J Jesus

Jは jesus(ジーザス)イエスをテーマにしました。

「イエス」といえば「キリスト」、とつながりますが、今回のテーマはこの二つの名前のずれを考えたいというところにあります。この春に、春秋社から笠原芳光さんと佐藤研さんが司会を勤められて、聖書学の部は荒井献さん、思想の部は吉本隆明さん、文学が岡井隆さん、そして芸術のうち音楽が礒山雅さんで、美術にボクが参加して討議をした記録が『イエスとはなにか』という本になって出ました。この本を面白く読んでもらうための準備体操のようなことをしてみようと思ったのがJとしてイエスを選んだ理由でした。キリスト教の思想風土は、想像以上にわれわれ日本語でものを考える人間にも浸透していることも改めて認識しておきたいと思っていました。

当日は、7枚のコピーをお配りして、そのすべてボクが制作のものでした。このブログではそれを再現するのはむつかしいし、後半のイエスの生涯を四つの福音書と比べながら辿る表は、ちょっと大きな聖書などなら付録についていたりするので、この報告では省略します。とはいえ、その対照表をボクはボクなりの批評意識をもって作り直しています。興味のある方が別の対照表と比べてくださると嬉しいです。そのボクの批評意識は、これからお話するなかにも随時顔を出してくれるでしょう。

「言葉」は、配付資料ではコピー第一頁の冒頭におきましたが、話としては後の方で詳しくやりました。それは、マタイによる福音書18葉19節−20節の

「ふたりでも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる…」

でした。ここでも、これについては後で話したいと思います。

さて、次に「キリスト教の位置を測定するためのメモ」と称して短い年表風の項目を並べました。こんなものです。ちょっと再現してみます。

  • BC.1200年頃、モーゼ、出エジプト。BC.598、モーゼ五書成立
  • BC.249、「七十人訳聖書」成る。
  • BC.4〜AD.28頃、イエス。(註)
  • 64、ネロ、キリスト教徒迫害。67、パウロ、殉教。
  • 1054、ギリシア正教会とローマ・カトリック教会分裂。1096、第一次十字軍。
  • 1517、ルター95カ条意見書。1534、英国国教会。1541、カルヴァン、ジュネーヴで宗教改革。
  • 1543、コペルニクス地動説。
  • 1549、ザヴィエル日本上陸。
  • 1611、「欽定訳聖書」。
  • 1881、内村鑑三、札幌独立教会。
  • 1947、パキスタン自治領(56、独立)。1948、イスラエル独立宣言。

註:
イエスの生誕と死は、もちろんキリスト教信者の間では、AD.0年12月25日に生まれ、AD.30年に磔刑死したと信じられていますが、聖書学の研究成果は、BC.4年生まれAD.28年頃[やはり「頃」ですから不確かです]と測定されています。そうすると、イエスは32歳くらいまで生きたことになります。

ここで、この表を少し丁寧になぞりたいと思います。キリスト教が「聖書」というとき、「旧約聖書」と「新約聖書」があるのですが、そのうちの「旧約」は、キリスト教が成立する前のユダヤ教の教典です。

「旧約聖書」というのは英語では Old Testament と呼んでいます。 Testament というのは「遺言」という意味もありますが、ここでは「契約」という意味です。神との契約が誌された書物、それがBible(バイブル)です。そして、旧い契約(旧約)がユダヤ教時代に教典として編集され、イエスが登場し、十字架にかけられたあと、その復活と再臨を信じ、イエスをユダヤの人びとが待ち望んだ救い主と信じるのがキリスト教で、そのイエスの言葉や行動、そしてイエスの死後初期基督教会の使徒たちの伝道の記録が、「新しい契約の書」として編まれ、それが「新約聖書 New Testament 」です。

ユダヤ教の信者たちは、イエスをキリストと信じておりません。ですから、「旧約」「新約」という呼びかたはキリスト教の立場からの呼びかたです。ユダヤ教にとってキリスト教が「旧い契約」というのは決して旧くないのです。で、ユダヤ教の人たちは、キリスト教で「旧約聖書」と呼ばれる書物を〔内容はまったく同じ書物を〕「律法と預言の書」と呼びます。つまり近代/現代日本は、この書物の呼びかた一つみても「キリスト教化」されていることが判ります。とくに、明治以来、キリスト教の視点から世界の宗教をみ、名付ける習性が日本語に行き渡ってきました。「三位一体」などと現在の日本の首相がいいますが、これもキリスト教で「イエス・キリストは神と聖霊と同一である、イエスは人の子でありまた神の独り子であるそして神のみ使いの聖霊でもある、三者は別々ではない」という信仰告白の信条原理をいう言葉なのですが、日本の首相はそういう神学的意味を奪胎させて使っているのです。そういうふうに使えるほど、日本はキリスト教化されてしまったということでしょう。近代日本人はこの「三位一体」という言葉が好きなようで、大正期から、キリスト教信仰の原理としての意味を全く濾過して使っている例があちこちでみられます。首相はその流れにのっかっているのですね。

キリスト教の日本語文献〔あとでいいますようにキリスト教とひとくちにいっても、ローマ・カトリック、ギリシァ正教、プロテスタントとではまるで別の宗教とみえるくらい、信仰の持ちかたが違います。プロテスタント以外もまたいくつもの派に別れています〕は、たとえば東京都の中央図書館の開架の棚の上から下へ三面くらい占めるほどたくさんありますが、イスラム教の文献というと、一面のうちの二段くらいしかない。それほどキリスト教は大きな位置を占めているのです。

さて、このユダヤ教のなかで、大切な人物にモーゼという人がおりますが、このモーゼがイスラム人を支配していたエジプトからイスラエルの民を連れて脱出するのが紀元前1200年頃といわれています。そして神から「十戒」を授かるのですが、そういう話を神の天地創造の場面から書き誌しているのが、「モーゼ五書」と呼ばれる「旧約」〔とボクもキリスト教の立場で呼びます。みなさんにもいちばんなじまれている書名なので…〕の冒頭にある五つの章です。この「モーゼ五書」が編集されるのは、バビロン捕囚の時代、BC.586−536頃。ユダヤ教の正典となるのはBC400年頃だといわれています。エジプト脱出とかバビロン捕囚とか、ユダヤ民族は昔から他の強大民族に迫害を受けつづけてきました。キリスト教は、そういう地中海沿岸の一小民族の宗教から生まれて世界に君臨する宗教になるのです。

メモには「七十人訳聖書」BC.249年というのも記しておきました。七十人の知者によってヘブライ語の聖書(旧約)が、ギリシァ語に訳されたのです。

イエスは、旧約の聖書のなかで預言者たちによって待ち望まれている救い主となるのですが、彼はガリラヤやユダヤ地方を巡回伝道しながら、聖書〔「旧約」のことです。もちろんイエス自身は「旧約聖書」とは呼びません〕にはこう語られていると引用をします。新約は「コイネー」と呼ばれるギリシァ語で綴られていますから、イエスもギリシァ語を喋ったのでしょう、とすると、その旧約からの引用は「七十人訳」を使用したのかと想像できます。いいかえれば「七十人訳」がなかったら、キリスト教も別の運命を辿ったのかもしれないということです。これはもちろん現在の「聖書」と編成は同じではありません。〔現行の「新・旧約聖書」の内容が固定されるまでにも歴史があるのです〕。

イスラエル民族はとても昔からあるときはアッシリア帝国に(BC.8世紀、このときはイスラエル王国と呼ばれる)あるときは新バビロニア帝国(BC.6世紀、このときはユダ王国と呼ばれ、エルサレムを陥落したのがバビロン王ネブカドネツァルです)に滅ぼされ、民族は離散します。新バビロン王国が陥落したあとの100年は、それに相当する時期を記述する旧約聖書のエズラ、ネヘミヤ書は記録としてはほとんどなにも語っていません。捕囚だったユダヤ人の大多数はエルサレムへ戻らず各地へ「離散」していったといわれています。この離散を「ディアスポラ」といい、このことばを現代の評論家などが文化の主流系から逸脱した思想家などに冠せたりしていますので、どこかでお聞きになったことばでしょう。それも起源はユダヤにあるのです。

ユダヤ民族は、ともかく迫害と追放、離散、捕囚など民族の悲惨を長いあいだにわたってなめ続けてきた民族ですが、ユダヤ民族がこの地上から途絶えることなく、同時にユダヤ教が消滅することなく生きつづけてきたのも、こうした「離散」を生き抜いてきた経験によるものといえましょう。ギリシァ帝国やローマ帝国の支配下にあって、いわばユダヤ人集団を形成、生きていきますが、これは「離散」に等しい生きかたといえます。ここから現代へとつづく「ユダヤ人問題」も起こってきます。

さて、イエスが誕生するのはこのローマ帝国支配下の時代。ローマの属州となっていたガリラヤ地方のナザレという地の大工の子としてイエスは生まれます。母のマリアが処女懐胎した神話は誰でもキリスト教徒でなくても知っている話です。

イエスは、従兄弟のヨハネから洗礼を受けて伝道活動を始めます。この時代は放浪しながら説教する預言者がたくさん出たといわれています。ヨハネも荒れ野に住み、いなごや蜂蜜を食べ、らくだの毛皮を来て、メシア(救世主)の到来を説いていたと新約聖書にあります。イエスはそういうユダヤ派の中の小さい小さい分派の伝道者の一人だったのでしょう。新約聖書のなかでも、イエスがパリサイ派などのユダヤ教主流派の学者や教徒と論争し彼らを論破する記事がたくさん収録されていますが、ついに、このイエスの行動が当時のユダヤ地方のユダヤ教の祭司階級の怒りに触れます。この地は政治的にはローマに支配されていましたが、宗教はユダヤ教徒によって大祭司を頭に支配体系を作っていたので、イエスは、いわば、二重の支配体制の中で、「救い」を告げようとします。

そして祭司らがイエスの振舞はユダヤ教の律法に違反し、死罪に値すると判定、その身を総督ピラトに送ります。ピラトはどうもイエスは死罪に当るほどの悪いことも犯罪も起こしていない、いってみれば宗教の派閥抗争に敗北しただけだと気づいていたようで、〔もっとも、ピラトはピラトで第五代目総督として極めて無能だったというような説もありますが、それはともかく〕新約聖書にも出てくる場面ですが、民衆に判定させようとします。これは、当時の総督は民衆の要求に応えて囚人を釈放するという権利(職権)を与えられていたからだそうで、そうすると、民衆は、その民衆を動かしている祭司派の言葉に誘導されて、イエスを処刑せよという声を大きくします。処刑場(ゴルゴダの丘)には三つの十字架が建っていて、すでに三人の処刑者が決定されていましたが、民衆は「イエスの代りにバラバを釈放せよ」と叫び、ピラトはイエスの処刑を裁定します。 イエスが逮捕され、十字架にかけられたあと、その墓から出て、イエスを慕う女性〔母マリアやマグダラのマリアなどがそうです〕、そして弟子たちの前に姿を見せ〔復活〕、イエスの教えを広めよと言って天へ昇って行きます〔昇天〕。このあたり福音書〔新約聖書のうち、イエス・キリストの生涯と言葉を綴った書を「福音書」といい、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネによる四つの福音書を「四福音書」と呼び習わしています(註)〕によってニュアンスがちがいますが、「最期の審判」の日がいつか必ずやってきて、そのとき再びイエス・キリストはこの世に姿を現わす〔再臨〕という考え〔信仰〕は、こうしたイエスの言葉の解釈から、その伝道を拡めようとした初期キリスト教の使徒たちが整備構築していったものといえます。

註:
そのうち、ヨハネの福音書はギリシァ哲学の考えを受けた記述で他の三つと異質で、他の三つには資料上にも共通点があり、「共観福音書」と呼ばれています。

しかし、信じる師が強大な権力によって理不尽な抹殺のされかたをして嘆いているさなかに、再びその師を慕う人たちのあいだへ、姿を現わすというのは、彼を慕いその死を嘆く人びとにとって、これ以上ない喜びであり、福音書の記述もシンプルですが、そのシンプルさのなかに、深い劇的な喜びが抑えこまれているのが読めます。

この喜びは、そうした状況にある人にとって、この上ない勇気となっただろうし、そうして人間は苦しみを乗り越えて行くのだという喩的な表現だと思います。喩という意味では、イエスはいろいろな意味に読み解けそうなと譬えをたくさん語っています。真理は喩の形で人間に与えられるといわんばかりです。ここでは、それらの譬えをゆっくり吟味するのはやめておきます。

そのほか、イエスが処刑される前、たとえばゲッセマネというところへ行って、なぜこんな苦しみに遇わねばならないのかと悩み祈る場面〔弟子すらその苦悩を理解できない場面〕とか、ゴルゴだの丘〔処刑地〕へ連れて行かれた場面の悲しみと苦しみの様子とか、その姿は、人々が苦難へ対面したときや、人間とはなにかという根源的な問題を考えようとする人たち〔思想家や芸術家たち〕にとって、いつも大きな示唆を与えてきました。 それにしても、イエスの死後、全権の力をもってキリスト教の伝道に当る弟子たちが、イエスの存命中、善意と従順さゆえに最もイエスを理解しえなかった[司祭長から銀貨30枚と引替えにイエスを売るユダの裏切り、ペテロとヤコブとヨハネが、イエスがゲッセマネで苦しみの極みに追い詰められて祈っているあいだに眠ってしまったり、イエスの死罪が決まった直後、お前はあのイエスと一緒にいたな、といわれて「そんなこと知らない」と返事をするペテロとか]という話がいくつも出てくる、それをその弟子たちやその弟子にいちばん近い人たちが記述している、というのも、人間のありかたについて深く考えさせてくれます[あとで触れます原罪と関係あるのですが、人間という存在の不完全さ、イエスの第一の弟子でさえそんな誤ちをしてしまわざるえないほど人間は愚かなのだというメッセージが聞こえてきます]。

さて、初期のキリスト教は、こうしてイエスの死後、その復活と再臨を信じてユダヤの地だけでなく、ローマ、ローマの周辺へと伝道を拡めて行き、信者も増えていきますが、同時に排斥と迫害も強大化していきます。ローマ皇帝で暴君といわれたネロのキリスト教徒迫害(AD64)は、そのなかでもよく知られている事件です。

多くの弟子〔使徒〕のなかで、特筆すべきはパウロ〔AD.67年殉教死〕です。彼の書簡13通〔その中の6通はのちに彼の名前を借りて出したと考証されるようになります〕も、新約聖書の中の重要な章となっているくらいです。〔ほかに、四福音書のすぐあとにルカが書いたとされるペテロとパウロの伝道ぶりを記述した「使徒行伝」、そしてペテロの手紙2通、ヨハネ3通、ユダ1通も収録され、末尾に「ヨハネの黙示録」という他の章とはまったく異質な、ローマの厳しい迫害の下にあった教会に対し、この世の終末と最期の審判、キリスト再臨の近いことを幻想的に眼に見えるように書いたもの〔こうして終末を待ちのぞまねばいられないほど、当時のキリスト教は迫害されていたのだということでしょう〕から構成されているのが「新約聖書」です。

パウロは、まさにディアスポラの代表者のような人で、生粋のユダヤ人でありながらローマ市民、ローマに生まれローマで育った、つまり、彼の父祖がユダヤの地を離れローマに住んだその子なのです。そして熱烈なユダヤ教徒(パリサイ派)でした。熱心のあまり、キリスト教徒を非難し攻撃し、積極的に迫害してきました。ところがあるとき、神の声が天からの啓示となって聞こえ、キリスト教に回心します。それからあとは、小アジア、マケドニア、エペソ、アテネといった地中海沿岸の異邦人伝道に精を出し、再三迫害に遇い、なんども牢獄生活をくりかえしながら、イエスの教えを世界に広めたのでした。

パウロという人を考えるとき、いまさきに書いた「異邦人伝道」と「キリスト教を世界に広めた」ということばがキイワードになると思います。キリスト教は、ユダヤ教に謳われている「預言」がイエスという人物によって実現されたことを伝える宗教、つまり、ユダヤ人が救われることを伝える宗教として始まっています。ですから、パウロの時代、つまり初期キリスト教の時代は、ユダヤ人でない人〔異邦人〕は、キリスト教徒の洗礼を受ける前にユダヤ人にならねばならないと考えられていたのです。一方、ユダヤの国籍を取らなければキリスト教徒になれないということはないと主張する伝道師が出て、会議が開かれることになった。その会議に、パウロが召ばれ、そのとき、パウロはギリシァ人でユダヤの国籍のないキリスト教徒テトスを連れて会議に出席、結果は言うまでもないでしょう、こうしたパウロの働きがユダヤ民族の一宗教だったキリスト教を世界的な規模に拡大していく転機として機能したことはいうまでもないと思います。

イエスが十字架に架けられて死んだという出来事、イエスとその仲間の挫折を、神の独り子の死と復活という人類救済の劇に仕上げた[個別的な特殊な出来事に普遍的な意味を与えた]のは、パウロだといっていいでしょう。 こうしてついに、西暦329年、ローマ帝国はキリスト教を国教にするのです。そして420年には「ウルガダ聖書」というのが作られます。これは、最初のラテン語訳聖書です。ローマ・カトリック教会の威力がこれによって裏付けられる、というか基礎づけられました。それからローマ・カトリック教会とギリシァ正教会が分裂するのが1054年です。こうしてかつては一つであった「キリスト教会」が分裂し、16世紀にはプロテスタントが登場します。一言で「キリスト教」などと呼べるものはなくなるわけです。が、そのまえにどうしてもメモしておきたいことがあります。570年頃に生まれ632年に没したムハンマド(マホメット)のことです。彼が神から得た啓示を記録したものが「コーラン」であり、イスラムの教典です。イスラムは、イスラムの解釈によればユダヤ教−キリスト教と展開してきた神の啓示を基礎とする宗教の最終帰結となるものなのです。なぜイスラムの解釈によればと付け加えたかといえば、ユダヤ教がキリスト教を〔そしてイエスを預言者のいう救い主と〕認めないように、ユダヤとキリスト教はイスラムを自分たちの後継者とは認めないからです。それぞれの宗教の立場からは、それぞれ理由があるでしょうが、人類史の大きい枠のなかでこれらの宗教をとらえなおしてみると、この三つの宗教は、ただ一人の創造主としての神を信じる、他に例のない唯一神教であり、ユダヤ—キリスト—イスラムにつながりがあるとイスラムの人たちが考えている、ということ自体が意味深いと思うのです。

そういう眼でこれらの宗教をみると、イスラムとキリスト教とユダヤ教と同じ「神」を信じながら、たとえば、イスラムとキリスト教との決定的なちがいは、イスラムではイエスを神の子と認めない、人の子が同時に神の子でありうることはないというところにある、つまり「三位一体」などという思想=信仰は認められないというところにあるということに気づきます。神の声を聞くことができるのは、ムハンマドただ一人で、ユダヤ教のように神の声をつぎつぎと語りたくさんの預言者が出てくるということも認められない信条なのでしょう。

ともかく、歴史の上では、イスラムとキリスト教は早くから闘争関係に入ります。1096年に第一次十字軍が派遣されたことをメモには記しておきました。その後、1947年イギリスの植民地から自治領となり、1956年独立したパキスタンは、国教をイスラム教とした近代国家の魁となり、同じ頃、イスラエルはユダヤ教国家として独立宣言をします。それからもキリスト教、ユダヤ教とイスラムの激しい対立闘争はイラク、パレスチナなどに続いているわけです。

日本には、16世紀半ば、ザヴィエルがやってくるのがキリスト教〔カトリック教〕宣教の始まりですが、これは豊臣—徳川体制のもと禁止され、改めて明治維新以降、欧米から宣教師がやってきて布教を始めます。ローマ・カトリック、ギリシァ正教、英国国教会など諸派の宣教も動き出しますが、アメリカ経由のプロテスタントが明治期知識人に与えたものは大きい。そのことをちょっと触れておきます。アメリカへ亡命するように渡ってそこで入信し、宣教師として日本へ帰ってきて、同志社英学校を創立した新島襄のような例は稀で、多くの近代日本人は日本へやってきた宣教師からキリスト教を教えられ改宗します。その一人、内村鑑三は、自分が武士の子として儒教を生きていたのに、どのようにしてクリスチャンになったかを、“ How I became Christian ”という英文に綴っています。〔この本は日本にいて英文で書かれたという奇妙な本です。岡倉覚三がアメリカの知識人に語りかけようとして、ボストンで英語で“ The Book of Tea (茶の本)”を書くのと異なる意味があると思います、それについて考えるのは、又別の機会に〕。1881年つまり明治14年、内村鑑三が学んでいた札幌農学校の学生たちによって札幌独立教会というのが創設されます。これは「札幌バンド」と呼ばれるようになりますが、組合教会派の「熊本バンド」、日本基督教会派の「横浜バンド」が、アメリカやヨーロッパによるプロテスタントの教派のどれかに属して日本のキリスト教界の主流を形成しますが、それと異なる、つまり「独立」と名乗っているわけです。この内村鑑三の「教会」は、その後「無教会」というプロテスタント集団を形成していきます。鑑三は1901年『無教会』という雑誌を創刊しますが、これが「無教会」を名乗る最初でしょう。「無教会」というのは、日本に生まれ世界のどこにもない独立したキリスト教派です。

その「無教会」の成立の根拠になっているのは、今回の「言葉」に選んだ「ふたりでも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる…」(マタイ18:19−20)です。最小限二人か三人が集まって祈り、聖書を読むところに「イエス」はいるとイエスが言っているわけです。あのノートルダムやニコライ聖堂のような荘厳な建築物なんかなくてもいい、キリスト像や磔刑図〔イエスが十字架にかけられている姿を描いた絵を「磔刑図(たっけいず)」といいます〕なんかを飾って拝まなくてもいい、二人か三人が集まれば、そこに「教会」がある、という考えです。これは、ヨーロッパの伝統的なキリスト教の慣わしを向こうにまわした過激な思想です。内村鑑三は、この「過激さ」を内に秘め、教育勅語に敬礼することを拒み[自分が信じる唯一の神はキリストの父なる神であり明治天皇ではないという理由で。これが「内村鑑三不敬事件」と呼ばれ、鑑三は一高の教師辞職に追い込まれます]、日露戦争に反対の論説[非戦論]を張ります。

しかし、こういう過激な信仰を守るためには、信心それ自体「過激」にならざるを得ないのでしょう。その後の無教会の人々の信仰は、ぼくの知るかぎりでは、どこのプロテスタントの教派よりもファンダメンタルです。ぼくの観察しているところでは、現在の、特に日本のプロテスタントの牧師たちは、「さあみなさんお祈りしましょう」などと説教壇の上で会衆に語りかけていますが、彼らが本当に本当に世界の創造主「神」の存在を信じているかと突き詰めてみると、疑わしい。現代は、もはや「神」の存在は信じられなくなった時代です。

ヨーロッパでも、19世紀、フォイエルバッハという哲学者は声高らかに「神というのは人間の意識の所産である」と言明しており、それ以来、神を信じない人口がどんどん増えて、ヨーロッパの立派な教会もいまやガラガラです。日本はとくに、明治以来導入された進化論が説得力をもっていて、背景に無神論の一種である仏教が大きな位置を占めていること、ユダヤ・キリスト・イスラムの「神」と全く異質な神道の「神(々)」を拝む習慣があったこと、等々も理由かもしれませんが、地球上で最も「神=創造主」を信じない人種かもしれません。そんな情況の中で信仰を守っていこうとしているのが現在の「無教会」派のようです。

話がそれますが、そんな「神」を信じない〔信じられない〕情況の中で、あらためて「イエス」の意味を考えようとしたのが春秋社の『イエスとはなにか』なのです。いいかえれば「神」の存在を信じられないという情況の中で「イエス」に従うことの意味、「イエス」からなにを教わるかという新しい考え〔信仰〕のありかたを示唆しようとする本とでもいえばいいか。 この本の司会をされた一人笠原芳光さんは、神戸の自宅で毎週集会を持たれていて「イエス」の話をされているとのことですが、この笠原さんが同志社に勤めておられた頃同僚だった河崎洋子さんも、そんな集会を続けられていて、そのありかたは「無教会」です。内村鑑三−矢内原忠雄といった流れの「無教会」とはまったく別のところで「無教会」が生きているなという感じがします。いずれにしても「無教会」という思想は、日本近代が生んだ世界的規模での稀有なキリスト教信仰のありかたで、こういう動きをもっと「思想」として考えなおしてみたいと思っています。

メモを辿りながら話を進めてきたなかで、まだ言及していない三項目に触れておきます。新しい出来事の方から、まず1947/48の『死海写本〔死海文書〕』の発見ですが、これはちょうど初期キリスト教会が活動を始めた頃に書かれたキリスト教、ユダヤ教文献がどっさりと死海周辺の洞窟などから発見された事件で、「聖書」の異本が多数みつかり、現行の「旧約」「新約」のテクストの正当性とは何かという問題へ発展していきます。 1611年の「欽定訳聖書」というのは、イギリスのジェームスⅠ世が47人の学者を結集して、ラテン語から英語訳の聖書を作らせた事件です。これで英語で聖書が読めるようになった。それまではラテン語を読める祭司修道士しか聖典としての聖書は読めなかった。もちろん、ルターが16世紀にドイツ語訳を試みるとか、聖書の大衆普及はプロテスタントの展開とともに進んでいました。しかし、国王公認の英語版聖書が出来て、これは単に信仰の普及の問題を超えて、英語のありかたという点で大きな影響力を持った事件です。

1543年のコペルニクス地動説を唱えるという事件は、それまで地球は不動で、不動の地球の周りを天球が回っていると信じていたのを、地球自体が動いているのだと主張した事件ですが、これは宗教界〔ローマ・カトリック〕から猛烈な反対と圧力を生じさせました。ボクはこの事件は、現代〔近代〕の人間にとって、神が存在するか、それを信じるか信じないかという問題に匹敵する世界観の大転換の問題だという気がします。われわれは、いま世界観のコペルニクス的転回の時点に立っているという気がするのです。

それにしても、キリスト教は〔カトリックもプロテスタントもひっくるめて〕、なぜこんなに世界的な普及をなしとげた大きな宗教になって、いまも人々の上に君臨しているのだろうか、と、ふと考えてしまいます。ボクの考えでは〔それ一つだけではないけれども、とても大きな理由として〕、キリスト教が「愛の宗教」であるというところにあるように思います。

それは、マタイの福音書22:40、マルコの福音書12:32、ルカの福音書10:25~28にイエスの愛についての命令として記されている言葉で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というのであり、これは「心を尽し、思いを尽し、知力を尽して、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37、マルコ12:30)という主としての神への愛の命令と連結して、信仰の強化に役立っています。隣人=他者を自分を愛するように愛せよという命題は、まだ主体と客体の関係についての命題が全く成熟していないときに、早くも西欧近代の「主−客関係」思想を先取り胚胎していて、それでこそこの「愛」の命令がいっそう力を持ち得たのだと思いますし、キリスト教倫理の核心として生きてきた〔いまも生きている〕のでしょう。

キリスト教/ユダヤ教の思想に「原罪」というのがあります。これは、人間の始祖であるアダムが犯した罪で、その子孫である人間全体に帰せられる罪だということです。人間が原罪を負っているということは、本来人間という存在は完全ではないということを物語っているわけです。神は自分に似せて人間を作ったが、神のように完全ではないわけです。人間というのは不完全な存在だと考えることはとても大切なことであると思います。このことを思い知りつつ「愛」の命令が生かされてつづけられれば、とさえ思います。

しかし一方、キリスト教は人の子イエスを同時に神の独り子と崇め、そこから30歳になったばかりで死んだイエスを、肉体的にも最も完成された姿を持っていたという思想が形成されていきます。デューラーは、画家である自分が30歳になった記念に〔世界を想像した神もまた画家であり、この世の画家は神の次に神に近い創造力の持ち主だという考えが中世末期からルネサンスにかけて生まれ、デューラーもその考えにのって〕、「自画像」を制作しますが、この「1500年の自画像」はイエス・キリストに自分を擬してポーズをしており、30歳が人間の身体的な美しさ/完全性のピークだという思想はそこにも読みとれます。こういう考えから、近代へかけて、「理性」と「技術」〔科学〕への絶大な信頼が育ち、人間はそのありかたで完全であるという思想が定着してきました。これが近代—現代の支配的な人間観、自然観となってしまいました。ここから「人間中心主義」の考えが育っていきます。万物を「人間」を基準に考える思想は、ギリシァ時代にもあり、それがヨーロッパ近代に入って、合理性と科学技術の発展によって再編強化されたのです。そして、確かに原罪を負っているかもしれないが、健全な人間は、それで完全なのだ、あらゆる動物のなかで頂点に立つのが人間だという考えです。オリンピック競技もこの思想に支持されています。

こういう考えの下で展開される「愛」の思想は、極めて傲慢な愛とならざるとえない。そういう不届きな愛の形は、現代いたるところにみつけるところができます。これは、やっぱり「原罪」を負った人間への思いが稀薄になっているというか、原罪についてはあまり重要視しなくなったからなのだといえないでしょうか。

神の似姿として人間は完全な存在であるべきだというカトリックの神学者が考えた思想をプロテスタントも受け継ぎ、原罪の不可避性を「愛」の思想で償えるという傲りを、近代の人間は身につけてしまったのかもしれません。

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