岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

総叙

これまで述べてきたところで、日本美術史を終ろうと思う。たいへん不完全なものだが、いまはこれで満足してもらうしかない。完全な美術史を書き上げるためには、少なくともこれから2、30年はかかるだろう。その仕事を遂行するのはきみたちだ。

最初に述べたように、日本の美術史は推古天皇時代から始まる。それ以前にも美術の歴史はあるが、日本のそれは、美術史と呼ぶべきものではない。ひとつには現在のところ史料が少なく、その時代を充分に論証できないということもある。

推古帝時代以来、およそ1300年、明治の現在に至るまでを大別して、3期とするか、7期とするか、あるいは14期とするか、はたまた18期とするか。いろいろ考えられるが、次の表が最も「完全」だと私は思う。

(別表1)

上古を奈良時代と名付け、中古を藤原氏時代、近世を足利氏時代と名付けた。中古と近世のあいだに鎌倉時代が位置する。鎌倉時代は、一面は藤原時代に属し、もう一面は足利時代の「前兆」を作り出している。中間に位置しているという意味で、一つの「時期」を形成する。

奈良朝の最初期段階である推古帝時期においては、日本固有の美術に漢、魏及び六朝初期の美術が入ってきた。それらが仏教と相和して発達、一つの独特の美術を生み出したのである。鳥仏師、山口大口費等といった作者がこの時代の代表者である。

天智帝時期には、推古美術の「進歩」した形容をみせているが、この時期は中国六朝末にあたり、彼地では南北で戦争が絶え間なかった。とくに、北朝は、中央アジア、ペルシア、インドと国境を接しており、交流も盛んで、そこから入ってきた西域美術が朝鮮中国を経て日本にまでもたらされている。そうして入ってきた美術は、漢魏六朝の美術とまったく異質で、そこから一種独自の美術が日本に生まれた。法隆寺の壁画は、そうして作られた典型である。

天平時期に、奈良朝美術は頂点に達することになる。盛の極は衰退(の始まり)である。したがって、ほんとうの奈良時代の美は、天智の末、天平の初めに極められたと考える。天平時期に入ってからは、聖武天皇在世のころは勢いがあったが、孝謙天皇の時期から衰えをみせ、光仁天皇の時代はますます衰えていった。

藤原氏時代というのは、平安遷都以後の時代のことをいう。したがって、平安朝時代と呼んでもいい。天平時期の末年は、中国では唐の時代であるが、その時期日本に入ってきたのは六朝末の美術である。

純粋な意味での唐美術が形成されるのは太宗たいそう皇帝(唐二代皇帝李世民、在位598—649)死後4,50年のあいだである。だから、その純粋唐美術が日本に入ってくるのは、空海、伝教(最澄)の時代である。すなわち弘仁時期(810—824)がそれで、「高雄山曼荼羅」などはその代表作である。

延喜時期(901—923)になって、前の時期に入ってきた唐美術が「純然たる」日本風の美術に変っていく。その時期に、金岡が現れ、その勢いははるかに源平の鎌倉時期にまでおよんでいく。また、この時期には、前の時期の勢いを受けて「剛健」な表現と「優美」な表現とが並行していたが、最後には優美が支配的になった。基光、恵心から、隆能、隆親にきて、その優美は極致をみせる。

源平時代はじめのころには剛健が再び力を盛り返し、鳥羽僧正が登場する。光長、慶恩らの先駆者である。

鎌倉時期は二期に分けられる。その第一期は、源氏と平家の戦いで破壊された寺院の再建のために、美術家は大活躍をした。彫刻では運慶が現れ、絵画の方では光長、慶恩、信実らの「名手」が輩出した。第二期は、その衰微する時期である。

足利時代は、鎌倉の第二期に渡来した宋や元から僧侶が蒔いた種が芽を出す時期である。水墨画が新しい絵画として登場する。周文、李秀文等がもてはやされ、つづいて雪舟、雪村、正信などが東山時期を形成する。これは足利時代の最盛期である。

豊臣時期は、東山末期から始まった混乱が収まり、武将たちの邸宅が盛んに建てられ、秀吉の朝鮮出兵の影響もあり、華麗にして壮大な独自の美術を産み出した。しかし、足利氏時代からの伝統はここで断たれる。この期の代表者は、永徳、山楽である。

徳川時代に入って、再び東山式の美術が復活する。寛永時期には、興以、探幽らが独特の美術を産み出し、一方で土佐派の伝統を一変させた光琳たちの一派も現れた。狩野派の伝統を一変させた一蝶も一派を形成する。徳川幕府の下で規制されてきた悪弊が呼んだ変化であり、ここから寛政時期が始まる。漢学が盛んに行われる一方、写生派の動きも力を持ち、狩野派も変らざるをえなくなった。その余波は現在(明治)にまで続いている。

日本美術の変遷は、以上のようなものである。これをしっかり学んでそこから将来の役に立つための総括をしておきたいと思う。

第一に記しておかねばならないことは、精神が鋭くなって観念が先行するとき美術は勢いを増し、形にこだわり型を追いかけるようになると衰頽していく、ということである。

奈良時代の初めは、その精神が盛んだったときは美術も勢いがあったが、それに満足してその形を保持することを求めるようになると、美術は衰えていった。

弘仁の時代に入ると、まず精神が求められ、延喜になって形と精神とが調和して最盛期を迎えた。つぎに、源平の時代に入り、形を求めるようになり、美術は衰えていく。

鎌倉になると、延喜のときの鋭い精神を受けて勢いある美術が産まれたが、鎌倉も第二期に入ると、すでに形が完成されていたので、そこに精神の衰えが忍び寄ってくる。

東山時代には、周文、如拙のような、形は不完全でも精神が非常に鋭い画家が登場する。元信、相阿弥になると、東山時代も牧谿風になっていって「衰兆」がみえてくる。

徳川時代は、探幽がこの時代の代表者であるが、それは、彼が東山時代の美術を総合しようとしたところにある。彼の画業は、結局は雪舟に及ぶところではなかったが、探幽の子孫が、ただ探幽を真似するだけに終って、ますます徳川時代は衰えた。つぎに出てくる応挙は、探幽と並び立つ存在である。しかし、後世の弟子たちは、また、応挙を真似る域を超えられず、衰頽した。

狩野派の「画妙」(絵の生命)は、はやくも100年前に死んでいるし、四条派は息も絶え絶えであるというのが、今日(明治)の情況である。

この日本美術の盛衰の変化は、さきの表に書いたようなぐあいになる。

一言でいうと、精神が強く鋭ければ、美術は上昇線を描き、形に囚われてその形式に縛られるようになると降下線を辿る。こうしたグラフの経過をみていると、やはり、最高の頂点を極めているのは、天平、延喜、鎌倉、東山ということになろう。その頂点を極めている期間はとても短く、ひとたび極点に達したと思えば、たちどころに降り始める。

彫刻も、天平に最極点があり、定朝はそのつぎ、運慶がそれに継ぐ。

第二は、系統を追究して美術は進化し、系統から離れると亡んでいく、ということである。

美術という活動は、人間の諸活動のなかで孤立した活動ではない。ひとつの時代が形成されるには必ずその前の時代の遺産を引き継いで作られていく。推古時代の美術を天智時代へ進化させ、それを天平時代に完成させたのは、天平時代の美術家の力だけではない。天平美術といえるものが産まれていく基礎が、前の時代に用意されているのである。

金岡の前には空海がいる。光長、慶恩の前には鳥羽僧正がいる。雪舟の前には秀文や周文がいる。永徳の前には古法眼(正信)がいる。探幽には興以、応挙には始興、幽汀がいるように、大家は決して孤立して単独で誕生するものではないのだ。こういう系統(伝統)から「超出」(逸脱)した者、つまり蕭白のような画家は、当時の社会のなかでは、大きな影響力を持ち得なかった。

こういうわけであるから、ある時代だけを取り出して「完全」(完成されている姿)を期待してはいけない。共有している思想を追究して、まだ充分熟していない部分を一歩でも進めようと努力をすること、これを一寸でも怠けると、「形に流れて」(類型的になって)かならず衰えていく。だから美術史を研究するということは、ある大家だけに注目するより、むしろその「前駆」(その大家をそこまで大きくさせた)人物について研究することが大切であるとわたしは信じている。

第三は、美術という現象は、その時代の精神を代表するものであり、その時期の思想を表現する力をとくに持っているということである。

社会の秩序が乱れると、美術もまた衰える。国家のあり方、人びとの生活の様子と密接に関係しているのが美術である。だから、日本という国の精神のありかたを最も「よく」代表してみせているのが美術で、文学や宗教は、もちろん、それは貴重な精神活動だが、その影響力は「国内」(言語が通い合う範囲)に限られる。その文学や宗教で、全世界を動かすには足りないものがある。しかし、美術というものは、そのままで、世界に向って、「日本」を表出しているのだから、その影響力の「宏大特絶」さ(広く、かつ他の追随を許さないところ)は、文学、宗教の比ではない。

第四は、日本の美術が変化に富んでいることである。

精神のありかたという問題点からいえば、奈良時代の「理想的」、平安時代の「感情的」、足利時代の「自覚的」。形に現れているところという視点からは、奈良時代の「壮麗」、平安時代の「優美」、足利時代の「高淡」。と、大きな三つの変化がみられる。一つの「種族」がこの三つのありかたの様式を備えているというのは、世界中を見渡しても例がない。ここに、「大和民族」がいかに「美術思想」に富んだ民族であるかを証明している。エジプトにはエジプト美術という様式があるが、大きな変化はない。アッシリアも同様である。ギリシァ美術が亡びてもそこから「感情的」な美術が生まれてきたりはしないし、もちろん「自覚的」な美術も出てこない。イタリアの美術は、そういうなかでは、一番変化に富んでいるといえるが、しかし一貫しているのは「感情的」で、「自覚」「理想」の精神は発揮しなかった。近世のフランス美術も同様である。ただ日本「人種」に限って、この三大変化がみられる。これは、非常に「特絶」な(他に例をみない)「能力」である。これをもっと世界中に誇りをもって示さねばならない。日本の美術の将来がこれからどんなふうになっていくか、それは、わたしには予想できない。これはきみたちがやらねばならないことだ。

第五は、日本美術が適応力に富むということである。

奈良時代は漢魏六朝の影響の下にその文化を形づくり、平安時代は唐の文化を学んで奈良文化に適用し、延喜時代を作った。東山時代は、平安時代の遺産に宋元の文化を適用して「日本的」な文化を作った。豊臣時代における朝鮮への関心も同様である。どの時代をみても、外国から輸入し学んだ「根元」(原料)はじゅうぶん消化していて、その痕跡すら見えないほどだ。

ある人はこういう現象を指して、日本人の模倣の巧さによるといっているが、これは間違っている。有機体は、無機体を消化して自分の身体のなかに取り込み生存していく。別の物質のために消化するのではない。動物や植物は、そうして消化したものを栄養分として自分自身を生長させる。(国家も一つの有機体である。)国家の発展というものも、いろいろな外来文化を吸収して、それを消化する力があって可能となる。その吸収する力の強い国家は、そうして吸収していくあいだに、「悪分子」(国家にとって不都合な文化)を取り入れていくこともある。美術においても、こうして美術を堕落させた例がいくつもある。一つ、二つ例を挙げてみよう。たとえば、徳川時代、明の拙劣な彫刻を輸入して、日本の彫刻の発展に無駄な影響を与えた。また、寛政の頃、文人画が盛んになって、(それまで尊重されていた)「優美」さがすっかり蔑ろにされたこともあった。外国文化を輸入するときには、充分吟味して選び抜かなければならない。大昔、外国と交通の乏しかった時代は、外国の「良分子」(勝れた文化)を学んで自分たちの文化に消化吸収するのに、50年100年という長い年月をかけることもできたが、現代(明治)のように諸外国と競争して生き抜かねばならないような時代になると、昔のような呑気なことはいっていられない。その期に及んでどういうふうに選択していくか、よく考えてみなければならぬ。

第六は、仏教の哲理を信奉すると「唯心論」(心、精神を根本原理とした思想)になり、写生を重要と考えないで、「実物」(現実に眼に見えている姿)以外に美の存在があると考えるようになることである。

日本の美術はすでに述べてきたように、非常に変化に富んだ歴史を辿ってきたが、どの時代にあっても「写生主義」を信奉したことはなかった。ここに日本美術の特質がある。その「高尚」さは、それ故に世界に冠たるものである。

ギリシァ美術が勢いを持っていた時代は「実物」そのままを「写生」することが尊ばれ、イタリアなどの絵画は鏡に映っているように描き出すことが最高と考えた。「近世」(18世紀頃のことか)になっても、その考えは変らない。

日本の奈良時代や平安時代には、もちろん、写生は大切と考えていたが、それを最も重要なこととはしなかった。むしろ、実物(を写すこと)以外に美を求めようとした。

東山時代になると「墨画」(水墨画)が盛んになって写生は重視されない。(江戸時代後半)円山応挙が出て写生を唱えて一時代を作ったが、その絵においては写生一点張りに陥らず、「趣味」(美的境地)というものは(描かれた)物の形(実物)の外にあることを心得ていた。

こういう次第で、実物の(形の)外に美は存在することをよく知っていたことが、まことに東洋美術の「大見識」(勝れた考えかた)で、実物を写す技術の研究には十分努めるけれども、それだけに満足しなかった。その理由はいろいろあるが、なかでも仏教の「哲理」(教え)に基づいて、「唯物」(物質物体に世界のありかたの根本原理を考える)思想に反対して「唯心」(心、精神に根本原理を求める)思想を尊重したことは大きい。もちろん、仏教には、唯物論唯心論という分類はないが、思想のありかたを大別して、こういうことがいえるのである。

そういうわけで、奈良時代より足利(東山)時代にいたるまで、美術が仏教に支配されてきたたことは、疑いようのないところだが、かといって、全く写生を排斥したとなれば、これもまた大いなる誤りを犯すことになる。仏教の考えでは、そもそも物心を区別することが、すでに誤っているのだ。物と心は「併行すべき」(分けないで、ともども一つになっていると考えるべき)である。

ここに、日本の美術の将来あるべき目標がある、とわたしは信じている。日本の文学は、仏教の影響を受けて「偏頗な」(宗教色の濃い)文学になっていたが、美術は逆に、仏教によって「利益を得た」のである。

第七、日本の美術は優美であること。

藤原時代に日本の美術が優美の頂点を極めたこと、これが日本美術の独自性を示している。とはいえ、(藤原時代だけではない)日本の美術はその全体において優美であることを特色としてきた。藤原時代には、とくに外国(中国・朝鮮)の影響から脱け出て、純粋な優美の極致を現出させたということだ。

だから、もし日本人に好きなようにやらせて、「自然の発達」を妨げることがないようにすれば、必ずやこの優美へ向っていく。東山時代は、美術史のなかでも最も「硬堅の風」(厳しく硬い墨線でがっちりとした構図の絵)を生み出した時代だが、それでも馬遠、夏珪と雪舟、正信を比べると、日本の絵画には優美の趣があり、どこか温かみのある玉のような感じがする。これは、日本の美術を考える上で、とくに大切にしなければならないところで、そういう特質の起原は、大和民族という民族の性質に求めるべきなのか、あるいは山川風物の「秀麗」さ(という風土性)によるものなのかまだ言い切ることはできない。

もっとも。それとともに「剛健」の性質も決してないわけではない。優美のうちに剛健を含んでいること、これこそ、日本美術の最も勝れているところである。狩野派の最後のころ、強いて剛健な絵を描こうとしたことがあったが、これは日本人の感情にそぐわなかったから、受け容れられず、それが四条派に勢いを与えることになった。剛に偏りすぎるということは、日本人の本性を理解していないということである。

日本は、こんな小さな「孤島」にあって、よく三大変化をこなし、これから先もどんな変化をみせるか判らない。明治維新のときは、なにもかも破壊されそうな文明開化の勢いに浸されて、蒔絵や金碧画なども燃やして、そこから黄金を採取しようとした。そのころの美術に対するひどい態度は、いま思い出してもぞっとするほどだ。そこへ文人画がのさばって、日本製の「器物」はなんでも捨ててしまえというようなこともあった。

明治5、6年の頃は、欧化主義が盛んで、画家たちはこぞって洋画に転向した。そして、ついに日本の「純粋」な美術が追い払われてしまうことになった。

ところが、明治6年(1873)オーストリアで開かれた万国博覧会で、日本の伝統美術を紹介してみようという動きがあった。絵画はそれほど準備していなかったが、「美術工芸」品を展示して、世界の人びとの注目を集めた。そこで、絵画にあっても伝統を護らねばという意識が目覚め、明治14年(1872)に絵画共進会が開かれた。そのころは秀れた大家が陶器の下絵描きなどやって生活費を稼がねばならなかったほどで、その人の名前を聞いてもどんな人か知らない人が多かった。そして、そのころは、衰え果てた日本の美術を蘇らせるのが関の山で、古画を模写した作品に銀牌が与えられるほどだった。つまり、参考作品である古画と新しく描かれるべき作品がどうあるべきか、その区別する論理も熟していなかったのである。

(それから10年)現在では、日本の現代美術がどうあるべきかの考えもいろいろ議論されてきて、その「進歩」は10年前と比べものにならないことは確かである。とはいえ、今日の美術の目的はどのようなところに置くべきかということは、まだまだ解決できていない問題である。狩野派の「気骨」(勢い)は100年前にすでに「絶滅」しており、いまや四条派も円山派も形骸化している。これらを「改良」するためにはなにをすればいいか。「図体」(主題とスタイル)の改良もそういう課題の一つである。

「図体」は、これまでほとんど一定の取り決めがあって、たとえば、狐、狸、兎、鯉、嵐山などといったようなものだ。こういう絵の描きかたをして日本美術を代表していると考えてはならない。人物、歴史、風俗などをよく研究して、そこから「題目」(絵の主題)を選ぶようになっていかなければいけない。

「筆意」(描くときの思想のありかた。なんのために描くのか、どんな気持ち、考えをこめて描くのか)を改良することも、大きな課題である。「濃淡」とはなにかと言う問題も、「濃」(主張すべきところを強く表現すること)さえ大事に描いていればいいなどと言う考えかたはいただけない。「淡」(弱い表現)も必ずしも弱いからだめだと斥けてしまってはいけない。だから、「彩色」する場合も、よくもっと濃厚にといわれているが、あれは、最近の作品が極端に「淡泊」になりがちになったのに対して、そんなことがいわれるだけのことだ。きみたちが描いている絵は、ややもすれば一つの型に陥りがちである。その結果「美術学校風」のような型ができたとしたら、これはいけない。そういうふうにならないように、がんばってもらいたい。その他、いろいろ研究しなければならない課題はたくさんあるだろう。

講義を終るに当って、以下の言葉を結びとしよう。

歴史を調べてそこからなにかを学ぼうとして、いたずらに「古人」の模倣をすることに陥ってはいけない。ただ模倣するだけになれば、必ず亡びる。伝統を学びそれを護って、自分の道を開拓するのでなくてはならない。過去の遺産をよく研究し、そこから一歩前進しようと努力を続けねばならない。

西洋画もよく研究しなければならない。とはいえ、いつも自分を見失うようなことになってはいけない。

以上、はなはだ簡単な美術史だが、これで終る。諸君にはまだまだ足りないと思うところも多いだろうが、次の学期で行われる「古物学」(考古学)などから足りないところを補ってもらえるとありがたい。

高橋勇ノートより

将来、日本の美術はどんなになっていくか、という問題に関しては、古来よりの美術をよく消化して、すべての時代の伝統と遺産を、天平式にせよ東山式にせよ、それらをじゅうぶん包み込んで精通し、そこから美術はどういうふうに進歩発達したかをよく学んで、現在に活かしていくことである。これこそ、きみたちがやらねばならぬ責任重大な仕事である。現代(明治)という時代は、諸外国からいろいろな美術がもたらされて来るので、それらをよくよく消化し、その良いところを学び取り、悪いところが拡がらないようにしなくてはいけない。どうか、このことをくれぐれも忘れないで、諸外国(西洋)から入って来る美術を消化し、自分たちの将来の美術の進化追求に励んでもらいたい。これにて、「本邦美術史」(日本美術史)は終る。つづいて、外国(泰西)美術史を講義しよう。