D 大乗寺

こんかいは、「要旨」にしづらい。というのも、大乗寺についてはボクはおりに触れて書いていて、大乗寺について語らねばならないことの半分以上はすでに印刷されているからです。で、9日も、それをプリントして配りましたから、そこんところはどうかそれを読んで下さい。

別のところに公表したものをあとでまとめて一冊にするのをボクはあまり好まない。どうしても入手できないものならともかく、この情報社会そんなことはまずありえない。それに、過去の自分の仕事について厳しくありたいと思っている以上、なおさらそうなのです。いままでなんさつか本を出版してもらいましたが、『揺れる言葉』(五柳書院)を除いてすべて書き下しています。『揺れる言葉』のときも、一冊にするに当っては全体がムダのない構成になるように、一冊の本としての流れとまとまりぐあいを考えてずいぶん手をいれました。本をつくるということはそういうふうでありたいというのは、物書きとしてのボクの信条のようなものです。

というわけで、ここでも、いままで語れてこなかったことを語りたいと思いました。といいつつ、やはり有限の身、かなり同じことを繰返さざるを得ないのですが…少なくとも、同じことを、改めて新しい言葉—いまのボクのことば—にして語ってみようと思います。

大乗寺がわれわれに提起してくれるいちばん大きな問題は、現代の美術館[あるいは美術館システム]が、江戸時代以前の日本[東アジアの]美術と呼ばれる事象を展示・保管・管理する上においてどのような限界をもっているかということを、もういちど白紙の状態から考え直す必要があることを教えてくれるということです。もっとラディカルに言いなおせば、現代の美術館設備では、江戸以前の「美術」はその豊かな姿を開示することができないことを知らされる、ということです。

それにもかかわらず、われわれは、美術館設備の中で、あるいは、複製画集とか、によってしか[それに最近はヴィデオ、DVD等電子複写技術による複製再現方法も身近になってきました]、その「作品」を見ることはできません。そういう見かたが、その「作品」の「本来の姿」のある部分しか見せていないことを、その美術館なり複製画なりとの対面の場では、ほとんど忘れています。美術館とか画集はそれを忘れさせる装置を備えているといったほうがいいかもしれません。そこで、少なくとも、そのことをよく心得て見ることは、美術館を訪ね画集を開くときの体験をもっと複雑にかつ豊かにしてくれる、それを大切にしなけれならないことを、大乗寺は教えてくれる、いまや日本で唯一の場になったように思います。もちろん、ほかにもそういう場はいくつかあるはずですが、そのためには特権的な立場にいなければ不可能です(註1)。大乗寺も住職から特別許可をもらわない限り不可能なので、その点では他の機会と変りません。一般の観光客の一人として大乗寺を訪ねれば、五〇〇円の参拝料をはらって、天井から照らされた蛍光灯のボンヤリとした光の下で、廊下づたいに、座敷と廊下との間には太い竹竿が仕切りをして座敷の中へは入れないまま、絵襖を眺めつつ素通りするしかないからです。住職の特別のはからいがあって〈大乗寺〉がわれわれに投げかける現代の美術館と画集を中心とした美術鑑賞のありかたが抱える問題に気づく体験ができる、そのもったいなさとでもいうべきことにも思いを致しておきたいと思います[アァいいものを見せてもらった、よかった、よかったで終っちゃいけないのじゃないかと思うのです]。そのとき、その「特権」をどうすれば、誰もが享受できるものにできるかという問いがつながるように出てきて、ボクが大乗寺について語ろうとすることも、それに押されてのことだということができましょう(註2)。

註1:
そういう特権を持った人が、自分の特権で見、感じたことをあまり言葉にしてくれないという問題は重要です。一つには、そういう人たちが〈美術館〉という制度に安住しているからということですが、もう一つ、特権的に経験しえたことを言語化できないという現代の思想情況も問題にしなければと思います。これこそ、現代の言語表出の重大問題だといってもいい[いうまでもなく、ボク自身克服しえていない、自分にとって切実な問題として語るのですが]。特権を得ている人たちも、せっかくそういう場にいながら、近代合理主義の論理に訓練された感性と言語でその体験を処理するしかできないのです。現在の美術史の水準がそこに成立している(☆)ことをわれわれはもっと批判し克服していかなければならない。その作業の発端も大乗寺は用意してくれているはずです。

(☆)そんなことを言っているボク自身、近代合理主義の毒に塗れどっぷり漬かってものを考え息をしていると先に申しましたが、問題は、それを毒と気づくかそう思わないかのちがいでしかないのでしょう。気づいたとしても、いくらあがいても、その毒を消すことはできないけれど、語ってみること、ともかくそのことを語ろうとすることが、必要なのだと思っています。

註2:
誰もがもっと自由に享受できることが実現できれば、特権をもつ人々の言語も変るにちがいないという思いもあります。

おそらく寝殿造りから書院造りの建物が様式化されていくころ、襖は家屋のなかの建具としての機能を任されるようになり、屏風も移動する襖の役割を演じるようになったころ、東アジアのなかでも日本列島のあちこちで、絵襖や絵屏風、障屏画、障壁画の独特の、日本列島にしかみつけられないありかたが、伝統となっていきます。

もともと東アジアに、タブローとしてのフレーム[枠]を機能させた絵画は存在しなかったといっていいでしょう。中国の昔の皇帝や貴族は、巻物や衝立屏風の絵画をたくさん所有していました。それらは、タブローと同じように〈持ち運び可能〉であることが重要な要素の一つでした。というのも、いざというときそのコレクションを持って移動することは、戦う王たちにとって不可避のことだったからです。それらは、巻物であることや太い枠のついた衝立であることでフレームもちゃんと備えています。しかし、そのフレームは、透視図法の思想によって、その持ち運び可能な絵[タブロー]のなかに<世界>を閉じ込めるというヨーロッパ・ルネサンス以降に成立する思想とは無関係の枠です。その枠は、あってもその絵を見る人は容易に無視できる枠だったのです。それが証拠に、現代のわれわれでも、襖の絵をみながら引き手や襖の縁(ふち)の木[枠]を邪魔だと思ったことはまずないでしょう。これは、伝統的に、絵描きたちはその引き手や枠が目障りとならないような絵を描く術を心得ていたからだし、その絵襖を見る者も、それがじっさいにはっきりと眼の前に—絵の中に—あるのに、それをないものとして見る見かたを心得てきたのです。

東アジアで古くから続けられてきたこのフレームがあってもないものとして絵をみる慣習・伝統が、日本列島ではその独特の建築物のなかで、独自の絵画空間を産み出したのです。

それは、描かれる絵が襖の枠を超えて、描かれていないところに描かれているかのように見させる絵画術です[河野元昭氏はそれを「貫室効果」と呼んでいました]。描かれていないところまで〈絵〉のイメージが延びていて、襖や屏風は、その建物の建具として、その一部分でありながら建物の全体をつくり上げる働きをしているのです。描かれていないものを見させる術は、水墨画の空白にも働いているし、金碧障壁画の雲などにもその働きが隠されています。(註3)

そういう日本の絵襖や絵屏風を感(観)じとるには、ガラスケースの中に収めて作品として孤立させた展示物を歩きながら見させる美術館の設備では不可能でしょう。

歩きながらと書きましたが、立った姿勢で見て回るという方法も、絵襖や絵屏風にはふさわしくないでしょう。襖や屏風が置かれている場には、まず坐してみなければなりません。

註3:
『岡倉天心』(ミネルヴァ書房)に書いた(三〇六頁以降)ことですが、岡倉は、ボストン美術館での講演で、東アジアの風景画には二つの種類がある、一つは、純粋に見るために描かれた風景画で、それを見ることによって自然の本質を感じとることができるような精神的な表現。もう一つは、絵の中へ誘われ歩いていける風景画で、描かれている風景と一体となり、その風景の中に遊び自然と戯れることができる絵である、と。岡倉は、絵画のこの二つの特質を中国絵画を念頭に語っているのですが、日本の絵画にはもう一つ、絵がそのフレームを超えてその絵の置かれている空間の全体を演出し、つくり上げ、そのことによって第一と第二の機能も果たす第三の種類があることを語っていないというようなことを書きました。岡倉は、じゅうぶんこの第三の機能を享受していたはずなのに、言語化する用意ができていなかったのでしょう。そのくらい、岡倉も西洋の美学と美術史の論理にとらわれていたともいえます。岡倉は、西洋の美学と美術史の方法を身につけた明治最初の美術史研究家ですから。

もう一つの問題は、光源です。光源の位置と質の問題です。

電灯が発明され普及されるまでは、天井から光が降りてくるという情況はなかったのです。室内では、行灯にしても蝋燭にしても、坐った人の眼の位置に光源がありました。そしてそれは、電灯のように均一で超自然的でなく、微かな風にも反応する〈揺れる光〉でした。

昼の、蝋燭や行灯が不用のとき、太陽の光は、深い庇(ひさし)をくぐって、まず畳に反射して弱くなった光線で、屏風や襖を照らします。それでじゅうぶん、金箔は揺らめき、墨は色合いを変えます。蝋燭や行灯とはまったくちがう光の現れかた、いいかえれば、絵の姿を、自然の光はまた見せてくれます。

光源とその場にいる人の姿勢も、深い関わりを持っているようです。これを美術館の照明装置とガラスケースの展示台の中でどうやって復元するか、まだ真剣に取り組んだ美術館はありません。先年の円山応挙展のとき、大阪、福島、東京の会場で、大乗寺の応挙の三つの部屋を、その襖の立っている構造だけを再現していましたが(註4)、光源や観る者の姿勢への配慮はまったく出来ていませんでしたから、美術館ではまだ、問題意識がそのレヴェルにとどまっているのでしょう。

註4:
なにしろ一枚の襖の片側が孔雀の間の松の枝なら、その裏は、郭子儀の孫が描かれているのです。それを同時に観せようとする工夫は、たしかに一枚のタブローを展示するのとはまったくちがう工夫が要り、これまでの美術館はそんなことを熟慮してこないで襖の片面だけを展示してきたのですから、応挙展の展示は両面を展示しようとした点一歩前進したようにみえます。しかし孔雀の間の右四面の反対側は呉春のハゲ山が描かれているのに、それはもう隠したままです。それよりもっと問題なのは、お寺へ行けば、孔雀の間から隣の郭子儀の間へ移ると、襖を閉めて、もう孔雀の間の空間は遮断されます。そこは郭子儀と孫たちの金箔極彩色の世界。孫たちの遊んでいる襖の絵裏に松毬をつけた枝が伸びているなんて、想像もしません。ところが、美術館ですと、孔雀の間から郭子儀へ移動することによって、あ、ここの裏側がこんな絵だと判ってしまい、それぞれが遮断されない。つまりカラクリが判る見かたしかできないのです。応挙展は、絵襖のある座敷の空間を現在の美術館で再現展示することの難しさを思い知らされる展覧会でした。

応挙が大乗寺の客殿の改築にあたって、その襖165面を弟子たちとともの描くのは、天明7年(1787)のことで、その後さらに増改築もあり、また京では天明の大火(1788)で応挙が工房にしていた大雲院も焼失し、完成間近だった「孔雀と松」の絵が燃え、結局孔雀の間に襖が入るのは応挙が亡くなる歳、寛政7年(1795)4月でした[その年6月、応挙は保津川図屏風を描き上げ7月17日、世を去ります]。大乗寺の襖絵が揃うのに8年の歳月がかかっているのですが、呉春の襖が二種類あって、一つは群山露頂図[お寺ではハゲ山の間と呼んでいる部屋です]。もう一つが四季耕作図[農業の間]で、ハゲ山のほうが蕪村風描きかた、四季耕作図はずっとのちの作だろうとひとめで判るちがいもあり、こんなところにも歳月を経たあとが感じとれます。

客殿一階は、十一面観音が置かれた仏間を、あたかも十一面の中心仏・阿弥陀如来のように、客殿の間取りの中央に配し、十面がそれをぐるっと取り囲むように、十室が仏間を囲んでいます。

四隅、四天王の位置には、その四天王の働きを体現する絵が、つまり東隅の部屋は持国天[生産に関わる]を受けて農業の間[四季耕作図]、南隅が増長天[政治]で郭子儀、西面が広目天[芸文]で山水の間、北隅の部屋が多聞天[医術]を表わそうと仙人の間に仕立てています。また、仏間に入るのに、農業の間から使者の間へ、そしてハゲ山の間を通過して行くと[それが山門をくぐって客殿に上がり仏間へ辿る経路でもある]、平地から山麓、高山、そして仏のいます天上の世界へと、部屋の雰囲気は高められていき、ハゲ山の間は四方襖に囲まれ自然の光の射さない部屋で、そこに蝋燭の灯とともに坐っていると、まるで高い山に孤り昇ってきたような、風の音が聞こえてくるのです。

こうして、絵と建物の構成は、”絵画[画中]空間と室内空間の一体化”などといういいかたをするともうその小賢しい表現がわれわれの体験を裏切っているような気がします。絵は、ひとつの部屋にひとつの世界をつくっていて、しかも外界と見えない感覚でつながり、五感のすべてに働きかけている、そんな感じです。

いちおう、どの部屋を誰が描いたか、整理しておきましょう。

  • 円山応挙(1733−95)  :孔雀の間;郭子儀の間;山水の間
  • 奧文鳴 (? ー1813)  :藤の間[藤花禽鳥図]
  • 円山応瑞(1766−1829):鯉の間[遊鯉図];仏間 左右襖[蓮池図]
  • 秀雪亭 (?ー?〕      :仙人の間[群仙図]
  • 呉春  (1752−1811):農業の間[四季耕作図];群山露頂図
  • 山本守礼(1751−90)  :使者の間[少年行図];狗子の間[梅花狗子図]
  • 亀田規礼(1770−1835):使者の間[採蓮図]
  • 木下応受(1777ー1815):孔雀の間 小壁[遊亀図];郭子儀の間 小壁[遊亀図];山水の間 小壁[遊亀図]
  • 山跡鶴嶺(?ー?)      :農業の間 小壁[飛燕図]

二階があります。二つ部屋が並んでいます。

  • 源埼  (1747ー97)  :鴨の間[梅花遊禽図]
    (「源キ」は実は、「王」偏に「奇」です。あしからず)
  • 山口素絢(1759−1818):鴨の間 小壁[蝶蛾図]
  • 長沢芦雪(1755−99)  :猿の間[群猿図]
  • 森徹山 (1775−1841):猿の間 小壁[山雀図]

円山応挙は手紙のほかにこれといった文章を書き遺していません。若い頃[数え年13,4歳]丹波から京へ丁稚奉公に出、びいどろ道具を扱う尾張屋勘兵衛のところで「浮絵」[覗きからくりの絵]を描いたのを皮切りに絵の腕を認められ、京狩野鶴沢系の石田幽亭の下で学んだあと独立したようです。大津の円満院門主裕常のところへ出入りするようになり、その交流は裕常が亡くなる安永2年(1777)まで続きます。その折おり、裕常は、応挙の言葉を「萬誌」[「よろずかきつけ」と読みますか]に書き留めており、そののなかに画論めいた話や絵具の扱いかたなどがあります。田楽や鶏飯の上手いい食いかたなどもあるなか、冬の雪水を壷に取り置いて夏に肌に塗ると汗疹(あせも)に利くとか、土用の水は冬硯水に使うと氷らないとかもありますが、やはりいちばん多いのは画技に関することで、描き損じの絵絹を再生させる方法などのほか、絵具と膠の調合法なども書き付けられています。今回はそこから、言葉を一つ選びたいと思います。

三遠之法平遠深遠高遠此三人物花鳥山水万物三遠ヲ可意意不掛ハ図不出来
[三遠の法は平遠、深遠、高遠、この三つ。人物、花鳥、山水、万物三遠を意(はかる)べし。意掛(かから)ずば、図出来ず]

ここから、二つの、応挙らしさを窺える問題がとりだせます。

一つは、「三遠」の方法を、山水のみならず人物花鳥すべてに適用すべしと言っていることです。中国の伝統にならえば、「三遠」の法は山水を描く方法なのですが(註5)、応挙は、人物を描くにも、花鳥をえがくにも生かすべき技法だと言っているので、ここには浮絵で鍛えた彼の新しい絵の技法への心意気を読みとることができます。のちに「写生派」といわれる根拠のようなものが読みとれるわけです。

山水の原理である「三遠之法」を花鳥画にも人物画にも適用することによって、いわば遠近法を活かした絵を描くようになったといえるわけですが、後世近代の画家や美術研究家が、perspectiveを「遠近法」と和訳してしまう知的背景を、応挙は用意していたともいえます。もちろん、応挙は「パースペクティヴ」などという言葉は知らないのですが、パースペクティヴがタブローを成り立たせる根本原理であることなど知る由もありません。しかし、洋風絵画[長崎派の絵]や浮絵を勉強しながら「三遠」の意味を拡大して、一つの技法を獲得していたわけです。

もうひとつ、注目しておきたいのは、自分の絵を「図」と呼んでいることです。三遠の法を人物画花鳥画山水画すべてに活かすことによって「図」が出来るといっているのです。ここで思い起こすのは、曾我蕭白が応挙について言ったと伝えられる有名な評言、応挙を語るとき誰もが引用する蕭白の言葉—「蕭白戯れに人に対して、画を望まば我に乞ふべし、絵図を求めんとならば、円山主水よかるべしと語りし」です。

蕭白は「画」と「絵図」を差別化して価値付けし、俺が描くのは[画」だが、応挙がやっているのは「絵図」だというのです。応挙はそんなことをいわれているのを先刻承知していたと思いますが、彼は「画」と「図」を区別しなかったのだと読めます。だから、こういう論議のところで敢えて「画」といわず[別にそう言ってもよかったろうが]、「図」と言った。

「画」と「図」とを差別しない応挙の姿勢をここから炙り出すことができます。

応挙は、賛の入った絵をほとんど描かなかったのですが、それは絵だけでもって、いろんなメッセージを伝えられる「絵=図」を描こうとしたからにほかならないと思います。どこかの応挙解説がいうように、応挙がやったのは「純粋絵画」だ、などと考えるのは、現代の絵画理論を応挙に[近代以前の絵画現象に]押し嵌めた身勝手な解釈です。応挙をそんなふうに現代美術の仲間だと讃えても、応挙は喜ばないでしょう。その意味でも、応挙は、近代以降のヨーロッパ絵画が宗教的文学的要素を排除しようとして進めた方向とはまったく反対の、絵だけで文学も宗教的メッセージも伝えられる絵をつくろうとしたのです。その最も生きた例を、われわれは、大乗寺で体験できるのです。

註5:
「三遠」の概念は宋の時代の郭煕にまで遡ることになるわけですが、郭煕は「深遠」のことを説明して「山前よりして山後を窺う」描きかただといっています。「山の前」より「山の後」を「うかがう」とはどういうことでしょうか。「山の後」というのはふつうの見かたでは見えないわけです。そういうところを描くのだと郭煕は言おうとしているはずです。しかし、清の時代の初期に編まれた『芥子園画伝』で「深遠」を図解して説明していますが、これは山の深いところを見下ろす、一種の鳥瞰図になっています。こういう『芥子園画伝』的解釈に乗っかって小林太市郎のような「高遠」は仰視、[平遠」は水平視、「深遠」は俯瞰視だという解釈が出てくるのでしょう。「平遠」も郭煕は「近山よりして遠山を望む」といってますから、単なる水平視とはちがうはずです。これまでは、こういう合理主義的な学問論理で解釈する方法が支配的だったのです。

それよりもっとはっきり見ておきたいことは、『芥子園画伝』の「深遠」解釈と郭煕との落差・ズレです。清代は実証主義的な学問が展開する時代で、「見える」ものについての理解もずっと狭くなったのですね。郭煕と『芥子園画伝』の数百年の間に、解釈の違いが生じていることはきちんと見ておくべきことだと思います。

大乗寺はおそらく日本海の海岸町、小さな漁村にあったという遠さも手伝ったのでしょう、こんなふうにして200年以上ものあいだ、日常の寺院活動とともにこれらの襖絵と建物がのこってきました。これはちょっとほかには探せない貴重な遺産です。しかし、ここにも文化財保護の手は伸びていて、重文指定を受け文化庁の指示で収蔵庫も出来上がり[この収蔵庫がまた問題で、これを拝見しましたが、設計者はなにを考えていたのか入口には階段があって収納にとても不便だし、塩気と湿気のことも計算に入れなかったのか、庫内に生えた黴が消えなくてお寺は苦慮しています]、寺としては寄附を募り、現状の絵襖をデジタル技術で復元した複製を客殿に入れ替えようと計画していましたが、突然、この複製計画の顧問が交替し、西洋画家がその任につき、画家の直感で決定した応挙制作時の絵を再現することにしたということで、それまでの現状の復元という考えとがらりと方向転換した複製計画を打ち出しました。

どんな複製にするかは、お寺と檀家が決めることなので、外からとやかく言うことじゃないでしょうが、しかし一画家が充分な研究調査も報告せず[その報告書で斯界の専門家を納得させたのならともかく、そんな手続きを飛ばして]、自分が応挙の作品はこんなだと思う画面を制作しようとしている[仄聞するところ、金箔の箔脚は後代にできたものだから消すとか。目立った汚れがあってそれも消去するとか。しかし、汚れとその画家が言っている部分は、薄く塗った金泥で、金箔の上から金泥を塗ることによって時が経って背景に深みを与えようという技法の効果だということをその画家は理解できていないで、「汚れ」と即断しているようです]。そんな恣意的な決定がなされ、檀家会議もそれを承認したと先日聞かされて、ボクは非常ににびっくりしました。

ボクは、むしろ襖を建物と一緒にしておいて[これも、文化庁の狭量なビュロークラシズムで、建物と絵画は別々に処理され、襖は重文を認め客殿は認めない]、いままで通り日常の寺院活動の中で極力大事に扱って、いつか朽ちていくのを見届けるのがいちばんいい〈美〉との生きたつきあいかただと思うのですが、事態はまったくちがう方向に展開しています。[こうしたことの議論については9日にお配りしたボクの書いたもののコピーをお読み下さい。また、一西洋画家が顧問になって展開していることについて知りたいと思われるかたは、9日にはそのことについては、申し上げなかったし、資料もお渡ししませんでしたが、ボクに個人的に要求して下さればいくつかをお見せできます。それについて、『PHASE』という同人誌の7号(2005年3月刊)に篠原聡がちょっと書いています。こうした複製展示のありかたについてもっと公けに議論できる方法はないものかと思います]。ともかく、こんな情況であればあるだけ、大乗寺を訪ねる意味の大きさもあると思うのです。

[大乗寺のHP(http://museum.daijyoji.or.jp)もごらん下さい。流通している参考書としては『大乗寺』(国書刊行会)などありますが、内容はごくふつうの複製画集のレヴェルで大乗寺を紹介しており、われわれの問題意識を刺激してくれる本ではありません、残念ながら。)

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