岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

徳川時代

徳川時代(江戸時代)は、徳川家が天下を執って260年の間、徳川氏独特の文化を形成していた時代である。この時代は、足利時代(室町時代)の影響を大きく受けて作られていった。だから、その特質は「足利式」といっていいのだが、その260年の間に二つの異なった現象が起っている。

一つは、寛永(1624—1644)より元禄(1688—1704)に至るまでの、江戸にみられる動きで、もう一つは、天明(1781—1789)寛政頃(1789—1801)に京都に起ってきた動きである。

天下泰平の世の中が、ほぼ300年にわたって続き、美術の世界も、「沈着」で(落ち着きのある)、「繊麗」な(こまやかさへの気配りをもった)美術が作り出された。

第一期。寛永時代の特質は、まず足利時代に還ったことである。足利時代の雪舟や正信の美術は、豊臣時代にはだんだんと魅力を失い、「淡泊」の趣は棄てられていった。要するに太閤時代は「華美」が求められ、豊臣の特質を打ち出していった。つまり、東山時代(足利時代)は、豊臣時代によって「脈絡」(伝統)を切断されたのである。しかし、徳川時代に入って、再び質素、倹約を大切にする生きかたが求められ、できるかぎり「華美」を排除する動きが昂まっていった。その結果、桃山時代の華美壮麗の反動として、極度に淡泊な美術が求められた。徳川幕府はあらゆる事柄にわたって厳しく法規制を施いたので、美術の世界にあっても、「豪壮」さは見向きもされず、東山風の「淡泊」に戻っていった。この時代の美術の代表者狩野探幽の立場は、おそらく徳川時代の家康のような位置だったといえるだろう。探幽は、なにはともあれ雪舟だけを宗祖とし、雪舟を学んで狩野家の画風を継ごうとした。探幽の師匠だった興以の教えを享け継ぎ、雪舟風の画風を追い求め、江戸の美術は東山風を拡めた。

一方京都には、山雪系統の京狩野がいたが、彼らもまた徳川氏の家風を支持し、ことごとく、その画風の制度を足利時代に倣った。徳川時代第一期の特徴は、足利時代を復古させたことである。

第一期の第二の特質としては、この期に入って、学問が普及し、制度、習慣、歴史、風俗などを「講究」し(調べものをし講義し)、美術品や調度品などを蒐集してまとめていこうとする動きが起ってきた。

徳川時代は、文学が興隆してきた時代でもある。儒者が増え、儒者たちの家の構えかた(研究し講義をするやりかた)も、明や唐宋、つまり中国に範を求めた。いいかえれば、なにごとを行うにつけても、伝統慣習を参照して意義づけようとした。

政治の世界においても、考証と法制の整備が尊重され、美術の世界もそれに倣った。それまでの美術の動きを参照し総合しようとしたといっていいだろう。探幽も、雪舟を祖として東山風の画風を自家の風としたが、傍ら、いろいろな画風を学び総合することも怠らなかった。こうして、狩野風の「大和絵山水画」が出来ていくのである。

どんな絵でも、昔の遺産であれば、模写して参考にしようとした。南宗画も明画も元画も区別なく参考にした。(結局それはさまざまな画風を折衷混成させる弊を供なったが。)その結果、後世にいたって、いろんな画風をあちこちから借りてきて一枚の絵に仕立てるというやりかたに陥り、「画者」(絵描き)自身の画風(独自性)がどこにもみられない、そんな絵を描くようになってしまったのだが、初期の頃はまだそんなでもなかった。

日光廟をみてみるといい。その出来映えは「錯雑華美」の(派手ななかにいろんなものが混じり合っている)状態に陥っていて、全体としての「完美」さ(まとまりのある美)がないといわざるをえない。とはいえ、この日光廟が目指したものは、東山時代の彼方、奈良時代の美にあったので、ただやみくもに飾り立てようと造ったわけではないことも知っておかねばならない。

探幽の作品をみても、ここまで考証したのかと驚くようなところがみられる。古い寺院の宝物で、ふつうにはとうてい見ることのできない名画が、探幽や常信の「縮図」(模写集)にある。本校が所蔵している常信の縮図は約300点。これらは後の時代になって、こういう参考圖がないと絵が作れないという慣習をつくってしまったが、徳川期の第一期にあっては、とても有益な成果として努力して集めたものである。

雪舟や永徳が絵を作るときは、構想がまとまれば、すぐに筆を執って直接、紙の上に描き出した。雪舟以前の絵師たちも同様である。古画を集め、これを模写しそれらを参照して絵をつくるようになったのは、徳川時代に入ってからである。

300年の太平は、文学の世界にあってはいろいろな作品(物語、詩、劇など)の多産な時代となったが、その副作用として、「模倣主義」あるいは「島国根性」ともいうべき「鎖国主義」の風潮を育てたのである。要するに徳川時代第一期の二つめの特徴として、物事や遺産を広く探して集成しようとする「精神」が盛んになったことを挙げなければならない。

第一期の第三の特徴は、美術の世界にあって家法を定めたことである。これもまた、この期の大きな特徴である。家法というものも、初めの頃は自然の成り行きで決められていたが、段々、家を守るための都合で規定されていくようになり、その弊害は大きいものになった。

こういう法、規則で自由をしばる制度は、徳川幕府が制定した法そのものに問題がある。社会が法で縛り付ける制度をとったら美術もその影響を受けることは避けられない。探幽は徳川家の奥絵師(御用絵師)となり、世襲の家柄となって、家を守っていくために家法を整備しなければならなくなった。日本の美術の歴史のなかで、こんなことが起ったのははじめてのことである。外国にもそんな例はもちろんない。

ものすごい名人(天才)が出たときなどに、主家が特別の禄(給金・賞与)を与えて抱えるというようなことはあったが、徳川時代のときのように、家の格式を決めて、その家に禄を与えるというようなことは外国などにはまったくみられない制度だ。

狩野家はこうして徳川将軍に召し抱えられ、勢力を張り、この時代の美術を狩野派風に決定させてしまった。家法はこれこれを描く時の線はこのように筆を動かさねばならないというふうに、線の形まで規制して変えることを許さなくなった。

この時代はそういう家法から最も自由なはずの浮世絵の世界でも、菱川派とか歌川派とか、画風の型を規定するようになっていく。

こんな現象は、徳川時代になってはじめて起ったことである。こんなふうに家法を制定したことで、いろんな弊害が生じた。しかし、一方において、全く異なった流派、つまり文人画の流派が中国から入ってきて、これはまるで枯野に火を付けたように拡がり、日本の絵画界を「廃頽」させるのを防いだ。

とはいえ、この時代にもし家柄(家系を守る)ということがなかったなら、いったいどんなことが起きていただろうか。おそらく、明治のこんにちまで、雪舟や雪村の画風を継承できたのは、まったくのところ、この家柄を守るということがあったからでもある。もし、家系を守ることが大事に考えられていなかったとするならば、徳川時代の美術は、浮世絵や文人画、明画、写生風(洋風画)などに圧倒されて、こんにちの橋本雅邦先生のような画家が存在することもできなかったのかもしれない。

明治と東山をつなぐのは、まことにこの徳川時代の家柄制度のおかげといわなければならないのである。

徳川時代の第一期の四番目の特徴は、社会の階層によって、異なった画風を慈しんだということである。その原因はいろいろあるが、まず第一に、家法が厳しく定められていたことにある。狩野派の絵が社会の上層の趣味を規制し、それが支配的だったが、浮世絵のような風俗画は、別の側面で非常に流行していた。社会階層のちがいに応じて、まったく異質な二種の画風スタイルが同じ時代に拡がっていたというのも他の国のどこをみても、またどの時代をみてもないことである。おそらく、徳川時代は、それほどに下層社会の町人・庶民感情と上層社会の武家たちの感情との間には落差があったということだ。町人庶民社会が豊かになり贅沢を好むようになっていったということも原因の一つである。

東山時代などは、美術というものは上層社会のみで享受されていた。しかし、徳川時代になると、町人たちが実力を持ち、趣味や嗜好を主張するようになり、こういう人たちの要求を満たすべく、英一蝶、西川派、菱川派、歌川派、北斎などといった浮世絵の絵描きが相次いで登場してくるようになる。他の国ぐににおいてはみられない、傾向のまったく異なる画風が同時に存在し、享受されるという事態が起った。これは、まったくのところ、日本の美術史上、徳川時代にだけみられる現象である。

以上が、徳川時代の大勢である。第一期の勢いは明治のこんにちにも及んでいるが、第二期はいまから約100年前に始まったことである。その頃は、国学が起り、中国の情勢やその他西洋の様子もだいたい捕まえることができるようになった時代である。応挙や呉春が登場してきた頃であり、この頃は、早くも「革命」の(江戸の第一期が固めていた制度が揺らぐ)気配が出ている。その革命の気は、圧力の少ない地を求めて、そこから噴出しようとしていた。つまり、社会の制度組織は階級的にも繁雑になっていくなか、士農工商非人と分けられ、制度でもって固定させられていったので、その鬱勃たる不満は、江戸から遠い分、圧力の少ない(そして文化度の高い)京の地に突破口をみつけたのである。

いいかえれば、東京すなわち江戸は、維新前まで依然として第一期の勢力に支配されていた。第二期は、京都から起り、第二期と非常に異なった性格を帯びているのである。

第一期の代表者としては、狩野探幽(1602〜1674)と探幽につながる絵師たちである。第一期の美術は狩野派の時代、狩野派の美術といってもいい。狩野派の勢力が当時の社会を牛耳っていく時代は長い年月にわたりはるかに寛政(1789—1801)、天明(1781—1789)にまで及んでいる。そして、第二期の応挙らの起した勢いは、現在(明治)に入ってその「鋒」(勢いの最先端の成果)を成就させている。絵画だけでなく、他の工芸品などをみても、その勢いが現れていることが判る。友禅染などは早くから応挙の影響を受けているが、金工などは明治の現在、加納夏雄(1828〜1898)氏が出て来てようやく「写生」的表現の味を実現できるようになった。蒔絵なども、つい最近まで狩野派風の図柄を描いていた。一つの領域で生まれた新しい思想が他の領域へ及んで実を結ぶのには時間がかかるものなのである。たとえば、江戸幕府が開かれてはや300年の年月が経っているが、その言語や風俗が江戸城からわずか一里離れればどんなに違ったものになっているかをみれば判る。美術もそういう意味では、言語や風俗と同じで、第一期は探幽の勢いが支配していた。探幽の家風(画風)の守りかたは、まったくもって徳川氏のやりかたを真似ている。


いつものように、徳川時代の美術家の伝記をまとめておこう。

狩野守信。慶長七年(1602)正月十四日、京都に生まれ、延宝二年(1674)十月七日江戸に没す。享年七十三歳。池上本門寺に葬られている。初めは釆女うねめといった。のち探幽齋を名乗り、筆大居士、生明、白蓮子などいろいろな別号をもっていた。狩野家は、探幽以前は京都にいたが、徳川家が江戸城を建てるに当って、本丸などの普請を狩野家に命じ、探幽は召されて江戸に下ることになった。慶長十七年(1612)正月、江戸に下る途中の駿府(静岡)まで来て待機、十九年になってようやく江戸に入ることができた。召し出されたのは元和三年(1617)。家を鍛冶橋に賜り、奥絵師となった。京都を出たとき探幽は十歳だった。興以が、後見人として付いていった。

守信は幼いころから絵が上手く、十三歳のときに描いた海棠の下に猫が眠っている絵をみて、ある人は永徳(祖父)の作だと思ったという言い伝えがある。十五歳のとき、もう龍の絵をこなし、いくつもの神社などに奉納している。十六歳に至ってすでに、狩野家のなかで彼に太刀打ちできる者はなく、二十二歳になって、誰も知らない人はいないほどの「上手」となった。

彼の性格は淡泊で、金銭欲がなく、有力な藩主や家老が贈り物をしてきても、あまり悦ばなかった。あるとき、水戸公の依頼で絵を描いたことがあった。その謝礼をずっと受けとっていないままになっていたある日(暑い夏の日だったのだろう)、酒楼に入って涼んでいると、遠くから米を満載した船が一艘やってきた。それが、水戸公の謝礼だった。このときばかりは、さすがの守信も喜んだという。

寛永十五年(1638)、法眼に叙せられ、剃髪して探幽を名乗った。河内かわちに200石の領地を持っていた。この頃の探幽の収入は、まことに驚くべきものだったという。江戸狩野の系譜は、この探幽から始まる。 

こんなふうに大家で、そのうえ長生きしたので、絵もたくさん遺っている。勉強振りもそれはすごいもので、早朝から深夜まで筆を離すことがなかったという。

「筆意」(筆運びが伝えてくるもの)は、若い頃は、興以に非常に近い。鍛錬を積んで自分のスタイルを作った。その画風は、大別して四期に分けられる。

【1】「若書き」、【2】「探幽齋書き」の初期と【3】後期、【4】「行年書き」(晩年)の四期。

「齋書き」のなかでも、三十五、六歳より四十歳くらいまで(1637〜1642頃)は、まだ、興以の影響が残っている。四十歳から五十歳(1642〜1652)のあいだは、牧谿などの淡泊な画風を好み、五十歳くらいになって(1653以降)、いわゆる探幽らしさの出た絵を作るようになった。

探幽の絵に「妙」を伝えるのは、「齋書き」の時代の末期(晩年)といっていい。「行年書き」の時代、すなわち六十歳(1662)以降は、筆は枯れ、思い入れの深いところが特徴のある絵を描いた。

第一期の「若書き」(1630以前)は、興以風である。何年か前、紅葉館で探幽二百年祭が催されたが、そのとき薩摩(鹿児島)の久保田氏が山水画二幅対を出品していた。これなど、興以風をさらに「穉鈍」(鈍く重く)したものだった。探幽二十五、六歳の頃の作(1627、28)かと思う。

探幽作だといわれているものは、たくさんあるが、最も多く所蔵しているのは松方伯爵と神戸の川崎正蔵氏である。いま、探幽という人のことを考えてみると、彼の絵に対する姿勢(画風)は、雪舟をちょっと「柔らか」にしたもので、正信、元信の絵を、筆遣いを抑えて、茶の湯などが悦ばれる時勢に合わせたようなものといえばいいかもしれない。画風は温和で、筆力は味はあるが、その考え(筆意)の奥は充分とらえ切ることができない。もっとも、200年前の画家を論ずるのには、200年前の情況をよく理解して批評しなければならない(現代の観点から勝手に断定しているだけでは、200年前の画家を理解することは出来ない)。探幽の筆遣いが巧妙であったことは、いうまでもないのである。

探幽の子孫として現在家を守っているのが、探美氏である。


狩野尚信(1607〜50)。初めの名前は、一信。通称は主馬、自適齋と号した。慶長十二年十月京都に生まれ、慶安三年四月七日没。池上本門寺に葬られ、享年四十七。探幽の弟である。兄が江戸に下ったあと、京都に留まって狩野家の跡を継ごうとした。しかし、元和九年(1623)召し出されて東へ下り、寛永九年(1632)(寛永七年が定説)、徳川家の奥絵師となった。

江戸に来た当初は、竹川町に居り、のちに木挽こびき町に屋敷を賜った。兄の探幽と比べてみると、画風は非常に異なっていて、探幽は「豪毅」(強く太い筆運びと濃彩の絵)を尊んだのに対し、尚信は、「洒落」(淡くかつ軽快な筆遣い)を好んだ。そして、出来上った絵は、「高尚」にして「味」があった(気品があり味わい深いものがあった)。

探幽があるとき、主馬は名人だといったという言い伝えもある。また、あるときは、三番目の弟安信を傍に侍らせ、尚信と二人で筆を執ったことがあり、そのときにも、名人の描きっ振りをよく見ておけと安信にいったという。こんな次第で、探幽は尚信を大切にしていた。尚信は、その「墨色」(筆墨の使い分けの機微)がじつに見事で知られていた。八文の墨を使って紫の色を出す(安物の墨で見事な墨色を出す)と評されていた。その墨の色は、われわれがひと目見ても、言葉に出来ないくらい深い味がある。探幽にいたっては、ただ、筆力が強いのに感心するだけで、その筆運びにはなんとなく「ギクギク」したところさえある。

尚信が長生きしていたら、兄の上を行ったことはまちがいない。若死にしてしまったため、画風には興以を脱け切っていないところがある。そして、作品の数が少ない。この人の性格がそうさせたのだろう、どんな絵を作るにしても、下図をていねいに描き、構図などもいろいろ吟味して納得してからでなければ本絵にかからなかったので、作品が少ないのだとも言われている。

ある日、兄の探幽が留守のときに探幽の家へ行った。そして、弟子たちが絵を描いているところを覗いて、批評したら、みんな一日で尚信風の絵を描くようになってしまった。探幽が帰宅して、すぐに弟が来たことが判ったという話もある。

別の説によると、尚信は四十七歳で亡くなったのではなく、夜逃げして行方をくらましたのだという。墓は上州(群馬)にあるというのである。なぜ、夜逃げしたかという理由は、三代将軍家光が尚信をことのほか愛し、兄の探幽よりも優れているといって狩野家の跡継ぎにさせようとしたため、後難を畏れて家出をしたというのだ。ほんとうかどうかは判らない。

ともかく、尚信は早く死んだので、画風にあまり変化はみられない。若い頃の作は、より興以風である。後年尚信独自の画風を作っていった。探幽と比べて、絵に向ったとき楽しませてくれる点で、探幽より上だと思う。探幽と尚信の関係は、光長と慶恩の関係に似ている。


次に安信(1614〜1685)である。尚信の弟。初め源四郎を名乗り、のち右京之進といった。名は永真、牧心齋と号した。慶長十八年十二月(一日)に生まれ、寛文二年(1662)法眼となる。禁裏造営のとき、襖絵などを描き、寛文十六年(1678)「賢聖障子」を描いた。江戸城本丸御殿の絵も描いた。貞享二年九月四日亡くなった。池上本門寺に葬られている。

この人は、上の二人の兄に比べれば、かなり実力が劣る。どうにも「智恵のない」絵を描いた。しかし、いわゆる「安信風」の、一種「田舎者風」の(品が劣る)面白味がある。とはいえ、晩年にはいくらか進境を開き、あるとき、探幽が筆を揮っているところに居合わし、兄上は李龍眠のようだといったところ、探幽は、お前は顔輝のようだとやり返された逸話が遺っている。

絵は上手でなかったが、鑑定はなかなかのものであった。古画を模写するのが、ことのほか好きだった。徳川家の命で、諸寺の宝物を写したこともある。

探幽は性質が疎放だったから、鑑定などには不向きだったが、安信はていねいにくりかえして熟視した。こんにち遺っている古画も、「探幽極め」(探幽が出した鑑定)よりも「安信極め」のほうが信頼できる。

あるとき、ある絵に対し、探幽はA と鑑定し、安信のほうは別の画家の筆としたことがあった。のちのちになって、偶然その絵の表装が剥げ、裏から筆者の名前が出てきて、安信の眼の確かさが証明されたという。

安信の家は中橋にあった。中橋狩野は画家としてより鑑定家として成功した。先年亡くなられた永悳えいとく翁(1814〜1891)も、中橋家の系譜につながる人であり、鑑定家として知られていた。

以上、探幽、尚信、安信の三家を、奥絵師三軒といっている。

狩野常信(1630〜1713)は、尚信の子で、父が早くに死んだので、あとは叔父の探幽の下で教育を受け、画風も探幽風である。探幽のつぎに常信がいて、狩野家を支えていく。探幽がいかに名人であったとしても、常信が跡を継がなかったならば、狩野派の勢力はここまで栄えなかっただろう。

探幽の老年の筆と常信の中年時代の筆は、ほとんど似通っている。この常信がいたからこそ、木挽町狩野を奥絵師「四軒」(鍛冶橋、中橋、木挽町と浜町狩野)の最上といわれるようになったのだ。

寛永十三年三月十三日に生まれ、慶安三年(1650)家督(木挽町狩野)を継ぎ、御目見格おめみえかくを仰せ付けられ、宝永元年(1704)法眼となる。同六年、法印。紫宸殿の障子などを描いた。武蔵国和田郡に200石の領地を持ち、正徳三年(1713)正月二十七日没した。享年七十八。天性気概のあった人(豪胆な気性の持ち主)で、狩野家のなかでも豪傑といっていいだろう。画風は、探幽を長生きさせたといったところ。養朴と号し、のち古川こせんを名乗った。探幽没後、絵師の筆頭格として、天下の勢いを木挽町狩野に集めた。


狩野岑信(1660〜1709)。彼はさきの三家と血のつながりがない。格式のある家の出で、常信の養子になった(現在は常信の次男が通説)。別の説では、周信ちかのぶ(1660〜1728)の養子ともいう。のちに分家して、奥絵師の一軒となった(浜町狩野=山伏井戸)。本校の狩野友信氏はこの家の出である。


そのほかに、表絵師とよばれる家が16軒(15軒)ある。絵が上手な者が、その家を継いだ。のちの時代になると、家の株が売買されるようになった。晏川(1809〜1892)、寿信としのぶ(1820〜1900)、勝玉(1840〜1891)といった人はみなこの表絵師の人である。

別に、町狩野というのもあった。絵を学んで苗字を許された絵師たちである。

奥絵師に戻って、狩野探信(1653〜1718)は探幽の子(長男)であったが、世間では「下手探信」といわれていた。名は守政。享保きょうほう三年、六十六歳で没した。(鍛冶橋二代目。延宝二年〔1674〕奥絵師、正徳五年〔1715〕法眼)

狩野探雪(1655〜1714)も探幽の子(次男)で、正徳四年六十歳で亡くなった。(探幽の禄を分けてもらって分家したが、子探牛が夭逝、分家が絶えた。)

以上の二人は、重要な画家ではない。


久隈守景(生没年不明)は、探幽の弟子であったが、悪事をなして破門され、金沢に渡り、加州侯に仕えた。九谷焼の下絵などを描いている。(名は一陳、通称半兵衞、号は無下齋、無礙齊。探幽門下四天王といわれた。後年加賀から京都へいった。)

こんなふうにして、狩野家は栄えに栄えた。常信の時代になって、雪舟の絵を模写して30巻を家宝にし、邸内に石蔵を建てて保管し、それを家法(狩野家の絵の手本)と定めたという。初めて絵を習う者には、まず手本を与えてそれを模写させ、その模写の絵の順序も定めた。これもこのころのことである。

狩野家隆盛の時代ではあったが、土佐派もまた存在していた。京都を中心に活動していたのだが、すでに勢いは狩野派に譲り、名人といわれるほどの人も出ていない。

伝記はよく判らないが、土佐光起みつおき(1617〜1691)という者がいた。絵は上手く、「世才」(世渡りの才能)もあった。法橋(延宝九年〔1681〕)になり、法眼の位も得た。京都における土佐派の地位を再建した人である。(承応三年〔1654〕に、永禄十二年(1570)以来失していた絵所預えどころあずかりの地位を回復。)

光起は、元和四年十月のうまれ、七十五歳の元禄四年九月、亡くなった。画風は、土佐派というより、探幽、常信のスタイルを土佐風に描いたものである。その後の土佐派の後継者は代々常信風を土佐に直して奇麗に仕上げてみせているだけだ。

住吉如慶(1599〜1670)は、名は広通(寛文元年〔1661〕剃髪して如慶を名乗る)、土佐光則(1583〜1638)の弟で、光起の叔父(堺に育ち、京へ出て、土佐光吉、光則の門人となる。寛永二年〔1625〕江戸に移住、承応三年〔1654〕から光起らと内裏の障壁画を手がけた。寛文二年〔1662〕勅命により住吉を名乗る。住吉派の祖。「堀川殿夜討絵巻」〔東博〕の作者。)慶長三年(四年)に生まれ、寛文八年(十年)に没す。あの「平治物語」一巻を描いて住吉家を起した慶恩の系譜に属すという。

その子(長男)具慶(1631〜1705)は、名を広澄といい、寛永八年に生まれ、宝永二年、七十五歳で没した。(法眼。京に生まれ、天和三年〔1683〕江戸に移り、貞享二年〔1685〕奥絵師に任ぜられる。「東照宮縁起絵巻」〔日光東照宮〕は父如慶との合作。「筥崎はこざき八幡宮縁起絵巻」〔1672 筥崎八幡宮〕、「洛中洛外図巻」〔東博〕などの作者。)

以上の三人が、いまや消えようとしている土佐派の命脈を継ぎ、京都で江戸の狩野派と対抗しようとしていた。しかし、はやくから常信の画風に冒されていたことはさきに言ったとおりで、社会的に大きな影響力は持たなかった。

つまりこの時代、上流社会の美術は狩野派が牛耳っており、江戸はもちろん、京都御所の御用も狩野派が引き受けて、土佐派はそんな京都で、天皇家や公家から注文をもらい生き延びていた。

下層社会では、そのころ、浄瑠璃芝居などが人気をもってきた時代で、それに合わすように、菱川派とか、西川派の浮世絵(肉筆浮世絵)が盛んになってきた。

上流社会の狩野派、下層社会の菱川、西川派の中間に、上級町人層と「洒落」を好む士人(武家・知識人)階層で、とくにこれらの階層の上級町人層の要求を満たしたのが、宗達や光琳であり、洒落士人層の要求に応えたのが英一蝶はなふさいっちょうである。