岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

足利時代(その1)

日本の美術史は、大きく別けると、古代、中世、近世の三つに分けることができる。古代は奈良時代、中世は藤原氏の時代、近世は足利氏の時代といいかえることができる。

そして、奈良時代は彫刻が中心に栄えた時代であり、「理想」を表現しようという考え(「観念」)が豊かに働いていた。仏教は小乗仏教で、人間界と仏の世界には隔りがあると考えられていたから、その考えにもとづいて造られる仏像も、人間の属性から離れた「高尚」な性質を表そうとしている。薬師如来や阿弥陀如来がこの時代を代表する仏像で、その天上遥かに坐す存在を、想像力を駆使して制作している。奈良彫刻がギリシァ彫刻と近いものを持っているのも、その点においてである。

中世の美術は、もっと「感情的」で、仏像も人間の「情」を備えている。宗教は即身成仏を称えて密教が主力となり、人間も仏の「情」をもち、仏もまた人間の「情」を備えているというふうに考え、「人」と「仏」の間は隔たったものではなくなった。

この時代の「剛健」な気風を伝えたのは巨勢派、「優美」な表現意識は基光、恵心から隆能、隆親へと享け継がれていって極点に達し、時代の大きな流れはこの「優美」の方向へ傾斜していった。その流れ(の「余流」)を汲んで鎌倉時代に入る。したがって、鎌倉時代もまた「感情の美術」が主流を成している。その様相は、ちょうどイタリア近世の初期、15世紀のルネサンスの頃のイタリア美術が備えている「感情的」な趣きと似ている。

足利時代に入ると、その流れは一転して「自覚的」になる。人間が自分でいろんな現象を考え、その原理を「覚って」表現する時代となる。

日本美術には、この「理想」「感情」「自覚」という三つの性質(心的態度)があって、近世(足利時代)に生まれた「自覚的」の思想は、こんにちに至るまで、ことに明治維新まで日本美術を支配していた。狩野探幽(1602〜1674)など、まさにこの思想の下に育ち生きた典型的な画家である。「最近」(江戸時代の終りになって)円山応挙が写生を重んずる画風を見せて、その「変化」を試みようとしているが、やはり、この「自覚的」の思想のなかにいることには変わりがない。

外国の美術と日本美術が異なる点はなにかといえば、この「自覚的」の思想の現れかたのちがいにある。この思想のありかたのちがいが、東西美術の「衝突」を呼んでいる。

奈良時代美術の「壮麗」、藤原時代の「優美」は、外国にも比肩できる美術である。つまり、天平をギリシァになぞらえ、慶恩を「タルカニア」になぞらえてみることができる。しかし、足利時代に生まれた思想は現在(明治時代前期)をも支配しており、橋本雅邦氏の絵もこの思想の上に立っておる。円山応挙が写生によって一派を立てたのも、その思想に基づいているからである。

もういちど要約しておくが、

奈良時代は、理想的で壮麗。

藤原時代は、感情的でその極み優美。

足利時代は自覚的にして「高淡」である。

西洋人はよく現在の日本美術をみて淡白だと批評する。それは、自覚的であることによって成し遂げた「高淡」な味が出ているからである。日本人もかつて、中世以前には、壮麗優美な性質を豊かに発揮していたが、400年前、足利時代に入って、高淡になっていった。つまり、「高淡」の性質が「緩ゆるやか」になれば(「高淡」という精神の極みを筆墨で表現しようとする緊張感がゆるむとその隙に)、桃山、元禄といった「華麗」な美術が生まれてくる。日本のこんにちの状況は、やっぱりそういう状況である。人(画家)いろいろで、ある者は「優美」なスタイル、ある者は「壮麗」なスタイルを身につけているが、つきつめてみれば、みんな「高淡」(を最高とする表現思想)の支配下から抜け出ることはできない。

日本では、「理想的」「感情的」な時代には、「写生」を重んじなかった。このことが両時代に共通している特質である。ところが、「高淡」を求める時代になると「写生」を大切なことと考えるようになった。とはいえ、その「写生」観も、西洋のように「はなはだしく」(決定的にただ「写生」が大切というので)はなかった。「高淡」を求める精神が「写生」を重んじるのは、「自覚的」であるからで、こういう「自覚的」な思想が生まれてきた原因(始まり)は、鎌倉時代にある。つまり、禅宗が入ってきたことと関係がある。禅宗が日本に定着して、鎌倉時代の第二期の終りに、明兆のような大家が現れた。

「自覚的」というのは、自分自身がこうあろうとすることを、自ら省みて判断する態度のことをいう。昔から土佐派のような絵描きの集団があったが、足利時代の雪舟や雪村のように、たったの一筆によって「全幅」(絵全体)が駄目になってしまうというような考えはしなかった。雪舟や雪村の時代になって、こういう絵画の(構図や筆触の)原理、理論を研究するようになった。

すべての物事において、こうした「自覚的」な方法がとられるようになり、茶道にしても「軍法」(戦争の理論)にしても、禅宗の説く法を原理として考えるようになった。

この眼でみると、足利氏以前は「幼稚」にみえる。だから足利氏以降の時代は「成人」(大人)になったといっていい。「画法」というようなことが言われ、書き遺されるようになるのも、この時代からである。

無心(「幼稚」)であることと、自覚的(「成人」)であることと、はたしてどちらがよいか、これはようく議論してみなければならない問題であるが、人間というもの成長すれば無心でいることができないのは避けようのないことである。時代が「開花」するにつれて、美術の世界が「自覚的」になっていくのも、ごく当然のことではある。明治のこんにちは、歴史上最も「自覚的」の思想に富む時代である。「考按工夫」する(自分でいろいろな方法や流儀を考え編み出す)ことも、すべて「自覚の心」がなせるところである。

ヨーロッパ近世の美術は、14世紀の末、15世紀初頭から始まり、今日に至っている。これもまた「自覚的」である。「自覚的」をさらに促すように「実験哲学」(実証主義的思考)が起ってきて、物理学化学の世界での発見が相次ぎ、「物体的」(物質・ものとものの関係を研究する)学問が盛んになってきた。それに併なって、美術の世界にも「実験的」の思想が影響力を持ち、この400年というもの「実物を写す」ということが主流を占めるようになった。と同時に、ギリシァ・ローマの古典的な方法を学ぼうとする動きが起って、今日に至っている。

日本の近世の美術は、こういう西洋の動向と異なり、「起原」は自覚的であることから始まっているが、ほかにその「骨髄」(思想を形成する主軸となったもの)として、次の三つを挙げねばならない。

第一は、「趣致」である。面白さ(楽しさ、美しさ、美の快楽)を追究するために、その描写表現の度合いをどの辺で抑えるか。美・面白さの表出を制限することによって、その美の真髄を感得しようという思想、方法である。

第二は「世外心」(俗世間を離れたところに最高の生きかたを求める考え)。これは、西洋の唯物論とまったく正反対の思想である。禅宗は現世の塵を払って「超脱」の領域である「清淡」を求め、この世の外にある「情」を楽しみ悟ろうとする。「悠々乎」として「物外に逍遥する」(形ある物以外の世界、人間のしがらみや感情を超脱した世界に心と身を置く)思想である。この考えは足利時代の頃に起り、この世の繁雑なしがらみを描いた作品を嫌い、「淡白」な表現を愛でようと彩色のようなものも不要であるとした。

第三は、「古法」を重んじることである。

この三つは、日本近世美術の「骨髄」というべきもので、応挙が写生を重要視したといっても、彼は写生にも限界があることをよく知っていて、無用のものは無用であり、「趣致」を達成することができたら、それで充分であると考えている。「煙霞」(霞のような雲)を描いて「山水」(風景)の「一半」(部分)を隠してしまうような方法もその良い例といえよう。

「日本画」(日本の絵画)というのは、こういう次第で「心の外に心なく」(〈心〉という観念のなかに〈心〉がある、つまり、あらゆる現象は〈心〉のなかにあると考え)、「意」によって成立する(〈心〉を動かし交流することができる〈技〉としての「意」によって絵画は生まれる)ものである。

この精神を失えば日本絵画の伝統は絶滅するばかりだ。

古法を重んじるというのも重要で、しかし、古法としての宋元の画風を慕うばかりにこれを全部大切に遺し、表現しようとして、そのあまりややもすれば「趣致の一部に制せられ」(「趣致」の表現にとまどい迷い)、古法が教える「趣致」を真似するだけで満足してしまっている場合が多々ある。

「趣致」には二種類ある。一つは「物外の感情」(物、対象の外に、その物、対象の〈心〉さえをも感じとり描こうとする方法)。もう一つは「実物的」(物、対象をみつめ、それを描くことによって、その物の〈心〉を感じ取ろうとする)方法である。

応挙は、第二の「実物」に傾き、蕭白は第一の「物外心」に傾いた。どちらに傾いているにしても、傾きすぎると、「画味」(絵の味わいの真髄)を会得できなくなる。この二つの「趣致」を両方ともによくわきまえていたのが雪舟、雪村、探幽である。

「足利時代」というのは、足利氏執政の時期だけというのではない。近世400年間、「足利時代」なのである。

したがって、この「足利時代」をさらに分類して、四期に別ける。

第一期、東山時代。東山・足利義政の思想にもとづき、雪舟、正信等が活躍した、足利氏時代の最盛期。

第二期、豊臣時代。豊臣秀吉を中心とする時代。狩野元信はすでに亡くなっており、足利時代が持っている「華美」さが秀吉の趣味によって力を増した時代。狩野永徳がこの時代を代表する。

第三期、寛永時代。寛永より元禄にいたる時期。探幽、常信、一蝶、光琳らが活躍した。

第四期、寛政時代。応挙、呉春らが登場。写生的な絵画で足利時代の思想を変革しようとした。寛政の後、文化文政期に入って、谷文晁、酒井抱一らが現れ、絵画世界もにぎやかに盛んに活動しているようにみえるが、抱一が光琳を学んで自分の画流を作っているように、この時代はしょせん「復古」に終っている。四条派も応挙の流れを「保続」するだけだ。したがって、文化文政期をわざわざ別の一時期として立てるほどのことはない。

こうして応挙以来、こんにちに至るまで、美術思想は下降を辿る。その間に、浮世絵が力をつけてくる。町民層に一つの美術ジャンルを与えたのが浮世絵であるが、日本美術全体の流れからみると、影響力は大きくなく、当時の主流である画風に随伴(併走)して発展しているだけで、美術界を支配するにはいたらなかった。

高橋勇ノート

足利時代は前にも言ったように、政治のありかたも「静かの事」を好む傾向になった。この傾向は当然といえば当然で、前の鎌倉時代は、元寇の乱あり、南北朝の争いありと、戦争が多く、きわめて殺伐とした時代だったので、その反動として、極度に「沈静」をもとめる気風が興ってきたのである。これは極く自然な成り行きである。

この時代の人びとの思想を基礎づけたのは、僧侶たちである。以前にもいったが、奈良時代は小乗仏教が基礎にあり、藤原時代は密教が中心となった。この両者は、物の形を尊ぶ。その反動として興ってきた禅宗は、心のなかの曇りをただすことを最も大切なこととした。将軍から普通の人にいたるまで、みんなこの考えを信奉した。

床の間に掛けるものも、釈迦の三幅対に三具足〔香炉、華瓶、燭台〕などをもって荘かざり、三幅対にした。優美というより、武骨で、上辺を飾ることをいちばん厭い、「心持を致す」という感じを大切にして、「写生」には関心を示さなかった。こんな時代の絵は、自然、ふつうの人間の人情を描くことにも関心をもたない。つまり「自覚的」な態度が支配的となった。だから、この時代に生まれた「高尚」さは、西洋にはない西洋より勝れた点で、これは、このときからこんにちに至るまで、ずうっとつづいている気風である。