S 坂口安吾

坂口安吾(1906.10.20−1955.2.17)といえば「日本文化私観」「堕落論」といったエッセイがまず頭に浮かぶ。

坂口安吾ってどんな人と尋かれればおおかたは「小説家」と答え、しかしその代表作はと尋かれると「桜の森の満開の下」ぐらいか。初期の「風博士」とかを挙げる人はちょっとひねくれもの、安吾文学の全体を観ないで自分の好みで挙げてるなって印象が強いし、「安吾捕物帖」とか「白痴」とか、あるいは「安吾新日本風土記」のどれを挙げても、小説家安吾の全体を代表させていると言い難い。

こんなふうに、坂口安吾は、たくさんの小説を書いたけれど、それは、いわゆる「純文学」(彼らの時代にはそういう呼び方がありました。それに対するのが「大衆文学」で、芥川賞と直木賞は、いわばこの両者に対応する章として設定されたのです。いまでは、この区分はまったく機能を果たしていませんが・・・)から推理小説等の「大衆文学」そして「紀行文学」等々、文字で表現するものならなんでもやったという観があります。そして、多くの人が同意するのが「小説家坂口安吾」のその面目をもっとも生き生きと伝えてくれるのが、「日本文化私観」から「堕落論」へ至る彼の評論というわけです。

その「日本文化私観」を今日はとりあげたいと思います。ボクは、このエッセイは、批評という仕事に関心のある人には、とても示唆に富んだ、考えさせられることの多くかつ大きい文章だと思っています。一見乱暴な論法を振り回しているように見えますが、文章作法としては、最も基本的な手法で、「日本」「文化」についての考えかた・批評のありかたを、これくらい根源的な視点から問い直そうとしたものはほかにちょっとない—そういう意味で、誰もに謙虚に読んでほしいと思っています。坂口安吾という人物・著者に興味があるかないかということを別にして、このエッセイが開いてくれる「考えかた」「問題意識の据えかた」、そして、そういう問題をどういうふうに文章として展開するか、といったとこについて考えさせてくれるのです。いつのまにか、まるで当然(の前提であるか)のように、信じて疑うこともしないで身につけている考えかた・概念が、結局あるひとつの予め誰かによって用意し与えられた考えだということを、みつけだすことのたいせつさを教えてくれるエッセイです。その結論に賛成するかどうかよりも、その考えかた、問題の提起のしかたは、誰にとっても新鮮なはずです。

で、そのためには、この「日本文化私観」を、一つの独立したテクストとしてどこまで読めるか、読んでみようというところから始めねばなりません。そうして読み切ったとしてもなお「坂口安吾」という文筆家の魅力は、そのテクストから誘惑してきます(「文学の8つの要素」の第8、その2著作者の像の問題です)。それは、じつに抗い難い魅力なので(一般論原則論として、どんなテクストを読んでも、「文学を成立させる第8の要素=像、その2=著作者の像、つまりこの文章を書いた人ってどんな人かと考えることには誘惑されますから、そんな話はぽろっと出してしまうかもしれません。その誘惑と戦いつつ、ともかく、テクストとして読んでいくことを貫いてみようと思います。

ひとつには、さきにもいましたように、そういう読み方がみなさんの思索と読書、それぞれの仕事(メチエ)の遂行の上で、とても新鮮で重要な意味を帯びてお役に立つだろうという老婆心と、そういう読み方によって、われわれの時代を観る眼に与えてくれるなにかが見つかるという気がするからです。

この「日本文化私観」は、昭和17年(1943)に発表されました。これはちょっと念頭においておくべきかと思います。「大東亜戦争」と呼ばれた「第二次世界大戦」のただなかというか、その始まりの時期に書かれているのです。これは「テクスト」そのもの外の情況ですから、「テクスト」そのものを読んでいくという方向から、いきなり逸脱しているようですが、しかし、これは、このテクストの内容を考える上で避けようもないことです。

「大東亜戦争」は、その前年、昭和16年(1941)12月8日(マレー半島上陸開始が日本時間の午前2時、ハワイ真珠湾奇襲空撃が午前3時、駐米大使野村吉三郎が来栖大使と、ハル国務長官に最後通牒・宣戦布告を手渡したのが同4時過ぎ)に始まったばかり。

映画「マレー戦記」(二部作)が上映され(封切り8月27日)緒戦の勝利に「日本国民」600万人がこの映画を観て酔い痴れたと伝えられています。「日本文化私観」は、「マレー戦記」が上映される半年もまえの3月、まだ「大東亜戦争」の戦況が、人びとの肌に浸み渡っていく直前の情況で書かれています。

日本陸軍は1月にマニラを占領し、2月にシンガポール占領、3月、ジャワ島占領。アメリカ軍の最初の空襲があった(東京・川崎・名古屋・四日市・神戸)のが4月18日で、「日本文化私観」というテクストを軸にこの辺りの情況を眺めると、これは「その後」の出来事です。因みに、この初空襲の被害はそれほど大きくなかった。それがよかったのか悪かったのか。このときその後に展開されアニメ映画にもなった野坂昭如の「ほたるの墓」にみられるような凄惨な東京・大阪の大空襲(昭和20年3月9日、14日、4月13日、5月25日。そして8月5・6日の広島・長崎原爆投下とつづきます)がこの時点ではまったく予想しなくてすんだことが「鬼畜米英」を竹槍で撃退できるという幻想を支えたような気がします。

ついでながら、日本軍隊が決定的に後退を始めるのは、昭和17年10月28日、二度目のガダルカナル奪回に失敗したときから、ということがいえますから、開戦一年と経っていないときからです。それ以前の昭和17年5月5日に始まった「ミッドウェー大海戦」も一ヶ月後には、空母4艦、重巡洋艦1、飛行機322機、兵員350人を喪う大敗戦でしたから、ここからすでに後退が始まっていると考えるべきだと思います。アッツ島全滅が昭和18年5月。そこから、一直線に昭和20年3月からの「米軍沖縄上陸」の悲劇へ「後退」しつづけるのです。とすると、日本帝国の無謀な「大東亜帝国」建設という名目の下に行われた侵略戦争が、実質的に攻勢だったのは開戦後僅か半年と続かなかったのです。「国民」はその「事実」を知らされないままずっと「日本帝国」は快進撃を続けていると信じ込まされていきます)。 (註)

註:
たとえば、ガダルカナルを放棄しブーゲンビル島へ撤退したとき(12月31日)、大本営はこれを「転進」と発表し「退却」とはいわなかった。

これらも、「その後」の出来事です。

国内の全出版物が承認制になる(出版物の奥付に「出版会承認・あ……番」と記入される)のが、昭和17年4月から。これも「その後」ですね。

「その後」の出来事としては、日本文学報国会(昭和17.5創立)が、「愛国百人一首」を選定発表するのが昭和17年11月。

日本出版文化協会が用紙割当を大幅に減配するのが、その年の3月、「日本文化史観」が『現代文学』という雑誌に発表された月ですから、執筆より「その後」なわけです。00

日本政府が傷痍軍人と女子青年団員との結婚を奨励すると大々的に報道された、嫌なニュースがありますが、これは2月28日ですからやはり「その後」です。

なぜこんなにしつこく「その後」の情況をメモしたかというと、この「日本文化私観」というエッセイが、どのくらい「予言」的な姿からずれているかを、知っておきたいと思ったからです。結論が先になりますが、「日本文化私観」は、非常に批判精神の旺盛なエッセイですが、情況を先取りしたというようなエッセイではない。

文学史・文学思想史という視点からは、この年の『文学界』9月号・10月号に掲載された「近代の超克」という座談会(とても有名な座談会)に言及すべきなのですが、ボクはもうちょっとちがう角度からこのテクストを読みたいので、そんなことがあったと記しておく程度にします。

「日本文化史観」は四つの章から成っています。

  • 一、「日本的」ということ
  • 二、俗悪に就て(人間は人間を)
  • 三、家に就て
  • 四、美に就て

まず、その分量をみますと、「一『日本的』ということ」、これは本文の「序」に当る章ですが、39字で132行。

二、「俗悪に就て」は313行。

三、「家に就て」が40行。

四、「美に就て」が109行。

(二)がいちばん長く、(一)の2.5倍、(三)の8倍、(四)の3倍の分量があります。この(二)は、「人間は人間を」というこれだけでは意味を成さないフレーズ(句)を副題に付け、やはり力を込めて書きたかったことがあるようです。

ちょうど、4章から成っていて、「起・承・転・結」の役割を担っているようです。

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では、順番に読んで行きましょう。

まず、タイトルですが、これは引用符はついていませんが、ブルーノ・タウトに同名の著作があって、それを引用しているというか、下敷きにしています。文章冒頭からタウトが引き合いに出されるように、この文章は、タウトが提起した「日本文化」観を当面の論敵、対象として書かれています。タウト本人の思想というより、タウトに代表されるタウトの言説に賛同する日本の知識人層の文化観を撃ちたいというのが狙いなので、タウト論ではない、これは自分の(安吾自身の)日本文化についての考えを書こう/語ろうとしているのです。しかしそれにはまず最近評判をとったタウト氏の日本文化論を批判してみるところから始めよう、という姿勢です。

タウトの『日本文化観』という薬品は、昭和11年(明治書房)に出版されました。安吾は、ともかく、この本を読んでこのエッセイを認(したため)めようと思いついたことは確かです。冒頭に出てくる芸術家もタウトのこの本に出てくる名前です。

冒頭の8行。イントロですが、言おうとしていることは一言、最初の「僕は日本の古代文化に就て殆ど知識を持っていない。」で済むことです。そこでタウトが二度も引き合いに出され、ほとんど思いつくままのように、タウトが讃えた日本の芸術家や建築などが引き合いに出され、鉄齋も桂離宮も論旨の展開上何の必然性があるわけでもない、ただただ、自虐的な自己紹介をしようとするだけです。

しかし、こうして自虐的に自己紹介することによって、既成の権威による価値づけを俺は信用しない生き方をしているのだよ、ということを告げています。このメッセージは全篇を流れるテーマ(第一主題)であり、このテーマがあってこそ、最後の結論が説得力を持つことになっていきます。

論旨は、山の谷あいの小川のように曲がりくねって、ときどき、水の流れが地上から消えたりしています。その脱線振りが、安吾の文章の特質でもあります。

しかし、よく読むと、意外と構成はシンプルです。シンプルというか、常套的なのです。

先にもいいましたように「起・承・転・結」の構造を守っているのです。お配りしたコピー(「日本文化私観」全文)に「1A」とか「1A—1」とかマークをつけて区分しておりますが、このAを「起」、Bが「承」、Cは「転」、Dが「結」に相当し、さらにABCの枠、つまり大きい「起」「承」「転」…の枠(文章の塊り)のなかも、「1A—1」というように区分しています。それは、「—1」が「起」、「—2」が「承」、「—3」が「転」、「—4」は「結」に当りまして、「起」「承」「転」「結」の文章の中でも「起・承・転・結」が入れ子構造のように機能していることが読めるということなのです。

「起・承・転・結」については、ボクの『大学生のためのレポート・小論文の書きかた』(明石書店)でいろいろ議論していますので、そちらを参照してもらいたいのですが、ともかく、文章作法のなかで最も常套的な方法です。

これは、彼の小説の書き出しを眺めてみると納得できます。

ちょうどまるでボクの「S=坂口安吾」に合わせたかのように、出口裕弘さんが坂口安吾論を『新潮』5月号に発表されています。拡がりのある、またいろいろ教えられることの多いエッセイでしたが、そこで、安吾の昭和10年代の作品(小説)の書き出しを並べてその書きぶりを褒めておられます。そこに挙げられている書き出し例を拝借し、ボクの考えを伝えやすくするために少し追加し並べてみます。とりあえず八例。

昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋(りくてい)和尚といって、近隣に徳望高い老僧があった。
(「閑山」)

昔、花山院の御時、紫の大納言という人があった。贅肉がたまたま人の姿をかりたように、よくふとっていた。
(「紫大納言」)

天正十八年、真夏のひざかりであった。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲網をしいている。
(「二流の人」)

天文十二年八月二十五日(四百一年前)乗員百余名をのせた支那船が種子ヶ島に漂着した。
(「鉄砲」)

一五四七年一月、一艘のポルトガル商船が九州の一角に坐礁して引卸(ひきおろ)しにかかっていると、丘の上から騎馬で駈け降りてきた二人の日本人があって、手拭を打ちふり、その船にのせてくれないかと叫びたてている。
(「イノチガケ」)

島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残った三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたって斬首された。みんな喜んで死んだ。
(「島原の乱雑記」)

大震災から三年過ぎた年の話である。
(「勉強記」)

昭和二十二年六月の終りであった。
(「不連続殺人事件」)

そのころ二十一であった。僕は坊主になるつもりで、睡眠は一日に四時間ときめ、十時にねて、午前二時には必ず起きて、ねむたい時は井戸端で水をかぶった。
(「二十一」)

 

「昔、」などと書き出します。この「昔」というのは、「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。…」というあのむかし話(民話)の書き出しです。物語を始めるための、もっとも素朴な原初的な一句で、あまりにも素朴で、プロの小説家はまずこんな書き出しはしません。

因みに、安吾と同世代の小説家の書き出しをちょっと覗いてみましょう。

まず、太宰治(1909—1948)。安吾より三歳年下ですが、小説の書き手としては、安吾よりはるかに格好いい小説家でした。

あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。(「ヴィヨンの妻」)

東京は哀しい客気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行(いちぎょう)にしるすというようなことになるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。(「メリイクリスマス」)

まったく任意に二つの作品から冒頭部分を選んでみましたが、「ヴィヨンの妻」の「私」は、タイトルにある通り「泥酔」の夫の妻、「メリイクリスマス」の方は、「作者=太宰治」という「私」の視点で語られています。それぞれ文章の主体を変え、それにふさわしい文体で、小説の中へと読者を誘っていく、その主体の個性・特徴がのっけから匂い出て、その作品一篇の正確を早くも決定づけしかもほかにない文章・文体の流れ(リズムとフォーム)を提示しています。

「昔」などと書き出すと、作者の個性は消えてしまいます。作者の主体(個性)を抑制うることによって、物語に大きさを与えようとしているともいえますが(たしかに安吾はそういう願いをこめて書き出したと思います)、しかし、キラメク文体とはいい難い。

「昔…」と書き出したり、「天正××年のことだった…」と「事実」を枕に書き出すと、その文体の主語は「語り手」という位置をとります。生の作者自身ではない、また作品中の人物でもない、「語り」を始め続ける上で、ある安定した(共通了解上にある)仮構の主体です。安吾は、そういう主体に乗っかって書き出しています。太宰は、そういう共通(共同)主体に乗っかることをはねのけて語ろうとします。

もうひとつ、安吾と対照的な例を挙げます。安吾が心底愛し惚れた(しかし、ついに別離を経験するしかなかった)女性作家・矢田津世子(やだ・つせこ1907—1944)を一つ。

夜来の秋雨に冷えた空が朝の光をうけて、澄みきった青色をたぶたぶした水面に遠々しく映してゐる。知榮子(ちゑこ)は池の端にしゃがんで、饅頭麩(まんじゅうふ)を糸から抜いては小さくわって抛(ほう)ってゐる。
(「秋扇」)

なんという細かな描写の書き出しでしょう。そして、この小説の作者の主体(語り手の主語)がなんとくっきり浮上していることでしょう。

「昔、……があった」というぶっきら棒な紋切型の書き出しとのちがいに注目してください。安吾は、津世子のこんな書き出し(この小説は昭和11年に発表されています)を読んで絶望に打ちのめされたにちがいありません。

こうしてこの例と比べたら、安吾の文体技術(感覚というより技術)が、いかに拙劣素朴であるかが判ります。

「昔、」と書き出さないまでも、さきに挙げた安吾の書き出し例は「大震災から三年過ぎた年の話である」とか「天文十二年八月二十五日…」とか「昭和二十二年六月の終りであった」「そのころ二十一であった」というふうに、まず「事実」を枕において始める傾向が安吾にはあることはさきにもいいました。それと同じ例で思い浮かぶのは、石川達三の「生きている兵隊」(「高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京陥落の直後、大陸は恰度(ちょうど)残照の頃であった」)などの書き出しでしょうか。

これは、まず「事実」を書き出しておいて、読者を安心して惹きこみ、物語(虚構)を展開しようとする方法で、表現の難易度という点からいえば低易です。安吾はしかしこういうふうに始めるしか始めようがなかった、こんなふうに書き出さないと先へ続けられなかったのでしょう。

こういう文体の書き出しにごく通俗的な位相をとることと、その本文全体が、たとえば「日本文化私観」のなかで、「起承転結」の型を踏んでいることと、無関係ではないと思います。というより、これは、彼の思想(生きかた、考えかた、表現の仕方)の根源的な姿勢といえます。

以下、「日本文化私観」の本文を追いつつ、整理してみましょう。

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短い一篇とはいえ、「日本文化私観」はこのABCの一回分の時間量でていねいに読み込んでいくには、やはり長く、だいぶん端折りましたが、この報告ではそれも約めて結論だけを出しておきます。 註)

註:
配布した全文のコピーは、まずこのエッセイの「起承転結」構造とそれが入れ子構造になっていることを見る目安の線分を入れ、上下の余白に、上段はその部分の要約、下段にキイワードを記入するということを試みてみました。じつは、こうして「キイワード」と「要約」で文章を読むというやりかたは、近代の「国語教育」が推進してきた教育法です。「この文章で作者はなにがいいたかったのでしょう、500字以内にまとめなさい」というやりかたです。500字でまとまって作者のいいたいことが把握できるのなら、なぜ「作者」はそんな長い文章を書いたのか、書かねばならなかったのか、どうして作者自身は500字にまとめた書きかたをしなかったのか——これこそ「文章表現」と「鑑賞」の上で、もっとも大切なポイントだ、とかねがねボクは主張し、「文学成立のための8つの要素」など考え「意味」を伝達する上ではそんなに重要とは思われない言葉の小さな表現を味わおう、そこにこそ文学の神髄が宿っていると訴えてきたのですが、安吾のこの文章を読むにさいしては逆のことをやっています。あえて、「意味」解読中心主義の視点から読むことによって、「意味」伝達以外の「味」はみなさんに探して貰いたいという逆処方をやってみることにしたのです。

さて、四章のそれぞれを要約すると——

一 「日本的」ということ

この章は、「起」つまり「序論」で、ヨーロッパの知識人の日本賛美は、「日本伝統」賛美にほかならない、では「伝統」とはいったいなんなのか。このことをタウトを当面の対象に据え、コクトーやアテネ・フランセのロベール先生をだしに使いながら、固定した「伝統」というものはない、文化というのは「模倣」から「発見」へというサイクルを働かせて展開していくものだというのです。この「模倣」という一語を持ってくるに際しては、あきらかにタウトの『日本文化私観』(昭和11年刊)の扉にある「模倣によって美は消失す」というエピグラムを念頭に反応した一句で、文章の流れからはちょっと唐突に「模倣」という語が飛び出してきますが、こういうところがいかにも安吾らしい。安吾は、けっこうカッカしながらあるいはウンウン唸りながら精神のヴォルテージを上げて書いたんじゃないかという感じがします。ですから、なにかヒラメイたり思いつきがあると、さっと書きつけ少々脱線してもそれを追究します。そして、そこからまた、考えやイメージが新たに展開していく、そんな文章と文体の息づきと機微が、安吾の文章からはよく伝わってきます。

この「日本文化私観」で、安吾がいいたいこと(意味/メッセージ)は一つ、とてもはっきりしていて「伝統」などというものを金看板にして文化論を唱えていてはいけないそんなのは空虚な空論だ。「伝統」を築いた根底に眼を遣らねばならない。そこにあるのは、「人間」の「必要」に迫られて生きていく姿だ、「必要」こそ全てだ。そしてその「必要」が支え続ける「生活」は「健康」である。「健康」というのは「病気」であることを「発見」する「必要」がないありかたのことをいうので、自分がそういう状況/状態にいるという自負も含めて、そういう「健康」でありつづけよう、いいかえれば「伝統」を「発見」したと論じること自体もう「病気」なのだといおうとしています。そんな病人の姿を、安吾はタウトやヨーロッパ知識人の日本〔伝統〕賛美とそれに尻尾を振って唱和している日本の知識人言動に見たというわけです。

で、もう第一章の序から、彼の結論はほの見えています。その結論(いいたいこと)をめぐって、いろいろな想い考えが渦巻いていきます。いわば、メッセージへ向けての論証です。

二、俗悪に就いて(人間は人間を)と題された「承」の章は、さきにも申しましたようにこのエッセイ中いちばん長い、全体の半分以上を占める(39字×594行のうちの313行)分量です。

ここでは安吾の京都体験がたっぷりと語られます。京都といえば「寺院」、寺院が所有する仏像や絵襖、庭、建造物といった「伝統」的な美術の遺産がなによりもその代名詞となりますが、彼は、自分の心に住みついたのは、車折神社に積まれた石に書き込まれた名もなき人の祈願、糞尿の溢れる嵐山劇場と情けない旅芸人の芸、爆破されて瓦礫の原となった大本教教会跡などなのです。

最初に祇園へ連れていってもらったとき、舞妓の芸を見せてもらったが陳腐で、彼女らの会話もコマッチャクレているだけだったところが、お茶屋を出て、ダンスホールへ行き、そこで踊る舞妓はじつに生き生きして、ダンスホールの群衆の中で「群を圧し、堂々と光彩を放って」いるのに驚いた。

ほかに、相撲の力士とか野球のベーブルースとか例を挙げ、「伝統あるものには独自の威力があるものだ」と感想を述べ、「伝統」だからといってなんでもたてついているのではないことを示します。

これは「伝統の貫禄」というものだといいかえ、しかし、「伝統の貫禄」を維持するには「実質」がなければならぬ、問題はその「実質」だ、ではその「実質」とはなにか、と論を進めていきます。

嵐山劇場と大本教跡の話は、この「実質」を探して行く文章の中に出てくるのですが、結論としては、寺院の建造物や庭は世俗から離れた世界を表そうとしているが、所詮は建物であり庭であって、観念の純粋さを体現することはできないし、逆に林泉庭園とかいっても大自然の凄さを直接表現してはいない。それならいっそ真宗(浄土真宗)のように世俗的で俗悪な方がましではないか、と、2章のタイトルにあった「俗悪」が登場します。

芭蕉や良寛と竜安寺が比べられたり、いろんな例がでてくるのですが、問題は、「実質」を獲得しようとしてもなかなか容易ではない、茶室なんかにみられるように、結局、完璧に「無に如かざる」ありかたは不可能なんだ、どこかに「世俗」の匂い「俗臭」が漂うている。

「質素なるものも豪華なるものも共に俗悪である」、ならば、いっそ「俗悪ならんとして俗悪である闊達自在(かったつじざい)がむしろ取柄だ」という。こうして秀吉の生きかたを賞讃します。

「俗悪」という言葉を、安吾は「洗練」された高度な文化の匂いのするという語の対比として持ち出しています。人間の最も生まな生きざまといったような意味合いです。副題の「人間は人間を」というのは、そんな意味を負わされています。

人間が人間らしく、ともかく「必要」に迫られて生きていけば、「俗悪」といわれるかもしれないがそれが「真実」の姿なんだ。ここで「人間」らしいというのは、最低限のレヴェルで「人間」であることというような意味を含んでいます。そういう「人間」が中心であれば、古い物や退屈なものは自然と亡び、生まれ変わるものなんだ。

この章を要約すれば、「伝統」というものの「実質」は、「人間」の「俗悪」に徹した営みである、ということです。

三、家に就いて

この章は、いちばん短い章ですが、「転」の役割を負わされて、「承」を享け、「人間」が「実質」なんだから「人間」を大切に慈しむこと、そういう「人間」を描くことを使命にしているということを語っていて、「文学」を信用することができなくなったら「人間」を信ずることができないといいます。ここで「人間」の意味は、前章の「最低限に人間であること」から、「人間の持つ愚かさ、寂しさ」へと重点がシフトされていきます。

この章のタイトルは、「家に就て」と「家」が語られようとします。「家」という人びとが自分の帰るところ、自分という存在の根拠地と信じているところが、じつはいつも「悔い」につきまとわれているところだ、と、人間の「孤独」「うしろめたさ」をよく感得させてくれるところこそ「家」だというのです。

だから、「帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」。この魔物が「文学」を招くといえばいいか。

「人はみな孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学はこういう所から生まれてくるのだ、とボクは思っている。」と書きます。

一見、「伝統」論・「日本文化」論から離れてしまったような「転」の章です。この章を要約すれば、「実質」とは「人間」のこと、そしてそういう「人間」はいつも「孤独」で、その孤独をしっかりとみつめて「人間」が要求する「必要」を大切にしなければならない。「文学」はいちばんそういうまなざしを育ててきた、というところでしょうか。

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三章は「家」というキイワードから、「人間」の「孤独」、「人間」にとって避けようのない、やむべからざる境地であるこの「孤独」さを慈しむところに出自をもつ「文学」のことを語り、そういうまなざしでもって「日本の伝統」を考えたいということを主張した章ですが、この「孤独」というのは、感性に訴えるものです。

お配りしたコピーには、下の欄に、各章・節にみつけられるキイワードを並べたのですが、そこには「不思議な悲しみ」「なつかしかった」「痛々しかった」「ありありと覚えている」「心をそそらなかった」「うしろめたさ」などという言葉に注目しておきました。感性の反応を記述する言葉です。それらと響き合うように「郷愁」という言葉が使われ、秀吉に与える評価も「駄々っ子のもつ不逞な安定感」というような感覚的な言葉をわざわざ選んでいます(もちろん、「天下人」という抽象的観念的な言葉も使いますが、「駄々っ子のもつ不逞な安定感」といった具体的な形容詞を安吾はそのつど探してもいます)。こういう感性の反応を叙する言葉は、個別的で論理としての普遍性には欠けますが、この個別性が、「文学」の大切な武器でもあります。

そういう意味で、安吾は日本の文化・伝統を個別的な感覚のレヴェルで反応し考え、そこから改めて、論理へ向っていこうとしているということが読めます。

四章は、「美に就て」と題され、総論です。

真に「必要」ならば、そこに「美」が生まれる。空虚な「伝統」など亡んでもいいのだ、というのが要約です。

彼が心から感じ入った「美しいもの」の例として、三つ、小菅刑務所とドライアイス工場、そして駆逐艦が挙げられます。

いずれも「現代」の社会が「必要」やむべからざるものとして産み出したもの、「美しくするために加工した美しさが、一切ない。」「ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれてた」「必要のみが要求する独自の形」から出来上がっている。これこそ「真に美なる物」だといいます。

文学も芸術も「必要」「やむべからざる実質」から生まれるもので(これをいうために「三章家に就て」の章が「転」として必要でした)、それは、「生命と引換えにしても、それを表現せずにやみがたい」ものでなければならない、というのです。

これは、彼の「芸術宣言」といってもいい一句でしょう。

そして、有名な「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。」「武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃(ほこり)のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオンサインが光っている。ここにわれわれの実際の生活が魂を下ろしている限り、これが美しくなくて何であろうか。」と続きます。今回は、このフレーズを「言葉」にして選ぼうと思います。

一見乱暴な言葉ですが、やはり、じっくりと味わっておきたいと思うのです。ただ単純にやみくもに「法隆寺を壊せ」といっているのではありません。「必要ならば」というこの「必要」はとてもキビシイ言葉にならなければなりません。国会議員が票と金のために新幹線の駅や道路を増やそうとするのと同列の「必要」ではない。「やむべからざる実質」を伴った「生命と引き換えに」しても「必要」なものでなければいけないのです。

そして「我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としていても、我々の文化は健康だ。」と結んでいます。

これは、徹底してラディカルな思想で、誰もがかんたんに真似は出来そうにない言葉であり考えですが、ここにはあらゆる既成の概念や権威による通念を、ぜんぶ洗い流して、「自分」の眼と感覚反応から始めようという凄い発言姿勢があります。その通り真似はできないにしても、この姿勢は、ときどき見直してみるべきものであることは確かです。

「健康」という言葉がいささか安易に使われていて、ではどうしたら「健康」を維持できるか彼は具体的な方針は出していません。ただひたすら「必要」に生きよ、というばかりだというような問題もありますが、この坂口安吾のエッセイは、われわれの「自己=人間vs.世界」の関係をみ、考えるための出発点を与えてくれるエッセイだといえます。

答と方針は、われわれ一人ひとりがそのつど見つけ出すしかない。そうして見つけだすときに、その考えから力強い示唆を与えてくれるエッセイです。

坂口安吾の「日本文化私観」にみられる方法はラディカルで新鮮で、そこを学びたいと最初にいいましたが、その方法を支えている観点はいがいと単純です。

そのことを探るキイワードとして、じつはお配りしたテクストコピーの下欄に、抜き書きを並べておいたのでした。こいう感情による評価言語をその元で支えているものは、彼の出自への想い(彼のここでの表現を使えば「郷愁」)なのです。

安吾は、ここでは開き直って、俺は田舎の(タウトらのようなおしゃれな都会の知識人が馬鹿にしている田舎の)新潟の出身だ。しかし、新潟が、つまり日本の田舎がいかに大切か、「日本」という国(くに)を、歴史的にも、そして現在のありかたからもその根っこでささえているのは、そういう田舎(つまり「土着」的なもの)なんだ。というわけで、この「土着」を基準に彼は「文化」体系の全体を考え直そうとしているのです。

そこで、もうひとつ注意しておきたいことでとても大切なことですが、安吾は「田舎」者であることを自分の思想的根拠にし、「郷愁」をいろいろな判断の基準にしようとしています。しかし、彼はその田舎に引き籠って、農業だとか商業だとかに従事するという「生活=生きかた」は選ばなかった。つねに「田舎」に根拠を求めながら、彼は「都会」を彷徨いつづけてる「放浪者」であろうとしたということです。そういう「放浪者」の視点こそ、日本文化への根源的な批判の眼差しを持ちうるというのです。同時に、この対立構図は「日本」の「近代vs.前近代」の対立構図と重なるものであることも見逃していけないところです。その意味で、どんな「都会人」であっても、その人の裡に「田舎者」であるなにかを隠しもっているということも、安吾のいいたかったことでしょう。

くりかえしになりますが、こういう感情的な反応に論理の根拠を置いて思索し議論を展開するということ、あくまで「放浪者」いいかえれば「疎外された者」の視点から、自分の感覚で反応することから思索を始めようとすることは、ほんとうに、われわれが、学ばねばならないことだと思います。日本の近代現代の知識人は、こういう反応を回避し、西洋の思想家が提示した「公式」を現象に当てはめて論理と制度を作り、後生大事に護ってこんにちのような状況を作ってきたのです。

いまボクが語り書いてきたことは、「坂口安吾という人は」といういいかたをしなくて、この「日本文化私観」の「著者」は、といういいかたで語り尽くすことができます。さて、その「著者」というのは、坂口安吾という人であって、その「坂口安吾」は新潟の生まれで、日本海(裏日本と呼ばれる地方)の雪深い田舎育ちの人間であることを強く(ちょっと強すぎるくらいに)自覚して、無骨にしかし純情に(純粋というより純情に)生きようとした男でした。そんな心構えと生きかたが直接表出されているのがこのエッセイということができます。

「都会vs.田舎」という構図は、日本の近代化過程のなかで、「知識人vs.庶民/農民」「成功者vs.脱落者」「洗練vs.野暮」等々いろいろな対立構図の意味を含んでいます。そしてなによりも安吾にとっては、この文明化の中で見捨てられていく「田舎」のネガティヴな価値こそ、自分の生きかたの拠点にしなければと思われたのでしょう。

田舎から出てきて立派な格好いい都会人になり切っている人が多いなかで、どこまでもそうなりきらない生きかたの視点からものごとを社会と日本を見、考えようとしたといえます。

もっとも、「田舎vs.都会」という構図意識は、いまや存在価値を失っています。それは、あくまでも「日本近代」の産物でした。21世紀の「日本」では、こういう対立構図は消滅してしまっています。「解消」したといわないで「消滅」したといっておきます。この「消滅」は高度経済成長とグローバル化過程で権勢的に行われていったからです。安吾がこだわり、自分の思想の根拠にしようとした情況がいまや消滅してしまっているということ、このことがもつ意味についても、あらためて安吾から考えさせられるのではないでしょうか。

附記:
安吾の純情で無骨でやみくもな生きかたの実例として4月22日のABCでは、矢田津世子との「愛」のかたちのとりかたについてちょっと触れ、現在あまり読まれていない矢田津世子という小説家のことも紹介しようとしたのですが、彼女と安吾との関係を考え追究するのは、また別の機会にじっくりと書きたいと思います。

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