岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

豊臣時代

豊臣時代(桃山時代)は、いたって短く、永禄(1558〜1570)から寛永(1624〜1644)に至る60年あまりの期間である。この時代は、秀吉(1536〜1598)を中心として動いていった。期間は短いが、美術史においては特別な重要な時代である。

政治的には、鎌倉幕府が生まれて以来、東国武士の勢力が後退し、群雄割拠(下克上)の時代を経て、再び政治の中心勢力が江戸(東国)へ移動するまでのその間の期間である。いいかえれば、京都の実力者たちが東国へ勢力を張っていく始まりを作った時代である。

元亀(1570〜1573)、天正(1573〜1592)の戦乱の後、日本中で武力に訴え実権を得ようとする動きが盛んになり、信長(1534〜1582)が天下統一を企て、秀吉がそれを実現した。のみならず、秀吉は、朝鮮半島にまで手をのばしていった。

こうした政治的に沸騰していた時代、美術も盛んにならないはずはない。そんな情況下に桃山美術が「壮麗華美」というべき新しい美術の境地を開いた。

この時代の美術の特色は、三点挙げることができる。

まず、第一は、彩色が「華麗」になったこと。東山(室町)時代には、豪奢(贅沢)の極みを得ようとして逆に「淡泊」そのものの銀閣寺のような作風が好まれた。しかし、豊臣時代になると、一転して、再び「華美」が求められるようになる。足利時代の末期の応仁の乱(1467〜1477)以来、天下は分裂、群雄は割拠し、「名分」(位階)も家名も価値がなくなり、力の強い者が天下を支配する時代となった。秀吉は、「卑賤」の身分の子から身を起し、「大権」(統治権)を掌握、福島正則(1591〜1624)のような武将も彼の下から生まれた。秀吉の武将や部下には平民から出世した者が多く、彼らは「金碧燦爛」を尊び、城郭をあちこちに建てようとした。あの城郭の天守閣というのは、信長・秀吉の時代にポルトガルから伝えられたカトリック教の影響がみられるということである。

武将たちは豪邸を建て、城や邸宅に華麗な装飾を施した。桃山御殿(伏見城)を始め、武将たちの邸宅はみんなそんなふうだった。加藤清正(1562〜1611)の熊本城も、永徳風の金色燦爛とした部屋を作らせた。こうした金碧濃彩の絵襖などの需要が非常に多くなった時代、それらの大事業を取り仕切ったのが狩野永徳(1543〜1590)だった。「箔置き」の屏風は永徳が始めたといわれている。箔置きの伝統は元信からだという説もある。いずれにしても、「箔置き」は、東山時代の「淡泊」趣味への反動が興ってきたことと、平民出身の武将の趣味が求めたところがその始まりの原因をなしている。

第二は、朝鮮美術の影響である。朝鮮の影響は奈良時代に大きかったが、豊臣時代にまた復活した。当時の朝鮮からきた美術は、中国・唐の美術を「一変」させた趣がある。秀吉が朝鮮「征伐」(侵略)を企てる前から、倭冦などがもたらした朝鮮文化の影響も大きかった。もちろん朝鮮に侵攻して「分捕」ってきものは、非常に珍重された。そのなかには、明画みんがと称するものがあって、朝鮮の絵画なのに明画だと思い込み、それを無意識のうちにも尊重していたというケースもある。

永徳の晩年の作に細長い形をした人物像などが見られるが、こういう人物は、宋画にも明画にもない。じつは、彼が朝鮮絵画から学んだものである。彩色なども朝鮮画の影響が大きい。大和(奈良)の長谷寺はせでらに所蔵する虎皮屏風と呼ばれる「分捕品」なぞ、よくみると、たしかに、永徳や山楽は、ここから学んで自分の画風を作っていると納得させられるものである。

第三は、絵画が通俗的になったことである。私は、日本の浮世絵は、その起原をこの時代に持っていると信じている。浮世絵の起原は徳川時代の初めにあるという説もうなづけるが、やっぱりこの豊臣時代を起原と考えるべきである。

この時代のように、社会階級の秩序がことごとく壊れてしまった時代は、ほかにないくらいである。秀吉が賤しい身分から大権を握るまでに出世したなどというのも、前代未聞のことである。ここに至って「上品」「下品」などの区別概念、価値基準も効力をなくしてしまい、そこへ東山幕府に対する反発が加わった。社会は、よりどころのない、混乱状態に陥ったわけで、それまで流通していた絵画では、人びとは満足できなくなった。永徳は、すでに浮世絵を描いているし、山楽などが描いた浮世絵には大いに見るべきものがある。あの有名な岩佐又兵衞も、こういう環境だからこそ活躍できたのである。

浮世絵は、徳川氏(江戸時代)の元禄のころ(1688〜1704)になると、当時の社会の下層庶民の嗜みものとして盛んに作られるようになる。しかし、元禄の浮世絵は、桃山時代の絵画の流れを受けていっそう通俗的になった産物というべきで、これはまことに時の流れの結果というほかはない。この時代の絵画の代表者は、いうまでもない、狩野永徳である。「古永徳」などとも呼ばれてきた。松栄の子で、天正十八年に没した。享年四十八。幼いころより絵は祖父の元信に学び、豊臣秀吉に見出されて大坂城(1583着手、1588完成、天守閣五層)、聚楽第(1586〜1587築造)などの障壁画をてがけた。その時代からそれほど隔たっていない時期に書かれた『本朝画史』(江戸初期までの405人の画家の伝記;狩野山雪著、永納増補、1691「本朝画伝」→1693「本朝画史」)には、京都に火災があったあと、邸宅再建ブームの世となり、永徳がこれの処理を一手に引き受け多忙を極めた、天正四年(1576)には安土城の障壁画を描いたり、つねに忙殺され、緻密な絵を作っている暇がなく、多くは藁筆で描いた。二条城などは、巨大な松一株を描いて、一部屋の障壁画とした、と誌している。あるいは、富士山だけを描いて構図を作ったりもしたという。

彼の絵は、すべて、下地に金箔を置いた。その構図の規模の「宏大」なところに、永徳の特質がある。そうしなければ当時の需要をこなせなかったのだろう。

こういう作風が、また、当時の時代の好みに合っていた。のちに、徳川家が日光廟をつくるときも、その障壁画の多くを永徳に依頼したという。いってみれば、永徳は、当時の絵画界の秀吉である。当時の「天下」(世間)の眼をいかに驚かせたかを考えてみるといい。あるときは、百双の屏風を描いたことがあるという話もある。西本願寺の孝文帝を描いた障壁画は、永徳作の「密画」(略画の反対、緻密な筆運びによる絵)である。のちになって、永徳の絵に探幽の落款を捺しているものがある。毛利家所蔵の獅子の絵は、非常に壮大である。

永徳の作品で、いいものは西本願寺にある。水墨画は、祖父元信の影響を受けており、彩色は朝鮮画の影響が混じっている。筆線の「剛大」な(太く力強い)こと、彩色の「濃重」な(重ね塗りをして、濃い色遣いである)こと、まことに感嘆のほかはない。緑青は高く盛り上げ、絵具を何重にも重ねて塗っているのもある。のちの狩野派はみんなこの永徳の方法を踏襲していく。まことに、永徳は、画家のなかでも傑出した画家である。

永徳の子に光信(1561〜1608)がいる。その絵、品位はあるが力に乏しい。

光信の弟孝信(1571〜1618)は、若くして死んだ。絵はそんなに巧くなかった。孝信の子が探幽である。狩野家の大家の系譜はこういうふうにして、長い世にわたって絵画界の覇権を握っていったのである。

この時代の大家で、永徳のつぎに挙げるべきは、永徳の養子山楽(1559〜1635)である。名は光頼、本姓は木村。江州(滋賀県)蒲生郡の出身。幼いころから絵が好きで、秀吉の近習をしていた。通称は修理之介しゅりのすけ(修理)という。山水、人物、花鳥草木、すべてにわたって永徳風で、「規模」(構図と筆運び)は壮大である。たくさんの作がこんにちまで伝わっている。大坂城が落城したとき(1615)、徳川方に捕われたが、松花堂(昭乗、1584〜1639)が、彼の絵には「画工山楽」と落款しているものがあるように、彼は士人ではなく画工である、処刑には及ばない、と弁護した。松花堂は、山楽に絵を習った門人だった。本願寺などに、山楽の大作がある。

山雪(1590〜1651)は山楽の子(養子)で、徳川時代初期の人だが、画風は、依然として永徳、山楽の範疇にある。徳川が江戸に幕府を置いたとき、探幽ら狩野家一族は江戸に上ったが、山雪は京都にとどまって狩野家の画風を守った。『本朝画史』の著者永納(1633〜1697)は、この京狩野の出である。山雪は、豊臣家に抱えられた画家だったので、徳川家に用いられなかった。もし、徳川家が山雪も抱えていたら、徳川時代の美術の趣きは、もっとまったくちがったものになったといえるかもしれない。山雪の「濃淡」(墨色の使い分け)は、非常に達者で、大作に九鬼氏が所蔵する「長恨歌絵巻」三巻がある。緻密な筆運び、巧みな絵筆捌きは「無類」である(ずば抜けている)。

海北友松(1533〜1615)は、永徳の弟子。永徳との関係は、探幽と守景(久隈守景;探幽門下四天王の一人だったが破門された)の関係に似ている。永徳に似ているが、一種「洒落」さにおいて異なる(宋元画の自由な筆運びの趣きに勝っている)。力を籠めて描いた作は、永徳を圧倒している。妙心寺に「写生的」(写実的)に描いた「牡丹図(花卉図)」がある。名画である。

友雪(1598〜1677)は友松の子で徳川時代にあって探幽の影響を受けない絵を描いた。しかし、絵の実力は、父友松に劣る。

興以こうい(?〜1636)は、永徳と山楽の弟子であるという(現在は光信の弟子説。探幽、尚信、安信三兄弟の後見人)。狩野家の家系には属さない。見識の高い絵師で、探幽風というのは、ほんとうのところこの人が始めたといえる。豊臣時代の華麗さに抗して、雪舟風の画風を復古させようと努力し、探幽や尚信に影響を与えた。探幽はのちは探幽独自の画風を樹立するが、尚信なぞは、生涯興以の画風を超えることはできなかった。

宗周(宗秀とも書く、1551/52〜1601/02)は松栄の子で、永徳の弟である。浮世絵を描き、岩佐又兵衞に近い存在である。浮世絵の始祖と呼んでもいい。

岩佐又兵衞(1551〜1601)は、やはり、この豊臣時代にとりあげておくべき絵師と思う。彼については諸説紛々として、定まった伝記すら得られないが、豊臣時代から元禄(1688—1704)時代に跨って活動した人と考えられる。この世に又兵衛筆と伝わる絵は、大別すると三種ある。

第一種は土佐派風の浮世絵であり「彦根屏風」を作った画派の一派につながる画風の絵である。第二種としては、本校の「美人琴辺に坐すの図」などにみえるもので、狩野派の作風を帯びた絵。第三種は、後世の師宣(菱川師宣)風の絵であり、これは元禄以降の作である。

この三種類の画風のうち、いずれがほんとうの又兵衛の仕事なのか。これを決定することはまことに難しい。ある人は、又兵衛は長生きをして、生涯を通じて「三変化」をしたのだという。この意見は強引すぎる。

又兵衛の伝記は詳しいことは解っていないが、よくいわれる浮世又兵衛と混同してはいけない。岩佐又兵衞はすなわちかの有名なる又兵衛で、荒木村重の子である。信長は村重に摂津の国を与えた。しかし村重は信長に謀反を起し、信長に攻められ自殺(隠れて城を脱出)した。又兵衛は乳母に抱かれて城を脱け、本願寺に匿われ、母の姓を継いで岩佐と名乗った。越前(福井県)で生長したという。

別の説では、松栄の子で光信の画風を受け継いだともいう。また別の説では、光信に従い、のちに光信から破門されたというのもある。

浮世又兵衛は大津絵の絵師で、戯画を作って旅人の土産にして売っていた。大津絵の落款に「浮世又平」の四字が書かれたのがある。これは、非常に拙い絵で、絵として議論する値打ちもない。岩佐又兵衛は、土佐派風の浮世絵を描いた大家で、「彦根屏風」はまさに彼の筆になるものと思われる。本校所蔵の「美人屏風」は昔から又兵衛筆として知られているのだが、おそらく山楽が筆を採ったものかと思う(註)。「彦根屏風」の背景の山水は、狩野派の画風に近いので、又兵衛は土佐派系ではないという説を唱える人もいる。しかし、この時代の土佐派は、まえにもいったように、すでにすっかり狩野派化しており、又兵衛に狩野派風の絵があっても怪しいものではない。

(註:この一行、〈本校所蔵の「美人屏風」は昔から山楽筆として有名なものだが、おそらく山楽が筆を採ったものではないと思う。〉とも読みとれる。筆記した学生の文章がきわめて曖昧なのである。こういう曖昧な表現はたくさんあるので、充分考えて読むことが要求される。)

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