C 屈原

〈草木を覧察することすらそれいまだ得ずに、あに「王呈」の美にこれよく当らんや〉

覧察草木其猶未得兮 豈「王呈」美之能當

(「王呈」と打ち込みましたがこの字は「程」の「禾」(のぎへん)の代りに玉偏にするとできる文字で「テイ」と読みます。残念ながら手書き文字入力を使ってもこの字はでてきませんので、苦肉の策でこんな打ち込みをしておきました。すみませんが、ご了察下さい。)

屈原は、楚の宣王27年、西暦に直すと343BCに生まれ、290BC年に没したと考えられてきましたが、その後340BC、339BC生まれ説、278BC、277BC死去説などもあります。 『楚辞』のなかに入っている「離騒」(ほかに「九章」など)の作者として知られているわけですけれども、もちろん、彼の書いた自筆のテクストが遺っているわけではなく、それどころか、彼が「離騒」を草した確固たる証拠もじつはない。清時代、あるいは民国の頃、屈原という人はそもそも実在しなかったと主張する学者も出てきたほどです。

しかし屈原は、楚の国の重臣であり、一時はたいへん篤く信用されていたが、讒言によって王の信を失い追放の身になり、ついには楚の国の滅亡を聴いて悲しみのあまり汨羅(べきら)の河に身を投げた、という伝説は歴史と同じくらい中国の人びとのあいだで信じられてきた、中国史のなかでも重要な人物の一人です。

もちろん、司馬遷の『史記』にも記録されています。いろいろな伝説もあって、梁の時代、呉均(459-520AD)が書いた『続斉諧記』にはこんな逸話も記録されているということです。「屈原は5月5日汨羅に身を投げた。楚の国の人はそれを悼んで、この日には竹筒に米を入れ水の中へ投げ入れて屈原を祀った。ある日、漢の建武の時代(25-57AD)、長沙の區回(オウカイ)という人が白昼夢を見た。自分は三閭大夫[サンリョタイフ。楚の官名で昭、屈、景の三王族を司る役の人物]だと名乗る者が現れ、あなたがたが屈原を祭るのはたいへんいいことだ、しかし捧げられた米はみな蛟龍が横取りしてしまっている。屈原の霊に届けたいのならば、棟(おうち、昔はあふちと表記しました)の樹の葉で竹筒をふさぎ、五色の糸でつなぐといい、そうすると蛟龍はこれを盗まなくなると言った。いま粽(ちまき)を作るとき糸と葉で包むのはここから始まっている」というのです。現在、日本列島でも各所でみられる端午の節句と粽の起源が屈原伝説に遡るのですね。

屈原は汨羅に身を沈めたあと水仙となって地上に咲き、飢饉のとき、ひとびとの苦しみを悲しんでその水仙が涙を落した。その落涙が米粒となったという伝説もあり、竹筒に米を入れて供えるのはその恩返しだというのです。

ところで、屈原が水仙となったという伝説をきけば、誰しも、ギリシア神話のナルシスをすぐに想い出すことでしょう。遠く離れたところで、美しい死者が水仙になって蘇るという神話伝説がそれぞれに伝えられているのも興味深いです。

さて、話を「離騒」へもっていきたいのですが、「離騒」は『楚辞』のなかの一篇で、屈原の作とされています。といってもじっさいに彼の書いたものが遺っているわけではないことは先にも申しました。では、いつごろ「離騒」という作品は読まれ出したか。記録では、司馬遷の『史記』(91BC完成。ですから、屈原没後約200年)に、「讒諂(ざんてん)の明を蔽ひ邪曲の公を害し方正の容れられざるを疾(や)み憂愁幽思して離騒を作る」とあるのが最も古いものでしょうか。

『漢書』にも「屈原忠信にして疑はれしをもって憂愁幽思し離騒を作る」とあり、「武帝(前漢)が淮南王・安に命じて離騒伝を作らせた」ともあります。しかし、テクスト=写本があったという記事は見当たりません。後漢の時代に入ってようやく「淮南王・安をして離騒経章句を作らしめ、劉向が経書を典校し、分かちて十六巻と為す」とあって、劉向という人が『楚辞』16巻を編成したことが判ります。

劉向が編集するまでどんな形で遺ってきたのか、定かにはならないのですが、前漢の時代にそれまで伝えられてきた楚の国にまつわる詩篇がまとめられ、『楚辞』という書物が出来上り、その中に「離騒」が入っていたことだけは確かです。

漢の人に朱買臣というひとがいますが、彼は、「楚辞を言った」と『漢書』の伝記に書かれており、『楚辞』もその一篇の「離騒」も朗誦されて伝わっていたのでしょう。

「離騒」は、やはりぜひ全編読み通して味わいたいのですが、残念ながら現在の日本ではどこの文庫にも入っていない。今回はコピーを作ってきました。全篇をじっくり味合う時間の余裕はなかったのですが、駆け足でそれを読みました[とにかく声を出して読んでおくことは大切だと思います。そのために今回は三時間に及ぶ長いおつきあいをみなさんに強いてしまいました]。

この報告では、そうして通読してみつけた問題点を挙げることにします。

まず「兮」(ケイ)という字が多用されていることです。

「離騒」はだいたい、まず、六言からなる句がきて「兮」で受け、六言(五言や八言のこともあり、語数は不定)がそれをつなぐという形式をとっています。「兮」という語は、現在では意味のない語だとされています。語末に添えて語勢を示すとか、よびかけや詠嘆、疑問、強意、命令等の意を含むこともあるが、句調を整えたり拍子をとったりするための助字なのだ、というのが現在の定着した定義です。 「離騒」という詩篇は全編365句。そのうちの187句が「兮」で受けられています。句調を整えたり、拍子をとるため以上のなにかを、古代の人は、この語に籠めていたのでしょう。現代では意味がないとされるこの語が、彼らには作品を成立させる上で不可欠だったのです。そのことに、現代人のわれわれは、もっと、畏怖の念を持って接したいとボクは思います。

つぎにびっくりするのは、植物がさかんに歌いこまれていることです。

「自分は女葛(おんなかずら)(註1)と鎧草(よろいぐさ)で身を飾り、藤袴(ふじばかま)をつないで佩(おびたま)にする」とか、「朝{あした)に丘の木蘭をとり(兮)、夕べに州(なかす)の宿莽(しゅくぼう)をとる」[宿莽というのは、紫蘇(しそ)のことらしい]という句がこの詩篇のごく始めに出て来、それから、木蘭や薑(はじかみ)や芙蓉(ふよう)の花で衣服を飾り帯玉にするというような表現がなんども出てきます。これらの草はすべて香草や薬草であることも意味がありそうです。主人公に敵意を持つ人がこの主人公を忌避するのも、恵草(けいそう)という香草を身に纏っていたことやいつも手に鎧草を持っていたことを理由にしているとも記しています。

また、いっぽうで、こうした香草や花が、貴人や君主の比喩として使われます。つまり、「わたくしの大切な菖蒲が、わたくしの気持を察してくれない」と書いて「私の君主は私の気持を無視した」ということを伝えようとします。こんな表現が、この詩篇にはあふれています[神話上の女を探し求める場面がありますが、これも「女」を「君主」の喩としています]。まるで自身が花の精―というより薬草(香草)の精であるかのような振舞い。まるで花の蜜を吸って生きる虫か蜂鳥のように、「朝に木蘭の露を飲み、夕食に秋菊のこぼれ散る花びらを食べる」のです。 この詩篇は、植物的なるものが、大きな位置を占めていること、これがもうひとつの注目しておきたいところです。

第三に、この詩のストーリーは、ほとんど伝承されている屈原の追放譚と重なっているのだけれど、屈原は「自分」のこととして綴っていない。詩の物語の主人公は「霊均」という名の男です。自分の出来事とそれにまつわる感情を、自分のことだからと、激白吐露する姿勢からちょっと距離を置いた視線で書かれています。

この視線は、一見他者の姿を借りて自己表出する近代の小説のスタイルのように見えますが、この詩を読んでいると、作者の思いは逆で、他者(虚構の人物「霊均」)を仕立てて、そこに自分が憑(のりうつ)っているのだということが伝わってきます。

四ばんめとして、見落さないようにしたいのは、メッセージの多重化です。すでに植物がおおきな位置を占めていることを挙げたところでちょっと触れておきましたが、花のことを謡っているようで、それは人間どうし、君主と従臣の関係を語っていたように、よい女を捜すという詩の言葉はよい君主を求めることを謂っている。それは、喩というよりもっと直接的に花のことを謂うことが君主のことを言っていることだった。君主と従臣の関係は、花=植物のこととして語るほうがはるかにぴったりと表出できたということ。自分の、そしてこの詩篇を味合う人びとのいちばん気持に沿ったいいかただったということだと思います。

喩で謡う技巧を使っているというより、もっと自然に、君主のことを語ろうとすれば、花のことを謡う言葉がでてくる、そんな言語のありかたがここにはあった。

語彙は現代よりはるかに少ないですが、少ない分、いっそう、一つの言葉にいくつもの意味とメッセージが含まれていて、その膨らみのまま伝えられていたのではないでしょうか。

〈2〉で触れておいた、「離騒」が初期段階では朗誦されていたことと合わせて、以下の五つを、ボクは表現[芸術表現]の古代性と呼びたいと思い、もういちど整理しておきます。

  • 1.読誦性。
  • 2.無意味語の重要性。
  • 3.植物が占める位置の重要性。
  • 4.他者に憑くこと。
  • 5.意味・メッセージの多重性。

1と2は、ほんとうは一つなのかもしれません。しかし、われわれは、いまや、「離騒」を声を出して読んだとしても、「兮」を音として読むことができなくなっているので、現代(近代)の立場からは、1と2を、それぞれに立てざるをえないのです。

5も、メッッセージの多「重」性であって、「多様性」ではありません。

『楚辞』は、中国大陸最古の文学の一つですが、それは、中国古代南方の文学で、中国古代北方の文学として、『詩経』があります。(註2)

『詩経』でも、植物は大きな位置を占めています。まず、「巻耳」[ケンジと読みますが、はこべのことだそうです。因みに、いま辞書を引くとハコベの漢字は、「繁縷」とか書き、やはりボクのソフトでは出てこないので、くどく説明すると、さっきの漢字「繁縷」の繁に草冠(十十)を載せて、婁にやはり草冠(十十)をかぶせた二文字は、平安時代末期に編まれた『類聚名義抄』(るいじゅみょうぎしょう)に出てきます。巻耳はちょっとちがう種類のはこべかもしれません]という小詩を読みましたが、やはり、その詩を一字一句読んでいったところは省略。問題点のポイントだけ、拾っておきます。

それは、詩の冒頭に「巻耳」を摘んでも摘んでも籠がいっぱいにならないと謡い出して、一人の女性が夫への思いを歌っていくのですが、古注[古い時代の註釈のことを総称してそういいますが、ここでは『毛詩伝』(前漢)と鄭玄(テイゲンあるいはジョウゲン、127-200AD)のまとめた毛詩の註釈書『鄭箋』を指します]によると、ある君主の妻(后・きさき)が夫に向い、賢人を抜擢しその働き振りをよく知ることを勧める内助の歌だといいます。しかし、朱子(朱熹の敬称、1130-1200)は『詩集伝』で、これは夫を旅に出した妻の歌で、文王姫晶(きしょう)の留守を守る妻太似(たいじ)の歌と推定できるとしました。鄭玄と朱熹とのあいだに一千年もの時間がありますが、ともかく、一篇の詩が異なるメッセージを持って読めることに注目しておきたい[さらに現代では、こういう昔の解釈を批判した説がたくさんあります]。

6月25日には、『詩経』から、もう一篇、「載馳」(さいち)を読みました。古注も朱子も、これは許の国へ嫁に行った穆夫人の作で、故国の衛が滅びたのを知り、衛の国の人たちが亡命した漕へ自ら馳せ参じようとして許の国の大臣らに阻まれるのを嘆いた詩と解釈しています。岩波書店が1958年に出版した『中国詩人選集』の「詩経国風」の巻上では、この伝統的な解釈に則って解説しています。ところが、1997年明治書院から刊行された『新釈漢文大系』の「詩経」上巻では、こうした解釈を「旧説」として斥けて、この詩は無名の婦人の詩と断定しています。その結果、たとえばこの詩の七句目と八句目、「既に我(われ)を嘉(よろ)しせざれば、旋(めぐ)り反(かへ)る能(あた)はず」というところ、伝統的には「許に嫁して后となった私が、故国の滅亡の報を聞いて故国のみんなに会いたいと馬車を走らせたことに、賛成して下さらないのなら、私は国に帰ることもできません」と理解していたのを、現代では、「あなたが私につれなくなったからといって、実家に帰ることはできません」という一人の女の胸の裡の述懐と解釈されるのです。現代は本文批評や史料研究の結果、この「載馳」は四種の異なった詩の「綴合と考えられる」から、伝統的な解釈はすべて「後人の付会」だというのです。

こういう解釈を読んでいると、現代の学者は、その作品を「誰が」作ったかといった「事実」ばかり研究していて、その詩篇をどう味合うかについては二の次にしている、そんな「研究」はなんとも貧しいではないか、という気がしてなりません。

ボクは、やはり、伝統的な解釈を、それが「正しい」かどうかを追究するよりも、そういう解釈が二千年以上ものあいだ、ながく慈しまれてきたことを大切にしたいと思います。

昔の中国では他国の君主や使節をもてなす宴会などで、主客それぞれが、詩を謡った。そして、その詩に自国の心持ちをメッセージとしてこめて謡ったといいます。『春秋左氏伝』には、魯の文(ぶん)公が鄭の国を訪問」したとき(620BC)、主人側の鄭の家老がまず歌って歓迎し、魯の臣がそれに応えるように歌ったあと、さらにそれを受けて鄭の家老が「載馳」を歌ったと記録されています。これは、「載馳」が衛の国の滅びたときの穆夫人の歌ということを踏まえて、鄭の国も詩に謡われた衛のように大国の助けが必要なのだということを伝えようとしたのだ、と『中国詩人選集』に吉川幸次郎氏が解説しています。もしそうだとすると、紀元前660年は、衛が滅びて僅か40年。そのときには、この詩篇が故国衛へ帰ろうとする穆夫人の歌だとみんなが知っていたということです。

現代、史料的にそのことが不確かだとしても、逆に、そういうことを裏付ける史料が二千年のあいだになくなってしまっただけなのかもしれません。

その上で、現代風の解釈はもちろん可能です。そいう解釈もひょっとすると昔むかしはされていたかもしれない。確かに、二千年のあいだ認められていたのは、権力公認の解釈だったからです。 それにしても、伝統的な解釈をあんなに軽く追放してしまうのには驚きです。こういう学者の態度には、いつ、自分の説も反証が出てくるかもしれないという謙虚さが感じられません。[いや、こんなことをいっているボクも不遜な物言いしているかもしれない。ほんとうに気をつけようと思う。]

くどくなったけれど、ここでいいたいことは、二つの異なった解釈をじっくり味わいたいということです。その二つをどちらもていねいに解読することこそ、詩を味わう醍醐味と思うのです。『詩経』の詩篇も、意味を多層化しているのです。

『詩経』は、だいたい、一句が四言から出来ていて、「離騒」と形は異なっています。そういったところからも、北方と南方の伝統の違いが読めてくるのかもしれません。どちらも、のちに発達する五言詩、七言詩の原形のような姿を保っています。

そして、「巻耳」の最終聯の四句が、やはり、「矣」(イ)という字が各句の終りについていることからも推測できるように、現代ではほとんど意味を持たない語をくりかえして使うということを『詩経』でもやっています。表現における古代性というか、古代型が、『詩経』にも共通してみつけることができます。

植物が占めている位置の大きさに思い当たったとき、ボクは、三木成夫さんの本を思い浮べました。表現の古代性と人間の営みにおける植物系機能とは、呼応し合っているのではないか、と。

三木さんは、たとえば『ヒトのからだ―生物史的考察』(うぶすな書房、1997.もともとは『原色現代科学大事典6―人間』学研、1968.の一つの章として書かれたのを、三木さんが亡くなった後うぶすな書房から一冊の本として出版されました)に、ヒトの器官を植物系器官と動物系器官に分け、動物系器官は感覚、神経、運動といった働きを担い、植物系器官は呼吸、消化、循環、排出といった栄養摂取と生殖の働きを司るという相違があることを教えてくれています。

植物系器官は、解剖学的に動物系器官に被われていて、その様子が見えにくい、そして動物系器官は、動物ごとに著しく形態を異にしているが、植物系器官は、栄養・生殖を共通の仕事にしてその違いが少ないといっています。

さらにボクが教えられたのは、進化というのは、動物系器官が植物系器官を支配していくプロセスだといっていることです。これを人間の観念の働きにひきつけて考えれば、〈生〉〈生命の働き〉の中心を、心臓から脳へと移動していったのが人類の歴史だといえるということです。

〈生〉の中心が心臓から脳へ移行していくのが「進化」だということ、そういう進化を人類はいやおうなく経過してここ(現在)にあるということは、「進化」の過程を経て、人間は自分の問題を考える視点の重点を、〈心情〉から〈精神〉へと移動させていったといういいかたと対応させることができます。

6月25日は、『詩経』の詩から二篇コピーしてまいりましたが、そのどちらにも「岡にのぼる」という表現の語句がありました。じつは、意図的にその表現があるのを選んだのですが。この「岡にのぼる」という詩句は、どちらの詩でも、〈植物〉と交感することと一種ふかい関わりのなかで「岡にのぼって」いることに気づいておきたいと思います。

蕪村の「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句は、この『詩経』の「巻耳」や「載馳」を本歌として作った句だと思います。

蕪村は、前回ご紹介した「句を作ることは、専ら不用意を尊ぶ」という言葉の入っている『春泥句集』の序で、召波に俳諧に上達するのにはどうすればいいかと質問されて、漢詩を読めと答えていました。漢詩と俳諧ではちがいが大きいという再質問に、意外と近いのだと画論を引用して言っています。その「近さ」を、蕪村は、それとなく、こんな句で実践証明していたといっていい。

句の極意は不用意を尊ぶところにあるというようないいかたは、〈脳〉よりも〈心臓〉に考えかたの中心を置いた発想です。蕪村の植物への独特の思いは、やはり中国古代の詩を読んで身につけたのかもしれない。

最後に、ボクは西方ヨーロッパの古代の文学ホメロスの叙事詩のことを考え、インドの『マハーバーラタ』を考え、東アジア古代の文学芸術といろいろ比較したかったのですが、これは今後の課題ということにして終わらざるをえませんでした。

ただ、ホメロスという名前を出して、ひとつだけ見ておきたいことがあります、作者の名前ということです。ホメロスと屈原と、二人の作者の名前と、「イリアス」「オデュッセイア」「離騒」を並べて、はっきり見えてくることは、「離騒」は最初から「屈原」という人物の作だといわれてきたこと。それに対して、ホメロスは「イリアス」「オデュッセイア」という叙事詩の厳密な意味での作者ではない、吟唱されてきた物語を集大成した人だとはやくから考えられてきたことです。人物像としては、ホメロスのほうが、具体的で、はやくにホメロス像といわれる肖像彫刻もあるのに対して、屈原はとても伝説的です。屈原は、作者としてはっきり名付けられているが、一人の人格を持った存在としては稀薄だということです。

つまり、「屈原」は〈名〉なのです。ちょうど、焼物の清水六兵衛が世襲であるように、その名を継いだ人はその〈名〉にふさわしい〈人〉になるように、〈名を継ぐ〉[これが後に「家を継ぐ」思想として確立していきます。[「名」「家」はおなじ思想の根をもっているのが東アジアの〈名〉における思想的特質です]ことのできる〈名〉なのです。もちろん、屈原の場合は、投身して、家系は絶えましたが、その〈名〉は継がれ『楚辞』が編集されます。

「名」が[家」を表す世襲制は江戸期に確立しますが、名の意識あるいは慣習は、おそらく東アジアに古くから育っていたものでしょう。ホメロスと屈原を並べてみることからそんなことが、推測できます。飛鳥時代の止利(鳥)仏師も、おそらく個人の名前というより、そういう工人の集まりの棟梁の名であり、その工房の棟梁が止利を名乗っていたと考えることができます。

「イリアス」「オデュッセイア」と「離騒」は文字化されるのは、だいたい同じころ(200BC頃)だといわれています。しかし、「イリアス」「オデュッセイア」にはその前に数百年の口承の時代があり、その意味ではテクストのどこまでがホメロスのものか、もう判らない。しかし、ホメロスという個人の人格の存在感は確かなのです。「離騒」は屈原が書いたと当初からいわれながら、その当初からそれを作った集団(共同体)の代表名の性格が与えられているのです。「離騒」を草した根拠もない、ただその作者だと伝えられていること、一方、漢書などで「屈原賦二十五篇」などと『楚辞』の作全部を屈原の作にしていたのも、当時の人にとって個としての作者は誰かなどということに意識は働いていなかったことがうかがわれます。

新約聖書のマタイ伝は、冒頭から「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」が掲げられ、マリアがイエスを産んだところまで、蜿蜒と名前がつづきます。「イリアス」では、系譜ではないのですが、戦争をする両軍の将軍兵士や軍船が一覧表のように数え上げられます。その名前は、一人ひとり、同じ名を名乗っていても違う存在として数えられる。屈原や止利の名前は、そういう数えられかたからはみ出しています。

西ヨーロッパと東アジアとのあいだには、この〈名〉に対するような根源的な態度の相違があります。と同時に、表現の古代性と呼んでいいありかたに関して深く共通したところもあるのです。

第一回のアルベルティ、第二回の蕪村と、この二人の場合、それぞれの名前の下にその人の人生がありました。そして、それぞれの思想や行動を検討しながら、それぞれの生きかたということについても思いをいたすことができました。「できました」といいかたは変で、そういうふうに彼らの〈生きかた〉へ思いを 馳せる面白さがあったといったほうがいいでしょうか。彼は(彼女は)、その問題をどう考えたかという問いの立てかたをして、芸術のありかたや、思想のありかたを考える醍醐味を与えられるのです。しかし、屈原の場合、そういう面白さはみつけることができないといっていい。屈原という人物像からわれわれの掌に載せられるのは、陳腐なものです。仕えていた主に篤い思いを寄せていたのに捨てられ絶望のあまり河に身を投げた忠臣。「屈原」という<名>が呼び起こしてくれるものに、それ以上のものはない。たぶん『楚辞』のうちの屈原が書いたものはどれかがさらに実証されたとしても、このことは変らないでしょう。〈名前〉がその人の〈生きかた〉〈存在〉を呼び出してこない―そういう名前のありかたがわれわれを導いてくれるところは、逆に、〈古代的なもの〉とはなにかへの問いだといえます。われわれの裡にあって、その活動に深く関与しているにもかかわらず、われわれの意志(意識的操作)の埒外にあるかのように布置している器官は、古代の人の名前のように、その人の個的な生きかたを体現してない。それは、それを大切な器官/機能だと認識しながら、そこに〈生〉の中心は置かない扱いをされているそんな存在です。

それぞれの裡に、名前があって名付けようのないもの―それが〈古代的なもの〉ということができる。その後の人類の歴史は、人間がコントロールできるものばかりに関心を注いできました。〈名づける〉ということはその対象を〈知る〉ことに等しいと思いなすようになっていきました。〈知る〉ということは、そのものを自分のものにすることでもありました。人間を個として見、その〈個〉を〈人間〉を単位とした尺度で測ってきたのも、その〈個〉の人生=生きかたにつねに興味をそそいできたのも、個別化することによって、その〈名づけ〉ができたからです。

〈名指す〉ということは、なにかを表現するということです。名前と実体との関係が、植物系の(器官の)視点からみるときと動物系の視点からみるときとで大きく異なることを、われわれは、屈原や『詩経』を読むことから学びます。古代から近代への移行[ここでは、とりあえずは、東アジアにおけるとことわっておきましょう]というのは、すでになんども語ってきたように、植物系の視点から動物系への移行と並行しているようです。そのこと学ぶことによって、われわれの[現代を生きるという場面にあって]〈名づける〉ことと〈名づけられる〉もの[かつては「対象」とか「実体」とか呼んでいたもの]との関係性をどのようにとっていくべきか。「屈原」を読むことから、あたらしい眼でこの問題に直面することができるのではないでしょうか。

註1:

ボクはここで、オンナカヅラは「女葛」、ヨロイグサは「鎧草」と表記しようとし、みなさんは植物の名前を漢字で読み慣れておられないだろうか、とちょっと危惧して( )をつけ、読みがなをいれました。
ボクは、植物や動物の名前をカタカナで表記することは許せません(その植物や動物のために。そしてまた、そういう植物や動物といっしょに生き歴史を刻んできた人間のために)。植物園に行くとそれぞれの植物の名前がぜんぶカタカナで記入されています。植物図鑑もそうです。図鑑など説明の終りにお添えもののように漢字ではこう書くと付されているのがオチです。動物図鑑も魚類図鑑もそうです。なぜ、漢字で表記して、難しそうなのには読みがなをつけるということをしないのでしょう。漢字でその植物や動物の名を呼ぶことによって、ずうっと奥深くまでその植物や動物の性質ばかりかその歴史も、いっきょに感じとる(つまりその植物や動物を知る)ことができるのに…と思います。
いままで、このことは、学生諸君にはよく言ってきて、そのとき、いつも例にだすのがワレモコウだったのですが、これの漢字名は、じつは三、四種類あるのですが、その一つが「吾亦紅」。これなど、あの暗い紅色というか濃い紫のちいさい花が、「ワタシもこれでも紅いのだ」とけなげに主張しているその地味な花のすがたを、昔のひとが愛した気持が伝わってきます。「ワレモコウ」とカタカナで書いたのじゃぁ「吾亦紅」は連想できません。「吾亦紅」という文字を見るだけで、それを見たひとは、なぜそんな字を当てるのかなと疑問も持つだろうし、そこで調べてみれば、すぐ先のような伝承や、源氏物語の匂宮に「物げなき吾亦紅などは」云々と書かれていること、古い織物の文様にもなっていることなども知り、いっそうこの花を好きになるのじゃないでしょうか。
日本の植物学者や博物学者は、葉形がどんな類型に属し、花はどんな形で花弁は何枚かとかが判ったらその「花」を理解したと思っているのでしょうか。彼らが、なぜ、カタカナ表記にしたのか、また、いつごろから、いっせいに、カタカナ表記を採用したのか、かねてから調べてみようと思っていてまだ調べてないのですが(どなたか調査済みなら教えていください!)、どうも、その意識の底に、植物名や動物名をカタカナ表記に統一することによって、「国際的」な分類学のレヴェルに達しているという考えがあるようです。
だとしたら、なおさら、ボクは怒りたくなります。ちかごろ、外来の輸入動植物を日本列島から排除しようという動きが厳しくなってきました。日本列島に生息する固有種の絶滅を防ぐための取り締まりです。そのために、生物学者や博物学者は、たいへんな努力をしています。しかし、名前のつけかたは、「外来種」の方法をとっていて、それを反省しないのはなぜでしょう?漢字で植物や動物の名前を呼ぶこと、これは、それらの植物や動物にとって、その「固有」の姿を見ることなのです。

註2:
『詩経』には、いろいろとりくんでみたいテーマがたくさんあるようです。『詩経』の序では、作品(詩篇)を六つに分類して、「風」「雅」「頌」「賦」「比」「興」とし、それを「六義」と呼んでいますが、ほんとうのところ、それは、どんな意味を持っているのか。単に詩の形式とか役割との問題領域に収まらない当時の[古代東アジアの]詩=芸術のありかたを考える緒口として、考えさせてくれるものを隠し持っていそうです。
それに、その「六義」を、紀貫之は『古今和歌集』の序で、やまとことばに直してやまとうたの情況に引き合わせるように引用していますが、そのとき、漢語からやまとことばに移されたところで、どんな落差が生じたか。これは、日本語の詩・文学/表出意識と漢語・中国語の表出意識の、それぞれの成立と展開を考える上で大きな示唆を与えてくれそうです。また、韻律ということについて考える上でも―現代人は韻律という問題をつい形式的な問題として処理してしまいがちですが、ボクは現代を生きる人間としてそういう態度を少し反省しなければと思っています。ボクは韻律というのは、作品が成立するとき非常に重要な働きをしていて、意味を持たないけど、作品に不可欠の要素として決定的な役割を果たすもの、作品が作品となるための隠れた規律のようなものと考えているので、『詩経』が提示している「六義」はそんな問題についてどんなことを教えてくれるか、などなど、表現の起源と成立、根拠に関わる問題にいろんな材料を提供してくれる気がします。

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