れ読まれたのでしょう。

その後、明治35(1902)年には雄島浜太郎訳(『世界奇書ドン・キホーテ』、ここでカタカナのドン・キホーテ登場です)、明治40(1907)年、佐々木邦訳、43(1910)年近藤敏三郎訳、大正4(1915)年島村抱月、片上伸訳、大正15(1926)年矢口達訳、昭和2、3(1927・8)年森田草平訳と5年から10年の間につぎつぎと新訳がだされていきます。

これだけの受容があったということでしょう。

日本近代の西洋文化受容ということからいえば、これらはすべて英訳版からの訳(重訳とこういうのをいっていますが)だったことです。「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記も、英文読みの表記ですが、ヨーロッパ文明を初期の近代日本は英語から輸入したのです。イタリア文化もそうですから最近イタリア学者が「ラファエル」は「ラファエルロ」でなきゃいかんとか(そういえば「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」も、オランダ語音に近づけようと「フィンセント・ファン・ゴッホ」にしろとか)、主張するようになりました。

英語経由でヨーロッパ文明を理解ししている(してきた)ことの歪みについてよく考える必要があります。

と、同時に「ヴィンセント」と「フィンセント」と呼んだから、「ラファエル」を「ラファエルロ」としたから、現地の思想に近づける考えるところにも、「日本近代」の歪んだ思想が潜んでいるといえます。しょせん、日本語表記では現地の音を完璧に表すことはできないのですが、日本(近代)の知識人は、どこかで西洋文明を完璧に移入できるという幻想を持ちつづけているようです。その幻想が今日の現代日本を作ったといえる。新訳がつぎからつぎと出るのも、その幻想として確信がなせるところではないでしょうか。

訳本の普及振りとともに、知識人、文学者の仕事への影響というのも大きいのです。ドン・キホーテをライフワークのように描きつづけた画家(安田謙)がいましたし、それほどでなくてもドン・キホーテをテーマに絵を描いている画家は多いです。

夏目漱石は、ロンドンへ留学したとき(明治33年)さっそくにドン・キホーテの英訳を(当時2種類の英訳版があってその2種類共)購入し、一冊は克明に読んだようです。『文学論』に引用もしているのは当然、『坊っちゃん』にはドン・キホーテの影響が濃く落ちています。『我輩は猫である』のユーモアも、ドン・キホーテから学だといえましょう。というより漱石が留学して手にした当時のイギリスの17世紀、18世紀の文豪たち、デフォーもスモレットもスターンもフィールディングも、みんな『ドン・キホーテ』を文学の師と仰いで作品をつくっていた人でした。(註)

坪内逍遙にもドン・キホーテ論があり、内村鑑三だって論じています。

『ドン・キホーテ』は、日本近代の歩みに伴走した英雄でした。

『ハムレット』も、早くから日本の近代知識人を虜にした文学的英雄でした。この二つの作品は、同じ年に発表されたことは先に触れましたが、この二つに共通している最も顕著な特質は、二人とも「破滅型」の人間であるということでしょう。ここに近代の知識人を魅きつける大きな力があったといえます。

近代は「人間としての自己(個)」が神の創りたもうた「世界」と「理性」を媒介にして対等の位置に立とうとした時代です。こうして遠近法(パースペクティヴ)の方法による世界把握の技術を習得し、その理性と技術(科学)を駆使して、「世界」の現象を自分の思うがままにコントロールしようとするのですが、一方、そうした「理性」王国の陰に、早くから「神が創造したもうたこの世界」と「人間」の運命は、本質的に逆説的である、というか、古代は神の創造したもうた世界に従うことこそ人間の幸福であると信じていたのに、そうして従う世界を信じていたのに、そうして従う世界を信じられなくなっていきます。そういう人間の「不安」を予感のように身にまとってやむにやまれぬ行動に走る—その二つの対照的な行動がハムレットとドン・キホーテに体現されているわけです。

西洋近代に目を見はった日本の知識人がこの陰に魅きつけられたのは当然です。ドストエフスキーが呼んだ「憂鬱」とはまさにこれだったのです。

註:
セルバンテスと漱石といえば、漱石がまったく意識していないことで、文学という表現メティエのありかたという、まさしく「表現の歴史とその哲学」とでもいえばいいような問題として、おもしろい現象が観察できます。
それは、セルバンテスが、本格的に執筆生活に入って『ドン・キホーテ』(前編)を書き上げるのが58歳のとき。そして、11年後に亡くなるまで、執筆に集中して、いかにも小説書きという人生を送ります。いかえれば、晩年の10年だけが小説家だったのです。
漱石が『我輩は猫である』を書くのが38歳、それから『坊ちゃん』『虞美人草』…と小説執筆に集中し、『明暗』を書いているさなか倒れます(49歳)。二人とも、晩年に小説家になり、それで国民的大作家になったというところが、はなはだ共通しています。

(作品を読むということは、作者がなにをその作品を書いて伝えようとしたかという「作品の意味」だけでは読めない、作者の意識のありかたと出会うというのがまたとても大切なところです。これは、一種歴史のありかたと関わる—現代も長い人類の歴史のひとこまであるという意味で—たいそう興味深い問題です。漱石とセルバンテスが晩年10年間だけ集中して小説の仕事をしたという現象から考えられる問題は、そんな問題です。) これは単に似ているというのではなく、文学という表現のありかたの本質に関わることなのです。
別のいいかたをすれば、文学という芸術は、晩年になってからでも始められるし、よくいわれるように、「誰でも一生に一篇小説は書ける」といういいかたと関連しています。
文学が、人間が日々、生まれてこのかた毎日使い接している「言葉」を材料にした「芸術」であることによるのですが、この表現の素材(原料)を、習得していく技術によって表現材料としていく過程も、「芸術」の「近代」の問題であることを、当日はいろいろ語りましたが、この内容報告では省略します(いずれ、それをちゃんと採りだして語ってみるときがあると思うので)。

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さて、小説『ドン・キホーテ』は、前篇(1605)後篇(1615)と二部から出来上がっています。執筆期は10年の差があります。ということは、最初から、第二部(ドン・キホーテが死ぬまで)を構想していたとは考え難いということです。その大きな理由は、1614年に贋作『ドン・キホーテ』が出版されたことにあったようです。

それに、前篇も、よくみていくと、当初からいま第一部(前篇)としてあるように構想されていたのではなく、まず、5章ぐらいまでを書こうとして始めていくうちに構想が大きくなっていったと考えられるような切れ目が6章にあります。

これらは、前回(pの回)にご紹介したボクの「文学が成立する8つの要素」の2. plotの問題です。『ドン・キホーテ』は成立事情から考えると、執筆当初から全篇の構想が出来上がってはいなかったことは確かです。しかし、完成してみると、それは見事に全体の統一のとれた(5. harmonyと7. styleに破綻のない)作品に仕上がっている—これが作者セルバンテスの凄いところ、「近代」の思想的感覚を備えた人だったところです。部分部分、あれこれと書き継いでいくなかで修正や方向転換のようなことをやりながら総体をちゃんと、一個の教会堂のように完成した構築物として仕上げるスケール力を持っていた人だったということです。

いま「部分部分」といったところ、「8つの要素」でいえば、4. rhythmや6. formがそれに該当します。また3. message、5. harmony、7. styleも、執筆過程の姿=ありかたとして絡んでいます。「過程の姿=ありかたとして」といったのは、われわれは、読者という立場から、messageやharmony、styleは完成された姿としてしかみることができないからです。作者は、もちろんその文章を書いた直後から一人の読者ですから、完成された姿でみる視点からmessageやstyleをみるのですが、同時にそれを創っている当事者として、それをいかに変えればいいかということについてもつねに考え、いい着想があればかえていく権利を持った唯一の人であります。

こうして完成された『ドン・キホーテ』は前篇は52章、後篇は74章から成り立っています。登場人物は、(数え上げた人によると)延べ698人になるそうで(かのトルストイの『戦争と平和』でさえ559人!)、なかで、活躍するのは150人ばかりの男と50人程の女性です。いずれにしても、長い小説です。

前篇と後篇は、内容(storyを成り立たせるバックグラウンドとでもいうべきもの。「8つの要素」のなかではstory+plot+messageを作るもの)が、がらりと変ります。とくにストーリーが変ります。

前篇のストーリーは、ラマンチャというところの片田舎に住む50歳位の紳士(アロンソ・キハーノ)が、騎士物語を読み過ぎて、狂気にとらわれる。その狂気というのは、自分が騎士物語の主人公の騎士だと思い込み、「ドン・キホーテ」と名乗り、古い甲冑に身を固め現実の平和な村々へ遍歴の旅に出る。その旅は、恋する姫ドゥルシネーア・ド・トボーソのために、世の中の悪をこらし、己の名誉を高めようとする旅である。

痩馬ロシナンテに跨がり、7章から(と書くとこれはplotの視点からの解読になりますが)近所の農夫サンチョ・パンサを口説いて従士にしての二人旅となり、風車を巨人と思い込んで突撃したり、旅籠を城と思い込み旅籠に泊まっている娼婦を宮中に仕える侍女や貴族夫人として扱かう。旅籠の主人や娼婦は、ドン・キホーテを気が狂っていると承知しながら適当に相手をするが、ついに、ドン・キホーテのことを心配しているラマンチャの司祭たちによって村に連れ戻される。——というような話です。

ストーリーを語りながら、ちょっとプロットについて触れましたが、ストーリーとプロットは、ことほどさように、切り離しがたいところがあって、現代の中等教育は、(中等教育でなくっても、「高等」な評論を弄する現代知識人でも)この二つをまったくゴッチャにして文学教育をしてきました。

プロットとして、もう一つ、付け加えておきたかったことは、この物語のなかに、「挿入物語」とでもいえばいいか、ストーリーの展開の上ではまったく関係のない短篇小説が入っているのです。ドン・キホーテとサンチョ・パンサのことばかり書いていると疲れてしまうのでちょっと息抜きをしたのだというような言いわけを後篇(の本文)の中でセルバンテスは登場人物の口を借りて弁解していますが、理由がどうであれ、こういう挿入をされることによって、読者は主人公たちの話を中断されその後の動向=話を知りたい・読みたいともどかしく思うものですが、作品としては、構想力の大きい構成を備えることになります。そのためにセルバンテスは前後のストーリーとそれに絡む登場人物の動向にちゃんと歯車(つじつま)を合わせて計算して(styleとplotの問題です)、こんな「脱線」(!?)をしています。

もう一つ、『ドン・キホーテ』という小説のストーリーを語っている限り、まったく触れなくて済むことなのですが、プロットとしてはとても重要な仕掛けをセルバンテスはやっています。

それは自分(著者セルバンテス)はこの『ドン・キホーテ』という作品の作者ではないという設定をしていることです。

架空の原作者シデ・ハメーテという人がアラビア語で書いた物を通訳してもらって、それを自分がスペイン語で書いているという手の込んだ設定をしているのです。虚構(物語・小説)をさらに虚構化するという手法で、逆にこうして虚構の虚構性を打ち出すことによって、ストーリーの現実味が与えられるという方法といえましょう。

後篇では、当時出回った偽作に登場した人物(これも虚構の人物)が登場させられてもいます。

当時は「歴史」と「物語」が分離して虚構としての物語が一般化し浸透していった時代で、セルバンテスは、その物語がたんなる娯しみとしての虚構ではない、つまり本来事実を語る「歴史」(フランス語でhistoire)と虚構を語る「物語」(これもhistoire)の根源と由来の意味を知っていた醒めた近代人だったといえます。後篇では、前篇を登場人物が読んでいるか少なくとも出版されていることを知っているという前提(これも現実と虚構の関係を逆手にとった手法で)進められます。

後篇に登場してドン・キホーテとサンチョ・パンザを相手にその「狂気ぶり」を自分たちの慰みものにしようとする公爵夫妻も、もちろん「前篇」を読んでいます。

サンチョが前篇で約束してもらっていた島の領主になったり、いろんな冒険譚がくりひろげられますが、後篇は前篇とトーンがちがいます。つまり、前篇ではドン・キホーテは妄想にとらわれそのことに自分は気づいていない「狂人」として行動します。そのことに読者は笑いながら、同時に読者自身の裡なる狂気と響き合う「憂鬱」さを発見しなにかズッシリしたものを受け止めつつ読み進めます。

その過程での、自らの「狂気」に気付かない主人公と、その「狂気」を気づかいつつ発言し行動する従者サンチョの言動が、人間のありかたのある真実を告げていることに気づくのだともいえます。

後篇は、ドン・キホーテとサンチョ・パンザは同じような心の位相で付き合いやりとりをするのですが、彼らを取り巻く情況が変わってしまっています。彼らを取り巻く人物に欺かれるドン・キホーテなのです。前篇でも宿屋の主人がドン・キホーテを騎士扱いするのはドン・キホーテを欺いていることなのですが、後篇ではドン・キホーテがそうして欺かれていることを受け入れる姿勢をとっているのです。

この変化はなにを意味するのか。

前篇のドン・キホーテのように、自分の信じることをひたすらまっすぐに行動へ移すのではなく(そのこと自体が「狂気」とみなされる時代であるということ)、後篇は、「狂気」であることが受け容れられる時代装置を生きていることを、主人公ドン・キホーテとサンチョ・パンザもそれを心得てしまっている、ある意味で、醒めた狂気を宿していいます。

前篇のテーマ(3.message,theme)が「熱い熱気」だとしたら、後篇は「醒めた狂気」がテーマになっているようです。

こうして「狂気」の多義性が造形されているところに、この作品が近代長篇小説(ロマン)の先駆けとして大きな意義を持っている点があるのでしょう。

「狂気」は、他者が自己と他者との関係のなかで規定するものであり、決して「他者」の出来事でありつづけるものではない、というメッセージが奥の方から響いていきます。

後篇の結末は、ドン・キホーテの「狂気」を気づかう村の青年が、「銀月の騎士」となってドン・キホーテと決闘し、ドン・キホーテをうち負かします。しんから傷ついたドン・キホーテは、自分の家へ帰って寝込み、ついに死ぬ、というわけ(これが「ストーリー」の結末)ですが、その死ぬとき、いままで自分が「狂気」に囚われていたことを悟り、すっかり「正気」に戻って死にます。

ここは、長い物語の最後をめでたしめでたしで終らせようとしているわけですが、そのすぐ前(10章程前)で、伯爵の従者に、こんな台詞を吐かせています。「ドン・キホーテが正気になって世にもたらすであろう利益なんぞ、彼の狂気沙汰がわれわれに与える喜びに比べたら物の数ではない」・・・。

正気に戻ってめでたくこの世を去る「ドン・キホーテ」ことアロンソ・キハーノの死は、この台詞と絡み合っていることを、セルバンテスは計算しています。

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ドン・キホーテは、妄想に駆られて「自己」を見失い無謀な行動をくりかえし、破滅していくのですが、その破滅は、ハムレットと比べるととても明るい。

どんなに破滅しても救いがある。

「行動的」だということも、ドン・キホーテに親しみを感じる大きな要素でしょう。行動的ですが「愚か」です。そういう「愚直」なところが、人間として、これまで愛されてきた大きな理由の一つです。

それと、それ自体間違っているのだけれども自分が信じた「真実」をとにかく大切に守り切ろうとすること。そういう一途さもおおきな人間的魅力として、人びとをとらえてきました。「銀月の騎士」に打ち負かされたとき、ドン・キホーテは、敗北の土に塗れながらこういいます——「ドウルシネーア姫は世界で最高の美女。そうして拙者はこの地上でもっとも不幸な騎士じゃ。しかし、拙者の弱さ故にこの真実を否むことはならぬ。——騎士よ、槍もて拙者を刺し貫かれるがよい!」

「銀月の騎士」はもちろん、そんなドン・キホーテを刺し貫いたりはしません。しかし、ここにみられる「真実」のために全身心を投げ打とうとする心意気は、読者の心を掴み、ドン・キホーテ讃美を促したといえます。

こうして傷ついたドン・キホーテと共に村へ帰ってきたサンチョの台詞を、今日の言葉に選んでみました。

「ああ、懐しい古里・・・

ドン・キホーテ様は他人にうち負かされはしたものの、御自分には打ち勝って戻りなさったんだよ。旦那様のいいなさるには、おのれに勝つってのは、勝利のなかでも一番すごいんだそうだ。・・・」

「近代」がつくり上げた理想の人間像がこの台詞に滲み出ています。

それまでの騎士道物語が、ヨーロッパ貴族の小説で寓話的な空想の龍とかを退治する、金の拍車を付けた騎士の英雄譚だったのが、『ドン・キホーテ』では騎士道物語にはいっさい登場しなかった。民衆が登場していること、これだけでも「近代」文学ではあります。

とにかく、「人間」が主人公になった小説がここに誕生したのです。

小説が主と従の対関係の主人公で構成される面白味もこの『ドン・キホーテ』が創始したことであり、じつに近代ヨーロッパの文学における人間関係記述の基礎を作ったのでした。

先に挙げた「言葉」などから読みとれる人間観にも、その点がよく反映されています。

が、同時に、こういう人間観が、近代のキリスト教的人間観に支えられたものであることもようく抑えておく必要があると思います。

それと、「ドン・キホーテ」という人物像は、あの冒険と遍歴の旅に自分の名誉を捧げる生きかたもまた、近代の「男性」の理想像を支えるものであったことも、抑えておく必要があると思います。さきに「理想の人間像」と書きました(そのときはあえて抑制してそう書きました)が、この場合の「人間」とは「男性」にほかならないのです。

『ドン・キホーテ』というと、どの評論、研究書、エッセイを眺めても、讃辞と憧憬の言葉に埋っている(たしかにそのくらい偉大で大きな役割を果たしている)のですが、しかし、キリスト教(カトリック)の人間観と世界観に基づく近代の「男」の一つの理想像(とくにロマン主義的理想像)を作っていることに対するまなざしはしっかり持っておく必要があると思います。

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そういうまなざしを持つことによって、『ドン・キホーテ』を語る言葉も、これからもっと多様になってくると思います。

小説の中心人物が「主」と「従」の一組から成る構成をとることの近代性については、「その4」で触れましたが(のちに、この文学表現としての「人間」関係を若きヘーゲルは『精神現象学』(1807)で哲学の論理《弁証法の基礎型》に展開させました)、この「主」と「従」の対話による弁証法的構図を「人間関係」の基礎型としたことが、この小説を「ロマン」の先駆けと呼ぶ最も大きなところかもしれません。

たんに文学の世界だけでなく、遠近法(パースペクティブ)が絵画の世界の理論にとどまらず「近代」人のもののみかたを形成している決定的な枠組を与えているように、『ドン・キホーテ』という小説が用意した「人間」対「世界」のとらえかたは、文学・小説の領域をはみ出して近代のいろいろな芸術ジャンルの表現や記述の方法の源流となっています。それをもっと詳しく論証することも、これから『ドン・キホーテ』に興味を持つ人たちの課題でしょう。

最後に、いくつもあるだろう『ドン・キホーテ』という文学を読む面白さのなかから、「文学における8つの要素」のうちの、4.リズム、6.フォームの視点から、その面白さを紹介して終ろうと思います。

それは『ドン・キホーテ』の新しい読みかた、ひいてはこれからの読書と思索の新しいありかたを示唆するところへつながるものでもあります。

当日はコピーを配ったのですが、前篇第23章で、拾った包みの中から見つけた手帖に書かれた詩をドン・キホーテが読みサンチョがそれに応えるところ。(ここでは引用するのはたいへんなので、みなさん翻訳を読んで下さい)、岩波文庫〔牛島信明訳2001年刊〕では、

「この詩からは」と、サンチョが言った、「なんにも分りゃしませんよ。詩の中にあった糸(イーロ)をたぐることによって糸玉が引せれば別ですがね。」「そんな糸(イーロ)が詩の中にあったというのか?」とドン・キホーテが尋ねた。

「たしか、旦那様」とサンチョが答えた、「イーロと読みなさったような気がすんだけど」

「いや、わしが言ったのはフィリじゃ」と、ドン・キホーテが応じた。

とあるところ、最近改めて出た新潮社版(荻内勝之訳2005)では、

「歌からは何も判りません。その、ヒリヒリ、というのは匂うんですが、糸口をヒリ出すのは至難の業です」

「ヒリヒリ、などと書いてあったか」ドン・キホーテが首を傾ける。

「ヒリヒリする、とおっしゃいましたよ」

「フィリと申したのだ。」・・・・

ほんの一部分ですが、二つの訳を比べてみて下さい。原文はどうなっているかなんて、学者っぽいことはやらないで、この訳文二つから、原文はこうだったのかなぁと想像してみるのもおもしろい。かってに想像しながら、こういう日本語(訳)が伝えようとしていることを読みとってみるんです。

どちらがいい翻訳かなんて詮索をしてみても、知ったかぶりをする以上のことはできないと思います。

原文はどうなのか知らなくってもいい、一つの分が「イーロ」とルビをつけて「糸」と訳しているし、もう一方は「ヒリヒリ」と訳している面白さ。

そして、そこから、セルバンテスがスペイン語でこんな文章を書きながらスペイン語の手ざわり、駄洒落をみずからたのしみ、また読者に楽しんでもらおうとしていたことも伝わってきますね。

ここではリズムとフォームが選び抜かれて書かれていることが味わえます。リズムとフォームが決定的な働きを果たしているところです。どちらかの訳文だけを読んでいたのでは味わえない面白さでもあります。

現代という時代は、情報が多すぎ、みんな仕事も多すぎ、とにかくそれらをつぎつぎ消化していくだけで精一杯という生活を強いられています。『ドン・キホーテ』を全篇読む暇なんかないと思っている人がいっぱいいます。しかし世界の名作だから『ドン・キホーテ』のことを知らないといえないとも思っている、そこでダイジェスト版が売れるわけです。

そんな時代だからこそ、あえて、お勧めするのですが、『ドン・キホーテ』を全篇読んで、その上で各種訳本を読み比べてみるたのしみを、ぜひ自分のものにして下さい。

最近は『ドン・キホーテ』に限らず、サリンジャーやサン・テグジュペリなど著作権が切れるのを待っていたかのように新訳が出ます。そのどれか一つを読んで「よし」とするのでは面白くないのです。各種の訳を読み比べる読書のたのしみ。そしてどっちがいい訳だとか判定するのではなく、それぞれの訳の味わいを通して、原文の姿を(原文を知らなくてもこれはできる)

あれこれ推し量ってみるのも、読者の特権的楽しみです。そんなところから、言葉をともに生きている楽しい時間がやってきます。

これは、現在(いま)だからこそ出来るし(各種訳が出てきているという物的量的条件が整っている)、いまだからこそ身につけるべき(情報消化に追われる日々だからこそ、それに溺れないひとときを自分のものにするために、なかなか効力のありそうな)読書術ではないでしょうか。

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