岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

天智時代

とくにこの時代を設定する必要はないと主張する人もいる。しかし、私はこの時代は必要だと思っている。その理由は、天智時代という時代の美術は、単に推古時代の美術の発展した姿というだけではすまされないところがあるからである。

細部にわたって研究すれば、この時代にしかない一種独特の性格が天智時代にはある。法隆寺金堂の壁画と、この壁画に囲まれている仏像とを比べてみるだけでもいい、その様式・雰囲気など全く別の種類、別の系統のものである。なぜそんなに異なるのか、そこには必ずどんなふうに異なるに至ったか、その原因があるにちがいない。

天智時代とは、天智天皇の時代(645大化の改新、661称制、663白村江の敗戦後667近江に遷都、668即位、672壬申の乱)から聖武天皇の初め(724即位、729長屋王の変、737天然痘流行、740藤原広嗣の乱、恭仁京→紫香宮→難波京と遷都後、745平城京に戻る)すなわち天平時代にいたるまでの「五朝」(天智—弘文—天武—持統—文武—元明—天正—聖武)60余年である。この間に政治体制、風俗など、社会文化のじつに多くが大きい変化を遂げたことは、いまさら私が口を酸っぱくして言わなくてもいいだろう。そしてこの時代に、美術はそういう政治、社会、文化の変化に対応するように、独特の変容をみせたのである。それは、前時代の推古(飛鳥)美術が内部から発達して獲得して成し遂げた姿というわけにはいかない、外からなんらかの刺激が入ってきて、その発達変化の勢いを促進させられたと考えるしかない。

その刺激というのが、インド・ギリシャ風の美術思想の輸入である。このインド・ギリシャという二つの国の様式が一つになった美術思想なのだ。このインド・ギリシャ風の美術思想が、天智時代の美術の「形質」(作風様式の原質)となって、それを基礎にして天平時代の美術が誕生すると考えられる。

なにを証拠にそんなことがいえるのか。いうまでもない、私は法隆寺金堂の壁画とそれとよく似たいくつかの例に、その天智時代を代表する独自の特質を認めるからである。これは、推古ともちがう、天平ともちがう、天智様式としなければならない、独自のものだ。

それは、今も聳え立つヒマラヤ山脈南方の地、あるいはペルシャとの国境くにざかいなどにみられるインド仏像の頭髪や衣服の襞ひだととてもよく似ており、どうしてもこの両者に因果関係があると思い至らずにはいられないのである。この種のインド仏像は、ロンドンのブリティッシュ・ミュージアムなどに沢山所蔵されている。この両者が似ているのは、ほんの偶然なのか、やはり、因果関係があるのか。これは論争を呼ぶ問題で、関係がないと主張する者は、中国唐代の文化は、中国の内部で自ら発展したもので、インドから影響を受けたりなどはまったくない、という。そういう考えも成り立つかもしれない。そうすると、金堂壁画などは、中国唐代初期に特有の発展をみせた作風様式であり、インド・ギリシャとの関係はまったくないということになる。もう一つ、別の説によると、こんなに似ているのは、中国唐代とインド西域との間に交通が開けていたからだ。そこに因果関係が生じるのは当然避けることのできないところだという。

正倉院にある琵琶の撥面ばちめんに描かれている人物は、その服装からしてペルシャ人にほかならない。法隆寺所蔵の錦旗の紋様には、騎馬の人物が虎を弓で射る図がある。これはまぎれもなく、アッシリア、バビロンなどの美術に属するもので、人物は鬚をたっぷりと生やし、翼をつけた馬に乗って虎を射とうとしている。その鬚のたっぷりのばしているところなぞ、あの地方の特徴であり、獣を弓で射る図もあちらの美術によくある図柄である。それに、乗っている馬の骨格、紋の周りにある模様の形などをみても、いかにもバビロン、アッシリアから来たものというほかはない。

これだけ裏付けがあるならば、金堂の壁画のスタイルも、インドから来たと断言していいのではないか。

そうだとすれば、では、このインド・ギリシァ風の美術様式はどこから来たのか、これが問題になる。つまり、ギリシァ美術はいかにしてインドに入り、ついでいかにして古代中国にやってきたかである。この二つの問題を解明するためには、ヨーロッパの歴史を研究しなければならない。われわれのテーマは東洋の歴史なのだが、しばらく東洋と関わる部分を重点的に、ヨーロッパの歴史について述べていこう。

世界の文明の淵源、そのいちばんの始まりはエジプトである。ついでチグリス、ユーフラテス両河の間に栄えたアッシリア、バビロン文明である。バビロンの塔の名で知られる天に達する高い塔を作ろうとしたのもこの河畔のことである。そして、このエジプト、アッシリアの二文明が合流してペルシァの文明を形成した。ペルシァは実に広大な版図はんとを有し、西は小アジアからギリシァと向き合い、東インドと境を接し、北ははるかに砂漠地帯におよんでいた。ダリアス王(ダレイオスⅠ世522B.C.〜488B.C.に在位。ダリウス大王とも)の時、エジプトも併合し、(ペルシァのオリエント統一525B.C.)、ヨーロッパ古代世界のなかで最大の帝国となり、それ以降もさらに領土を拡大しようとギリシァと戦争をしたのが紀元前450年頃(ペルシァ戦争、500B.C.〜479)。つづいてクセルクセス(Ⅰ世、486B.C.〜465B.C.在位)は、百万ともいわれる大軍をもって、ギリシァを攻め、アテネを焼き払うまでしたが、その後敗退した。紀元前330年頃になって、ギリシァはマケドニア王フィリップ(フィリッポスⅡ世、339B.C.〜336B.C.在位)のために滅ぼされ、フィリップは、いつもペルシァがヨーロッパに侵入してくるので、こんどは逆にアジア(ペルシァ)を攻めようと軍備を整えているところ、部下に暗殺されてしまった。そこで、この侵略はとりやめになったが、その子アレキサンダー大王(356B.C.生れ、336B.C.〜323B.C.在位)が父の遺志を継ぎ、軍隊を率いてアジアへ侵入し、ついには古代世界を統一するほどのところまでいった。これが、いわゆるアレキサンダー東征(334B.C.〜)で、ギリシァ美術が東洋に紹介される端を開いたのである。このとき、ギリシァ軍は五人一組の隊列を組み、長い槍を持たせて突撃し、どんな強敵も破ったという。

ペルシァ軍を破り、さらに進撃し、その後一転アフリカを攻め、エジプトを征服(332B.C.)。また、ペルシァを攻め、ダリオス(3世)も殺された(ペルシァ帝国滅亡330B.C.)。アレキサンダー大王、その行くところ征服を続け、ヒンドゥークシを越え、この地方(パンジャブ地方征服327B.C.)もかんたんに征服した。ギリシァ人は自分の国がもともと共和国なので、王を貴ぶ慣習がない。しかしペルシァ人はずっと王の専制下にあったから、アレキサンダー王を戴いて自分たちの王のように仕えたという。だから、アレキサンダー王もペルシァ人を大切にした。逆に、ギリシァ軍の兵のなかに不平が出てきて、インダス河あたりにまで来たところ、三つの隊はしきりに帰国を願った。

このアレキサンダー大王の東征については、記録が遺っていて、すべてがはっきりしている。というのも、アレキサンダー王は当時の哲学者アリストテレスの弟子で、学者を遠征に加えており、途中珍しい草花や動物がいたらそれをとらえ、師に贈ったという。学者の記録したものが現存していて、インド側からの記録はなくっても、ギリシァ側の歴史はすこぶる詳細を極めているのである。

インドの王ポロスというのがいて、インダス河支流でアレキサンダー軍に大いに抵抗した。アレキサンダーは一計を案じて、風雨の時を利用して攻撃、ポロスは白象に乗って反撃したがついにとらわれ、アレキサンダー大王の前に引き連れられてきた。アレキサンダー王は、ポロスになにが望みかと訊くと、私を王らしく扱えとポロスは答えた。アレキサンダー王は、この態度に感服して、その地の王に任命し、再び侵略することはなかったという。ガンジス河あたりにまできて、さきの帰国を願う隊はもう進もうとしない。三日間そこに止り続け、アレキサンダーは進軍を命じたけれども、どうしても言うことを聞かない。王もいかんともしようがないと天を仰ぎ、嘆息をついたという。そして、軍を整え、陸路の組とインダス河を下らせる組とに別けた。当時は、南の方にはまだまだ広大な陸地があって、インダス河の下流はユーフラテス河に合流していると考えていたのだが、このとき初めて海があってペルシァ湾があることを知った。二つに分かれていた軍隊はここで合流して帰国しようとしたが、故国ギリシァで内乱が起っているという報せが入った(ラニア戦争323B.C.〜322B.C.)。そこで急ぎ帰国しようとバビロンに来たところ、大王は熱病に罹り、その地で没した。

アレキサンダー大王の領地は、東はインドより、西はエジプト、ギリシァに至る、非常に広大なものであったが、王の死後、この領地を戦功があった将軍のあいだで分けることにした。エジプトはプトレマイオス(プトレマイオスⅠ世、323B.C.〜283B.C.在世、プトレマイオス朝305B.C.〜30B.C.)が得て、のちに大いに美術を奨励した王家を作った。

その他、二、三の将軍に分割されたギリシァ、小アジア、スレートなどは長続きせず滅亡した(ディアドコイ戦争321B.C.)。セレウコス(358B.C.〜281B.C.)が領主になった古ペルシァの地は以後300年永続した(シリア王国305B.C.〜64B.C.)。そこにセレウキアの都、およびアンチオキアの都を建設した。

このようにして、ギリシァの文化を自分の国に移入し、娘をチャンドラ・グプタ朝(317B.C.〜297B.C.)と名付けるインドの王に嫁がせたりしたこともあるという。当時、シリア王国とチャンドラ・グプタの両国間の使節だったメガスセネスの日記が遺っているとのことである。

こういうわけで、ギリシァやインドの間には交通があったのである。そこへ、美術家たちもやってきて、ギリシァ風の建築をインドに残しているし、ギリシァ語を使っている土地もある。ギリシァ人が移住して住み着いているところも多くあった。いまから、おおよそ2300余年前のことである。そして、それより200年前、つまりいまから2500年前は、じつに釈迦が生まれたときである。ギリシァ風の美術がインドに入ってきた頃は、当地で仏教が栄えていた時代に相当する。それならば、仏像を作るときにギリシァ風に仕上げたにちがいなく、いまインドに残る大理石の仏像がギリシァ風の影響を受けた結果であることはまちがいない。


そしてまた、アレキサンダー死後、少なくとも300年間は、セレウキア勢力の届く地方で、ギリシァ風の影響が出てくることも疑えない。このセレウキア=シリア王国は300年後、ローマに滅ぼされ、その後、ギリシァ風の美術が復活することはなかった。こうして、ギリシァとインド美術の「混和」したものがインド・ギリシァ様式であって、これは中国北方のバクテリア、ゲッテーといった地方に伝わった。ゲッテーは、中国の人のいう月氏げっし国で、人びとは勇猛で、ギリシァ人も恐れるほどだった。一時はインド、ペルシァへも侵略したことがある。中国で巴斯はし国(波斯)といっているのはいまのペルシァではないかと思うが、おそらくその辺りの土地のことをいっているのだろう。『北史』には、しばしば月氏と巴斯国が交流していることを記録している。ということは、中国は漢以来、これらの諸民族と境を接して、その美術にいくらかでもインド・ギリシァ風の影響を受けたことは当然考えられる。

それだけではない、仏教が中国へ伝わって以来、仏教思想や美術は北方からのルートで入ってきていて、直接インドからはいってくるものは非常に稀である。漢の明帝の時の仏像(「金人」)は、雪山せつざん(ヒマラヤ山脈)の麓から得たとある。雪山は北方の地である。南方との交通は、当時の船でははなはだ危険で、いつも使う交通手段ではなかった。たとえば、獅子国、つまりセイロン島に漂流したとき、そこでインドの産物を得たということがあるくらいだろう。六朝の頃は、仏法が盛んになり、直接仏典をインドから取り寄せようという考えも昂まり、晋の法顕ほっけん(337〜422)が天竺てんじく(インド)へ渡った。法顕の『仏国記』をみると、ほんとうに困難を乗り越えて行ったことが判る。

法顕は晋の義煕ぎき(405A.D.〜429)の時代、僧侶五人とともに、洛陽を出発、高昌こうしょう国を経由しインドへ入ろうとした。かずかずの困難を味わい、捕獲されたりしたこともあり、二人は途中で帰ってしまい、ヒマラヤ山を越えるとき、寒さと飢えでもう一人も亡くなり、残った二人がインドに辿り着くことができた。インドの仏像を見ると、中国の仏像と大いに異なると記している。私が思うに、法顕は、ギリシァ風の仏像を見たのではないだろうか。法顕は、それからガンジス河を下り、獅子国に入り、海路で中国に帰ろうとしたが、船が風に流され、青州に漂着、十何年かかけてようやく国に帰った。風に流されたりして、持ち帰ることのできた仏像経典はあまり多くなかったという。

この法顕の体験を鑑みると、インド風の美術が中国に入ってくるのは南路(海路)から入ってきたものと北路(陸路)から入ってきたものと、別々であったのではないかと思われる。そして、北路経由のものは、セレウキアの影響を受けたインド・ギリシァ風の美術だったのではないだろうか。

唐の時代、太宗の治世(627〜650)、玄奘三蔵(602〜664)がインドへ渡っている。

この旅によって、史学、地理学の上で非常な収穫があった。古代インドの事を知るには、ギリシァ人やセレウキア人の記録によるしかないのだが、セレウキア滅亡ののちは、その一帯は「野蛮人」に占領され、インドも王族が分裂してバラバラになってしまったため、記録が遺っていない。そのため、当時の様子が詳しく判らないので、インドの歴史は紀元700年以降のことしか記録として遺っていない。そこで三蔵が残した手記(『大唐西域記』)は、或る所から或る所までおよそ何里とか書いていて、当時を考える参考になるというわけだ。

イギリスのカニンガム(Alexander Cunnigham,1814-1893)という学者は、インドの地理を熱心に研究して、一生をそれに捧げてインドの歴史研究の著書は40巻に及ぶ。彼は三蔵法師が記した地名と現在の地名、それからアレキサンダー王時代の記録を対照して『インド地理』(The Ancient Geography of India,1871)という本を著している。

玄奘三蔵の旅は、じつに長い期間に渡っており、15余年をその旅に費やしている。インドの或る王様に助けられ、白象15頭を与えられて経巻を積んで帰る途中、インダス河の洪水に遭い、ことごとくその経巻を流失してしまった、そのために、さらにインドに留まり、二年余りをかけて経巻を筆写し持ち帰ったとある。このとき、中国へ持ち帰った仏像は、北路経由のものだから、インド・ギリシァ風のものであったことは明らかである。三蔵法師がインドの旅で往復した道順は、先の『インド地理』の著者が自ら現地に入り、調査した図がこれである〔p.71〕、線の中断しているところは道順がはっきり確証できないところである。

そのころ、中国は揚子江をはさんで、南と北で戦争をやっていた。南朝は純然たる中国人(漢民族)で、北朝は砂漠につながり古匈奴きょうどの種族だった。北朝の勢いは激しく、南朝を圧倒し、その威力は朝鮮半島にも及んだほどである。この民族は、つねにペルシャとも交流していた。唐の太宗の時代になると、この大皇帝は天下を統一し、その勢力はペルシャにまで届いた。唐の王朝の支配するところ、実に広大無辺、そこにインド・ギリシァ風の美術が入りこんできたのは疑う余地のないところである。

とはいうものの、そのインド・ギリシァ風の美術がただちに法隆寺金堂に残っているというわけにはいかない。インド・ギリシァ風の「分子」を受けて(インド・ギリシァ様式の一部が)、金堂壁画に影響を及ぼしているのである。鳥仏師の作った法隆寺金堂釈迦三尊などの仏像の様式と、ほんの僅かの年代の違いでこんなに異なる様式を壁画にもたらした原因は、まちがいなく、中国、朝鮮にある。しかし、私は、まだこの辺のことを断定的に語ることはできない。ともかく、インド・ギリシァ風の様式が、中国、朝鮮に伝わり、そこから日本に入ってきて、法隆寺金堂壁画のようなスタイルが誕生したという説として紹介しておく。

インド・ギリシァ様式といっても、これをギリシァの美術と直接並べて比較すれば、ずいぶん異なるところがあるのはいうまでもない。

別にもう一つ、インド・ギリシァ風というべきスタイルがある。頭部が小さく、手が細く、衣文はギリシァ彫刻に近い。これは鳥仏師らの彫刻の頭や手が大きく、衣文がパターン化しているのと全然違う。(これがどの例を指しているのか不明。)


 

さて、天智時代の作品で、現存するものを挙げておこう。第一は、いうまでもなく、法隆寺金堂壁画である。法隆寺は、この壁画を鳥仏師の画といっているが、あんな彫刻を作る人がこういう絵画を作るとは想像し難い。絵画と彫刻はその趣は異なることは確かだが、とはいえ、刀と筆の違いであれだけ別の作風になる理由は考えられない。また、一説に曇徴どんちょうの筆であるというのもある。これはすでに話したとおり、この絵は曇徴がいた推古時代のものでないのだし、曇徴は経学、仏教に精通していて、水車や顔料の作り方を伝えたと史伝(『日本書紀』)にあっても、そこには画をよくしたとは記されていない。

聖徳太子が法隆寺のような大寺を建立するに当っては、当時の絵の大家でもない者に金堂の壁画を依頼するはずはないだろう。その当時は、百済から画工白加らが来ている。聖徳太子が白加らに頼まないで一僧侶にすぎない曇徴に依頼するだろうか。つまり、この壁画は推古時代ではなく天智時代の「一画工」の手に成るものというほかはない。その姓名は判別しないが、天智天皇の時代の記録に画家の名前が何人か出てくるので、いずれ誰が描いたかも判明するだろう。

この壁画の「構造」は、まず下壁を極く細かに「組み」、確かなところは判らないけれど、乾漆のようなものを塗り、その上に胡粉を塗り、そこに絵を描いたと考えられる。模写したものが博物館にある。みんなもよく知っているだろう。すばらしい絵である。筆力もすごい。ヨーロッパにも壁画がある。それの方法は、壁を塗ってその壁が乾かないうちに絵を描くというやりかたで、画の下地の石灰が乾くとともに、画も定着する。これをフレスコ画という。「フレスコ」というのは「新画」という意味である。それを壁画と訳すけれども、法隆寺金堂の壁画は、ほかの絹などに描く絵と違いはない。(つまり、フレスコ画ではない。)博物館にある模写は桜井香雲氏の仕事である。二年余をこの模写に費やして出来上った。いろいろ困難があったと聞いている。桜井氏はいま、本校で教鞭を執っているから、その方法についてなど、いろいろ教わるといい。

さて、次の例。京都太秦うずまさ広隆寺(弥勒菩薩のことか、現在は、平安前期。83.7cm)にある塑像である。塑像というのは土で作った仏像である。土の中に苆すさを入れる。中国にも塑像があると聞く。寺伝によると釈迦というが、薬師の様式をしていて、顔や鼻の形がインド・ギリシァ風である。高さ三尺余。広隆寺は聖徳太子の建立であるが、この像の伝来は詳らかではない。ある言い伝えによると、神が現われて森の中から授かってきたとか。また、唐の化神が携えて来たとか。こういう伝説があるということはこの仏像が「外国」(中国か朝鮮)から来たことを暗示しているようにも思われる。

奈良、長谷寺の板仏「銅板法華説相図」(71.0×78.8cm)は、その銘「歳次降婁」とあるところから天智2(663)年(諸説あり)鋳造されたことが判る。法隆寺金堂壁画と非常に似ている。板仏とは型を作って打ち出した銅仏で博物館にも同じ種類のものを所蔵している。

その他、インド・ギリシァ風のものに属する作はいくつかあるが、純然たるインド風のものは稀である。その作風は、日本に入っていくとたちまちのうちに「混和」して天平時代のスタイルになっていくからで、私が考えるに、天智時代は唐の影響下にあった、その唐の美術がインド・ギリシァ風の影響を受けていた、ということなのである。

純然たるインド風の仏像もある。鼻が隆たかく、顔は扁平でなく、体躯は細長い。頭も手も大きい。博物館にある十一面観音(唐代、木造42.4cm)である。その仏像は南北、どちらを経由してきたのかは、判別がつかないが、おそらく、獅子国から中国に伝わり、それが我が国に入って、日本で制作されたものと考えざるをえない。こんな純インド風の様式は、いつどの時代にはいってきたものか。推古時代にはそんなインド風に影響を受けた作例がないので、天智の末期、あるいは天平の始めの頃とすべきか。頭はやや小さいが、ともかく純然たるインド風である。

室生山にある弥勒みろく像(平安時代、木造95.4cm)もそういう一例である。しかし、こういう純インド風は、日本美術の系統に影響力は少なく、インド・ギリシァ風のものが最も多い。そして、推古美術とインド・ギリシァ美術が「混和」して、(混じり合い影響し合い、一つのスタイルを形成するに及んで)、天平美術が誕生するのである。

高橋勇ノート

大和民族特有の美術と中国古代美術とが結合して推古式の美術が生まれたのである。そして、中国においてもその発展は止まるところなく、西域の影響が大きくなってきた。その西域の影響を蒙った美術が、日本の天智時代に入ってきて、推古式と合して、一種異風の美術が起った。これが天智式美術である。ここに至って、推古美術はほとんど絶えてしまったといってもいい。天智時代は実に歴史上一つの大きな「段落」をみせる時代。それだけに価値がある時代で、すべての文物がこの時代に発達成就している。天智時代に花を開いた美術は、天平時代に実を結ぶのだ。別のいいかたをすれば、推古時代は、植物の種子の時代、天智時代は芽、天平時代は花の時代である。

花となれば次に必ず散る憂いがある。実となれば必ず腐敗する憂いがある。果たしてその通り、天平時代は美術の隆盛その極みに達したが、その後衰微していくのも、そういう理が働いているからである。

とはいえ、奈良時代美術の頂点はどこにあるかといえば、躊躇することなく言える。形式からみれば、天平時代がいちばん優れているが、その精神からいえば天智時代の上を行くとはいえない。すでに述べたように、天智時代は、美術として「一大段落」を築いただけでなく、社会制度、法律などにおいても、大いなる変革を成し就げた。大宝律令が生まれたのもこの時代である。

蘇我氏を亡ぼし、中央集権を帝室に据え、すべての情勢が一変して、人びとは新しい思想を生きることになった時代である。その他、文学、宗教、天文、算術なども大いに発達し、天武、持統天皇のような名君が続き、美術その他ことごとく、進歩したのである。

この時代の彫刻として現存するものはまず、薬師寺講堂の三尊(金銅、中尊267.5㎝ 左脇侍288.7cm、右301.4cm)である。その出来映えは、感心できないところもあるが、歴史的な発展という点から、欠かすことのできない作例である。この薬師寺は、奈良にあって、天武8年建立された(『日本書紀』『薬師寺東塔擦銘』によると、天武9(680)年建立を発願)。しかし、現在の堂は300年位前に建てられたものである。講堂は金堂の裏にあって、仏像は三尊形式をとる。孝徳天皇の時(645-654)に作られ、推古式と天智式の中間に位置するといえる。

すべて仏像は、時代の様式を体現している。薬師寺講堂の三尊においても前の時代の様式は変化し、決して完全なものとはならないが、歴史的発展の上でそういう形をとるのである。同寺の記録によると、天武天皇のときに造像されたというが、様式から判定すると、決して天武時代の作ではなく、孝徳時代のものというほかない。

次に挙げるべきは、薬師寺金堂にある薬師三尊(金銅、中尊254.8cm、右・日光菩薩311.8cm、左・月光菩薩309.4cm)である。この像は、じつに奈良仏像彫刻中の第一ともいうべき名品である。大きさは、東大寺の大仏に次いで大きく、その銅色も潤いがあり、形の整っているところといい、一点の欠けたところもない。天武天皇の時代の作である。孝徳時代の美術様式が発達して、ここに至ったのである。伝来によれば、天武8年皇后病に罹り、平癒を祈願してこの工事を起した。しかし、天武帝は完成しないうちに崩御、持統天皇が後を継ぎ、元明天皇の代になって完成した。

薬師寺の東院堂に、また、観音像が一体(聖観世音菩薩) ある。銅像で丈七尺位(金銅、188.9cm)。精巧な造りである。これは、百済から伝来したものと伝わる。ところが、いま金堂にある薬師三尊は、非常にこの観音と似ているところがある。あるいは、この観音をモデルに工夫を凝らして金堂薬師三尊が作られたのかもしれぬ。薬師如来の座は日本で鋳造したものではないから、これは、もともと観音のものだったのかもしれない。あるいは、これと同じ種類のものを用いたのかもしれない。

第三は、木津川の近くにある蟹満寺かにまんじの釈迦(金銅、240.3cm)で、これも同じ時代の作だろう。伝来によると天平時代の作というがさきの観音、薬師如来と同じ様式をしている。まちがいなく天智時代のものである。

その他、天智時代の彫刻は、いろいろあるけれども、大事なものは、いま挙げたくらいで、あと法隆寺の所蔵している小仏を付け加えておこう。

もう一つ、法隆寺五重塔の中にある塑像もこの時代のものだ。この塔は、推古時代に建てられたといっているが、天智時代の建立である。中に須弥山すみせんを作り、その台の上に数多くの仏像を並べている。このなかには、推古、天智時代のもののほか、近世のものも混じっている。

天智時代の絵画として現存するものは、極めて少ない。そのなかで、明らかに天智時代のもので、しかも最も重要なのは、法隆寺金堂の壁画である。この画については諸説あって、まだ結論はでない。寺の伝では曇徴の作といったり、止利仏師の作といったりしている。この堂は、推古18年に建立といわれていて、もしそうだとすれば、この壁画も推古様式ということになるけれども、この堂が推古時代に建ったとはいえない理由がある。金堂の建築は天智時代である。

史伝によれば、天智9年法隆寺に火災があった。9年12月(4月30日)、火、雨、雷、地震があり、一屋も余さず焼き尽くしたとある。その後、元明天皇和銅4年法隆寺再建という記事もあって、金堂は、天智より元明の間に再建されたもので、つまり、金堂は天智式だということになる。そして、壁画も金堂と同時代といわざるをえない。別の人の説によると、一屋も残さずというのは文章の形容であって、金堂は燃え落ちていないというのである。これは信じられない。

とにかく、金堂の壁画を見ると、画風は推古時代のものではなく、天智時代である。玉虫厨子と比べてみると良く判る。同じ時代に通じるところにある美術が、こんなに大きな違いを生ずる理由は考えられない。そして、この壁画と薬師寺の三尊とを比べてみると、その「形・相」とても良く似ていることが判る。曇徴の筆という言い伝えは、信じられない。正史(『日本書紀』)には曇徴は一人の名僧とあっても、画僧とは記していなくて、日本に彩色道具と水車を伝えたとだけあるのだから、曇徴説をとることはできない。また、推古時代に法隆寺を建て、その内部装飾のため百済から白加と弟子18人が召されたという記事があり、もし壁画が推古時代に描かれたというのならば、必ずや、この白加に描かせたであろう。

止利仏師説もあるが、止利が絵を描いたということは伝わっていない。それに、金堂壁画と彫刻を比較すると、まったく似ているところがない。止利仏師説を斥ける所以である。

法起寺の観音像(十一面観音、杉一木造、350cm)は天智式(現在は平安仏)かどうか。金堂壁画と法起寺観音はその「意」に共通するところがみられる。これを「ギリシァ風」(インド・ギリシァ風)の作と比べてみると、その作風に同じ点がみえるのである。この点から考えても、金堂壁画は天智式の作であることに疑いの余地がない。かえすがえすも残念なのは、作者の名前が判らないことである。