U 浮世又兵衛

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「浮世又兵衛」、「憂世又兵衛」ともいわれた「岩佐又兵衛」を、Iの項目として扱わないでUに置いたのは、訳があるんです。Iに置いたのなら単純です。Uに置くことによって「岩佐又兵衛」の複雑な巾の広い姿が見えてくるという考えです。

岩佐又兵衛の代表作はなんでしょう、といって「これ」って一作だけ挙げて答えられる人はいないでしょう。最近、MOA美術館にある「山中常盤物語絵巻」が映像化され、神保町の岩波ホールにかかりましたから、あああの「山中・・・」と答える人がいるかもしれない。「山中常盤物語絵巻」は、浄瑠璃絵巻とでもいえばいいでしょうか、人形浄瑠璃(古浄瑠璃)で演じられるそんな劇的展開をとくに、その人形の動きの展開の感覚を絵巻にしたもので、豪華な絵巻です。肉筆浮世絵の筆遣い色遣い、その色遣いの多彩さ濃密さ、情景の描きかたの克明さ、執拗なほどに手の込んだ場面づくり。迫力のある絵巻です。たて34.4センチ、やや大きめの紙幅に延々と描かれ、詞書(語り)が添えられ、全十二巻、全長12.5メートルもある大作です。

じつは、この「山中常盤物語」が岩佐又兵衛の作だと公に(美術史の権威によって)認められるようになったのは1970年代にはいってからです。

岩佐又兵衛は「波乱」の3乗の人物なのです。3乗というのは、まずさきにお話ししたように、その「評価」作品認定の上で波乱に富んでいます。

次に、その伝えられる人生が波瀾万丈なのです。

そして、これは最初の作品認定と関係するのですが、彼の筆だと考えられ、伝えられてきた作品群は、ほとんど当時のさまざまな絵師たちが試していたスタイル全域に及ぶ-?これは「波乱」というより「多様」といった方がいいという意見もでるでしょうが、「多様」という言葉では収めたくない振幅度なのです。

まず、その「波乱」と呼びたいほどの作風の「多様」さを実践したところを押さえておきます。当日は、「日本絵画の流派」と名付けてボクがつくった6世紀から20世紀までにどんな流派が興り消えていったかが一目で判る表をお配りしましたが、ブログでは省略します。6世紀朝鮮・中国から伝わった「漢画」が、いろいろな曲折を経ながら狩野派へと継がれていき、その漢画に対抗するように生長していった「やまと絵」が土佐派を生みます。又兵衛は、その日本の絵画の二大流派の、狩野派と土佐派、そして浮世絵のうちの肉筆とこの三つの流派の特徴をそれぞれに会得した絵を描いています。その上に、当時は(江戸時代はということですが)大津絵という、一気に筆を走らせ描いた民衆仏画のようなものがありましたが、その作者でもあったと伝えられてきました。つまり、伝説・伝聞の上で「岩佐又兵衛」は当時の四つの流派の絵をこなした「画家」=「絵師」だったのです。

近松門左衛門の「傾城反魂香」という出し物に「吃又」(ドモマタ、吃りの又平)というのが登場します。岩佐又兵衛とこの大津絵の「浮世又平」が同一人物であるという伝説にのっかって、門左衛門は、この出し物を書いたわけです。

明治20年代に入って、岡倉覚三は、東京美術学校で「日本美術史」の講義をしますが、そのころは又兵衛伝説が生きていた頃で、彼は「有名なる又兵衛」などという呼び方をしています。その割に彼の作と言える作品は少なく(いや多すぎたのかもしれない)、「彦根屏風」も又兵衛絵筆だと信じられていた時代です。

ほかにも作例はたくさんありますが、とりあえず一つだけ挙げておくと、さっきの「山中常盤物語」が肉筆浮世絵スタイルの代表例といえましょう。

漢画系・狩野派系の代表作としては、「人麿・貫之図」というのを挙げておきましょうか。漢画風に水墨の勢いを見せた絵です。墨痕がそのまま絵師の筆遣いと気持ちをのせています。

やまと絵系・土佐派系の作品としては、明治30年に発見された川越仙波東照宮の「三十六歌仙絵扁額」がまず挙げたいところ。絵柄がやまと絵伝統の型にのっとって、又兵衛様式と呼ばれている特徴もちゃんとその面貌などに現れています。

なによりも、この作品のことを紹介しておかねばならないのは、この絵が見つかって又兵衛研究が一挙に展開したそのきっかけを作った作品だったのです。というのは、この扁額三十六枚の背面(ウラ)には「勝以(かつもち)図」という署名が書かれているのですが、そのうちの三十六番目(つまり最後尾の)「中務(なかつかさ)」(三十六歌仙は「柿本人麿」から始まって「中務」で終わります)の図の背面に「寛永拾七庚辰年六月十七日絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」(かんえいじゅうしちねん・かのえたつのとし・ろくがつ・じゅうしつにち・ゑし・とさみつのぶまつりゅう・いわさまたべえのじょうかつもちゑがく)とあったのです。

これまで「勝以」の落款の絵があったのですが、そこにはどれにも「岩佐又兵衛」の署名がありませんでした。この一枚で「岩佐又兵衛」と「勝以」は同一人である裏付けがとれたわけです。そこへもってきて、これで寛永17年(1640)には、又兵衛が東国にいて仙波東照宮の仕事をしていたことも判りました。この作はいまでも又兵衛の制作年がはっきりしている唯一の作品群で、こういうのを美術史の世界では「基準作」などと呼びます。

この前後、「自画像」や「岩佐家由緒書」や「廻国道之記(かいこくみちのき)」という又兵衛が福井から京を廻って江戸へ下った旅日記とみなされるものが岩佐家と分家から出てきて、美術界は岩佐又兵衛論で賑わいました。

さて、寛永17年には東国にいたという彼の生涯ですが、この「岩佐家由緒書」や「廻国道之記」のおかげで、江戸時代から信じられてきた伝説っぽい生涯にも裏付けもとれるようになってきました。

それによると、岩佐又兵衛の父は、荒木村重(むらしげ)といって、織田信長の重臣で、伊丹城の主・殿様でしたが、信長が攻めている石山本願寺の側へ寝返り、信長の怒りを買い、城は兵糧攻めにされます。ある日村重は、城の中の家来や家族を見捨て、単独で城を抜け出し、主のいなくなった伊丹城は信長の手に落ちます。

信長の怒りは収まらず、城内の家臣・家来・侍従ら全員を処刑し、とくに村重の正室(又兵衛の母)など側近の者は、京の町を引き廻して打ち首にしたといいます。このあたりの事は「信長公記」に書かれています。

又兵衛は当時、数え歳で二歳でしたが、じつはその間に乳母(めのと)にあづけられて城の脱出に成功、京都の本願寺に匿われたといいます。そして母方の岩佐の姓を名乗ることになるというのです。

父親は、もともと茶の心得があり、道薫(どうくん)と号し、堺に生き延び、のち豊臣秀吉に可愛がられます(「利休七哲」の一人に加えられたほどです)。

「廻国道之記」に北野天満宮を訪ね、子供の頃に見た秀吉の北野茶会のことを想い出す一節があり、これは又兵衛10歳のときの茶会ではないかと推測されます(そのころは、父親の下にいたのでしょうか)。

いろいろあったことでしょうが、詳しい記録はもちろんなく、若い頃織田信雄(のぶお/のぶかつ)に仕えたとあります。信雄は信長の次男ですが父の覚えよくなく秀吉に仕えていました。ここで又兵衛はなにをしていたのかよく判りませんが、御伽衆(おとぎしゅう)か小姓のようなことをしていたのでしょうか。信雄は秀吉方についたり家康側に廻ったり、天正年間名護屋(なごや)の城を与えられていたこともあれば、秀吉の怒りに触れて下野国烏山に配流されたり(これが天正18年、又兵衛13歳の頃)、慶長5年前後(1600年、又兵衛23歳の頃)、信雄は難波あたりにいたようで、又兵衛が信雄に仕えていたのはこのころかもしれません(松本清張は小説『日本藝譚』の中で又兵衛をとり上げ、信雄の下で際しも得たような書き方をしています)。

いずれにしても、何歳かの時、又兵衛は京に出、本願寺に再び寄寓し、このころ狩野内膳に絵も習ったという伝えがあります(山東京伝の記録です)。内膳筆の「豊国祭礼屏風」(ほうこくさいれいびょうぶ)が豊国神社にあり、この制作を手伝ったという言い伝えもあります。というのも、「豊国祭礼屏風」にもう一本徳川美術館が所蔵しているものがあり、秀吉七回忌(慶長9〔1604〕年)のお祭りを描いたものですが、内膳本と比べ、祭りに踊り狂う様子などの描写は又兵衛の特徴がみられ、これは又兵衛作だとされており、内膳との関係を逆照射する作ともなっています。

いっぽう仙波東照宮の扁額に「土佐光信末流」と書いているので、土佐派からも学んだと推測する向きもありますが、正規の内弟子には狩野派にも土佐派にもどちらの方ともならなかったのではないかと考えた方がいいようです。 いずれにしても、絵の腕はなかなかのもので、ちょっとした私的な注文などをこなし、みんなからも喜ばれたりしていた。???こんなふうに想像してみることができます。

江戸に召ばれていったについても、将軍のお召しがあったとか大奥に荒木家とのつながりのある女房がいて引きがあったとか、家光の娘千代姫が終わりの徳川光友へ輿入れするに際して調度制作の仕事を頼まれたとかいろいろ詮索されています。判っているのは、江戸へ下ったのが60歳のとき、寛永14年(1637)。翌年川越の仙波東照宮が焼けたということです。

子息の勝重(かつしげ)も絵師になっていますから、福井での絵師としての暮らしはまんざらではなかったと推測できます。福井へ行ったのは元和年間のはじめのころ〔1615年から、2、3年間〕と推定されています。京の本願寺へ来ていた北之庄の興宗寺の僧心願(しんがん)が、又兵衛を見込んで連れて行ったと言うことです。で、又兵衛は、福井では興宗寺の境内のどこかに寄寓していたのでしょう。

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現在、又兵衛の仕事として遺りつたわっているものの多くは、福井時代のものと推定できるもので、屏風や絵巻やとあり、注文も多かったようです。ですから、家族をおいて60歳にもなって江戸へ行くというのは、なにかのっぴきならない理由があったのでしょう。

しかも、それから13年、彼は江戸に留まり、江戸で亡くなります。

岩佐家に遺されていた文書のなかに、「岩佐又兵衛自画像」と伝えられる絵があります(現熱海MOA美術館蔵)。これには又兵衛の手紙も添えられていて、死期遠からずを予感したのか、福井に残している妻子に、これを自分(又兵衛)と思えというようなことを書き、届けたとされています。

これは、現在では自筆ではなく、つまり「自画像」ではなく弟子が描いたというのが有力ですが、明治30年代、最初の又兵衛熱が捲き起こったとき、『國華』に又兵衛論を連載していた斉藤栗堂(さいとう・りつどう)が、明治35(1902)年、『日本』新聞の記者のインタヴユーにこたえて、その前年(つまり明治34年)11月、福井へ行き調査をした。その結果、岩佐又兵衛を先祖とする家は福井には二家あり、それぞれ岩佐家と荒木家を名乗っている(これは又兵衛の家系を絶やさぬために二つに分けたのだという)。又兵衛の遺品も、この二つの家がそれぞれに分け合い、本物のない家には「写し」を作った。そのさい、「廻国道之記」は荒木家、「自画像」は岩佐家が本物を預かった。岩佐家はのち火災に遭い、自画像も燃えた。したがって、現在伝わっているのは「写し」の方だと遺族が言っている、と語っていますから、かつて遺族が所有し、大正4年8月『國華』に木版摺りで紹介され(その後MOAに収まった)「自画像」は、原本ではないという考えは当たっているということになります。しかし、そもそも「自画像」といわれている絵が弟子の仕事だったかどうかは、原本が失われているし、判りません。ただ、岩佐家では、これを「自画像」と信じ、命日にはこの図を部屋に掛けて拝んだ(それは明治になるまで続けられていた)ということは確かで、それが大切な事だと思います。

なんだか、回りくどい書きかたをしましたが、あとで述べますように、ボクは又兵衛の真筆かどうかという問題はそんなに重要ではない、「又兵衛」というのは、又兵衛に限らず日本のむかしの屏風絵や絵襖、絵巻、そのほか焼物、染織等の諸工芸品などもそうですが、その作者名は、現在でいえばディオールだとかエルメスといったような工房の名称(= ブランド)と考えた方がいいと思うので、そのことを煮詰めるまえのこれは伏線です。

3つ目の「波乱」は、その評価・鑑定の揺れ(大荒れ)です。

揺れの大波はまず明治30年代にあって、このへんのことは、砂川幸雄著『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたのか』草思社1995に読みやすく面白く書いて頂いていますので、そちらに譲りますが「彦根屏風」が又兵衛作ではないという説が出たのもそのころ、自画像や「岩佐家系」由緒書(ゆいしょがき)、「廻国道之記」など、又兵衛の実像へ迫る手がかりが出てきたときです。

二つ目の大波は、昭和3年、第一書房という出版社(われわれにとっては土田杏村の全集を出してくれている懐かしい名前です)の社長・長谷川巳之吉が「山中常盤絵巻」を手に入れたところから始まります。 これも、砂川さんを始め、いろいろなところでドラマチックに語られていまして、それを繰り返すのも物憂いですから、諸書に譲りましょう。

問題はその後いくつか出てきた肉筆浮世絵を又兵衛筆と認めるか否かで、見解が二つに分かれる歴史が1930年代から40年間続いたことです。この波は40年間揺れていたわけです。

東京大学の日本美術史の教授であった藤懸静也は、この肉筆浮世絵群を又兵衛筆と認めない立場を貫きます。藤懸は浮世絵の権威でした(ナニシロ東大デス)から、その間平凡社の大百科事典も浮世絵関係の項目は藤懸説を踏襲している始末。

それに反対して、これこそ又兵衛だと頑張ったのが長谷川巳之吉はじめ在野の(つまり学者ではないけれど浮世絵収集家としては、充分な経験を積み鑑識眼を備えた)研究家たち(春山行夫ら)で、この対立の歴史に見られるのは、単に又兵衛真贋論争というようなものではなく、日本における「美術史」という学問が抱えた病弊です。

つまり、日本の学界は、明治以降、欧米の学問の方法論を学び、それを真似て公式化もし、日本の現象に適用することが「アカデミズム」と信じ、その方法が権威となってしまった。その病弊はいまも快癒していない、という問題です。

昭和3年以降の又兵衛論争は、近代日本における学問学界と骨董界の摩擦と置き換えることができます。 学界の人々は、ヨーロッパの学問の方法を日本という風土で起きている現象に適用し、思考として体系化することばかりに心と眼が行き、現実を熟視することが出来なくなってしまったといってもいい。真贋問題だけだと、明らかに骨董派に分があり、のち東大美術史の教授になる辻惟雄(つじのぶお)氏は、大先輩に当る(氏が東大に入学した年、藤懸は定年直前の一年を大学で送っていたそうです)藤懸説を斥ける説を立て、いわば骨董派と学界派の大団円を目論見ます。

現在は、この辻説を基盤に「又兵衛」観は定着しているようです。しかし、辻氏はまだ舟木本の「洛中洛外図」を又兵衛とすることには躊躇しているようです。

面白いのは、2004年、千葉市美術館で大きな「岩佐又兵衛」展が開かれました。もちろん辻惟雄氏の企画監修です。それに合わせて『芸術新潮』が派手な特集を組んで、そこで山下裕二氏と辻氏が対談しています。辻氏は山下氏の学生時代の指導教授(古いいいかたをすれば恩師)ですが、この山下君が、辻さんをつかまえて、「そろそろ舟木本を又兵衛筆と認めなさいよ、先生」なんて言っているのを読んで、膝を叩いてしまいました。

舟木本が次の又兵衛展に並べられるのは間違いなさそうですね。こんなふうにして、評価は有為転変の歴史を辿るのですね。

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辻氏の論で、もう一つ注目したいのは、「又兵衛工房説」です。又兵衛作と伝えられる作品の多くはその工房の作だと提起されています。そして、人物の実体としては全く手がかりはないけれど、いろいろな作品を比較して「画家A」というのがいたという仮説を立てておられるのです。又兵衛の手ともちがう、息子の勝重の筆ともちがう、もう一人の高弟の筆の手が認められるというのですね。作品を分析していく上で、とてもスリリングな推理です。仮定の画工を想定すること、そうしてまで「又兵衛」の筆と異なる存在を立てること――これは「工房」の実態をみつけるための貴重な手順といえるからです。

こうして「又兵衛工房」説は、いまやいろんな人が当然のように語るようになりました。これは、とてもいいことというか、当たり前のところに一歩ちかづいたなぁというのがボクの感想です。

絵というものは、とくに「日本」の歴史のなかでは、たいてい工房で作られています。もちろんそうでなくたった一人で下描きから完成まで描き上げるときもあるし、もっぱらそうしていた人もいます。しかし、雪舟ですらボクは一人で描いたと決めてかからない方がいいと思っています。規模はいろいろでも、手伝う人はいて、一つの絵を分担し仕上げるのは当然のことだったのです。極端な例では、酒井抱一が弟子の必庵に急ぎ注文の絵を描いてくれと頼んでいる手紙があります。抱一は出来上がったその絵に落款を押して、注文主に届け、世間では「酒井抱一作」として通っていくわけですね。

又兵衛の場合、そもそも亡くなった直後から「岩佐又兵衛」の名は伝説になっていましたから、その多彩で多様な(波乱含み)の画風をこなした画家を、「又兵衛」という棟梁のもとに組織された「工房」の仕事と考えようというのは説得力があります。しかし、ことさら「岩佐又兵衛」の作品だけを例外として「工房」作品と考えるのはよくないというのがボクの強調したいところです。

ある作品から、それを制作した「一人」の画家の「天才」を読みとり受けとって感心するというヨーロッパ式の「芸術」「美術」観が、ボクたちを呪縛してしまった結果、こんな展開になったといっていいのではないでしょうか。

一人の作家の仕事としてその作品をみると、そのとき「作品」を通過して「人」を感じているというか「人」に興味をもってしまうと「作品」を見ていないことも起ります。

昨日までみんなしてあんなにすばらしいと言い合っていたある作品が、贋作だと証明されたとたん、値打ちが下がり、所蔵主もそれを持っていないという顔をする、こういう出来事はいまではよくありますが、まさにこれは「作品不在」の現象といわざるをえません。

「作品不在」ということは、「作品」を前にして「作品」を見ていないということです。「作品」をしっかりと見て、その「作品」を評価する方法というのは現代ではむしろ崩れているのかもしれません。

もちろんこれは、「作品」に感動してそこから「作者」という「人」を考えてはいけないということではない、そういう作品を作る「作者」ってどんな人かいろいろ思いを巡らし、その「人」に憧憬を持ってもいいけれども、それを「実在」の「一人の人」に帰さなければ安心できないという、狭い実証主義の呪縛から自由でないと、ある「実在の」人が描いたからこの作品は信じられる(本物だ、だからすばらしい)という逆転した鑑賞法(美術作品への近づきかた)に囚われてしまうし、そういう逆転した美術観が現代は支配的ではないかということなのです。

「作品」をみて、その「作品」から読みとれること、考えること、評価できること出来ないこと等をきちんと語られる論理というか、手法を確立したいと思います。

そうすれば、「日本」の絵画(じつは絵画だけでなくすべての「美術品」がそうなんです)が、工房で作られていることが、そんなに問題にしなくてもいい「美術を見る眼」を、ボクたちが獲得できるでしょう。

そういう意味で辻惟雄氏の又兵衛工房説は、ようやく美術史学界で(じつは、これは骨董界でもこの「作家」の作か否かの「真贋」で品物の値打ちを決めるわけですから、この問題に関しては、両者の理論上の対立はなかったのですが)、「工房」の存在を認めて「作品」を考える扉が開かれたということがいえます。

一人の作家が、一つの作品を自分一人で全部作らなきゃいけないという考えは近代になって定着する考えで、近代以前の作家にこの基準をあてはめても意味がないということですね。こういう考えは岡倉あたりから定着していきます。その意味で岡倉は旧時代の骨董家の「美術」鑑識を西洋学問の「美術史」の方法でまとめようとした最初のひとだったということになります。

1900年の『稿本日本帝国美術略史』は岡倉の抱えていた骨董鑑識眼を大事にする眼を整理処分してしまいます。のちの美術史学者(瀧精一とか大村西崖とか)が岡倉を毛嫌いし排除しようとする事情も、こういう問題に戻してみると面白いです。明治40年、岡倉が東大で講義した「泰東巧藝史」は、骨董鑑識をベースにその材料を西洋学問(としての美術史)の方法で処理しようとした最後の議論でした。つまり、その後対立関係に入る両領域の近代的融合を測ろうとした試みなのでした。

辻惟雄の「岩佐又兵衛工房説」をきっかけに、新しい「美術史観」とその方法が育っていくことを願うばかりです。ある本に(悪口になるので著者の名前は伏せておきます)、「まことに意外で理解に苦しむのは、それほどに重要で威儀を正した制作ならば、常識的には下描きから彩色まですべてを××(人名)が一人で行ったとみるのが普通であるのだが、彩色はなんと△△なる弟子に任せている」など書いているのがあります。これは江戸美術の専門家が江戸美術について書いている一節で、著者は、「江戸美術」を前にしながら現代の(つまり、ヨーロッパの学問から習得した)美術の見方で、「江戸」を処理しようとしている。だから「常識的には」「普通である」なんて書きますが、「江戸」の人にとってはどっちが「常識」だったのでしょうか。こんな書きかたをしてしまうところに現代の「美術史学」のヨーロッパ美術史からしか学んでいない弱点が出ているということです。

「日本美術史」は、もういっぺん「岡倉覚三」と彼以前へもどって出直さないといけないようです。

藤懸説もそうですが、欧米の学説から身につけた方法論(もちろんその西洋の学問も当世勢力をもっているとその人が信じている学説の場合が多い)を公式のように使っていて、すべてをそれで推し量るというやりかたは、「歴史」の方法としては大いに問題があるのですが、美術史の研究家は、まだそのことに気が付いていないかのようです。

大切なのは、「歴史の中で思索すること」です。(日本の学者が欧米の当世流行の学説を鵜呑みにしてそれを尺度にしていると批判しているボクが、じつはいま「歴史の中で思索すること」というミッシェル・フーコーの言葉を引用しているのですから、これはお笑いです。これくらい欧米の思想と言説がわれわれのなかに滲み込んでいる証拠だといっておきますか。ボクもやっぱり<近代>の毒で育った一人です…で、ここで、欧米の知識人の言説を使わないで、もういっぺん同じことを考えてみましょう。)

藤懸静也教授は、「浮世絵」というのは「版画」の作品に限定すべきだと主張して、「肉筆」を「浮世絵」と呼ぶことをやめようとしました。こういうやりかたはいかにも精査な「概念限定」「定義づけ」をしているようで、「学問的」です。

たしかにそうすることによって、そうして定義され限定された世界の中で「秩序」や「法則」がはっきりしてくるかもしれません。しかし、そうすることによって研究者の立っている「現地点」から「歴史」を処理することはできても、すでに江戸時代にたとえば大田南畝が『浮世絵類考』なんて本を書いたときに「浮世絵」と書いてどんなもの(作品)を思い浮かべていたかという考えかたは無視し捨て去って平気でさえいるのです。

こういう「近代」の方法を許さなかった人として、Rの項でとりあげた幸田露伴を挙げておきましょう。近代学者の自分の「現代」を基準にしてすべてを枠づけ整理する不遜さは、ラスコーのときも大きな問題として取り上げましたが、露伴が大切にした「校勘」の方法は、つねにそのときの現場でそれがどんな息づかいをしていたかをみようと努力すること、その結果その現象に「名前」(定義づけ)を与えればいいというのです。

ほんとに、これは大切なことだと思います。

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「言葉」としては、岸田劉生の著書『初期浮世絵』岩波書店大正15年刊から選んでみました。

《言葉》

初期肉筆浮世絵は大抵筆者不明のものが多い。つまり無落款なのである。これは当時狩野、土佐両派の相当の大家が筆を染め乍ら、その本職とする画境に遠慮したものであらうと思はれる。自分の画的興味はその方に生気を感じ、引きずられながらも、伝習から来る概念でそれを遠慮するといふことは、ありさうな事で、又其処(そこ)が浮世絵の面白いところである。卑しいと思いつゝ描く、その魅惑、その無自覚さが、浮世絵を一層色濃く渾然たるものとなしてゐると思はれる。

ところで又兵衛の画であるが、私一個の考へとしては、又兵衛の画は浮世絵として、どうも当時の他の無名の作品のやうに強くなく、多少常識的で、本質的のところで正統派と妥協してゐるやうな感がある。つまりアカデミックである。浮世絵の審美的本質からは勿論(もちろん)一般絵画としても稍(やや)喰ひ足りぬ感があるやうに思はれる。勿論これは比較上の話であって、かく云ったからとて又兵衛を凡庸の画工といふのではない。その正筆とされて保存せる作品の中には真に逸品と称していゝものが数あるが、さういふ作品でも、当時の無名のものの逸品に比べてはどうしても喰ひ足りぬところがある。つまり、又兵衛又兵衛と云はれたゐたが実は又兵衛ではなかったといふ作品の中に、又兵衛の真蹟よりは実は数等立派な作品があるといふ訳なのである。 

   

しかし、何時の世でも、民衆は政府を信用してゐる。そこが民衆の民衆らしいいゝ味でもある。民衆は深いところでは真にいゝものをいゝとするけれど、浅いところでは為政者の云ふ事を信用する。即ち、又兵衛の名は忽(たちま)ちにして天下に知られ、後世に迄(まで)轟(とどろ)いた。しかしこゝに面白い事は、民衆の本当に感じた感じが深いところに生きて来る事である。即ち、民衆は又兵衛といふ名を信じたが、画はおのれの信じてよしと思ふものをよしとした。彦根屏風其他、当時無落款の浮世絵の名作が、たとひ京洛に於て造られたものにせよ何にせよ、悉(ことごと)く又兵衛の筆、云ひかへれば一番上手な浮世絵師の描いたものとされた事は、結局、民衆の審美眼が公官のそれよりも深いものであり確実なものである事を語ってゐるものといはなければならない。

岸田劉生『初期肉筆浮世絵』岩波書店、大正15年
(漢字は新漢字に変えたが、かなづかいは原文のまま)

大正15年に書かれたもので、又兵衛研究史からいえば古い言説(のはず)なんですけれど、骨董屋さんにいっぱいだまされて苦しんだ劉生の、なんというか初期肉筆浮世絵や又兵衛をみる眼の確かさのようなものが読みとれます。

「又兵衛」神話というか「又兵衛」伝説が生まれる要因をちゃんと感じとっている文章です。と同時に、「近代」の美術界を生きる一人として、劉生が「又兵衛」を一人の作者と思って作品をみようとしながら、それがみずからの裡で崩れている機微のようなものが、この僅かの引用から読めて、とても参考になると思います。

☆☆☆

劉生の初期肉筆浮世絵論を読んでいて思ったのが、劉生はやっぱり「絵画」に「強いもの」が成就されることを「強く」求めているんだなぁってことです。

劉生がそういうものを求めていた絵描きだったことはよく判っていますが、ボクがここで気になったのは、どうして一般に(これはもう劉生を超えた問題であり、現代における「絵画」「美術」の考えかたに関する問題だと、劉生から気づくということです。劉生は所詮そういう「近代」の磁場で絵を描いていたということでもあります)、人びとは「絵」に「強さ」を求め、「強さ」を基準に絵の良し悪しを判定するのだろうということです。

一つの作品を前にして「ここは弱いね」というとそれは「その作品は良くない」ということを指します。

しかし、描かれている「絵」には、「弱い」ところ「弱さ」の表現、その「弱さ」を訴えようとしているものすらあるではありませんか。又兵衛など、もう「強さ」で評価されっぱなしの一人ですが、そんな又兵衛にも「弱さ」を基調にした作品があるではないか。

例の「自画像」です。高さ35センチ、巾24センチと小さい紙に描かれた作品ですが、竹製の椅子に、黒い羽織を羽織って座っています。裸足のまま、足の間に長い竹杖をはさみ、その杖の上方は肩に乗っていて右手でそれをつかんでいます。坐った姿勢もややぐたっとしており、その顔には無精髭が生えていて(ていねいに一本一本描いています)、禿げ上ってうしろと耳の上辺りにしかない白髪の毛がまるで寝癖をのこしたかのようにはね上り、瞼も重そうで、眼は下方、画面の外の下のあらぬ方を見ているといった風体で、絵全体の雰囲気が弱々しげなのです。

椅子の背後に立てかけている長刀(なぎなた)、右横の小机の上には書籍と大きな香炉が乗っています。きっと何かを表しているのでしょうが、深読みしてなにかが判るというものではありません。その分よけいにこの絵を昏くしているようです。

そうそう、椅子に坐る又兵衛の手のことを誌しておくのを忘れていました。杖を握っている右手もそうですが、椅子の肘置きの先を握る左手は、とても絵描きの手とは思えない、いじけた、中風の病人のような手の格好なのは、いたいたしいです。

この絵からは、他の又兵衛の作品にみられるような、活気も迫力も、濃密な色彩の描き込みも、執拗なほどの線の描写もみられません。

でもボクはこの自画像が好きで、以前からいわゆる又兵衛らしくないこの絵がなんで好きなのだろうと考えていたものです。

「又兵衛らしくない」という意味では全く又兵衛らしくない。それはただもう死を待つのみの老人の姿だからでしょうか。

そういうリアリズムではなく、むしろ、こうした他者への力強い働きかけを放棄し、いいかえれば、他者の「眼」から解放された自分自身の姿を描いている、その筆構えとでもいえばいいか、それがこの絵をみているとじんわりと伝わってくる、それに惹かれるのだと思います。

音楽の言葉を使うとほとんど「ピアノ」と「ピアニッシモ」で演奏するみたいな、そんな絵といえばいいか。

又兵衛はとりわけ、いろいろな流派の筆遣いをこなした人で、それはなぜかを一寸ここで考えておきたいのですが、彼はいわゆる正統な「絵師」としての育ちをしなかった人のようで、その世界(社会)の中の人間なら対立さえするような絵をそれぞれに描きました。ということは、当時の絵描きたちが固執していた「自分の属する流派」(自分の絵のアイデンティティ)から彼は自由でいられた。そういう絵の描きかたの教えは受けなかった(「世間はそういうものだけど俺は知らないよ、そんなこと」と思い且つ実践できた)ということです。当時の権威からは見放されているという自由さです。(当時の権威は見放していただろうけど、追放はできなかったほどの実力を又兵衛はもってました。)

そのやりかたは、わざわざ「大和絵」にしたり、「浮世絵」にしたりという絵の作りかたです。これは、いろんな流派のいいところを摂り込んで「自分」の流儀を創る(狩野派というのはそうだったのですが)のではなく、むしろ注文主の希望に応じて既成の流派の絵のどれでも作るというやりかたです。

流派に属しているという気位(きぐらい)も、そういう権力欲も無用という感じです。そこで、工房であることの意義がいっそう効果を発揮するのですが、「岩佐又兵衛」作といわれる絵は、「岩佐又兵衛」という一人の人間の「個性」がそこに花咲いているとはいい難い多様さをみせ、それぞれに完成した絵にしてしまう力は、組織的な「工房」ならではといえます。

京都にいても、福井にいてもそして晩年の江戸でも、又兵衛を噂する人は、あの人は荒木村重の子息で、乳母に連れられて城を脱出し、九死に一生を得て、京の本願寺で母方の姪を名乗って成長した人だということを言い合ったことでしょう。彼の「絵」=仕事にはいつもこんな彼にまつわる「伝説」がつきまとい、彼の個としての「人」はたぶん生前から神話化されていたでしょう。そのことが、いっそう彼を多彩な流派の絵作りへ促したこともまちがいない。つまり、彼は「彼(岩佐又兵衛)」という「自分」を「一つ」にしなければならないという内面の声からいいやおうなく追放されていた稀有な人だったというわけです。

こういう棟梁の下で又兵衛工房はあらゆる流派の絵をこなした。

そんな又兵衛が唯一「自分」のことに筆先を向けた絵、それが「自画像」です。これを弟子が描いたか又兵衛自身だったかは、このさい問題にしなくてもいいと思います。

又兵衛の工房で作られたことはまちがいないだろうし、家族に「私」と思って大事にしろと届けたということが、又兵衛がこの絵に「自分」を映そうとしたことを証明します。

他者に向けた絵を作るときに発揮していた彩色・筆・線・物語の展開・構成のひねりぐあいといった「表だった」ものはぜんぶ引っ込めて「自分」に向けた絵は、寂しげに、もちろん筆遣いは確かですが、しかし決して強く力ある線を引こうとしないで弱々しげで、彩色も地味に全体を包もうと描いています。

こういう「弱さ」への思いが「又兵衛」にあったことを慈しみたいと思います。そんな眼で改めてあの「血」塗られた「暴力」的な絵巻といわれる「山中常盤…」などをみなおしていくと、意外と、その表情の作りかた、躯(からだ)や樹々の描きかた、派手にみえる衣服の図柄・色合いのまとめかたなどなどに、一種の「弱さ」への思いやりというか「悲しみ」のような印象が汲みとれるのに驚きます。

類型的なふりをした「三十六歌仙」や、破格の筆遣いで嘯いている「人麿」「貫之」などにもそんな気分がすっと隠されているのに気がつきませんか。

「又兵衛」の絵は、一種多重人格なところがあるようです。

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