M アンナ・メンディエタ

アナ・メンディエタは、ボクがこのABCシリーズでとりあげるただひとりの現代美術作家です。しかも、ボクより年若いひととしても唯一の例です。彼女は早くに亡くなりましたが、もしいま生きていたとしたら56歳ですか。働き盛りですよね。

アナ・メンディエタは1948年11月18日キューバのハヴァナに生まれました。

フィデル・カストロが、反政府運動を起したのは、1953年6月26日で、これはのちに「6月26日蜂起」と名付けられて記念すべき日になります。それから二年半、カストロが亡命先メキシコを出て、弟のラウル、友人のチェ・ゲバラらと共にゲリラ戦争を闘い、当時の悪名高き独裁者バティスタを政権の座から引きずり降ろしたのは、1959年1月1日、アナは10歳になっていました。

当初は、このカストロの快挙を支持するキューバの知識人や実業家は多くいました。それくらい、バティスタの独裁は目に余るひどいものだったのでしょう。

ところが、それから二年後の1961年、カストロは、キューバを社会主義体制にすると宣言します。アメリカ南部フロリダと海峡をはさんですぐ近くにある小さい島、アメリカ資本が大量に投入され、アメリカ人にとって貴重なリゾート地であったキューバがアメリカ資本と手を切って、ソ連と同盟を結ぶというのです。

これは大事件でした。当時は、ソ連とアメリカは世界を二分して睨み合いそれぞれを最大の敵と目して、軍備を整えていた時代です。そのアメリカのふところにソ連の衛星国が生まれるというわけですから、時の大統領J.F.ケネディは軍隊を出動させ、ソ連の船舶がキューバに行く海路を封鎖、一触即発第三次世界大戦に突入かという危機が到来しました。この戦争の危機はアメリカとソ連との直接交渉によって回避されますが、カストロ・キューバはカリブ海に浮かぶ社会主義国=ソ連の同盟国として新しいスタートを切ります。

59年の段階で、バティスタ政府を倒すために協力した人たちも、ソ連と同盟国になることについては反対し、反カストロ運動が盛んになり、キューバを脱出する(船でホンの何時間かでマイアミです)キューバ人が跡を絶たない事態が起こります。

アナのお父さんも当初カストロの協力者でしたが(アメリカのクライスラー会社に勤めていたとのこと)、61年を境に反カストロ派に廻り、カストロに逮捕され刑に服すことになります。そんななか、アナの両親は、アナと姉のラケリンをアメリカへ送ります。アナとラケリンはフロリダを経由してアイオワに行き、そこで学校教育を受けることになります。アナ13歳のときです。

いろいろあって、アイオワ大学に入学、マルチメディアアート専攻を卒業するのが1969年。さらに大学院へ進学し、アメリカ市民権を取得します。

1960年代は、Fのミッシェル・フーコーのときにもお話したと思いますが、「現代」という時代へ転換する重要な経験がたくさんあった時期で、たとえば美術では「ミニマル・アート」と呼ばれる表現活動が展開されるのもこの頃です。現代美術の評論家や作家たちのあいだでは、ミニマル・アートはごく短期間の運動のようにとらえられがちですが、そういう運動体としてとらえる呼称として「ミニマル・アート」という名称が使われるのなら、ボクはあえてこの傾向/運動を美術表現における「ミニマリズム」と呼ぶことにしたいと思います。そう呼ぶことによって単に現代美術の現象の一つではなく、現代という思想情況の中で、その情況と連動した美術表現(芸術表現)の姿がみえてきます。

20世紀に入って美術は、絵画や彫刻が、それぞれに、その絵画や彫刻を構成する要素を純化させた表現を追究して行きます。絵画はその構成要素である色彩・線・形態そのものだけで成り立つ絵画へ。つまり、近代以前の人たちが絵画を成立させるために不可欠だと思っていた「現実を描写する」ことや、歴史・神話の場面・信仰礼拝の対象としての像の描出といった「再現」的表現は排除し、色彩や像・形自体が持つ「言語」を表現しようとするようになっていきます。

現代美術の歴史をここでゆっくり復習している余裕はありませんが、一言でいえば現代美術は「還元」主義の方向を進むといえばいいでしょう。

抽象絵画(モンドリアンからポロック、ロスコまで)や、抽象彫刻(ブランクーシからとりあえずはアルプ、イサムノグチくらいまでとしておきましょうか。じつは、彫刻における「抽象」のあいまいさが60年代に入って「現代美術」を形成する契機となるのですが)には、まだ「主体・客体」関係の構図でものを見、考えるという思考方法は健在だったといえます。

ポロックが絵具のバケツを持ってキャンヴァス上を歩き廻り、筆先から絵具を振りかけていく「ドリッピング」という方法は、19世紀までの画家たちが腐心した現実の情景や姿を再現し、絵筆を駆使して描写することによって感動を呼び起こすという絵画の使命をゼロにしましたが、しかしその自然界のどこにもみつけられない線と色の形(それらが創る非自然対象的形態と動き)には、それをみつめているとなにかしらそれらが感情を訴え、語りかけていることに気づきます。それは人間や自然の内なる形、外界には隠れた姿なのです。そして、そういう内なる隠れた世界を顕わにするのは芸術家ジャクソン・ポロックその人にほかならない。

そして、その絵は、ポロック以外の主体が創ったものではありえないわけです。つまり、その作品には作者がいる。

ミニマリズムは、この作者の存在、その作者であることを証明する「手」の動き、画面や作品に表われる作者の個性などを消去して、「美術」「作品」というものが成立しうる極限の最小の要素で「作品」にしようとします。 当然、「絵画」と「彫刻」という分類も還元されます。「絵画」や「彫刻」という言葉、概念にはそれ自体「絵画」や「彫刻」が始められた古い時代から近代へ至るまでの伝統を背景に、そういう「歴史」と「慣習」に塗れた表現体という意味がこもっているわけで、その表現体の構成要素の最小公約値に還元しようとするとき、そんな名称すら邪魔になってくるわけです。

代りに「平面」作品とか「立体」とか呼ぶのが普通になり、作品にもタイトルは付かないというか「ノー・タイトル」というタイトルしか付けられなくなります。タイトル自体すでに言語による「文学」的表現だというわけです。

こういう考え方・運動は、「美術」という世界における「近代」の枠組が解体されたことを物語っています。その後「ミニマル・アーティスト」を名乗る作家は現代美術の歴史に登場しなくなりますが、「ミニマリズム」は、「現代美術」のありかたを決定的に転換させ、その後の「現代美術」はこの考え方・思想をなんらかの方法で参照して作られているといっていい。

いいかえれば、作者が意識しているいないにかかわらず、このミニマリズムの考え方と引き比べながら現代美術の仕事をみれば、作者の意図も作品の成り立ちもすっかりみえてしまう——そういう思考の枠組みとして、「近代」の思考に代る「現代」の思考の枠組み、すべての現象をその構成要素の単位分子に還元して組み立て直して捉えるという考えかたが——美術の現代を支えているのです。

これは思想ですから、60年代後半はあらゆる分野でこういう思考活動が提起され影響力を波及させ、「近代」の枠組を転換させていったということです。ボクに関心のある分野だけでもざっと拾っておくと、 まず、M・フーコーの『狂気の歴史』と『言葉と物』ですね。前者は西洋近代までの「狂気」の扱い方を根本的に変えさせました。後者は、その「近代」という思考を支えている「人間」の消滅を宣言しました。

レヴィ・ストロースの『パンセ・ソヴァージュ』(「未開の思考」という意味と「野生の三色菫」という二重の意味を響かせたタイトルです)や『悲しき熱帯』ではそれまで近代がヨーロッパ文明とは劣るものとして理解していた「未開」民族にヨーロッパの価値基準では測れない独特の「文明」があることを教え、「近代」的人間の考えかたを変えさせました。

同じ時代、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』という本を出して、技術開発に有頂天になっている「近代/現代」人へ警告を発し、「自然」とのつきあい方を教える一歩を示しました。

その意味では、ミニマリズムがその後の現代美術のあり方を変えそれが現在の美術の基盤となっているように、レイチェル・カーソンの告発が現在の「共生」論の礎石を作っています。

レヴィ・ストロースの「未開」観が反植民地運動へ思想的支えとなり、アメリカの黒人「人権」「公民権」運動を思想として意義づけてきたといえます。M・フーコーの「人間」消滅論はまだ途上にありますが、つねに「現代」のありかたについての考えを刺激しているその根源にある議論です(「現代」知識人と自認する人が自ら気づいているかいないかは関係なく、「思想」の働きかたとしてそういう仕組で動いているということです)。 ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』(邦訳『新しい女性の創造』)が出版されたのもこの時期。フーコーの『言葉と物』同様、大ベストセラーになりましたが、ここには、その後大きな展開をとげるフェミニズム運動の基点をみつけることができます。

いうまでもなく、先に触れたアメリカのマルチン・ルーサー・キングを先頭にした黒人公民権獲得運動もこの頃で、このとき以来アメリカ合衆国の人種地図の価値づけはすっかり変ります。

これらは、池の水が氷りはじめていく現象に似ていて、あちこち部分的に氷りはじめ、いつかは池の面全体をガチッと被うときがくるのでしょう。これはまだまだ途上にあって、氷ったかと思えば解け失せたりしているのが現在ですが、ともかく現代の価値と思考の変容転換は60年代後半に決定的に用意されたということはいえそうです。

大学のありかたもその時期に大きな変わり方をしました。M・フーコーがフランス国立大学の新しい大学構想の哲学科主任になった話は以前いたしました。

アナ・メンディエタが学生となったマルチメディア・アート専攻課程は、絵画でもない彫刻でもない「新しい」芸術観に基づいた新しい表現を育てるコースだったわけです。

ちょうどパフォーマンスやインスタレーションといった表現が盛んになってくるころで、アナもパフォーマンスを始めます。そして注目をあびていくのですが、ブログでは図録の写真を見てもらいながら話を進められないので、その仕事の特質を「言葉」で要約するにとどめます。

彼女は1970年初頭から仕事を始め、1985年(37歳になる2ヶ月前)に亡くなりますからその活動は僅か15年という短い期間です。

彼女の仕事を分類すると、まずパフォーマンスということになります。自身物心つくかつかないうちに革命キューバから亡命者のようにアメリカへ送られ、公民権運動やさまざまの人種差別などを経験目撃したのですから、キューバの現状をお父さんやお母さんとはちがった受け止めかたをしていたにちがいない。そういう葛藤のただなかで、それらに鋭敏に反応するのにパフォーマンスという表現は適していたでしょう。

われわれは、その記録を彼女が遺した厖大な35ミリや8ミリフィルム(から選択編集されたもの)をみながら想像してみるしかないのですが、それだけでもとてもよく判ることは(あるいは彼女の仕事の記録から発見できることは)、彼女が「パフォーマンス」という現代美術の表現形式の枠の中でパフォーマンスをやっていないということです。

大学院の課題に絵画があって、彼女もそれをやりますが「私がイメージを伝えようとするのに私がやっている絵画の方法はリアルさが足りない」と当時のノートに彼女は記しています。

「リアルさ」というのは私が持っているイメージの力のこと、「私は、私が持っているイメージに力を持たせたい、もっと魔術的でありたいのだ。私のイメージに魔術的な要素を与えるために、私は直接自然と仕事をしようと決心した。私は生命の源泉へ行かねばならない、つまり母なる大地へ。」

彼女のパフォーマンスはメキシコの神殿の跡地やアイオワのオールド・マンズ・クリークという海辺の草原とか(大学や美術館の会場、街角でもやったりしたけれども)、80年代までずっと継続してパフォーマンスをした場として、このオールドマンズ・クリークとメキシコのヤグルという遺跡の跡地は彼女にとって大切な場所でした。

メキシコの遺跡の石の間に裸になったアナ・メンディエタが両手両足を身体に添うように硬直した形で仰向けに横たわり、その上に白い草花がその裸体から生えているように被っている。これはパフォーマンス(自分の身体を使った表現という意味で)ですが、これは、次のようなアイオワの仕事と連動しています。

それらを彼女は「シルエッタ(シルエット)」シリーズと名付けています。

アイオワの雪の海岸に彼女の人体を素朴に型どった窪みを作る。その形は、古代の女神の立ち姿を想わせるような両腕をL字型に挙げた左右対称型で、その人体のイメージは、時と天候の移り変りによって形を変えていく、それを35ミリに記録しています。

雪の中に人の形が刻まれ、それが雪でおおわれています。そして温度が上がると人形(ひとがた)の雪が少しずつ溶けて行きます。雪が溶けると、人の形を見せていた雪の下から枯草が生えた黒い土が姿を見せその人体の型を彩ります。不在の人体(シルエット)が、移ろうように溶けていく雪とその下から現れるのです。

あるいは、裸の身体に泥を塗って、例の古代の女神のポーズで大木の幹に添うように立つ。何時間そうやって立っていたのかキャプションには載っていないのですが、写された写真一枚が、そうして大木と呼吸を一つに何時間も佇ち尽しているアナ・メンディエタを想像させる。時と共に身体に塗った泥は乾燥し、ひび割れ、姿を変えていっただろう。大木と一体となるまで乾き切ったとき、それは生身の身体が影となるときだ。じっさいに何時間佇ち尽くしたかどうかが問題なのではなく、そう想像させる一枚の写真を遺していることが大切です。彼女はその「パフォーマンスの記録を35m/mや8m/mカメラのフィルムを膨大に遺しているとのこと。これは、もう厳密な意味で「パフォーマンス」ではありません。

パフォーマンスという表現形態は、表現する主体たる自分自身が自分の身体を素材にしてその動きをみせたり、その肉体を加工したりして表現する(つまり「主・客」関係の崩壊の中、主体を客体化する究極の手段であり、ミニマリズムの一極から発想誕生した表現方法)なのだが、アナの身体はその自分の肉体を地表の穴やそこに生える草、あるいは大木と一体となって影となった自分、さらに、写真から想像させる動きや変化とか、さまざまに変容させていきます。

自分を原型とする形が時の移ろいと共に変っていくようすがフラッシュバックのようにのこされている記録写真は時の気侭な魔術をみているような美しさが印象的ですが、その変容は人間が自然へ還る気配を伝えています。 同時にそれは自然から生まれる人間、自然とそうっとつながる人間の気配でもあります。

人間が物質に手を加えて自然界にはなかったなにものかを作る、ほかに同じものは二つとない、誰にも同じものは創れない。伝統的にこれを「芸術作品」と呼んできているわけですが、アナ・メンディエタは「シルエッタ」シリーズではこの人間という自分が手を加えることを極力抑制しています。そして自然が手を加えてくるのを待ちます。

彼女のこうした作品は、パフォーマンスとかインスタレーションというジャンルの枠づけを超えて一つの自然と人間が作るつかのまの交歓のようなもので、古典的な意味では「芸術以前」の行為といえましょう。 大学の卒業制作は「自画像」で、ここで彼女はもちろん自画像を描いたりはしていません。友人のもじゃもじゃの長い髭を生やした男の子を脇に、彼に髭を切らせ、その髭を自分の顎に移し変えていくというパフォーマンスをしました。ここにも「変容」が主題になっています。

「私は髭に魅惑されている」というのが彼女のこの制作へのコメントでした。「その生えかた」に世界史的な意味があるといって、エジプトの僧侶、屍体となった身体からも毛髪が伸びること、そしてマルセル・デュシャンのモナ・リザ(LHOOQ)まで例を挙げて行きます。

この髪の毛や髭の生えかたへの意味は先に挙げた「母なる大地へ、生命の源へ」向ける彼女の関心の持ちかたの一つの現われです。「生える」というその仕方において、髭と草や花はつながります。さきほど、自然と人間が作るつかのまの交歓というようなことを書きましたが、それは「生える」というあり方を媒介してそれぞれの形を探って変容を待っているといいかえていい。横たわる裸の身体に花を植えることと、草原に草だけで人形(例の女神のような形をさらに単純にした形)を作ってそこに花を植え付けることは、このとき「墓」をつくるような行為として「死」という生命を超える世界へ心を傾け同時に「生える」という現象において「生きること」の意味への問いへつながります。

土を固めて葉の形にしたような造形もあります。これも時と共に乾燥し「芸術は永遠である」というような思想とは真っ向から背いていこうとします。葉っぱに線を描いたのもあります。

美術館に保存することなんかできない作品、という意味で、美術館という制度と制作、作品の関係へも根源的な問いを投げかけています。

火薬もよく使いました。人の形に掘った地面に火薬を置いて爆破させ、その火の立ち上がる情景、燃えて黒いこげ跡がのこる人形(ひとがた)の穴が写真に記録されています。そんな人形(古い女神のポーズ)をした木の枠を作り、火薬を置いて燃やした記録もあります。84年(彼女にとって晩年ですが)、ローマへ奨学金をもらって滞在したときは、木の板に火薬で線を描きこげ跡をつけた「絵」を制作したりもしました。

「私の仕事は、基本的には石器時代の芸術家の系譜の中にあるのです」といっています。前回ラスコーの話をして、芸術/美術の規範を(つまり芸術という歴史=系譜の出発点を)石器時代のラスコー壁画に据えたいといったボクにとってこれはかけがえのない心強い発言ですが、同時に彼女がいかに美術という仕事に携わりながら、つねにその出発点へ立ち戻ろうとしていたかを考えさせられます。

こうしてざっとみてみただけでもアナ・メンディエタの仕事が、現代美術を考える上で、現代美術に従事する人たちにとって、いかに重要な仕事をのこした人かと思わせられるのですが、日本ではほとんど紹介されてきませんでした。

1992年京橋にかんらん舎があったころ、そこで展覧会が開かれ、それを観てボクは、『アート92』という雑誌にアナ・メンディエタ論を書きましたが、ほかには誰も書かなかったようだし、その後も彼女について語ろうとする人もいません(日本では)。2004年7月から9月、ニューヨークのホイットニー美術館でかなり規模の大きい展覧会が開かれ、分厚い図録も刊行され、それが二年がかりでアメリカ各地を廻って、この1月15日(ボクがABCでメンディエタのことを喋った翌日)まで、マイアミ美術館で開催されていました。

こうしてあちらで評価が固まりお墨付きがつくと、これからは日本の美術関係者も彼女について語り出すことでしょう。

塩田千春は学生時代にドイツへ行ってドイツで評価されてそして日本で知られるようになった作家ですが、彼女が学生時代、ボクは演習でアナ・メンディエタのことを喋ったものですが、彼女はそれをちゃんと聞いて消化してくれたボクにとっては大切な一人です。昨年刊行された彼女の図録にドイツの評論家が塩田千春とアナ・メンディエタの仕事の共通性について言及しています。

ホイットニーの展覧会関係者には、アナ・メンディエタは日本では未紹介の作家という思い込みがあるようで、詳細に整理された文献目録に、ボクのエッセイは収録されていません。それどころかかんらん舎の展覧会も記録されていません。

ボクの語ることなんか、現状ではそんな扱いなのでしょう。でも塩田千春のような例が出てくるとちょっと元気づけられます。

3

アナ・メンディエタの《言葉》として三つ選んでみました。

To know oneself is to know a world. 自分を知ることは世界を知ることだ。

現代美術の作家が発言するとき、どうも、逆説を使って、高度に難しい話をしようとしがちです。それだけ、自分の仕事を理解してもらいたいという熱意が現れているともいえるし、単純な言葉で自分の仕事の内容は伝わらないという思いこみもあるようです。しかし、アナはこんな単純な言葉をのこしていて、こんな単純な言葉が言えるところに彼女の仕事の特質・貴重さがあると思い、一つはこれを選びました。その言葉の意味についてとやかくなにもいうことはいらない。じつにストレートです。

Art must be have begun as nature itself, in a dialecitical relationship between humans and the natural world from which we cannot be separated.
われわれ人間がそこから切り離されることはできない人間と自然界の弁証法的関係のなかで、芸術は自然そのものとして始まった。

この言葉は、「私の仕事は石器時代の芸術家の系譜の中にある」というアナの発言の別の謂です。「弁証法」と訳したところ、dialectic をそう訳すとひどく月並でかえって彼女の気持ちから遠ざかってしまうかもしれません。「対立する」「矛盾する」関係と訳してしまうと、ヘーゲル、マルクスがこの語に与えた深い意味が剥がれるし、「対話的」と訳すと甘いし…あるいは「石器時代人の伝統の中に」いようとする彼女だから、ヘーゲル、マルクス的意味合いをとってしまった言葉の初原的なニュアンスで使いたかったかもしれない。そんなことを考えながらとりあえずはごく一般的な訳語にしました。

この言葉は彼女の仕事の真髄をいいあてたマニフェスト(宣言)のような言葉ですね。

Believe me, friends, imperialism is not a problem of extension, but of reproduction.
みなさん、信じてください、帝国主義というのは拡張の問題じゃないのです、再生産(複製)に関わることなのです。

「ビリーヴ・ミー」と強く言っているところはメッセージとして意味はないけれど、このニュアンスをのこしておきたいと思いました。彼女の本気さが伝わるフレーズです。「自分を知ることは世界を知ることだ」にも感じさせたことですが、こういう姿勢が、彼女の制作スタンスだったといえる。

この「ビリーヴ、ミー…」は、ある展覧会で喋らされたとき「25分どうやってなにを喋ろうか心もとないけど」と喋りだしたアーティスト・トークの中の一節です。

彼女がアメリカにいて、20世紀後半のアメリカの情況にいかに敏感で批判的であったかが判るのですが、そういうアメリカや現代の文明のありかたが強権的帝国主義的であることを語り、そして「帝国主義というのは拡張の問題ではない、reproduction の問題だといっています。このreproduction も「再生産」と訳すと日本語では「複製」というニュアンスは弱まるし、その逆は「複製」という物としてのイメージが強まって複製品は再生産という行動の結実なのだということを一寸忘れさせてしまいそうで、訳は両方とも出してみることにしました。

帝国主義という国家の強権行使は国の領土財産の拡大というふうに定義されがちだけれど、そうではない、と彼女はいいます。それは「再生産=複製」なのだと。

帝国主義が「再生産=複製」の問題に関わっているということは、政治的には自分の文化制度を他国に再生産するということであり、それは美術の世界の問題として「複製」というもののありかたへ関わってくるといっていて示唆的です。われわれはいまや美術のことを考えるとき「複製」を手立てにしてしか考えられない(複製である画集をみて、作品を鑑賞し、スライドという複製で美術[史]を語り理解している)。複製を見て本物を理解了解する習性を完璧に身につけている。ひょっとするとわれわれはこうして無意識の裡に、帝国主義に飼い馴らされた発想をしてしまっているかもしれない、とアナは警告しています。M・フーコー風にいえば「複製」のありかたに秘んでいる権力のありかたに気付かねば、ということです。

美術作家の発言が、こんなふうに、その作家の仕事を理解する手がかりとして読むだけでなく、「美術」の領域を超えた現代という時代を生きる人間の生きかたへ関わる問題として読めることのすばらしさに、ここで気づいておきたいのです。

現代の美術家はもうこんな人はほとんどいなくなりました。みんないろんな言葉を弄して、自分の作品の「説明を」するばかりです。去年来の展覧会を一寸思い浮べても、李禹煥といい杉本博といい、なぜあんなに制作意図だとか見かたとかを自分で説明するのでしょう。結局、作品だけ見てもらうには自信がないような作品しか作れなかったからかしら、とくすぐってみたくもなります。でもこういう傾向はもう何年も前から主流です。東山魁夷なんかもその最たる人で、自分の言葉で説明してやっと絵を見てもらえることを当然のように言葉を費やしました。

作品だけみて、よいか悪いか、その作品からどんなメッセージを受けとるか、観る人に任せられないというのはどういうことでしょうか。

優れた作品というのは、作者の制作にこめた意図もさることながら(それもちゃんとしていないと問題外ですが)、そうして出来上がった作品が、作者の意図していなかった発見を他者に与えられてこそ、すばらしいのです。作者の意図だけしか伝わらない作品は一度みたときはなるほどと感心できてもそれっきり、もうつまらない。みるたびに新しい発見があってこそすごいのです。

美術家たちが自分の作品/仕事に言葉を加えて説明するという行為は20世紀に入ってからやり始めたことです。ドラクロワは日記をのこしていますが、他人(鑑賞者)にそれを読ませて自分の絵を理解してもらおうと思って書いたわけではありません。

ゴッホの手紙も、テオや友人に向って自分の作品の説明を盛んにしていますが、彼の場合はちょっと変っていて、よく読むと、いつも必ず出来上った(あるいは出来上る)自作の紹介説明ではない、むしろもう一つ別の現実にはない(いいかえればあるべき)作品のことを語っています。

その手紙でもってゴッホの作品の実証・裏付けにしようとするのがこれまでのゴッホ研究家の作業でしたが、手紙と作品は次元がちがうという読みとり方がこれからは必要でしょう。

そして、もちろん、これらの厖大な手紙は特定のテオやベルナールへ自作にまつわって思いつくことを語りかけた手紙で、決して自分の絵を鑑賞してもらうために説明しているのではありません。

未来派宣言あたりから作家が自分の作品や考え方についてマニフェストとして語るということが始まります(19世紀までにはなかったことです)。これは運動宣言のようなもので、一作一作の説明ではありません。こういう考えでこういう今までにない絵を描くのだと立場を表明するまでで、あとはやはり作品をみてくれという態度です。

アナ・メンディエタがのこした言葉を読んでいると、自分の仕事について語るときでも、どんな考えを持っているかを語る(マニフェストに近い)けれど、一つ一つの観かたについて説明はしていません。それを説明することを要求されている「自画像(卒業制作の髭の移植)」までもがそんな語り方になっていて、これも現代美術情況へ投げかける批判になっているのが面白い。

別に批判をしようとして発言しているのじゃないのだけれど、現代美術の情況に知らぬまに漬り切っているわれわれにビシッと目を覚まさせる発言と制作をのこしたひとでした。

アナは、1979年、ミニマルアートの代表的作家の一人であるカール・アンドレ(1935〜)と知り合い、彼女がローマに滞在していた時は、二人はほとんどいっしょでした。そして、イタリアのスポルトに住んでいるソル・ルウィット(1928〜60 、ミニマルアートとコンセプチュアルアートの代表的作家の一人)のところへ遊びに行ったり、(1983年クリスマスはルウィットのところで過ごした)、二人でヨーロッパを旅したりしました。 そして1985年1月17日ローマで結婚、エジプトへハネムーンをして、6月にはアナの母を迎えてカールともどもスペインを旅行し、8月、ニューヨークへ帰ってきました。

そして、それからひと月も経たない9月8日、アナはカールと住んでいたマーサーストリート300番地のアパートの34階から転落して死んでしまいます。

二人がニューヨークへ戻ったころ、二人は芸術の問題などで激しく言い合ったりしていたという証言もあり、カール・アンドレは彼女の死にどのように関与したのか疑われたりもしましたが、不問に付されました。

いずれにしても、アナはカール・アンドレのように「現代美術」という不透明な制度化された世界に居座っていられる人物の考え方とは真っ向から相容れない芸術観/美術観の持ち主だったかことは確かです。

われわれにとって彼女が重要で新鮮な存在であるのも、その故にといえます。

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