H 埴師−土師

今日のタイトルは〈埴師(はにし)〉です。〈埴師〉というタイトルで、焼物—日本列島における焼物の歴史のことを考えようと思います。〈埴師〉は、〈埴師〉と書くより〈土師(はじ)〉と書くほうが一般的です。〈土〉と〈師〉と書いて「ハニシ」と読むんですね。『倭名類聚抄』という平安時代に編集されて、日本で最も古い辞書には、「土師」で「はにし」「はし」などと表記されています。

〈埴〉は〈埴輪〉の〈ハニ〉です。埴輪など土偶を作る職業の名称です。今回は、〈人物〉といっても固有名詞ではなく、いわば〈大乗寺〉や〈ラスコー〉と同じように、一人の個人の固有名とその人の行為・思想に帰してしまうことのできないニンゲンの仕事を問題にしようと思うわけです。

お配りしました資料、まず「土偶変遷図」、「陶磁史略年表メモ」、題名のない地図「日本列島窯跡図表」とでも呼んでおきましょうか、しかし単なる窯(現存しているものと跡だけのもの)ではなく、一応、古代・中世・近世とその活動期を判るようにマークした地図です。4枚目が「縄文土器・弥生土器変遷図」とその「目録」です。

そして、「土偶変遷図」の傍らに言葉が添えてあります。これが今回の「言葉」です。個人じゃないので、といっても大乗寺だって應擧の言葉を選ぶことができたのですが、今回は、そういうこともできません。その代りに、といったらなんですが、今日のは世界でも最も古い歴史の地層に刻みつけられた言葉、『創世記』と『古事記』にある一節です。この「言葉」についてはもうちょっとあとで。

まずは、ボクの手書きのメモ「陶磁史略年表」をみていただきたいのですが、これは、いわゆる「陶器」「磁器」「土器」が日本列島でどんなふうに展開し、消滅しまた生まれていったかを、ざっと把握出来るようにと作ったものです。

最も古いものは「縄文土器」と呼ばれているものですね。新石器時代に属する1万年以前から作られていたと考えられています。それから「弥生土器」、つぎに今日のタイトルに挙げた「土師器」「埴輪」が来ます。もうそのころは「古墳時代」で、西暦400年頃は須恵器が登場します。「スエキ」を「須恵器」と書くと、全く別もののようにみえますが、「陶器」の「陶」という字、これをヤマトコトバで書くと「すゑもの」「すゑ」です、つまり「陶工」と書くときむかしは「すゑものつくり」と訓んだのです。ここに黒川真頼という人の書いた『工芸史料』という本があります。この本は明治11年に刊行された本ですが、その年のパリ万国博に間に合わすように書かれた本です。というと、ハハンとお気づきの人も多いと思います。明治33年パリ万博には『稿本日本帝国美術略史』のフランス語版豪華本が作られ、その十年前のパリ万博には「日本史」(『稿本国史眼』)和綴7冊[日本で最初の近代史観と歴史記述の方法に基づいて書かれた政府公認の日本歴史]が出されています。『稿本日本帝国美術略史』はその「日本史」の達成の上に、世界(諸外国列強国)へ「日本」という国家のその文化的に優れているところを列挙し、誇示し、その歴史的淵源を明らかにすることによって、国家的アイデンティティーを確立しようとしたものです。いわば『工芸史料』はその1900年に達成される政府公認「日本美術史」の完成への前段階の試みだったそんな本です。

脇道にそれましたが、その『工芸史料』の巻の三には「陶工」です[ついでにもう少し脇道にそれておくと、この「工芸史料」は七巻から構成されていて、1織工、2石工、付玉工、3陶工、4木工、付葺工、仏工、彫工、5革工、6金工、7漆工に分けられていて、ここには彫刻(木工)は入っているけれど絵画は入っていません。明治10年の段階では、世界にしろしめす「日本」の文化の代表をどのように価値づけていたかが透かしみえて興味深いです。それからどんどん急速にこの文化に対する価値観・ヒエラルキーは変わっていきます]。この巻三「陶工」には「すえものつくり」と読み仮名がつけられています。ちょっとこの出だしを読んで見ましょう。

「陶工(すゑものつくり)は太古[神代という]よりあり、而(しか)して其(そ)の誰に始まるを知らず。当時和泉(いずみ)の地に陶邑(すゑのむら)あり、陶器を造ること最も多きを以て此の名あり…。」

「陶」という漢字を「すゑ/すえ」と訓んでいます。「陶」という字は中国から入ってきて、焼物や土器を意味した語として定着したのですが、「陶」という概念が輸入される前、そういう土器の仕事は、「すえ」と呼ばれていたようです。こちらは土着の訓みです。それでは「埴(はに)」と「陶(すゑ)」は、どこがちがうか。

「埴師」と「土師」はどちらも「はにし」と訓みます。「土師」はのちに「はし」「はじ」と訓するようになっていきますが、どちらの字も漢字で音を表現する制度が確立されるころ当てられたと考えられます。のちに「「埴師」は埴輪などの土偶を作る職名として定着したのですが、それは垂仁天皇の32年7月、皇后日葉酢媛命が亡くなったとき、それまではその墓に従人(つきびと)たちを埋めて殉死させる風習だったのを、土で作った人形、馬などの動物、器物を埋葬することにした(註)、それを提案遂行したのが野見宿禰(のみのすくね)で、彼の功績を称えた天皇は宿禰に「土師職」の称号を与えたと『日本書紀』などに伝えられています。大宝律令(701)によれば、土師は、天皇皇族三公以上の葬儀を掌り、祭祀を掌るとありますから、土を扱っていても、日常の器には関与しなかったようにみえます。ただ、この「埴」という言葉はもっと広く使われ、「土物」「土器」という文字も「はにもの」訓ませていますし、「埴瓮」「はにべ」[「埴」という字と「公」の下に「瓦」と書く二字からなる]という語が日本書記神武天皇の集に出てきます。これは、埴で作ったかめのことを意味します。住吉神社の祭事に、「埴使」(はにのつかい)というのが登場して、大和(やまと)の香具山の土を穫って天平瓮(あめのひらか)を作り神前の供える儀式をやります。「埴安」(はにやす)という言葉もあって、埴粘とも書き、焼物を作る粘土の別の呼び方ですが、それは、神武天皇のとき、香具山の埴を取って儀式用の土器を作った、その埴をとった地名ともいわれています。

「埴」というのは、本来、粘土、あかつち、を意味する語で、赤黄色い粘土、「へな」などともいいます。焼いて土器に作られ、また衣にすりつけて染料にもしました。「はに」という音は、初めて掘った土の上の方のことをとくに指し、「初土」という字を当てると言う説もありますが、こういうところから推察できるように、もともとは、捏ね上げて器(うつわ)や像(にんぎょう)を作る材料だったのが神事祭祀でそういう器物像が重要な役割を果たすようになり、そちらの呼称が記録に遺されていったと考えられます。

こうした公の記録では、「埴師」「土師」の語の力は、8世紀頃から弱まって行きます。葬送のさいに埴輪の制度が廃されたのです。

註:
埴輪は最初の形は円筒形で、のちにいろいろ込み入った装飾造形がなされて行きますが、この土管形の円筒埴輪について、二つの説がありました。墳墓の崩れを防ぐために土留めの用として作ったのが始まりで、のちに神社の玉垣のように墓域を定める働きをするようになったという説と、いや始めからそんな実用性はなく、墓を飾る装飾として、殉死の制度の代りとして考えられたのだという説です。

この埴輪を墳墓に設置する制度が廃され、かつては吉凶の公式儀式を司っていた埴師は、凶礼や葬祭の式のみを行う職に限定され、だんだんとその位置づけが変っていき、のちには公の職務から排斥されてしまう。それに変わって重用されたのが「陶工(すえものつくり)」だといえます。現代では「陶器」ということばで焼物すべてを総称しますが、「陶器(すえもの)」が「土物(はにもの)」にとって変わった時期、そういう習慣が始まったといえます。西暦5世紀から7世紀にかけて、「埴(はに)」から「陶(すゑ)」へ、日本列島における土器製作の歴史はその概念、技法に大きな転換を遂げたのです。

「埴」は、材質は赭褐色系の粘土で、原始的な轆轤(ろくろ)は使っていたかもしれません。しかし概ね手捻りで、野焼き、窯を使ったとしても野焼きに近い構造で低い火の温度で焼き上げ、土質は脆弱です。最大の特徴は、釉薬は使っていないことです。それに対して「陶」(すえもの)は高火度還元焔[不完全燃焼させて、土に含む鉱物質に独特の発色をもたらす焼きかた]の技術も獲得し、窯や轆轤の構造も進歩し釉薬を活用するようにもなります。素焼きの場合でも、薄く形に張りのある器が作れるようになる[須恵器などの例をみて下さい、10月8日は少しばかり拙いコレクションの中から参考になるものを披露し、掌で触ってもらいました]。朝鮮、中国から渡来した人たちによる技術が大きな役割を演じていることは確かです[この4,5世紀から7世紀にかけての須恵器や陶土器に国籍はありません]。

土師、埴師、須恵、陶などの文字を冠する地名の分布を眺めてみると、日本列島の焼物の歴史が〈埴〉から〈陶〉へ移行したこと、そしてこの移行は、日本の焼物の歴史の[たぶん第一の]大きな転換期であることが、別の側面から見えてくるように思います。

「土師郷(はじのさと)」というのは土師部(はじべ/はにべ)に属する工人が住んでいた集落・村を指す呼称で、『倭名抄』[『倭名類聚抄』のことをふつう『倭名抄』と略しますのでここでもその慣用に従います]には「はし」と記されていたりします。河内国丹比郡、志紀郡[東大阪][以上「垂仁紀(すいにんき)」]、丹波国天田郡[京都北部]、備前国邑久郡[岡山]、下野国足利郡[栃木]、因幡国八上郡[鳥取東部]、阿波国名方西郡[徳島]、筑前国穂浪郡、山本郡[福岡北西部][『大日本地名辞書』]、などあり、ほかにも、上野[群馬]、和泉[大阪]、筑後[福岡南部]などにもあったと伝えられています。 現在、「埴師」の名をその住所表示にのこしているのは、鳥取県八頭郡智頭町だけのようです。

現在「土師」を名乗る土地は、もう少し増えて、茨城県東茨城郡茨城町、西茨城郡岩間町、三重県鈴鹿市、京都府福知山市[字土師、土師町、土師宮町、土師新町などあり]、大阪、堺市、兵庫県龍野市揖西町、神埼郡香寺町、鳥取県八頭郡八頭町、岡山県瀬戸市長船町、御津郡建部町、広島県安芸高田市八千代町、福岡県嘉穂郡桂川町、長崎県諫早市、大分県豊後大野市大野町など、みつけることができます。

これが、「須恵」「陶」になると、どっと増えます。一つ一つ町名まで列挙するとたいへんなので、県と市名だけ挙げてみます[()内の数字は町名の数]。まず「須恵」—静岡県磐田市(1)、滋賀県蒲生郡(1)、奈良県五條市(3)、岡山県瀬戸市(3)、同浅口郡(1)、山口県宇部市(宇部市には大字東須恵のあとに地名をつけるのが21町村あります)。山口県山陽小野田市に8町村、福岡県宗像市に一つ、同県糟屋郡須恵町は22の大字があり、ほかに佐賀の唐津市、熊本の球磨郡などに一つずつみつけられます。

「陶」を名乗るのも、「須恵」と同じくらいあって、岐阜県多治見市(1)、瑞浪市(3)、土岐市(6)、愛知県瀬戸市(15)、常滑市(4)、名古屋市(2)、尾張旭市(1)、三重県四日市市(1)、山口県山口市(14)、香川県綾歌郡綾南町(1)といった具合です。

地名としての「須恵」の古名は、備前邑久郡須恵郡[『倭名抄』]、山口県厚狭郡小野田村[これは『大日本地名辞書』に出てくるのですが、前出の8町村ある小野田市の古名で、『日本近世窯業史』(全4巻、大日本窯業協会編、明治40年刊)など繙くと、ここ小野田村にはいろいろな歴史が隠れているようです]、福岡の糟屋郡も安永年間(1772−82)に再興した以降の歴史しかよく判っていないようですが、そのとき興した中野焼という磁器を「須恵焼」と呼んでいて、先に挙げたように22の大字が現在も名乗っており、なにやら昔むかしの古い歴史が隠れていそうです。

滋賀県蒲生郡の鏡山村というのは現在の竜王町の古名なのか、調査を怠けていますが、ここは、『日本書紀』の「垂仁紀」にある鏡谷の陶人の遺跡だと伝えられおり、「鏡谷(かがみのはざま) 」と読み、新羅の王子「天日矛(あめのひぼこ、天日槍とも書く)が、渡来帰化し、近江国の吾名邑(鏡谷の古称)にしばらく滞在、その天日矛が連れてきた工人と子孫が新羅風の陶器を鏡谷で作ったという言い伝えがあります。

ほかにも、旧名岐阜県稲葉郡各務村大字須恵のお寺に遺された話では、弘法大師が製陶法を伝えたという、旧い窯跡が周辺に散在します。加藤藤四郎景正が陶業を始めたのもこの辺りという説もあります。筑前国宗像市の須恵の隣に「土穴」おいう村落があり、須恵村の山地には祝部窯跡があるということです。『山城志』には、京都の嵯峨野、清涼寺の東南に陶野(すえの)というところがあって、深草と名乗る者が土で椀を作ったとあります。

いろいろと並べ立てましたが、ここから、いろいろなことが考えられます。まず、「土師」や「埴」「須恵」「陶」の地名がなぜ関東以北には見当たらないのか。関東ということでいえば、「土師」や「埴」のほうが東に分布していて、「陶」「須恵」になるといっそう西に傾きます。ここには、やはり、古代の日本列島における権力の重点のありかたと関係があることがみられる。焼物という技術が深く当時の権力層と絡んでいたことは確かです。焼物師たちは、大和朝廷か、それと対抗しうる出雲の勢力、朝鮮と近い九州の勢力に支配されていたし、製品は、そういう支配勢力の人びとの嗜みものあるいは祭祀ものであり、庶民にはとどかないものであったろうと推測できます。こうした焼物の器が、いっきょに多くのひとに[庶民にも]行き渡るようになるのは、13〜15世紀以降、鎌倉〜南北朝時代を経て以降のことです。配布したボクの手書きの「メモ・陶磁史略年表」には、備前や常滑、丹波、信楽、そして唐津、有田、京焼、楽焼などが、鎌倉以降、秀吉の朝鮮侵攻後から江戸初期にかけていっせいに花開いていくさまがみてとれるように表を作っておきました[ついでに、参考品として、琉球のパナリ焼の碗、湧田焼(わくたやき)の茶碗も持ってきて、列島の南端での焼物の営みにも眼を配っておくことのおもしろさをお伝えしたのですが、ここの報告では省略します]。

こうしてみてきて、日本列島での陶磁の営みの歴史は、二つの転換期を持っており、一つは4〜7世紀にかけての〈埴〉から〈陶〉への転換。ここにあって、粗野で素朴な素焼中心の造形から、高度な轆轤と窯の技術によって陶磁製作する時代へ移って行きます。

もう一つは、13〜16世紀にかけて、列島全域に窯が多数築かれ大量の陶磁器が生産されるようになった転換期です。いずれの転換期にも、朝鮮半島からの中国の影響を受けた高度な技術が伝えられたことが背景にあります。第二の転換期を通じて、人びとが焼物を日常的に使うようになっていきます。陶器(すゑもの/すゑのうつわもの)についての概念・手法・素材も多様化し細分化され、精密になっていきます。こんにちのわれわれが「陶磁器」とか「陶器」と言って頭に思い浮かべる世界は、この転換期以降に形成されたものです。

焼物は、大きく分けると、土焼と石焼に分けられます[これは昔からやっていた分類法だと言えます]。土焼は、釉薬をかけない土器、釉薬をかけた陶器などをいい、石焼に属するのが磁器です。磁器は硬く焼き上がり、吸水性が陶器とくらべてずいぶんちがい、水を吸い込みません。磁器が焼物のなかで高級品と考えられたのは、もともと中国朝鮮伝来の技法による物であったからで、渡来人の李参平[金ヶ江三兵衛と名乗った]が始めたといわれる有田焼が、日本での創始といわれています。磁器と陶器(土器)のあいだに、セッキ[火偏に石と書く漢字ですが、ボクのパソコンでは手書き入力を試みても出てきません、すみません。そのセキという漢字と器で「セッキ」です]と呼ばれる焼物があります。素地に気孔性がない点で陶器と区別し、その素地が不透明な点で磁器と区別できます。セッキという名称は[英語のstonewareから考えられたのでしょうが]明治40年ごろから使われ始め、現在では焼物を、「土器(陶器)—セッキー磁器」の三つ[あるいは四つ]に分類するのが常識になっています。こういう概念の細分化と整備がわれわれの掌中に入るのも。第二の転換期を経験したからこそなのです。

さて、ここで眼をいっきょに、「埴」や「土師」が登場するはるか以前のむかしむかしへと向けたいと思います。 お配りした「土器変遷図」の傍らに、今回の「言葉」を掲げておきました。まず、「創世記」の第2章7節です。旧い訳でご紹介します。

ヱホバ神(かみ)土の塵以(も)て人を造り生気(いのちのき)を其の鼻に嘘(ふき)入れたまえり 人即ち生霊(いけるもの)となりぬ (創世記 2−7)

ここには、人間は「土の塵」から造られたと記されています。「古事記」のほうは、

是(ここ)に天(あま)つ神(かみ)諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命伊邪那美命二柱の神に、是(こ)のただよえる国を修理固成(つくりかため)よと詔(の)り、天の沼矛(ぬぼこ)を賜いて言依(ことよ)せ賜いき (古事記)

イザナギとイザナミの命(みこと)が「天の沼矛」を与えられて「ただよえる国を修理固成(つくりかため)よ」と命ぜられたという「国造り」の場面です。「ただよえる国」というのは、「天地(あめつち)初めて発(ひら)け」たときの国土(クニ)(註)状態で、その前に「国(くに)稚(わか)くして脂(あぶら)の如く」ともあります。泥っとした粘土のような土地の状態とイメージできます。それを「修理固成(つくりかため)よ」うとするのです。ここには、天地(あめつち)を創成するときに「土」を捏ねてつくり成すという行為が考えられ語り告げられています。「土を捻ること」と「天地創造」、「人間(ひと)の形」の最初の現れとに、なにかひそやかな深い関係がある、というのです。宇宙自然の姿と人間の姿が神によって造られるその造られかたを、東の古代の人間も西の人間も、人類の始まりのころの人びとは、「土を捏ね」て「かたちをつくる」プロセスの喩として思い描いていたのです。「土を捻る」「土によって造形する」という焼物の初原にある行為は、「天地創造」「人類の創出[人がその姿かたちをつくりあげたとき]」と深くつながっているのです。土偶は、そんな「ひと」の「かたち」の初原的な姿をつくり出しています。

「土による造形」「陶磁」の歴史は、ここまで遡ることが大切だと思います。

(註)この「国」「国土」[どちらも「クニ」と訓見ます]というのは、現在われわれが慣用している「日本国」の「国」[国家]とまったくちがいます。本居宣長風にいうなら、なんらかの境界をもっている土地(つち)です。土地に境い目ができたとき「国(くに)」と呼ばれると解釈できます。それは、国境が作られる前の状態です。

「土偶変遷図」をざっと眺めますと、初期の単純な素朴な、頭と胴だけのような姿から、だんだん手や足がつき、目鼻が刻まれ、人体の具象性を表現していきますが、このプロセスは、人間像をだんだんと自然主義風に表現する技術と表出意識を獲得していった過程を証明しているようですが、一方では、「土」から造られた「ひと」の姿と形のその初原的な衝動をすこしづつ忘れていく、忘れ離れていくことによって、より作為的[人為的]に制作しようとする意識が強くなっていくようすを見せているともいえます。

人類は、こうして、「天地創造」をその掌からひそやかに感じて、「土」をつかむという感動の表出として「土つくり」に携わっていたのを始まりとして、製品[器]や作品を作る行為としての「焼物」へと進んでいったといえます。しかし、すべてのかたちはそこから始まるという「土を捏ねる」行為の初々しい感動は遠く歴史の彼方に忘れ去られたかにみえますが、[さっきからなんども使ってちょっと気になっていますが]、ひそやかに、記憶の奧のほうにしまわれていて、現代人の「土」とその製品[作品]との向かい合いのなかに息づいています。

「土」を触わる/握るということ自体にそんな感動がみつけられると思いますが、土を造形し、茶碗や壷などを窯に入れ焼成を待つときの「神頼み」の気持ち[窯に火を入れるとき、登り窯などでは御神酒を捧げ、手を合わすのはいまも行われています]、とにかく、窯に火を入れた以上、もう人間の手には負えない、どんな結果になるかは、ほんとうに「神」に任せるしかないのです。

出来上がった茶碗に対しても、われわれは、そういうひたむきなひそやかな感動を忘れず、日々使いたいと思います。そのためには、日々良い器を使うことを心がけていたい。使い手にその希求がしっかりあれば、作り手ももっとその心がけをもって制作するでしょう—と、こんなことを書いて脱線してしまったのも、最近は、いいかげんな焼物作品がいたるところに出回っているし、いっぽうで、「芸術家」になったつもりの作者による「作品」が、堂々とあるいはのほほんと、展覧会や美術館のガラスケースに並んでいるのを目撃する機会が余りにも多いからです。

陶磁器の歴史を、[創世記]と「古事記」の記述からみるという視点を、ボクは大切にしなければならないと思っています。最初に引用した黒川真頼の『工芸史料』は「日本書紀」や「古事記」を典拠にしていて、この本を翻刻した平凡社東洋文庫に註を付けた現代の研究家は、黒川の時代にはまだ縄文時代や弥生時代という概念がなかったから「古事記」や「日本書紀」にたよらざるをえなかったと解説しています。この東洋文庫版が出版されたのが1970年代で、そのころは科学的実証主義が支配していて、科学的に実証すること自体はいまでも大切なことですが、その思想のもと、「縄文」時代とか「弥生」時代という概念が、古代の時代区分として絶対的権威をもっていました。つまり、当時の研究者は、なぜそういう現象が「縄文」と名付けられうるのか、疑ってもみませんでした。その概念を信じきって研究を進めていたのです。当時の考古学者、歴史研究者は、一般の知識人も、まず、「縄文時代」「弥生時代」という時代があったという前提から考えや「古代」の研究をしていたといいかえましょう。黒川真頼は、たしかにそういう概念を持ち合わせていませんでした。しかし[そのおかげでというべきか]、「縄文」や「弥生」を既成概念として「古代」を見るみかたから、逆に自由なみかたが、その『工芸史料』から読むことができそうです。『工芸史料』を細かに読む作業は別の機会に譲らざるをえませんが、たとえば、お配りした「縄文土器・弥生土器変遷図」の縄文草創期から弥生までの土器のシルエットをつぶさに見てください。その個々の土器例の全体の姿[それをシルエットと呼びました]からどんな相違点が、「縄文」「弥生」のあいだからみえてくるでしょうか。

ひとつだけ、たしかにいえることがあります。[すでに最近の縄文遺跡の発掘でだんだん明らかにされていることですが]「縄文」と[弥生]に、従来考えられてきたほどの対立的な対照性はみられない、ということです。だいたい、「縄文時代」といわれる時代は一万年くらいの時間幅を持ち、「弥生時代」は1000年もありません。対等に比較する時間幅ではありません。

で、縄文は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と、その一万年を六つに区分して、「弥生」のほうは前期、中期、後期と対比させようとするのですが、それでも、時間幅のとりかたは対称的とはまいりません。谷川徹三や岡本太郎が「縄文」と「弥生」を対立する歴史概念と考えて説を立てたのは、いささか安易に当時の「科学」を信じ頼りすぎていたといわざるをえません。

それに、「縄文」「弥生」という名称それ自体も問題です。こんにちでは、[縄文]「弥生」と呼び分けることによって、「原始的な荒々しい狩猟文明」「洗練された農耕古代文明」という観念が固定化されるほどに、定着してしまいましたが、この「縄文」も「弥生」も明治の中頃から使い馴らされてきた概念・用語にすぎず、それも、「縄文」はその時代の僅かな遺品である土器の模様に縄目(なわめ)文様が見られるから[縄目の特徴だけで一万年!]、そう名づけたのです。この特徴でもって、こんにち「縄文時代」と呼んでいる長い時期の特質としていいか、再検討する必要があるでしょう。「弥生時代」ときたら、もっといいかげんで、たまたま東京本郷の弥生町で発掘したというところから名づけられたにすぎません[明治17年のことです。その対比に使われた「縄文」土器は、大森貝塚から出た遺品くらいしかないころのこと。この弥生町から出た土器は現在東大の総合博物館に所蔵されていますが、発掘された場所も確定できず、「弥生」時代の命名起源になった品としては問題が多すぎるようです]。

いまや、日本列島の古代を考えるのに、「縄文」「弥生」の尺度に頼り切っているのからは脱出すべきところに来ているといえます。では、どうすればいいか。かなりつよく刷り込まれた「縄文」「弥生」概念を解きほぐしていくために、「古代」への自由な、枠にとらわれないまなざしを、まずわれわれは培っていく必要があります。「土を捏ねる」ことの初原性へ思いを至すことも、そんな自由さを見につけるために役立つと思う次第です。

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