N 中井正一

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中井正一については、ボクは二年前に平凡社ライブラリーから『増補 中井正一』を出しています。これは、1995年(もう10年も前になるんですネ)リブロポートから「民間日本学者」というシリーズの42冊目として書き、出してもらった本を増補・加筆したのです。これを読んでいただくのが、ボクが中井正一(ナカイショウイチ)(註)について考えていることを知ってもらうのにいちばんまとまっていると思うので、それと重ならない面から報告をしたいと思います。

なお、平凡社ライブラリー『増補・中井正一』については校正をしているあいだにさらに加筆したいと思ったところが出てきて、出版された当初、それをコピーして、貼り付けた本を身近な人にはプレゼントした記憶があります。ボクの手元にあるのもそんな貼込版なのですが、みなおしてみると、意外にそれが大切なことを言っている(自画自賛ですみません)。たとえば「京都学派」なんて呼称の無意味であることを、中井自身の言葉から裏付けようとしているところとか、ありますので、もしそれをご希望される人がいらっしゃったらどうぞお申し出ください。コピーして差し上げます。

『中井正一全集』全四巻が美術出版社から出ています。これがまったくいいかげんな全集で、折に触れてそのことは言ってきましたが、「全集」というにはあまりに恥ずかしい。とくに以下の二点。

  • 1.全集収録にさいして、文章を読みやすくするための原則がなっていない。
  • 2.洩れている中井の文章がいくつもある。

その後、中井のアンソロジーがいくつか出て、この十年の間にも、岩波文庫『中井正一評論集』(1995)、こぶし書房『中井正一エッセンス』(2003)と出ていますが、どちらもテキストを選ぶときは、底本に美術出版社の全集を使っているようで、これでは中井正一の文体の味が伝わらないという問題が見のがされています。

中井正一をこれまで論じてきた多くの人たちは、中井正一の文体について蔑ろにしてきたといえます。中井正一のメッセージを捉えることだけに焦点が絞られすぎてきたといいかえてもいい。

その好例が「委員会の論理」の扱いかたですね。彼の代表的論文として、どの本もこれにいい場所を用意し、いろんな人が書き書こうとしています。しかしどのテクストも(全集をはじめ「評論集」も「エッセンス」も)この「委員会の論理」という論文を、彼が1931年に『世界文化』に三回にわたって掲載したその機微を削ぎとって、一挙に書かれた完成論文のように収録しています。

これは、未完成の草稿として読めるように収録して、そこから読者が読みとっていくものをみつけるようにしなきゃ意味がないし、「中井正一」を初めから歪曲してしまっているというボクの主張は『SAP』10号(2003)に書きましたのでここではほどほどにしておきます。

ただ一言だけ。—そうやって呼んでいくと、この「委員会の論理」は、もっと現代社会の生きかたの論理(と倫理)の問題提起として読めるということです。

「委員会」といういいかたを中井正一はしていますが、これは人間(まさに「人」と「人」の「間」に成立する関係存在)が、なにかを決議し行動していく「過程」に生じる、その決議のしかた、組織や集団のありかたはどうあるべきか、歴史的にはどうだったか(1931年の段階では中井はその歴史のモデルをヨーロッパにしかみていませんが)を考えようとしています。

狭い意味での「組織論」や「経営」論を超えた読みかたができる示唆を隠した論文です。それが中井自身にとっても「草稿」段階なので、われわれはより自由に読むことができるのです。いつか、じっくり精読してみたいと思っています。

註:
中井正一は戸籍上は「ナカイマサカズ」と訓まれていたようで、『美学入門』河出市民文庫(1951)など、初刷の奥付で、ショウイチだったのが二刷のあとマサカズに直していたりします。中井を研究している人の中には、その呼称の問題にひどくこだわっている人がいまして、中井没後、国会図書館が英文で中井を紹介する文章にShoichi Nakai と書いているのをみつけて、副館長だった国会図書館がこの始末、けしからんと怒っている人もいました。

これはある意味で、大事な問題で戸籍上マサカズと呼ばれていたからマサカズと呼(読)んであげましょう、とここまではいいでしょう。しかし、歴史を扱う(考え研究する)人が、マサカズと呼ばれていたし、自分でもそう名乗っていたはずだからマサカズと呼ぶ(読む)のでなければ、中井正一の実像に迫れないと主張するのは、どうかと思います。
国会図書館の英文記事にたまたまShoichi と書かれたことはとても象徴的です。みんな彼のことをショウイチと呼びならわしてきたということです。
ボクも1970年代「中井正一」を知るのですが、ずっと「ナカイショウイチ」といってきましたし、鶴見俊輔先生も「ナカイショウイチ」といっていました。そんな状況で「ナカイマサカズ」っていわれたらかえって別の人かと受け止めるくらい。

つまり、現代は、中井正一をナカイショウイチと呼びならわすなかで、彼の生きかたや仕事のことを考え議論してきたわけで、そういう、中井正一をどう議論してきたかという問題も含めて彼のことを考えようとするなら(そうしなければ中井正一を論じる意味も減少する。生まれてから死ぬまで中井正一氏はこんなことをしましたと事実を拾って記述しても中井正一の遺したことは伝わらない、それでは歴史を勉強したことにはならない)、それならナカイショウイチと呼ぶことによってかえって「現代」という視点に立って中井正一を論じる立場がはっきりできるとさえいえます。

ま、どっちでもいいけど、ナカイマサカズにこだわるより、ナカイショウイチと呼んだ方がより柔軟に広い視野から、中井正一の思想像に迫れるというものではないか、というのがボクの立場です。

名前をどう呼びどう書くかっていうのは、考え出すとなかなかやっかいで、結構重要な—それこそ「言葉と物」に関わる—問題になっていくようです(次回の岡倉でもこれが問題になります)。

ゴッホにしても、Vincent van Gogh をどう日本語で表記するか、結局いちばん通じやすい表記にすればいいと思うのですが、オランダ語に詳しい人は、よりオランダ音に近いカタカナ表記にこだわります。そのカタカナを日本語を生活言語としている人が発音して、もしVincent van Gogh 氏がいまここにいてそれを聞いても自分の名前を呼ばれているとは思わないでキョトンとしているでしょう。そして、私の名前はこうです、と彼が発音を直して言ってくれても、日本語の体系のなかのどの記号を使ってもそれと同じ「音」は表せないのです。

それなら、誰もが一番通じる表記にすればいい、ということになります。

しかし、ここにも問題があって、どうも名前というものは一人の人間にとって「一つ」でなければならないという考えが現代人の頭にこびりついているということです。

昔は、日本でも「あざな」や「いみな」「おくりな」など、さらに幼名、号などもあって一人の人間がたくさんの名前をもち、また名前を変えることがふつうだったのですが。この辺の問題も含めて人の名前についてどう考えるか——おっと(註)が長くなってしまいました。

2の例として、一つ、とても大切な中井のエッセイをつぎに掲載します。中井は亡くなって50年をすぎているので、著作権の問題も切れていますので、全文掲載します。「現代日本画の一つの課題」というエッセイで、これをみつけた事情はこぶし書房『中井正一エッセンス』の挿み込み月報に入っている小文に書いています(教えていただいた河野元昭さんにもういちど御礼申し上げておきます)。

もう一つ、ABCに来ている木下知威君がみつけた「唖聾年鑑」という小文。これは知威君がレポートしてくれるそうで、そのレポートといっしょに掲載したいと思います。では、以下は中井の文章。

1948年1月『三彩』15号より
現代日本画の一つの課題
中井正一
〔( )は木下が読み易さを考えて付け加えてみました。また、明らかな誤植と思われるところは無断で直しておきました。〕

十四五年も以前の事であった、大阪の博物館で日本画の名画展が行われたことがあった。かつて学生時代に何とも思わずに見た絵が、こんな立派なものだったのかと目を瞠(みは)ったことであった。しかし、幾十点もの絵のことで、さすがに疲れはてゝ、次の陳列室の支那陶器の部屋のソファに身をやすめた。共に観た友だちの辻部君もぐったりしていた。

姿のよい古拙な、何でもないその壷を見ている中に、いつの間にか、私は何か肉体的な或(ある)情感に撲(う)たれつゝあるのを経験したのである。

それは、疲れが休まると云う様なものではなくて、何か、頭にある血の引きゆく様な、一滴一滴の冷たい水が、頭の上より滴り落ちて、全身を濡(うるお)してゆく様な、洗われつゝあるものを感じたのである。

それは美しいと云った様な感じとは違った深山の中で感ずる様な、ゴーッとでも云っている様な寂寞感にも似ているものである。

ものゝ十五分も見ている中に、疲れはすっかりなおって、身体の中に凛とした爽かなものが流れているのに気付いたのである。私は辻部君にこのこころもちを告げた。そうすると、辻部君も、この同じ驚くべき事実に今正に自分自身撲たれ驚いていると云うのである。そして、二人共、その理由の何たるかを、知らなかったのである。

二人共美学を専攻したもの達である限り、この秘密を解く日まで、自分達の負いめは解けない事を語りあい、二人の中でその緒(いとぐち)を発見したものは、それをいち早く報告し合うと云い合ったのであった。 この思いは、今も尚、私にとって、日本画を見る度に苦しい重い課題である。しかし、或日、辻部君に報告したくなった瞬間が私に訪れたことがある。

私は昭和十二(1937)年支那事変を契機に、自由を失う様な馬鹿々々しい目に会った。しかも、その翌年、病気で軟禁の宅下げとなり、更に更に、目に入れて痛くなかった可愛いゝ四つの男の子を亡くした(1938.9)。この打撃は痛烈であった。ペシミズムとか何とか云う様な存在ではなくして、こんな世界があったのか、こんな現実があったのかと、手探りしたい様な、巨大きわみなき世界、絶壁のごとき粗々(あらあら)しい現実が、大きな姿勢で眼前に聳え立った。

東洋で巨大なる佛像を岩壁にほる理由の中には、かゝる巨大感が、巨大存在とでも云うのがあるのではないかと思われるのであるが、つまり、日常存在に比しては、巨大なる存在があることに自分は始めて遇(あ)ったのである。

私にとって、存在が何か凡(すべ)て切実なものと成った。

十一月の末、一本の芒(すすき)が枯れて霜の中に黄色に輝きながら折れさらばっているのを見ていると、実にそれは可愛そうであり、「お前もそうなのか」とうなずき合うものがあった。

そのとき、フト、大阪の陳列館の古い壷が、寂(しず)かに眼前をよ切った。私は、その壷の作者に向って遠くはるかに、「お前もそうであったのか」と挨拶してしまったのである。

私は自由になったら第一日に辻部君にこのことを相談しようと思った。辻部君もその頃自由を失っていた。

爾来(じらい)、この問題は、解けぬ問題と成って残って来た。私は自由がないままに、これが契機となって、中国の研究の不足を痛感して、資治通鑑(しじつがん)を全部読み了(おえ)る決心をしたのであった。一年半かゝってやっと、それを読んだ。想像したよりも中国の歴史は地獄であった。読む内容の苦しさが肉体的にも余り苦しいので、一時、中止したことがあったが、やめて見るとそれは卑怯であり、大衆に対しても責任のない事の様に思って、二ヶ月ほどして又続けたこともあった。

背骨のある男なら、深い憤りを憤りつゞけて生きたであろうと思える歴史が長く長く繰り拡げられている。容易ならざるもの、と云う表現がふさわしいものが、凡ての事情の中にひそんでいる。私にはその古い壷の周囲と、善い意志の人々があるべき位置が定まりかかって来た。更に詩経にとゞかぬ手をさしのべて見ると、「詩は志なり。」「詩は刺なり。」(平岡君によれば刺はうらみことばである)藝術もが、一層、容易ならざるものと成って来たのである。

中国では、実に要領よく、妥協し、迎合し、愛憎よく微笑みしつゝ世に面している藝術が多く、悠々としている。しかし、「甜(てん)」なるものをいとうところの容易ならざるものをチラリとかくしているのがある。 人間の愚劣、自分の愚劣に驚嘆し、大いなる詠嘆を発して、寂かにたん壷に手をつっ込む様に、現実に、じーっと微笑しつゝ手を突込む。しかし、一寸やそっとで憤りがさめているのではない。楽焼き程度の熱ではおさまらないものが、あの地の歴史にはひそんでいる様である。

かゝる微笑と憤りを、オプティミズムと云ってはいられない。ニヒリズム、ペシミズム等の感情はまだ軟い火であって、それはもっと苦しんだあとで哄笑している中国の創った弥勒仏(みろくぶつ)の笑いである。藝術のすべてが、歴史に挑戦し、巨大な嘘言(きょげん)を吐き、それが判るものだけが、ひそかにうなずきあっているのではないか、そして哄笑しているのではないか。

こゝまで追いつめて見ると、私はこんな複雑な微笑を追いはじめざるを得なくなった。人々は一等苦しいときは、フト微笑することがあり、それはゾッとする様な瞬間であるが、中国では、こんな瞬間を「機」と云っているらしいので、私は、この「機」の字を更に追いはじめた。そしてこの「機」と「気」がもつれはじめるときがあるらしいので、更にこれを追跡しはじめる。こんなにして、私は、鹿を追う猟師が山を見ない様に、戦争中を古典本と統計カードで馳けめぐっていたのであるが、この「機」という字にあてはまる瞬間をほんとに把えようとしてもがいているらしい日本画に時々邂逅する機縁にもなった。

大徳寺の聚光院(じゅこういん)の永徳の梅と松の襖絵に面したとき、あの何十畳かの部屋で相対している松と梅が、グーッと睨み合っている。藁(わら)で書いたかと思われる筆緻は冒険に満ちている。思わず息を呑まざるを得ない、こゝでも、血の引きゆく肉体的情感に撲たれたのであった。見ている中に凛然たる魂の姿勢が、自分を乱打し、洗われゆくもの、脱落しゆくもの、きたない「見てくれ根性」が逃げ場を失ってうろうろしはじめるのが、肉体的に、腹(はら)の中に感ぜられるのである。

見ている程に、永徳が、この寺で、生活の周囲と自分の腹を見つめて、息を呑んでいる嗟嘆(さたん)がヂカに触れて来る様な気持ちがする。

そこには、まず自分が自分を見ている深い眼がある。

自分を見据えている眼が、更に激しく万物に瞳をくばっている様だ。無心と云うも、このたゝかいの涯のことであろう。 松と梅が睨みあっているのも、意図(原文のママ)や構図や、下絵ではあの「機」は露われないだろう。空間を領する肉体的な力感が、あの激しい争(あらそい)を空間と空間の中に挑ましめているのに違いない。も早(はや)、空間は闘争の「契機」モメントになっている。

描いている自分を見ている眼のあるたゝかいのある絵画、こんなのが行動する絵画とでも云うんであろうが、こんな観点から見なおせば、日本絵にこんな先達が少なくなく、又このモメントとは、東洋ではめずらしくないんぢゃないか。陰陽だとか、龍虎だとか云うテーマは、東洋的弁証法の主題で、描きふるされていることであるが、この対立するものが絵画空間を領することの根底には、社会の愚劣に大いなる否定の息を吐き、自分が自分を見る厳しい目が、動き出さなくて、自分が自分を否定するこの「機」が、この時間が、相続しなくては無駄であると自分には信ぜられる。

かゝる機とは、一気通貫と云い、気を養うと云う様な言葉であらわされているが、冷水三斗を一気に頭から浴びなくてもよいが、滴り滴るもの、全身を濡ほすかたちで常にしたゝりおつるものを心の中にもっていると云うこと、たゝかう心を張りをもって調えるものがあることであろう。ボートなどで云えば一艇身(いっていしん)を後(おく)れてはいるが、ピッチを二本位相手より少く櫂(こ)いでいる、「よおし」と緊(ひきしま)って、しかも、悠々と落ちついている様な、果敢なたゝかうものを、身に感じつゝ一本一本のオールを引いているこゝろもちも亦(また)そんなものであろう。

それは、実に動いていて、爽かで、しかし、喘(あ)えぐほど緊っているとも云え、又微笑するほど果敢に投出しているとも云える、実にたゝかっている気持である。

自分自身を否定の媒介とすると云う弁証法的世界観の出現は、かゝる皮肉イロニーをふくんでいてはじめて味と彩がついてくるんぢゃないか。

この追いあっている二つの自分が、グーッと自分自身を追い越すように影をかさねるとき、藝術家はほんとうに筆を執るよろこびをもつと云えるんぢゃないだろうか。競争している舟が、息づまる様に、舟をならべている鋭ぎすました時の流れ。こんな時間が作品の中に流れているとき、私達も、畏(おそる)べき自分の内面に吸い込まれる様に、血の引きゆくのを感ずるのではあるまいか。

こんなしびれるような寂かなよろこびは決してゆさぶられる様な疲労に人々を落し入れる様なことはない。むしろ、わきたっているむらぎもの想いの濁りに、明礬(みょうばん)でも落した様に、凡てが沈殿し、澄みゆく思いをさして呉れるに違いない。ふるいたつものがあるに違いない。

中国の壷も、このたゝかいのこゝろの涯(はて)に造られたものであったのであろうか。こんなに考えて見ると、絵の中に、こんなジャンルとでも云いたい藝術の境地がある様に思われる。しかし、それは単に類型的な様式ではなくして、一山越えて憤るものが、耐え練れて、やっと達するところの「門」とでも云いたい様なものを感ずる。弁証法的なキビシイものゝあるリアルな世界である。 現代の日本画には、このジャンルがだんだん少なくなってゆく様に思えてならないのである。

自分が自分に対決している絵がだんだん少なくなって行く。社会の愚劣に深く息を吐いている、自分の愚劣に嗟嘆している自分が、自分を追越そうとして、姿勢を正して追っている眼晴(がんせい)を感じせしめる絵が、数少なくなってゆく。

審査員の眼を追い、展覧会の観衆の眼を追い、批評家の眼を追っている、はなはだしいのは画商の眼を追って、画絹(えきぬ)を、その前面へ、その前面へもち廻っているのが、まざまざと、展覧会の壁一杯に感ぜられて、悲しい。

彼らの意識する眼は、実に多種多様である。万人が変る様に、変り変っている。その多角な変化が展覧会の壁の一つの平面を支配している。一つの絵から、一つの絵に眼を転ずる観覧者にとっては、その度にガクン、ガクンと眼が廻わる思いをさせられる。丁度電車から外を見ているときに、次から次のバラックに、疲れる疲れを、私達は展覧会で味わされるのである。

安価な画商の眼を追うて描かれている絵は、私達を画商の安価な眼のアングルにさしむけるだけであって、その一つ一つの絵が私達の中のいらだつものゝさめゆき、血の引きゆく決意に似た思いを味わしてくれることはない。 あの大阪の名画展といえども、私を疲れはてさせた。そして、一個の支那の壷によって、そのいらだちを医(い)することが出来たのである。このことが、私にとって、未だ解けきれていない課題であるとともに、現代日本画のもつ課題ともなるのではあるまいか。

的の真ん中を射した矢を、裂いて次の矢が更に真中を射す様に、自分自身に対決する眼晴は、万人の眼を貫いて、歴史を貫いて、真直に只一筋、永く尾を引いて、未来にさしつらぬかれているのではあるまいか。 かゝる眼は、只一つであって、それを見ることによって、いよいよそれが同一のものであることをたしかめ、いよいよ人々の疲れをいやすものとなるのではあるまいか。そして、その只一つのものが、その筋道を辿って変化することは、一つの「門」から一つの「門」へ、一つの「品」から一つの「品」へ、と深まって行くことであろう。

芭蕉が死の直前、其角(きかく)嵐雪(らんせつ)から別れて、「軽み」の世界に出ていったとき、この変化は、人々にめまぐるしい思いをさせる変動ではなくして、真すぐに脱落して行った、自在を得てゆく姿である。永徳があんな重い松と梅を書いて、又身を翻えして艶麗の中をさまよって、しかも自在を得ているとき、自分を見ているが故に自分に止っていない無限の豹変と、直実に即(つ)くことの軽さが感ぜられて爽かである。しかし、それを追うものにとっては薄気味が悪いほどである。しかし、一つのものが、もっと、その一つのものをたしかめたことに驚くのみである。

こんなに考えると、現代日本画展が、一巡して何か疲れるものをもっているのは、その眼が、切実なたゝかう眼晴の中に、沈んで行かないことに起因するのではないかと、フト疑って見たくなるのである。

画絹を、何かとんでもない人々の眼の前に持ちまわって、筆を起しているからではないかと、私には思えるものがあるのである。いろいろの人々から、そのことについて教えを受けることが出来ればと思っている。
(一九四六・十一・二)(美術評論家)

絵画・美術というものは、ほんらいどんなふうにあるべきかを語って、なかなか鮮やかです。50年前、「現代」の文体から遠くなったなという思いもありますが…こんな文章には、おいそれとお目にかかれるものではありません。「たん壷(痰壷)」に手を突っ込んで、苦痛をぐっとこらえながら顔はにこやかに微笑しているなんて、現代のわれわれはもう忘れてしまっている(忘れさせられている)心境かもしれません。そんな心境を芸術の境地として想い直させてくれる貴重なことばです。現代のわれわれは、こういうふうに語ることを時代錯誤と思っているのかもしれない。でも、そうじゃないよって語りかけています。

その上に、自分や家族のことについてほとんど書かない中井が、大事な息子を喪くした悲しみを吐露しているという点でも、かけがえのない文章です。この文章を全集に入れなかったのはなぜか、と問い詰めたくなります。

当日のABCではそのほかのテクストも読んだのですが、当日の配布資料リストを掲げておきます。

  • 1.略年譜
  • 2.「現代日本画の一つの課題」(『三彩』15号 1948、1.)
  • 3.「唖聾年鑑」(『世界文化』)
  • 4.「絵画の不安」(『美』1930、7月号)
  • 5.「委員会の論理」より、表A1,2,3.(中井の本文より)表B(中井の表3点を木下が再編)
  • 6.「言葉」

「言葉」は、二つ選びました。

「白い画布それは一つの不安である」「絵画の不安」(1930)より

「たたきつぶすこと、打破すること、ぬけ出すこと、脱出すること、流れ新しくなること、流動するということ、この行動の中に美が生まれ出でることとなるのであります」—『日本の美』(1952)より

若い頃の文章と最晩年の文章を対比してみようとしたのです。この二つの言葉が載っているそれぞれのエッセイを読むと、彼の「若さ」と「成熟」ぶり、そのちがいがとてもよく見えるのですが、こうやって、抽出した二つの言葉を並べると彼の生きかた=美・芸術に対する姿勢がある共通した気持ちに貫かれていることがみえてきます。

思想のありかたは、決して一貫していたとはいえない、戦中は治安維持法にひっかかるような言動をみせ、執行猶予の判決をもらって、敗戦まで「京都新聞」に連載するコラムには転向者の姿が露わです。

戦後、それを裏返しにしたような左翼の立場をとり(多くの当時の左翼系知識人の類型です)、広島県知事選に民主陣営から推されて立候補、落選したあと新設される国会図書館の副館長に任命されます。この国会図書館副館長になった彼を、政府に身売りした知識人というようにいう人もいますが、ボクは、こうして敗戦の日本国家の図書館事業の中枢に身を置きながら思索していく中井に、彼の思想の高まりをみたいと思って『中井正一』を書きました。

そういうふうにみたとき、戦後の中井の生きかたとその思想過程から、現在という公式や教条で割り切ることのできない不透明な力関係の時代に投げ出されているわれわれにとって、いかに生きるか、考えるかという問題を刺激してくると思うわけです。二つの「言葉」は、その集約です。

状況を白紙にかえし、戻せる限り戻して(たたきつぶし、流れ新しくして)、みずからの手で再編していくことの大切さを切実に語っています。

と同時に「絵画の不安」の文体をみても判るように(11回のABCではかなり突っ込んで本文を読んでみました)、ヨーロッパ近代の美学を背景(教養体系)に、正に横の文字を縦にしたような日本語で美・芸術の状況を語ろうとしていた若い中井がそこにみえます。その後、敗戦直後の広島の農村青年とのつき合いを通して知識人が無意識の裡に傲慢に使っている言語がいかに大衆の言語とかけ離れ、彼らの思考回路とは別の回路を空転しているかを思い知らされます。

1951年52年の『美学入門』『日本の美』は、そういうアカデミックな「大学」の中だけで通じ合っている「美学」という学問を、人間の生き暮している現場と交流し合えるものにしようとした努力の成果(果実として成熟したかといえばまだだというしかない。実を育てる交配をしたという段階でしょうか)といえましょう。

それが『日本の美』からの言葉と『絵画の不安』からの言葉の問いに横たわっているものです。

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