E エロシェンコ

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エロシェンコというと、東京国立近代美術館にある中村彝の肖像画を思い浮べる人は多いことと思います。だけど彼の作品を読んだ人は?となると現在はほんとうに少ないのじゃないでしょうか。

1959年にみすず書房から全三巻の全集が出て(註1)、その後作品集も出ましたが、それっきり、どこの文庫にも入っていません。偕成社の子供向けのペーパーバックシリーズに『エロシェンコ童話集』が入っていて、これは、現在でも「品切れ」「絶版」ではないのですが、偕成社のそのシリーズを置いている本屋でも、このエロシェンコの本は抜けたまま補充もされていないというのが現状です。

エロシェンコは、ほかに魯迅の「あひるの喜劇」に登場しています。このタイトルは、エロシェンコの「ひよこの悲劇」[北京滞在中の作]からとったものです。「ひよこの悲劇」というのは、あひるとしか遊ばないひよこ[鶏の子]が、あひるのように泳ぎたいとばっかり考えてものも食べず、結局溺れて死んでしまうという物語です。

註1:
その第三巻は、この全集の編集責任者高杉一郎氏が書いた伝記なのですが、後にも先にもこれが唯一の伝記といっていいでしょう。いろんな人の回想を編集して愛情こめて書かれた伝記です。

ワシリィ・エロシェンコは、ウクライナの裕福な農家の息子として生まれたのですが、4歳のとき麻疹(はしか)に罹り、失明してしまいました。ごく幼いときにこういう理不尽な運命を背負わされたことが、彼に〈世界〉と〈その根源〉への憎悪に近い、言葉のなる以前の失墜感・疎外意識を持たせたと思います。それは、彼の行動、彼の文学の根源的なモティーフとして横たわっています。

9歳のとき、モスクワ第一盲学校に入学。モスクワへはお父さんといっしょに来て、劇を見た、いや聴いたそうです。お父さんは芝居好きで、その後もワシリィをなんどか芝居に連れていったとか、ワシリィは、劇を「聴く」ことによってたのしむ術を培ったということです。彼の作品に会話の応酬で進んでいくのが多いのは、こういう経験が生きているのでしょう。

盲学校には、1906年17歳のときまで在学しますが、当時のモスクワ盲学校はツァーり体制の下で管理されていて、ワシリィはそういう学校体制に盛んに反抗した[もう一人ワシリィより過激な同窓生がいたようで、どちらかといえばその子に引っぱられて反抗していたようです]と回想しています。[「私の学校生活の一ページ—ある孤独な魂」(『エロシェンコ全集』第一巻 みすず書房 1959)]

16歳のときエスペラント語を習得します。そのほか彼は、バラライカやヴァイオリンを演奏する術も習得し、声量もあってロシア民謡など[のちにはエスペラントで作った詩に自前の曲をつけて]、とても美しい声で歌いました。日本にきても、みんなが集まっているところでバラライカを演奏するだけでなく、エスペラントの大会などで歌をうたっています。

さらに勉強しようと万国エスペラント協会のつてで、ロンドンに留学し、ロンドンからは一年後にモスクワへ戻るのですが、そこで日本の盲人は按摩や針治療で自活していることを知り、日本に興味をもったといいます。そしてモスクワでレストランの音楽師などやりながら、日本総領事館から紹介してもらった留学生島野三郎に日本語の手ほどきをうけます。

日本語の上達も早かったようで、1919年25歳のとき、やはり万国エスペラント協会を通して、日本のエスペランチストを頼り東京へやってきます。

日本での行動など、親身になって世話をした人たちとの交流のことは、全集の三巻に入っている高橋一郎氏の伝記に譲ります。

彼の日本滞在は二期に分れます。

第一期は大正3年(1914)から5年(1916)まで。秋田雨雀、神近市子、片上伸といった人の名前をとくに彼の大切な友人として記しておきましょう。現代でいうと留学受け入れの保証人のような働きをしたのは中央気象台台長日本エスペラント協会副会長の中村精男(きよお)、中村の紹介で本郷菊坂の菊富士館別館に泊まることになります。

余談ですが、伝記によるとエロシェンコが中村精男を訪ねた大正3年(1914)4月27日は雨の降りつづく寒い日で、ルパシカをびっしょり濡らし、金髪から雨水を滴らせていたそうですが、その気象台はいまも気象庁と名前を変え皇居の隣の竹橋に建っています。彼が最初に日本を頼って訪ねたところが竹橋で、彼が追放され日本を去ったあと、彼を偲ぶ肖像画が竹橋の[気象庁に近い]東京国立近代美術館に所蔵されています。エロシェンコの日本は竹橋に始まり竹橋に遺るのですね。

東京で世話をした人として、もう一人[一組というべきか]大切なのが、新宿の中村屋[いまもあります]を経営していた相馬愛蔵・黒光夫婦です。このお二人[とくに黒光]は、大正期の文学・美術・思想の動きに少なからぬ働きをした人ですが、詳しいことは臼井吉見の小説『安曇野』(あずみの)をお勧めします。中村屋の裏にあった洋館アトリエがエロシェンコの大正5年の住居でした。

大正5年7月シャム[タイ]へむかって旅立ったとき、エロシェンコはもういちど日本に来るとは予想していなかったかもしれません。いやおうなく、日本しか行くところがないので日本へ戻ってきた大正8年7月、やっぱりこの中村屋裏のアトリエが彼の住居になる。つまり、インドを追放されたエロシェンコを暖かく迎えてくれたのは相馬夫妻だったのです。

もう一人、東京で知り合った人として、アグネス・アレキサンダーというバハイ教の布教のために東京にやってきた女性のことも記録しておくべきかもしれません。彼女が日本に布教しようとしてもってきたこのイスラムの新興宗教はトルストイの人類愛思想やザメンホフのエスペラント運動と響き合う世界観・人類愛を掲げていました。

シャムで盲人教育をしようとしたエロシェンコですが、シャムにはそれを受け入れる土壌がなく、ビルマ[ミャンマー]で盲学校の教師をしたりしながらインドのカルカッタに入りましたが、ロシア革命の直後、ロシアの自由主義的な雑誌に原稿を寄せていたことなども要因になったのか、植民地宗主国イギリス当局からにらまれ国外追放処分を受け、ロシアへも帰してもらえず、日本へ送られることになりました。

高杉氏の伝記には、そのときイギリスの官憲は、日本政府に宛、「この者はボルシェヴィキなるゆえに、追放す」という「通達書」をおくってきたということです。

ともかくこうして再び日本の地を踏み、中村屋の裏に落ち着いたのですが、このころの東京は社会主義運動が盛り上がりをみせ、エスペラントの活動家から彼は社会主義の運動家たちを紹介されて行きます。高津正道・江口渙と知り合いになったり、小牧近江の第二次『種蒔く人』同人にもなっています。

エスペランチストの集まりで喋ったりする一方、社会主義者の集まりにも顔を出し、決定的だったのは、大正10年(1921)。まず4月21日神田のYMCAで開かれた暁民会で演説したこと。

このとき彼は「禍の盃」という標題で語り、唯一人「弁士注意!」の声をかけられなかった講演者でしたが、5月1日のメーデーに参加したときは、三田署に検束され[小牧近江に紹介されたのはこのメーデーのデモの中でだったそうです]、5月9日日本社会主義同盟第二回大会に出席して逮捕され、これが決定的な「日本国外追放」処分の理由となったようです。

5月28日夜、中村家へ刑事たちが踏み込み、エロシェンコを検束、そのまま6月3日に新橋から神戸へ汽車に乗せられ敦賀港からウラジオストックへ強制送還されました。

国外追放処分を受けたとき、日本の友人たちが、エロシェンコが日本で発表した物語を集めて作品集を出そう、それで旅費を送ろうと動き、第一創作集『夜明け前の歌』は、大正10年(1921)7月17日出版されました。もちろん、彼は手にすることはできなかったのですが、牢獄で「序」を口述筆記してもらいました。

「——私は、この話を日本で発表するつもりはなかった。この話を、私はあたらしいロシアに外国の土産としてもっていこうと思った。けれども、ロシアの方はあまり進んでいるから、私の話はどうも時代おくれのような気がした。それが、この本を日本でだすひとつの理由です。いまひとつの理由は、私の友達はみな金に困った連中ばかしですから、ちょっと金があったら貸すこともできるし、また助けることもできる。自由にそういうことができるように、金がすこしでもとれたらというのが、第二の理由です。

私の話は、大人には不真面目すぎるし、子供には真面目すぎるというひとがある。それからときどき、芸術を宣伝のために犠牲にするというひともある。しかし、私は話をもって思想をあらわそうとは思わない。そういうつもりはない。

私にとっては、私の生命、私のいのちそのものが芸術にならねばならない。その生命は、私の第一の芸術です。話を書くこと、演説をすること、芝居にでること、それらはみな生命という偉大な芸術の飾りにすぎない。

もし私の創作集の第二篇がでるならば、その名前として「最後の溜息」というのにしたい……

私の友人の言ったように、かりに私の微笑や笑いがいつもさびしかったにしても、私の社会にたいする批評や皮肉が浅薄であったにしても、人類や日本の友だちにたいする私の愛、私のふかい悲しみ、どうかそれだけは疑わずにいてください。

私がこの国を去って、どこへいくかまだわからないけれど、人類にたいする愛、社会にたいする悲しみは、最後まで、世界のはてまで私の友となっていくだろう。」(『夜明け前の唄』「序」)

第一創作集には、編者秋田雨雀、発行所叢文閣、十四篇の「童話」が収録されています。(註2)

第二創作集は、自序の表明にしたがって『最後の溜息』と題され、同じ年の大正10年12月10日、同じ秋田雨雀の編集で叢文閣から出版され、二篇の物語と長い劇一篇[「桃色の雲」]が収録されました。

その後、大正13年(1924)10月5日、東京刊行社から第三創作集『人類の為めに』が出ています。これはその前年改造社から出す予定だったのですが、関東大震災で印刷所も燃え校正刷が一部だけのこってそれをもとに刊行されたのです。エスペラント語で書かれたものの訳など、日本で書かれて第一・第二集に洩れていたものなどが収録されています。

日本語版第三創作集が出る前に、中国では魯迅の訳で『愛羅先珂童話集』上海商務印書館(1922)、『桃色的雲』北新書局(1922)が出ています。1923年(大正12)には、エスペラント語で、Gemo de unu Soleca Animo (ある孤独な魂のうめき)(註3)というのが上海の東洋エスペラント宣伝学会から、同じ年台北市の台湾エスペラント学会からは、Turo por Fali (おちるための塔)が出版されています。生前に刊行されたのはこれだけのようです。[1953年に以降は省略します。全集第三巻に詳しく載っています。]

註2:
「童話」と引用符をつけたのは、ボクは彼の物語を「童話」と限定しなくていいと思っているからですが、これまで[みすずの全集でも魯迅も]そう呼んでいるからです。以下ボクは「物語」と呼びます。

註3:
このGは頭にフランス語のアクサン・グラーヴに当るヤマカギかっこがのっています。ぼくのパソコンで出ないのであしからず。

この要旨は「要旨」とはいい難い書き出しになってしまいました。7月23日の午後は、まず魯迅の「あひるの喜劇」を朗読してそのタイトルの基になったエロシェンコの「ひよこの悲劇」も読んで、ちょうど絵や美術作品なら、あつまっているみなさんにその作品を一瞥してもらうように、〈エロシェンコ〉という人の仕事がどんなふうか、それなりに感じとってもらいながら彼の文学/芸術のようすを紹介しようとしたのですが、「要旨」では、そんなわけにいかないので、まず彼の生涯の一端を紹介して、作品に入っていこうと組み立てました。

そこで、彼の作品を覗いてみましょう。

彼が逮捕される直前に、二篇の物語を作っています。「虹の国」と「せまい檻」。彼は、エスペラント語でそれを点字にして書いています。「せまい檻」というのは、「虎が疲れた…毎日毎日、おなじこと…せまい檻、檻から見えるせまい空」…という書き出しで、動物園の檻の中で疲れ切った虎は、重いいたましい嘆息を出す。そうすると見物人が「おい、虎が泣いているよ」と檻の方へ走ってき、虎は「憤怒と嫌悪のためにケイレンを起し、その尾は無意識のうちにはげしく檻の床を叩く。」

昔、自由に森に住んでいたころ、花に飾られた石の神様があって、そこへ遠い村のひとびとがやってきてお祈りを捧げるのをよく見ていた虎は、その村の人がこぼした涙をなめてみたことがあった。その晩、彼は捕えられたのだった。そのことを思い出した虎は、檻の中で人間が祈ったように石の神様に向って叫んだ。

「神様、あの阿呆どもの顔だけは見ないですみますように……」

すると、あの阿呆どもの笑い声がだんだんかすかになって、ほんとうに石の神様の前で寝ている自分を発見した。それから虎は、森の中で孤独な王者として振舞い、いろいろな出来事があっていっそう人間を憎み、[詳細は作品を読んでいただくとして]彼が以前から気にかけていた、人間に虐げられた「鹿に似た女」が逃げてきて胸を刺して死ぬのを森の樹のかげで目撃する。そのとき、「人間が眼に見えぬ、強い[彼の]足でもこわすことのできないせまい檻にいれられていることを、虎ははっきりと感じた。」そして自分がはいっていた「檻のことを思い出し」「また怒った」「人間こそ見さげた奴隷だ。人間こそ畜生だ。」と罵り、「だが、人間を眼に見えない檻にいれて、奴隷のように、畜生のように、とりあつかっている奴は誰だろう?」と石の神様をのぞいてみたが、「いいや、あいつではない、あいつはなんにも知らない…そんなら、誰だろう?…」といぶかりながら、そこに倒れている女の血が花のうえに滴りおちているのを見た。花におちた血の球は露にまじり、月の光をうけて、不思議な宝石のように光っていた。虎は、その花のうえの宝石のように光っている奴隷の血を、そうっとなめた。すると、光る血も石の神様もだんだん遠くなって、何千年というふとい木のささやきが、だんだん人間の声に変っていった。

こうして、虎はふたたび檻の中にいる自分をみつけるのですが、こんな話や、「学者の頭」というのは、政治家[人間]の書斎で朝から晩まで書棚に並んである科学の本を「かじっている」若い鼠の話で、あるとき、「科学というものは鼠さえ疲れさせるものか!」と「舶来のソファの上に」休んでいるその学者の鼠のところへほかの大勢の鼠がやってきて、いろいろ話をする。そして、地球が丸いという話から「宇宙は進んでゆくし、無限に進まなくてはならない。」しかし、「一時間後には、この世界がなにかにぶつかって亡びてしまうかもしれない。心配なことというのは、それだ」というような話になる。

「世界が進まなくてはならないことは、宇宙の法則です。しかしどちらに進まなければならないのか。右か左か。後方か前方か、そのどちらともきまっておりません。そこで私はまず、その方向をきめなくてはならない。前方は左よりも安全であろうか?たしかに安全とはいえまい。右は左よりも安全であろうか?これも、そうだとは言いきれない。前方も右も左も、どちらもおなじように危険がある。あとにのこるのは後方である。」「何万年まえからか、何億年のむかしからか、この宇宙ができたときから今日にいたるまで、世界が進んできたこの道では無事であったということだけはあきらかである。そうだとすれば、いまきた道を後方へひきかえす道がいちばん安全だということになる。」といった理屈を展開します。

若い学者鼠は、どうやって宇宙を後方へ進ませるか、その方法が判らないといってまた読書にふけっていましたが、しばらくたって急に棚から飛びおり、みんながはいっていった穴にむかって「発見!発見!」と大声で叫ぶ。さっきからいまいましい鼠奴と隠れていた猫が、自分が発見されたと思い隅からとびだしてその鼠をつかまえ「頭をひと噛みに」食べてしまった。「私はべつに学者に偏見をもっているわけではない。しかし、学者の肉—いや頭というものは、ふつうの頭よりまずいようだ。これはどういうわけだろう。猫の学者が研究しなければならない問題だ」という台詞を吐かせて終ります。

「変り猫」では、鼠がとれなくなった猫が登場し、その理由を、飼い主の坊ちゃんに打ち明けます。ここでは猫と人間が自由に会話します。しかし、猫の敵であるお父さんや女中とは猫は言葉を交せません。

「人類のために」という物語は、人間の幸福、人類のためには、自分の飼い犬や息子すらも解剖実験の犠牲にしてもいいという倫理を貫こうとする学者の話なのですが[ボクはこの物語を読みながら手塚治虫の『ブラックジャック』をふと回想しました。なぜか、それはまた別の機会に考えることにします]、その中で、飼い犬のエルが飼い主の坊ちゃんを家族にひきあわす場面があります。お母さんは人間の姿をしていて[とはいえ、ごほうびには魚の頭や尻尾をくれたりするのですが]エルの家に入ると、エルちゃんは、後足で立って自分の皮を脱いで少年になります。坊ちゃんはその脱ぎ捨てた犬の着物が気になってしかたがない。それに気づいたエルちゃんの台詞を今回の「言葉」にしました。

いろいろと紹介しましたが、エロシェンコはこんなふうに動物に言葉を喋らせるのです[天使や神様も登場し、風も出てきて喋ります]。それが、ほかの童話作家の擬人法とちょっとちがうことに気がつきます。もうひとつ例をあげておきます。彼の作品のなかでいちばん長く分量の多い「桃色の雲」という戯曲です。東京付近の田舎が舞台、現代という設定で、13,4歳の女の子やその母、女の子の友達も登場人物ですが、そのほか「自然の母」という人間の姿をしているが超自然存在、冬の風、春の風、夏の雲、竜、雷、稲妻も出てくるし、春の花は、福寿草、雪割草、釣鐘草、たんぽぽ等が「若い男」に扮し、梅、桜、菫、勿忘草が「若い女」、わらびやおおばこは「学者」などなど。虫も春夏秋冬各種出てきて「音楽家」であったり「えせ文士」であったり、もぐらの家族も登場し、とくにもぐらの孫はこの舞台で重要な役割を演じます。

エロシェンコの動物、植物、その他の自然存在に人間の言葉を喋らせ人間ふうの行動をさせるのをとりあえず「擬人法」と呼ぶとして、彼の「擬人法」は独特です。

たとえば、猫を例に考えてみても、「変り猫」は、人間らしくその動物愛護心、生命愛につきうごかされて飢えている鼠をとることができない、猫仲間にもバカにされ、鼠をとることを要請する「人間」[坊ちゃんのお父さんや女中]から抹殺されようとする窮状を坊ちゃんに訴えます。その変り猫は、ついにお父さんに処分され、その処分に抵抗した坊ちゃんは、鼠や猫の窮状を訴える声が頭の中に響いて気が変になってしまいます。

漱石の猫だと、人間の言葉を喋りながら、その飼い主の言動を冷静にシニカルに[猫の視点から]観察批評する立場を与えられて全うします。宮澤賢治のたとえば「猫の事務所」の猫たちは、猫として[人間社会に擬した]社会の中に生き、秩序を保っています。その中で竈猫(かまねこ)のようないじめを受けます。それを救うのは仏です。その猫たちは、人間の喩です。

人間と動物が言葉を流通しあう例を考えてみますと、たとえば「どんぐりと山猫」。山猫のボスが男の子に裁判を依頼するやりとりなど、人間が人間以上の特質を発揮するために擬人化されているといっていいでしょう。

こういう擬人法は、人間と人間以外の生物[無生物]のあいだに境界が認識[無意識の裡にも]されていて成立しています。「猫の事務所」は猫社会が人間のレヴェルに保持されています。

エロシェンコの登場者[動物、植物、無生物]は、そういうレヴェルというか秩序に保証されていないのです。エロシェンコの登場者は、人間の言葉を喋りますが「人間」のレヴェルに維持されていない。その意味で、完全な「擬人化」ではなく、それどころか、登場する人間も、動植物のレヴェルで喋ります。

登場する動物や植物や昆虫や風や水が人間の言葉を喋るという意味では、動物や植物や無生物は人間のレヴェルに立っているのだけれど、人間のレヴェルに〈引き上げ〉られていない。一般の擬人化が動物や植物を人間のレヴェルに〈引き上げ〉て成立しているとすれば、エロシェンコの方法は<人間>が他の生物無生物のレヴェルへ引き下げられているのです。

これをエロシェンコの〈汎生命共同体〉思想と呼ぶことにします。エロシェンコの汎生命共同体思想は、「桃色の雲」など最適の例といえましょうが、小動物、花、人間、昆虫、さらに自然を司る存在みんなが語りコミュニケイトします、人間的に、しかし最も低いレヴェルで。

これは、エロシェンコが早くに身につけた〈世界〉とその〈根源〉への憎悪に近い疎外感、失墜感から養われ、それは、彼が少年時代にマスターしたエスペラント語が目指したところでした。

エロシェンコは、大正5年(1916)5月、第一期日本滞在中、横浜でのエスペランチストの集まりに招かれ、「世界におけるあたらしい精神」という題で講演し、こんなことを言っています。——「遠い古代以来、人類が理屈の上だけで考えてきた思想を実現する—もろもろの民族がひとつの家族になること」…それがエスペラントの目的だ、と。その「もろもろの民族」は、エロシェンコにあっては容易に「あらゆる存在するもの」に入れ替えることができ、「ひとつの家族になる」ということは、[人間」の水準へ成就することでは決してなかったのです。

こういう、人間を動植物の水準へ同列化する擬人法の底にあるのは、人間ー動物における植物系機能への強い関心です。

エスペラントは、どの固有の民族にも属さない言語として作り出されたわけですが、ということは、どの民族国家にも共通するレヴェルでつながるということにほかならない。その「共通」する項を、呼吸をし、食べものをとり他者を気づかう[それは無生物を擬人化したとき最小限必要な振舞いの要素です]という水準に置いてみるとき、それは〈脳〉の指令による動物系の活動体系ではなく、もっと植物的な活動に所属するものなのです。

そこで、そういう関心がエスペラント語で書かれた物語にどんなふうに働いているか、エロシェンコのエスペラント語作品をもう一つみておきたいと思います[7月23日には、このテクストを配り、全篇朗読したのですが、ここでは要点だけメモするしかありません]。

「おちるための塔」Turo por Faliをとりあげます。この作品はどこかの南国の架空の国に住む二人の貴族とその子供の物語です。

その双方の親は互いに憎み合い、子供らは、互いに軽蔑し合うように、しかし、貴族の子として最高の教育をもって育てられます。一方は一人の娘、もう一方はひとりの息子が成長し互いに軽蔑する相手をひと目見たいと思い国境まで行き、お互いに衝撃を受け、結婚の相手は彼[彼女]しかないと思うようになります。親が死に、子供らは互いに相手を意識し、相手が求婚してくれるためには自分の富をより誇示しなければならないと、宮殿の豪華さを競い、庭を造り、高い塔を建てます。塔ができたとき二人はすでに相応の年をとり、邸の豪華さとうらはらな寂しい心をもってついに果てます。

この物語を読んでまず気づくのは、物語の展開のシンメトリー、左右対称型の構成、一方の親や子のことを語ると同じ言いまわしを反復するようにしてもう一方の親と子のことを語る、そういう語りの手法です。短い物語[朗読すれば15分]なのに、そこに長い時間がつめこまれているお伽話的時間。もうひとつは登場人物のキャラクターの類型的なこと。つまり、ナレーションがパターン化されていることです。

もう一つ、見逃してはいけないと思うことは、朗読に耐える物語文体である、というより、黙読より朗読がふさわしいということです。この朗読にふさわしいというところに、エスペラント文学の特質があると思います。人間の言語表出としては限りなく高度であることより、低いレヴェルで共有できるところに、文学を成立させる。—それは、耳から聴いて読める文学であることです。

この物語の登場人物の名前と彼らが作った宮殿、庭、塔の名前を並べてみます。

  
父の名:「偉大な南の光」もう一方の父の名:「偉大な北の光」
その埋葬: 銀の棺その埋葬: 金の棺
その娘の名:「南の国の花」その息子の名:「北の空の光栄」
娘の建てた宮殿:「南の白い奇蹟」息子の建てた宮殿:「北の碧い奇蹟」
娘の造った庭園:「南の夜の夢」息子の造った庭園:「北の世の幻」
娘の建てた塔:「南の星座への道」息子の建てた塔:「北の星座への道」

その左右対称型の特徴がこれだけでもよく見えると思います。パターン化された名づけ、タイプ化された登場人物の行動。こうした類型的な概念と名づけによる語句・表現を繰り返し使うことによって、エロシェンコはそこに新鮮なイメージとメッセージを浮び上らせようとします。メッセージは、しばしば教訓めいたものになってしまうのもこの方法が抱えている問題ではあります[エロシェンコは、それをよく日本の友人に批判されたようでした]。

たしかに話の内容とナレーションは類型的概念的なのですが、読んでいくとなにか胸に訴えるようなイメージが滲み出てきます。これは彼が、自分をこの世へ投げ出した〈世界〉と〈その根源〉への限りない憎しみに近い疎外感・失墜感、それに伴う寂寥感を抱きながら、汎生命共同体を夢想していたところから生まれてくるものです。類型的でありながらそんな新鮮さを味わえるのは、それ故だと思うのです。

一般に〈芸術〉と呼ばれる作品は、二種類の系に振り分けることができると思います。

  • A:類型的な概念化された表現を繰返す方法から成る作品系。
  • B:新鮮なイメージとメッセージを提起する作品系。

Aの系の作品はオリジナリティが欠けていると蔑視されがちですが、そこには、誰もに愛されている/きたこと、それがある歴史的積み重ねを築いていることからも察せられるように、奥深い〈生命〉の営みを隠し持っています。

Bの系は、つねにその独創性、オリジナリティで人を驚かし感動させます。それはいままで達成できなかったことを実現させた感動を支え、スポーツの新記録のように〈動物的〉な達成です。それに対して、Aが提起するのは、鈍い感動で、毎年毎年繰返し同じ花を咲かせるときに出会う喜びのように、〈植物的〉です。

それぞれを大切に味わえばいいのですが、現代という時代は、Aの繰返しにとどまっているものをBぶって見せる仕事が結構はびこっています。そういう作品はしっかり見届けるとAが隠しもっているはずの〈生命〉はむしろ放り出しています。放り出しているからこそ、Bぶれるのです。逆にAの息のながさ、拡がりの大きさを借用してBぶっている仕事も多く[ポップアート以来顕著な現象ですが]、一見とてもオリジナルなのですが、Aがもっていた〈生命〉力は結局共有できない。この〈生命〉というのは、一種スピリチュアルなもので、かつてはAとBがそんなに分裂していなかった時代[近代以前]は、それぞれの作品にスピリチュアルなものがあったといったほうがいいでしょう。つまり、〈隠れた生命〉は〈スピリチュアルなもの〉にほかならないのです。

エロシェンコが求めていたのは、そういう〈スピリチュアルなもの〉を伝えることだったような気がします。AとBの境界をなくす作品を書こうとしたというより、そういう境界を意識しないで作品をつくっていたというべきでしょう。この方法は、これはやはり「近代」の文学芸術、とくに20世紀初頭の情況のなかでは、居場所がみつけられないありかた/生きかたでした。彼の文学が忘れられていくのも無理はなかった。

日本の初期社会主義者たちと深いまじわりをもちながら、〈思い出〉以上の存在とはならず、〈思想の遺産〉も〈後継者〉も遺さなかったのも無理はなかったといえます。

そして、21世紀の初頭にきて、もういちど見直すべき存在であることもたしかです。

見直すべき存在と書きましたが、エロシェンコの汎生命共同体思想は、こんにちでもなかなかトータルには受け容れられないと思います。「自然と共生」などといいながら、やはり「人間」中心主義で生きているからです。

どんなに「自然と共生」を唱え実践している人でも、「下等動物」「高等動物」という概念を完全に払拭しきっている人はなんにんいるでしょうか。みみずやムカデを最下辺に置いて、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、そして頂点にホモサピエンスがいる三角形のヒエラルキーを進化論の基本型として頭の底におき、自然と人間、その歴史を考えているのではないでしょうか。その意味では、進化論という科学は、人間中心主義の宗教[人間を頂点に据え、そのうえに神さえ戴きうる]の一つなのです。

ボクは10代のころ「霊長類」という言葉がすごく気になったことがあります。気になったというよりいやな言葉だと思ったのです。「霊長」という漢字は、昔の中国でも使われていますが。「霊妙な力、徳」というような意味で使われていました。それを生物学用語のprimateの訳語として日本語にしたのは、もちろん明治以降のことです。明治37年に出た『言海』にはまだ載っていません。「万物の霊長」だなんて言葉はボクはどうしても使えません。気になって調べたのですが、Primateという英語は霊長類霊長目という意味以前に、英国国教会の大主教、カトリック教の首座大司教という意味があります。こういう意味合いと重ねて、猿から人類を生物存在体系の頂点に据えたということです。

ここでいいたいことは、エロシェンコの語彙の中には、こういうPrimateという語はない、生物や自然物を人間のレヴェルに置きますが、自然と人間の比喩関係を人間を頂点に据えたヒエラルキー構図で見ようとしていない、むしろそれを破壊するまなざしを持っていたということです。

自然と人間を比喩関係でみようとする考えは、古来根強く、かつ説得力のあるものですが、これにも二通りの系があるといえます。一つは、マクロコスモスとしての自然、人間をミクロコスモスという関係においてみようとするもので、そういう場合、肉体が岩石や土になぞらえられ、血液は川や海の水になぞらえたりします。レオナルド・ダ・ヴィンチも人体の血液の流れを自然界の水の循環と同一視しようとしました。

もうひとつは、「花笑う」とか「風のささやき」「お日様のほほえみ」「眠れる大地」とか、「怒濤」とかいった表現を育てた系列です。これは、前者の系と異質な発想の系で、「非科学的」です。エロシェンコがどちらの系に属するか、いうまでもないでしょう。

彼は日本追放後、上海へ行き、魯迅らの世話で北京でエスペラント語の教授をやったあと、革命ロシアへ帰りますが、ソヴィエト社会では結局疎外されて、晩年はシベリアへ行ったり淋しく送らざるをえませんでした。彼の思想は、人類の幸福を夢みることを根にしていてもソヴィエト・ロシアの「科学的」マルクス・レーニン主義とは折り合えなかったのでしょう。

エロシェンコの汎生命共同体主義は、個体の外形の相違を超えて共通するなにかを探ろうとして出てくる思想です。こういう考えかたは、彼が盲目であったことと関係があったのかどうか。

〈盲目であること〉と〈文学/芸術〉との関係について、盲目でないボクが考えられることをこのさい考えておきたいと思います。

〈盲目である〉人の文学、それはいいかえれば〈読む〉こととしての視覚を奪われた人の文学ということですが、それは、文字の系列が生み出すイメージの積層[ページからページへと繰り展げ繰り戻すイメージやストーリーのカットバック効果]を喪失しています。ストーリーを辿り直したり、イメージを再確認するために、すばやくページを戻るということをしない/できない文学として〈読む〉ということです。点字を指でなぞって文字を追い、意味とイメージをつなげていくのですが、そのイメージとストーリーの積層を崩して戻ることはしないのです。

その代り、おそらく[視覚を奪われていないボクは「おそらく」としかいえない]視覚を奪われていない者、いいかえれば非盲目者が、絵を〈見る〉ように、文字[点字]で造られ積み上げられた/あるいは耳から紡ぎ上げた朗読されていく作品を〈見ている〉のではないか、一枚のキャンヴァスをみるように。キャンヴァス[タブロー]をみるように聴くあるいは触れて追う。触覚による[指で読みとる]方法は、時系列的想起によるイメージの作りかただが、触覚を通して残るのはつねにタブロー的なのではないか。その意味で<盲目の人の文学>は<触覚的タブロー>をつくっているといえないか、ということなのです。エロシェンコの見えない眼の奧、網膜の彼方には、キャンヴァス/タブローのように作品が開いている——そういう能力を彼は持っていた。それは文学を現代よりははるかに絵画的に読んでいたにちがいない近代以前の人びとの絵画=絵巻とか壁画とかのありかたと共存するところの多い能力のような気がします。[これは、非盲目者の推測以上のことでしかありませんが、そう考えることによって、日頃はだれでも見えているつもりの非盲目者の驕りを少しでも戒めることができるかと考えました。非盲目者の論理と方法を正しいと思いなすことと近代合理主義とはどこかで手をとり合っているような気がしてなりません。]

以前、「三遠」の解釈のところでも申しましたが、10世紀の郭煕の「深遠」解釈は「山の前から山の後を臨む」ことでした。ここには「山の後」という現実では見えないところを見ようという姿勢があります。ところが中国でも17世紀になると「芥子園画伝」では「深遠」は山を見下す図法だというふうに解釈されます。時代が新しくなるほど〈見えること〉と〈見えないこと〉の区別はきびしくなり、その狭い〈見える〉能力で〈見えるもの〉だけを信じるようになっていくことがこんな解釈の変遷からも立証されます。

そんな近代のなかではエロシェンコの〈視覚〉は例外者のものとなっていくのでしょう。エロシェンコの文学の創りかた/味わいかたは、やはり近代の方法・概念を逸脱しており、そのことによって汎生命共同体思想[近代人はそれを「類型的」「陳腐」と批難する]を安々と手中にしたのかもしれません。しかし世間はそれを理解しませんでした。魯迅と周作人が、エロシェンコが北京を去っていつまで経っても戻ってこないし音沙汰もないのを、「エスペランチストのさびしさ」のせいにしていますが、その寂しさは、彼ワシリィ・エロシェンコという存在の寂しさだったような気がしてなりません。

こんなふうに彼は、魯迅のところへも、日本の社会主義者[とそのシンパたち]のところへも、風の又三郎のように現われ去って行きました。日本では竹橋に雨の滴をしたたらせた身体で現われ、竹橋に思い出の肖像を遺して消え去ったのです。

今回の「言葉」は、「革命だとか叛逆だとかいう最上級の言葉さえ使えばそれでいいというような考えは一種の革命の遊戯にすぎない」というのを選ぼうかとも思ったのですが、これはエロシェンコがそういったと和田軌一郎が回想録『ロシア放浪記』の中で書いていることばで、エロシェンコの書き遺した言葉を選びたいという思いもあって、止めます。それに、次の言葉のほうがはるかに示唆的でもあると思われました。

「坊ちゃん、そんなに不審がらなくてもいいよ。犬や牛や鳥や、また魚だって、内容はちっとも人間とちがやしないやね。ただ、ちがうのは着ものだけさ。」

「何千年かまえには、僕たちの着ものは魚の着ものとちっともちがってやしなかったんだ。そして、僕たちの先祖が狼の着ものを着ていたのは、つい近ごろの話だからね。坊ちゃん、何千年後のことだかしらないが、僕たちも君たちのように洋服をきて、いばって歩いて見せるよ。」(「人類のために」)

坊ちゃんの愛犬エルちゃんの台詞です。犬も牛や魚だって人間とちっともちがわない、ちがうのは着物だけだというところに、エロシェンコの汎生命共同体思想が見事に現われていると思います。

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