V ヴァン・ゴッホ

ブログのinformationに、去年はゴッホについて朝日新聞とBTに書きましたなんていいましたが、今年も『司馬遼太郎の街道をゆく』(朝日新聞社))のオランダ篇でゴッホを書いていました。

BTでは、「思想を表現する絵画」、これはゴッホ自身の言葉ですけど、そういう絵画としてとらえることの重要さを説いています。そのこと自体大切なんですが、ただ「思想」といったって、具体的にどんな、なにについてのどういう考えかたを展開する思想なのか、それが語り切れないなぁと思いながらあの原稿を書いていました。それ自体大切なことだというのは、美術、絵画というのは、どうしても美術の要素、絵画の要素に分析して語られ、構図だとか色彩だとか線の強さとか柔らかさとか筆触(タッチ)のことだとかを基準に語られます。そういう分析を総合して一般のゴッホ像ゴッホ観ができています(ゴッホの場合、それにあの特異な人生が加えられてその像が強化されるのですが)。たとえばあのBTでも、池田満寿夫氏が「うねり狂うタッチそのもの、筆先から乱舞する色彩そのものの力強さに、僕らは惹かれるんですよ」ナァンテいっていて、池田さんもゴッホ観は非常に通俗的なんだとちょっと驚かされますが、一般のゴッホ観はそんなところです。もう一つBTから例を挙げますが、しりあがり寿がマンガを書いています。ボクは彼のマンガが好きですが、ゴッホといえばやっぱり「力」、「力」を放散するゴッホなんですね。

近代100年が積み上げ塗り上げられたゴッホはなんといっても「炎の人ゴッホ」なんですね。このゴッホ像ががっちりできあがっていて、ゴッホを考える人はすでにその像を基礎に(つまり先入観として無意識のうちにその上に立って)考えを始めるようになってしまっています。

そういう先入観を拭い去ってゴッホの作品をみつめれば、「炎の人」なんていえなくなるよ、というのがずっとボクが書き言ってきたことで、そういう論点で「朝日」も「街道をゆく」も書いてはいました。

で、「絵画は思想を表現しなければならない」というゴッホ自身の言葉にのっかってそういってみて、ではゴッホの絵からどんな思想が読みとれるのか、ボク自身どこかまだボクの考えが煮詰まっていないという思いがつきまとっていました。

そのボクにとっての課題というか、それが、〈土曜の午後のABC〉をやり始めてホグレテきた感じがあります。ABCをこうして聴きにきて下さったみなさまのおかげです。

今日は、やっぱりそこをちゃんと語りたいと思いますが、そのためにはいままで語ってきたことも、もう一度ちゃんと整理するという意味で語らねばならないことでもあります。

かつてボクはヴァン・ゴッホを「闘う画家」と名付けたことがあります。六耀社の本です。そのときこれは「闘う」ということばで、ヴァン・ゴッホが「炎の人」と呼ばれるような「力」を発散する画家であることを誇示しようとしたのでありませんでした。先週、又兵衛のときに言った表現を繰り返しますが、ゴッホを〈強さ〉の画家としてではなく、どこまでも〈弱さ〉にこだわる画家としてとられたい、そういう意味での〈闘う〉という表現がありうるという考えだったのです。本を通して読んでいただいたら伝わってきていると思うのですが(余談ですが、担当の編集者はまったくそれを理解してくれていなくて、カヴァーの解説を無署名でということはあれではあたかもボクが書いたかのような体裁でボクの意図と正反対の狂気におびえる激しい色彩と線の画家というような事を書いていて、ボクはもちろん直ちに抗議しましたが)、しかし、一般にヴァン・ゴッホはその表現のありかたにおいても、生きかたにおいてもこれ以上になく「強い」画家とみられてきたし、みられています。この通念を逆転させなければならないとは、ボクがずっと考えてきたことです。

そのためには、ヴァン・ゴッホは〈弱さ〉としての〈美しさ〉をどのように見つけようとしてきたかを、彼の一つ一つの作品の中に読むことだ、と気が付いたのは、最近なんです、実は。彼の絵画に表現される「思想」というのは、この〈弱さ〉の自立への試みといいかえ、その試みを絵の中に見つけることなんだと気が付いたわけです。

ヴァン・ゴッホこそは〈弱さ〉の自立を願い続けた画家だった。これが、彼の生きかた、彼の言葉、彼の絵の中に読みとれる、このことを今日はやってみようと思います。

今日は、そのほんの序の段の試みですが、これをみなさんもこれから積み重ねていってもらえればと願う次第です。そうすれば、いつかはきっと変っていくだろう。先週申しましたように、絵というもの、表現というものは〈強く〉なければならないという考えが根強く浸透しています。作品を批判するとき、「この辺が弱いね」といいます。と生徒や弟子はその〈弱さ〉をなんとか〈強く〉しようと頑張る、つまり、 〈強い〉ことは〈良い〉ことだと、これも「炎の人ゴッホ」以上に、誰もがそう思っていて〈強さ〉を求めているのが現代です。すべてを〈強さ〉で裁断していく思想、これを変えて行けることができるかもしれない。

そういうわけで、〈弱さ〉の自立を願い続けるヴァン・ゴッホを発見する――これが今日のテーマです。そして、そのためにもういちど人類史における〈自己〉対〈世界〉の関係構図の変遷と「自画像」の問題を整理しておく必要があります。

今回お配りした資料は三点ですA,B,Cの三点。

  • A)は年表、図版リスト、≪言葉≫がプリントしてあります。
  • B)はまた配るのかといわれそうな、〈自己〉vs〈世界〉関係史構図、これもブログではすでに掲載済みです。今日のは一部違うだけなので略します。
  • C)は「自画像への旅」全10回切り抜き。共同通信社の依頼で書いたもので朝日や毎日には載らないのですが、全国の新聞に配信されています(これもブログに再録するのはやめます)。

C)はB)の表の具体例を最小限10回にまとめたものです。じつは、共同通信社に渡した原稿には、ヴァン・ゴッホは入っていません。敢えて抜いておいたといった方がいいかもしれません。というのは、ヴァン・ゴッホは自画像の歴史のなかでもとくに重要で特別な仕事をした人なのです。(本人はそんなことをしたつもりも意図もなかったかもしれないけれど、人類史〔大げさですけど〕という視点から見直すと、大きな意味をもってくるのです。

B)はいままでになんどかお渡ししていますが、もういちど今日も重要な役割を演じるペーパーとなるので配ります。今日はいままで配っていたのには入っていない三つの項目(文字)を最下段に書き入れてもらいたいのです。上の爛でもいいです。ただ書き込む位置が大切です。〈古代〉の部分の軸に相当するところに〈自画像以前の時代〉と、〈近世〉〈近代〉の部分に相当するところに〈自画像の時代〉、〈現代〉に相当するところに〈自画像以降の時代〉と書き込んでください。この表は〈人間〉という〈自己〉が〈世界〉という〈他者〉とどういう関係をとるか、〈世界〉〈他者〉をどんなふうに考えているかということを図式化してみたもので、人類が〈言語〉(ことば)〈表現するという行為〉を身につけて以来、その〈関係のとりかた〉はどう変わったかをできるだけ簡潔に表してみたものです。

そして大切なのは、そういう関係のとりかたの変遷は、ただちに「芸術」形式の変化としても現れているということです。つまり、「芸術」と呼ばれてきたあるいは呼ばれている〈人間〉特有の表現のありかたは、〈自己〉としての人間が、自己の周りに存在する〈他者〉という〈世界〉との関係のとりかたによって決定されていくということが、この表から読めます。(というよりこの表が表しているのはそのことで、それが〈歴史〉というものです)。

この表に書き入れている事項について詳しく説明したいのですが、今日は時間がたりません。いつかその機会をぜひつくりたいのですが、今日はともかく、これが、人類が辿ってきた〈自己〉と〈世界〉の関係のとりかたの歴史だということを押さえておいてください。

そして、〈古代〉型は〈自画像以前の時代〉、〈近代〉が〈自画像の時代〉、〈現代〉が〈自画像以降の時代〉に相当することを納得してもらいたい。われわれはいうまでもなく〈自画像以降の時代〉を生きています。こうして〈自画像〉という概念・ジャンルをキイワードに、人類史における美術行為を眺め渡すと、人類=人間の表現のありかたの変遷とその必然性が浮び上がって見えてくるというのが、この表のポイントです。絵画の一ジャンルである「自画像」が、単に絵画/芸術の表現形態としてでなく、人類の世界意識のありかたを如実に伝えてくれる、いいかえれば自画像という一美術ジャンルを考えることが、人類の歴史のありかたというとほうもなく大きい問題へと拡がっていくということです。

C)は、このB)表の「自画像の時代」「自画像以降の時代」から作品例をとりあげたものです。人類史の視点からいえば、「自画像以前の時代」は、じつはとうほうもなく長い時代です。ここをよく考えないとじつは美術史は、ちっぽけなものに終わってしまうと思います。このとほうもなく長い時代の経験を経て、〈人間〉という〈自己〉は、〈世界〉を対等のものとしてみる技術を獲得し(遠近法・パースペクティブですね)いわゆる自画像を生産するようになります。それ以前に自画像がないわけではないが(記録/文書が少し遺っています)作例はきわめて少ない。つまり、人類/人間にとって、自画像を描くということの必然性がなかった時代なのです。

この〈土曜の午後のABC〉では、その〈自画像以前の時代〉をL:ラスコーやT:敦煌、C:屈原、J:イエス、H:埴師などで考えてきたのでした。

ゴッホは自画像の歴史の中で特別重要な存在だといいましたが、それは(このことについては二玄社の本〔『ゴッホ?自画像の告白』2001〕にも書いています)、彼の、個人として一人の画家としての自画像への取り組みが、この人類史の自画像の歴史を反映している、それもきわめてパーフェクトな形で反映しているということなんです。

お配りしたA)の年表をここに再録します。年表風メモです。

Van Gogh (1853.3.30―1890.7.29)

  • 1869(16歳)画商グーピル商会ハーグ支店、73(20歳)ロンドン支店、74(21歳)パリ支店
  • 1876(23歳)4月解雇。ロンドン郊外私立学校学務補助員、7月メソジスト派補助説教師師
  • 1877 (24歳) 1月ドルトレフト、書店員、5月アムステルダム、神学校入学試験準備
  • 1878 (25歳) 8月ブリュッセル、伝道師養成所。11月ボリナージュ、臨時説教師
  • ―1880~1885 画家の<オランダ時代>―
  • 1880(27歳)画家への決意、10月ブリュッセル、アカデミー
  • 1881(28歳)4月エッテン
  • 1882(29歳)1月ハーグ
  • 1883(30歳)9月ドレンテ、11月ニューネン
  • 1885(32歳)11月アントワープ         1.「馬鈴薯を食べる人びと」
  •    
  • ―1886~1890 画家の<フランス時代>―
  • 1886(33歳)3月パリ              2.「靴」
  • 1887(34歳)                   3.4.「自画像」ab
  • 1888(35歳)2月アルル             5.「ひまわり」  6.「自画像」c
  • 1889(36歳)5月サン=レミ           7.「自画像」d  8.「星月夜」
  • 1890(37歳)5月オーヴェル=シュル=オワーズ。 9.「烏の群れ飛ぶ麦畑」

年表を見てください。彼はじつに波乱にみちた生涯を送っています。1880年、27歳のときですが画家になる決意をして、絵の勉強を始めます。それまでの10年間も職業を5つ変え、将来の志望も転々と変えています。いや本当は、志望は一つなんだけれど、それを実現しようとするメチエ/仕事を探すと失敗する、というか、そのメチエの方からお前はだめだよと宣告される、そんな挫折の連続の青年時代といってもいい。

絵を描き始めてからは大きく二つの時代に分けることができます。オランダ時代(1880-85)とフランス時代(1886-90)です。

フランス時代は、また四つに分ける意味があります。パリ時代、アルル時代、サン=レミ時代、オーヴェル時代。パリが2年、アルルが1年と3ヶ月、サンレミが1年、オーヴェルが2ヶ月とどんどん短くなっています。

彼ほど住んでいる土地場所が変わると絵のスタイルと方法が変わり、その変化が合致している人は少ないかもしれません。

ゴッホは、職業を転々とし、居場所も転々と変り、絵を描く方法も転々と変わりました(その変わり方はピカソとはちがう意図的でない変わり方で、そこが大切です、ピカソだと変わるのにどうも計算しているなという感じがつきまといますが、ヴァン・ゴッホの場合は、どうしても変わらざるを得ない、という感じで変わっていきます。そのとき同時に居場所も変っているというわけです。

年表に添えて9点の作品名を挙げておきましたが、絞りに絞ってこの9点でゴッホの自画像を見直そうという企てです。

9点の作品の写真はすべて二玄社の自画像全集に入っているので、そちらを参照願います。掲載ページを掲げておきます。

  • 1.「馬鈴薯を食べる人びと」=『ゴッホ 自画像の告白』p.11
  • 2.「靴」= p.41
  • 3.「自画像」a = p.51,   4. 「自画像」b = p.57
  • 5.「ひまわり」= p.1     6.「自画像」c = p.75    7.「自画像」d = p.91
  • 8.「星月夜」= p.89     9.「烏の群れ飛ぶ麦畑」= p.95

彼は40点近い自画像をのこしています(その中には怪しいものもありますけど)。この彼の自画像への取り組みかたは、B)表の自画像の歴史の三つの時期と対応するのです。

事実としては、というか、歴史上は彼自身は〈自画像の時代〉の末期を生きた人でした。が、オランダ時代には、一点も自画像を描いていません。自画像を描いていないからといって、〈自分〉とはなにかという問いをしなかったというのではありません。むしろヴァン・ゴッホは人一倍、〈自分〉とはなにかを問い詰めて生きた人です。それは手紙をちょっと覗くだけでも判ります。それにもかかわらず、鏡に映る「自分」を見てその像を描くということはしなかった、そういう自画像を描く必然性は感じなかったということでしょう。その意味で、彼のオランダ時代は彼にとっての〈自画像以前の時代〉です。

しかし、彼も時代の子、その時代は先程もいったように〈自画像の時代〉の末期です。「自分という人間はどこから来てどこへ行くのか」「自分にはなにができるのか」としきりに考えて〈自分〉を探し求めていましたから、彼の描く絵はどれも、まずなによりも彼の〈自己探求〉の表現であり、その結果としての「自己表出」です。〈自分〉がみた、とらえた〈世界〉、〈自分〉だけにしかみえないかもしれないが、これこそ〈自分が〉〈俺が〉みた〈世界〉だという絵を描きました(この時代の画家たちはみんなそうだったのですが、ヴァン・ゴッホの場合とくにその傾向が強く、それが一般にはヴァン・ゴッホはすばらしいと考えられている特徴でもあります)。

1.「馬鈴薯を食べる人びと」の作品は、そんな、彼の中の〈自画像以前の時代〉の作品として、とりわけ、ほとんど〈自画像〉と呼んであげてもいい、彼の当時の〈自己〉の願望の全てを捧げた作品です。彼はテオへの手紙にも書いているのですが、「農民画家」になろう/なりたい/ならなければやまないとこの頃思っていたのです。これは凄い決意です。「農民画家」なんて称号も誰も考えてもいなかった時代です。ここには彼の少年時代からの憧憬、お父さんのような聖職者、神の言葉を語る人になりたいという願望がうずくまっていました。

それは、貧しい人への愛のまなざしをこめた姿勢ですが、ヴィンセントの場合、一般の聖職者のように、高いところから「愛」の手を差しのべるのではなく、みずから「貧しい者」とともにいたい/いなければ、という思いにみちています。彼が「農民画家」になりたいというのには、そんな意味がこもっていました。これは伝道師としてボリナージュで実践していたところです。

ともかく、「馬鈴薯を食べる人びと」は、ヴァン・ゴッホという19世紀末の自画像の時代の末期を生きた一人の画家の〈自画像以前の時代〉(その中で自画像を描こうとした)を象徴する作品です。

パリに行って、急に鏡に映る自分の姿・顔を描くという自画像を描き始めます。まさに彼の中での〈自画像の時代〉の始まりです。

そしてこの彼の〈自画像の時代〉の終結は、1890年のサン=レミ時代の終わりの時期です。7.「自画像」は彼の〈自画像の時代〉の最後を飾る作品です。

2.「靴」は、ジャンルとしてはパリ時代に描かれた静物画ですが、これが「馬鈴薯を食べる人びと」と共通する、自己の画像を描かない、他の対象に托した自画像の典型的な一つです。

この靴についてはゴーギャンがゴッホから聞いたという回想録が残っています。

アルルの時代ですが、1888年10月23日から12月23日まで二ヶ月間ゴーギャンとゴッホは共同生活を送りました。その彼の部屋の壁に汚れ古びた一足の靴が飾りのように掛けてあるので、不思議に思ったゴーギャンがあれはなんだと訊くと、「あれは10年前俺がボリナージュで伝道師をやっていたころ、炭坑で爆発があった。医者が見放した重傷の男を看病したんだ、そして見事に回復した。生き返った傷だらけの男に、俺は復活のキリストを見た。あのときの辛い日々を耐えた靴なのだ、これは。」と答えたといいます。

そういう靴です。この靴は自画像の代理だといいたいわけです。

5.の「ひまわり」もまた別の意味で、自画像の代理の意味を担っています。ゴーギャンがやってくるとき、彼のために用意した部屋をこの「ひまわり」の絵12枚(イエスの弟子?12使徒の数ですね)で飾ろうと計画します。先輩ゴーギャンを師イエスになぞらえて自分はその同僚でもあり弟子でもありたいという気持をこうして現しているという意味で、「ひまわり」の花に〈自己〉を托していたのでした。

8.は「星月夜」ですが、この絵の前景である糸杉、この糸杉の絵をゴッホはサン=レミ時代何枚も描きました。精神障害に冒された自分が、復活する願いをこめて、「死」の象徴とされる糸杉に〈自分〉を托したのでしょう。

こういう、ある事物に〈自己〉を托すということは無意識の裡にやっているのですが、あとで彼の仕事全体をみるとみえてくることです。

彼の中の〈自画像の時代〉にあって、鏡に映る自分の像としての自画像を描きながらも、一方で静物だとか風景に〈自分〉を托す自画像も描いていたところに、ヴァン・ゴッホの特質、他の画家にはみられない特質があります。それはあとで考えます。

今回のために用意した「自画像」は4点のみですが、背景に注目してもらいたい。いずれも現実に鏡に映っている壁とか室内の一部を描いたとはまったく言えません。

〈自分〉〈自己〉という像=存在を画面に成立。実現させるための〈背景〉はどうするのかを探しているという感じです。

乱れているように見えながらもなにか動きを案じしているような短いストロークのタッチ。(詳細は二玄社の本をみて確かめてください。)タッチが露わでない自画像cもありますが、よく見ると、筆の動きが伝わってくるものがあり、ともかく、このタッチは彼の自画像の時代の中での「自画像」を一つの方向へ連れて行くのが読めます。

一つの渦巻きへとタッチが収斂していきます。

「自画像」aではクロームイエローのバックにウルトラマリンの短いタッチが踊っています。それがbでは背景の下地は黒でしょうか、そこにヴァーミリオン、コバルト、白の入ったクロームも混ってその動きは〈自己〉像を囲むように動いています。

cは一見タッチはないようですが、塗り込めた筆のあとが、やはりbと同じ動きをしていて、その動きがより奥へ向かっていて、〈自己〉像、絵の中のヴァン・ゴッホの頭部の首根っこのあたりに動きの焦点がある(それはもちろん絵では隠れている)ような気配です。

dになると、筆触はグンと複雑さを増し、円形の動きではない、いくつかの渦がどこかへ行こうとしています。やはり、焦点は頭の奥にありそうです。―――自画像はここで終わります。

このあと、彼は自画像を描かなくなりますが、この8.「星月夜」を見てください。天上の月や星の光が作る渦の形は自画像の背景にあったあの渦です。

そして先にお話ししておいた〈自己〉に仮託された糸杉が、この絵では画面の左方へ移動しています。いいかえれば自画像の場合、画面の中央を陣取っていた〈自己〉の像が左へずれた画面構成です、これは。

そう考えてこの画面を見たとき、その〈自己〉のいた位置に、忽然と現れたものがあります。教会です。とすると、あの自画像で渦巻いていた背景の焦点(頭の向うに隠れていたもの)はこの教会に代理させたいものだったのかといえます。

問題は、ここで終わりません。もう一点有名な9.「烏の群れ飛ぶ麦畑」ですが、これは、亡くなる直前、僅か二ヶ月しかいなかったオーヴェル・シュル・オワーズ時代の作品です。画面構成は、8と9は相似です。9は横長ですが、キャンバスの中にゴッホが見ようとしたb秩序=画面構成は前景と後景(大地と空)から成り立っています。そして、9では、8の前景の前を占める位置にあった自分の像としての糸杉が消えています。画面の中から消えた〈自己〉。

これをどう読むか。まず言えることは、自分自身が描く絵に、オーヴェル時代のゴッホは、鏡に映るような〈自己〉の像はえがけなくなった、ということ。ということは、自分の作品としての〈絵〉の中に〈自己〉の位置を見つけられなくなったということです。

短いオーヴェル時代は、ヴァン・ゴッホにとって、〈自画像以降の時代〉といえるわけです。

こうしてヴァン・ゴッホは、37歳の生涯、そのうちの10年の絵描きの生活のなかで、人類の美術史の時代全体(〈自画像以前の時代〉〈自画像の時代〉〈自画像以降の時代〉の三つの時代)を生きた・駆け抜けたのです。

これほどパーフェクトに個としての生きかたに類的経験(人類史という経験)が映し出される例は少ない。その意味でゴッホは特別だといった次第です。

個としてのありかたの中に類的経験が重なっていくという経験はじつは誰でも経験していることなのです。

芸術作品に感動するということは、理屈としていえばそういうことなのですね。ある個人(の画家なり小説家なり詩人なり)が、なにかに感動したことを作品化する――――その作品を観る人が、その作品に共鳴し、感動するということは、その作者個人の行動と経験を越えたなにものかを、その作品に向かっている者(鑑賞者)が感受したということであり、それは、自分という個人の行動と体験では叶えられなかったナニカを実現させられていると受け止めることですから。

自分の個人の体験を越えているナニカ、これが類的経験(類としての経験)になる。そういう意味では、誰でも類的経験はしている。なにかを読み、なにかを聴き、なにかを観て「感動」することは、その経験を受け止めた証拠であるわけです。

ゴッホは、その類的経験をパーフェクトともいえる形でみせた稀有な画家でした。なにしろその「自画像」のありかたにおいて、彼が死んだあとの20世紀に展開される美術のありかたを予感した絵を彼の中の〈自画像以降の時代〉でみせてくれたのですから。

〈自画像以降の時代〉というのは、現代のわれわれが投げ込まれている時代ですが、〈自己〉が分裂し拡散してしまって、「これが絶対に自分だ」という〈自己〉が取り戻せなくなっている状況です。

19世紀末、ゴッホがいたヨーロッパ(世界の先進地帯)といえども、まだ〈自己疎外〉という概念は、哲学用語としてはあっても体験に裏付けられた言葉として拡がってはいませんでした。v

しかし、ヴァン・ゴッホは、じつは〈自己喪失〉の経験者だったのです。発作と入院の繰り返しの中で、彼は、それをすでにしたたかに経験していた。おそらくそのことが、彼に19世紀末にいて20世紀以降の知的情況を先取りするような作品を作らせたのだといえましょう。

人間は〈自己喪失〉や、〈自己分裂〉〈自己拡散〉を経験すると、人間であろうとする限り、その喪失し分裂・拡散した自己を取り戻そうと努力します。

ヴァン・ゴッホもその例外ではありません。アルル末期からサン=レミ、オーヴェルの時代のゴッホの作品は、その努力のあとだということができます。

とくに、サン=レミでの修道院の療養所を出ようと決めたころ、それまでは入院すれば治る、喪失した自己を取り戻せるという希望にすがることができた。それがだめだとあきらめた、断念したとき、自分にのこされたのは絶望だけだと知って、サン=レミを出ます。それ以降が彼にとっての〈自画像以降の時代〉です。

ここで≪言葉≫を読んでみましょう。

ヴァン・ゴッホの≪言葉≫にはなにを選ぼうか、迷い悩んだのですが、ここでは二つに絞りました。

「日本の芸術について勉強していると、疑いもなく賢者にして哲学者という知的な人間に出会う。この人はなにをして時を過しているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。いや、ちがう。ビスマルクの政策を研究しているのか。いやちがう。彼は一本の草の芽を研究しているのだ。
しかし、この草の芽は、彼にすべての植物をそうして四季を、壮大な風景を描き出させ、ついにはいろいろな動物、それから人間の姿を描き出させるようになる。彼はこうして生涯を送るが、人生はあまりにも短い。
ねえ、これこそほんとうの宗教というものではないか。これらの日本人が教えてくれる、こんなにも単純で、まるで自身が花であるかのように自然のなかに生きることこそ。」(542)

(542)という数字は書簡全体に打たれた番号です。いちおう時代順の番号ですが、この542書簡は、日付も消印もなかったので正確にいつ書かれたかは判りません。すでに発作を、つまり<自己喪失>の断片を経験したあとであることは確かです。時期はともかく、というより時期なんかどうでもよく、このヴァン・ゴッホの言葉に耳を傾けたい。

「まるで自身が花であるかのように自然のなかに生きたい」というのが、このときのヴァン・ゴッホの切ない願望だったわけです。「花であるかのよう」の「花」は「草」「植物」といいかえてもいいものです。

〈自己喪失〉を経験した上で、〈自己〉を取り戻そうとする方法として、〈自身が花であるかのように生きること〉というのです。〈花か草〉のように生きたい、そこからもういちど彼の好きな言葉を使えば〈復活〉を望もうというのです。  この〈花〉は、世阿弥のいう「花」とは全然ちがいます。〈単純で自身が「花」であるのかのように生きる〉というのですから。この言葉が誘い出す彼の絵は、下草の作品です。

下草を描くモティーフの作品は、ヴァン・ゴッホには早くからありますが、とくにオーヴェル時代に多いようです。画面全部が下草でなくとも、空と地上の光景が画面の上の法に追いやられて、画面をしめるのは畑や野原ばかりというような構図も、この下草を描きたいという彼の気持ちが促したものと思います。ヴァン・ゴッホは、林や庭を描くとき、その大地にいちばん近い情景に眼を遣りそれを描こうとしています。

当日は、例を挙げてその絵の写真をみながら、筆遣いも色合いも、なんと〈強烈さ〉からは遠いことか、を確認しあったのですが、ブログでは絵を省略します。みなさんご自身でいろいろな作品を眺めて考えていただけるといいと思います。そんな絵とさっきの「言葉」に、ヴァン・ゴッホの〈弱さ〉を生きようとする祈りのようなものを聴き取ることができると思います。

オーヴェル時代の絵はとりわけ〈弱さ〉への慈しみにくるまれているようです。彼にとっての〈自画像以降の時代〉は〈弱さ〉の自立への願いに支えられていたことが読みとれるし、これは現代にとってとても大切なメッセージではないでしょうか。

こんなふうなまなざしでもっとヴァン・ゴッホの絵をみていきたいと思っています。

この〈弱さ〉への思いというか、心の傾きは、ヴァン・ゴッホには子供の頃からあったものだと思います(推測にすぎませんが)。しかし、近代という、〈強者〉がなににもまして尊ばれる時代、その彼の願いというか思いは屈折して育っていったことは確かです。

絵を描くようになっても、やはり〈強い〉確かな表現力を身につけようと努力するわけです。そうして努力しているなかで、彼自身も意識しないうちに地下水のように彼の制作過程の中で浸みわたっていったのでしょう。近代の論理はとにかく〈弱者〉を排除し〈強者〉を讃える秩序を構築してきたのですから、ヴィンセントが個人的性向としてもっていた〈弱さ〉への愛のようなものも、なかなか芽を出すことは難しかったと思います。画を描くことをメチエ(生涯の仕事)にしようと思い決めるまでのあの職を転々と変えていくことも、このことと関連づけてみるべきだと思います。彼はその人生を〈弱い〉者を救いたいという仕事に就こうとして始め、結局自分が救われようのない〈弱い〉者であることをしたたかに思い知ったという人生を歩んだことですね。

セザンヌは、ヴァン・ゴッホと同じポストインプレッショニズムの画家というふうに美術史では分類されますが、絵の質は全く異質です。そしてこの〈弱さ〉への志向という点から見ると、もう一つの決定的な違いが見えてきます。

それは、セザンヌは、絵画の法則(理論)をみつけようとし、その法則を絵画化しようとした、そういう絵を作りました。〈法則〉、これは〈強さ〉〈力〉の原理です。(もっともセザンヌがいつも〈強さの画家〉だったと言い切るのは早計です、芸術という仕事はいつも〈弱者〉への愛を隠し持っているのですから。ただセザンヌ以降の現代美術は、セザンヌから絵画の〈強さ〉〈法則〉を吸収し、継承しようとしてきたということです)。

それに対し、ヴァン・ゴッホは、絵画に法則をみつけたいというような考えは持たなかった。〈感情〉(理論でなくて感情です)を絵として語り、〈物語〉〈メッセージ〉を描こうとしたのです。そんな彼の行動(生きかた)を支えていたのは〈祈り〉といっていいものでしょう。

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 ところで、さきほどの≪言葉≫の中に、「まるで自身が花であるかのように自然のなかに生きること」とヴィンセントは言っていましたが、この〈自然〉、英語のNature(ネイチャー)、フランス語では同じ綴りで「ナチュール」と発音する単語です、「ナチュール」と発音するとやっぱり絵画の世界ではそれに対応する語として頭に浮かぶのはナチュール・モルト nature morte です。英語ではこれを still life といっていますが、日本語では「静物」といっています。

Nature morte を直訳すると「死んだ自然」なのですね。つまり、さっきの日本の賢者を讃えそんな生きかたをするところに〈ほんとうの宗教〉のありかた(この〈宗教〉は、ヴァン・ゴッホにとってはほとんど〈芸術〉と同義です)をみたいと思ったということは、 morte (死んでいる)ということにはならない nature (「自然」という訳のほかに「生命」「本性」「性質」「実物」「本能」という意味があり、 de nature とか par nature というと「生まれつき」「元来」という意味、 dans la nature は直訳すると「自然のなかに」という意味で、そういう意味でも使われるけれど、一方「どこか知らないところに」という意味合いもあります。 Elle est disparue dans la nature. というと「あの女は蒸発した」みたいな意味です、こんな多様な意味をもった nature を生かす絵を求めていたともいえるのではないでしょうか。

そもそも印象派は当時の現場ではたいへんな反抗的青年画家の活動で、アカデミックな画家や美術関係者、愛好家からみれば、鼻持ちならない不良どもの絵だったのが、現代人にとっては安らぎすら与えてくれる絵としてみられるようになりました。

ゴッホの絵も、その静物を描いた絵なども、当時の鑑賞眼には nature morte に見えないような絵として嫌われたのも当然でした。

ヴァン・ゴッホの求めていた nature は、死んだ( morte )nature でなく生きた nature だった、それは19世紀の鑑賞眼には異様なものと映ったといえます。その「生きた論理」は、そのまま近代では〈強者〉の論理に引き上げられますが、ヴァン・ゴッホ自身のなかではそう考えていなかったかもしれない。自身が注いでいたまなざしは、当時の現実に排除される〈弱者〉の〈生きている〉姿へのまなざしだったといえるからです。

ともかく、自画像を描かなくなって亡くなる直前の二ヶ月のヴィンセントは〈自然〉 nature のなかに静かに生きることを願い、人びとの自然界(建物、風景)の姿を描こうとしていました。(20世紀の美術がヴァン・ゴッホにみつけたのは、そんなヴィンセントの願いと試みとは別の<強力な>絵画の方法でした。それがフォービズムとか表現主義とかへ行きます。)

さて、もう一つの≪言葉≫は;

「気がふれ、あるいは病気になりながら、それでも自然を愛する人間がいる、それが画家というものだ。」(591)
です。ここの「画家」という言葉の場所には、「詩人」でも「音楽家」でも入れ替え可能です。「自然」という言葉がここにも登場します。さっき考えた〈生きた自然〉へつながる言葉、というよりまさにその〈自然〉です。「気がふれ、病気になりながら」と書いて、〈自分〉の置かれている情況とそこでの自分の役割を規定し認識しています。精神的にも身体的にも社会にあって〈弱者〉であることを自認しようというのです。

そんな〈弱者〉としての自分でありながら、なお〈自然〉を愛しつづけることのできる仕事(メティエ)がある。それを大切にしたいというメッセージです、これは。

ここまで追い込まれていて、それでもなんとか、せめて他人(ひと)に迷惑をかけず。つまり自立して生きていきたい、そんな(〈弱さ〉の)自立への祈りにも似た言葉です。

いま「自立」という言葉をくりかえしましたが、この「自立」という概念、これを〈強者〉の尺度で測りゴッホの絵を見ると、その絵の特質が「情熱的」、「激しい力強さ」になってしまうのでしょう。

さきに彼の自画像を考えたとき、鏡に映る自分の像を描きながら、他方で、靴やひまわりや糸杉に自己を托す自画像を描いていたことを強調しました。これは、ヴァン・ゴッホが、自然物、自分を取り巻く世界のなにかに自分をたくしたいという思いが強かったことを意味します。自分を托そうとしていたというより、その托すべき対象(もの)が、靴・ひまわり・糸杉と、時と共に変っていくことからも判るように、托せるもの(対象)を求めて彼は描いていた、といった方がより彼の気持に沿えているでしょう。こういう托しかたは、〈他者〉と〈自己〉とを重ね合わせ、〈他者〉と〈自己〉との関係をあるいは〈自己〉を、〈他者〉に仮託するという気持が強く、その点で古代的な意識のありかたです。

ヴァン・ゴッホは、無意識の裡にでしょうが、古代的な〈自己〉と〈世界〉の関係のとりかたを憧れていたのです。

〈弱さ〉の論理をみつけるということは、まず、近代が用意した論理の枠づけから逃れることを試みなければ始まらない。〈近代〉の論理から、つまり〈強者〉の論理でもって、〈弱者〉へ手を差しのべるのは、ある意味でかんたんです。 そういう罠に陥らないで〈弱さ〉を表現しつづけること、その方法原理をみつけることは、これからの課題というしかありません。

〈近代〉の論理の枠から逃れて、あたらしいまなざしでもって、いままで概念化されていた事象や出来事を、ひとつひとつ見直していかなければならないいからです。そのさい、ヴァン・ゴッホの絵とその取り組みかたから学ぶことが多いと思います。

そんな思いで、ヴァン・ゴッホの作品を見直す試みをやってみましょう。

たとえば、ヴァン・ゴッホの「嵐の来そうな空の麦畑」(これも写真掲載はしません。カタログレゾネの番号でいえば、JH2097, F778で、「烏の群れ飛ぶ麦畑」と同じ場面、あの絵から烏をとり去った絵ですから、みなさんよくご存知の作品です)。このタイトルは、ヴィンセント自身が付けたものではありません。これは、明らかに20世紀のゴッホ研究家が、「烏の群れ飛ぶ麦畑」の作品を前提にして、あの悲劇を呼んだ麦畑、自殺を予告する不吉な烏の乱舞といったシーニュに惹かれながら、不幸な天才、狂熱の画家の描いた同じ麦畑、というわけで、先入観にひきずられてこんなタイトルをつけてしまったのではないか、とボクは推測します。

そういう先入観を離れて、この絵をみてください。空の下方、コバルト・ブルーの上から横に走るような濃いめの青、ウルトラマリンを描き入れたあたり、「嵐を呼ぶ」という命名の根拠にさせる印象がないとはいえませんが、しかし、それにしても左の方の(上のも下のも)雲は穏やかに流れているではありませんか。畑の草も強い風になびいていたりはしていない。これは、嵐の前の静けさだ、などと考えるのは、まったくの思いこみです。(ヴァン・ゴッホが手紙でどんな注釈をつけていたとしても、絵は絵で自立しているとしてみつめることが大切です。)註1。

註1:
手紙にある言葉は、確かに本人による作品への註釈ですが、それがその作品の理解(鑑賞)を狭くさせてしまうものなら、頼りにしないほうがいい。作者自身の考え(制作意図)は、それはその作品が生まれるための重要で不可欠の契機ですが、やはり作品がもついろいろなメッセージのひとつ、ワン・ノヴ・ゼム(one of them)にすぎません。作者の意図を越えるものを発見できてこそ、その作品は〈作品〉として凄さを帯びてくるのです。そういう作品との接し方をもっと鍛えたいと思います。いいかえるなら〈作品は作者を常に裏切る〉のであり、〈作者〉を裏切らないような作品は駄作なのですから。
制作する人も、鑑賞する人も、このことをようく胸の底に潜めて〈作品〉に向かってほしいと思います。

 

素直に〈絵〉をみれば、ヴァン・ゴッホがこの絵に描き出そうとしているのは、静かな夏の日の畑の風景、人もいない、烏もいない、風が静かにそよいでいる、そんな静寂の光景ではないでしょうか。〈自己〉の意識に照らしてみれば、それは、〈自然〉のなかに身を投げ出してその自然と言葉を交わそうとしている、身体も意識も、そうっと抛りだして〈自然〉に身をまかしている、そんな姿ではないでしょうか。なにかをつよく訴えたいというような表現欲はほとんど隠れてしまっています。

そのモティーフも、下草などと同様、どこにでもある、たいして目立たない(とくべつ取り立てて強調するものはない)、そんな自然の姿、〈自然〉のなかの〈弱さ〉へのまなざしがみつけた光景です。こういう情景をヴァン・ゴッホは大事にしたかったのだ、といえます。

ヴィンセントが〈弱さ〉の原理を求めて絵を描いたことを再発見していくこと、それは、もういちど、別の眼で、いままで語られてきたヴァン・ゴッホの作品を見直していくことでもあります。そんななかでも、彼のドローイングを見直すことは、重要な手がかりを与えてくれるように思われます。

その細い線はいうまでもなく、葦ペンの太い線でもそうですが、一本一本、きちんとていねいに引いていく線の姿は、じっくりみていると、とても「力強い」線などといってすましていられるものではないことに気が付きます。

作例を出して検証するのは別の機会にしようと思いますが、ドローイングってのは、画家の手の動きが、油彩等のタブローより、ずっと生まに伝わってくるので、作者のひととなりや心の動きもより直裁に伝わってきます。

つまり、ドローイングの場合、絵そのものを観ているというより、絵を通してその作者と向い合っているような暖かい感覚に浸れるということです。ドローイング系の仕事の味はそんなところにあると思いますから、ヴィンセントのドローイングの仕事から、彼の〈弱さ〉への願いは辿りやすいのです。それにもかかわらず、これまでのゴッホの研究家たちは、そこに彼の「強烈な精神」ばかりをみつけようとしてきました。

ヴァン・ゴッホにおける〈弱さ〉へのまなざしをみつけるために、また、かれの構図をつくるときの方法意識も、一つ一つの作品にあらためて当たっていくと発見があるでしょうし、色彩にしても、彼の有名な「補色」の使いかたは、一般的には色調を引き立てるという意図で理解されてきていますが、そういう理解は、〈強さ〉=〈良い〉表現だという公式からみた補色の方法で、ヴィンセントは、むしろ異質な相容れない色同士の対話・対位法として使っているとみると、彼の絵が別の味を持ってきます。

これらを詳述するのも、今後の課題です。

いま、対位法といいましたが、contrapunkt(対位法)という概念は、〈強さ〉と〈弱さ〉を対等に扱っているという意味で注目したい。音楽という分野は、いろいろな表現手段のなかで、いちばん〈弱さ〉の自立を大切にしている/してきたといえます。「癒し」といえばまず音楽が持ってこられるのもそのせいでしょう。

絵画で〈ピアニッシモ〉に相当する用語はないのです。もし、今日の話に副題をつけるとしたら、「ゴッホのなかのピアニッシモを求めて」とでもしたいところです。

〈弱さ〉の論理の自立について考えてきましたが、これを〈弱さ〉が世界を支配する、〈弱者〉が〈強者〉の世界を転覆させるというふうに読み替えてはいけないことを、くれぐれもいっておきたいと思います。

〈弱さ〉と〈強さ〉は対立する概念ですが、そして歴史的に、つねに〈強い者〉が〈弱い者〉を蹂躙支配してきましたから、そういう〈強い者〉をやっつけたいと考えるのは当然です。しかし、それは結局、〈弱者〉を〈強者〉の位置へ据え替えるだけのことにしかならない。マルクス・レーニン主義も結局その論理で実践されたわけです。

〈強い者〉に憧れ〈強い者〉を尊敬するのも、人間の心の自然な傾きなので(人間だけではない、動物の世界をみてもそうです)、〈強い〉者の〈良さ〉はちゃんと認めて、その上で、〈強さ〉の論理に掻き攫(さら)われない〈弱さ〉の場所と論理をもつことが大切だといいたいのです。

〈弱さ〉〈弱い者〉は、いたるところに息づいています。これまでの歴史は、その場所を保証してこなかった。保証できなかったのは、論理が不在だったからです。つねに〈強者〉=〈正義〉という思想と論理が世界を支配してきたからです。

〈弱さ〉は、おそらく人類発祥以来、その中に息づいていて、それなりの扱われかたをしてきたのですが、〈強者〉はときおりその〈弱者〉へ目を向けてきたのも〈歴史〉です。仏教でいう「慈悲」などもそういう概念ですし、行動としては、キリスト教の世界では制度化されているほどです。さきほど触れたマルクスの革命構想理論もそうした動向の一つでした。

〈強者〉の論理によって〈弱者〉を救うか、〈弱者〉を再組織して〈強者〉に仕立てるか、結局、〈強者=正義〉の考えを基盤にしています。

そうではない、〈強者〉のいいところをちゃんと認めてあげて(これは〈強者〉が〈弱者〉に対して持ってきた論理を逆手にとった逆論理ですね)、その上で、〈弱者〉の論理(それをボクはいまのところいい言葉がみつからないので、〈弱者〉の〈自立〉といってきましたが)を自立させることでなければならないと思うのです。

いいかえれば〈強者〉をやっつけてしまうのではない(これはこれで気持のいいことですけど。スポーツの世界はまさに〈強者〉の論理の徹底的に合理化されそれを正当化した世界ですが、その醍醐味はそんな〈弱い〉者が〈強い)ものを見事やっつけてしまうところにあります。しかし、スポーツの世界では絶対に〈弱者〉は自立しえない。と同時に「スポーツ」は、すべてヨーロッパから発展してき組織されていることにも注目しておきたい。アジアや非ヨーロッパの世界にうまれた競技も、ヨーロッパのこの論理(〈強者〉=〈正義〉の論理)によって合理化/近代化されることによって「スポーツ」と認知されています)、〈強者〉に支配されない、〈強者〉の論理に左右されない〈弱さ〉のありかた、その論理をみつけだすこと。それがこれからのとても大切な課題だし、「芸術」と呼ばれる世界は、これまでにもいちばんそのことに敏感で、多くの仕事をのこしている世界(まだそれを自立したものとしてみつける論理が手にいれられなかっただけ)ですから。そこから、あらゆる人間の営みへ向けて、この営みをもっと豊かにしていきたいと思う次第です。

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