岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

序論

世間では、歴史というものは過去の出来事を集めた記録である、だから、それは死物の集積にすぎない、と考える人が多い。しかし、これは、大きな間違いである。歴史というものは、われわれのこの身体の中に生き、活動しているものなのである。昔の人が泣いたり笑ったりしたことは、現在のわれわれが泣いたり笑ったりする、その源泉となっている。昔の人があんなふうに、あんなことで泣き、笑いしたから、いまのわれわれも、こんなことで泣き、笑うことが出来るのだ、ということだ。

その昔、われわれの祖先は新羅しらぎに兵を送り、また蒙古の軍隊が攻めてきたときには、この軍隊を追い払ったものである。われわれはもちろんその時代に生きてはいなかったけれど、「三韓征伐さんかんせいばつ、蒙古襲来もうこしゅうらい」の出来事は、歴史書に記され、われわれの思想の一部を形成していることは明らかである。

吉備公(吉備真備きびのまきび。695-775。717-734、752-753入唐。)と弘法大師(空海。774-835。804-806入唐)が唐へ留学して持ち帰ってきた文学、技芸、あるいは家康や綱吉の徳川幕府が奨励した近世の文学も、われわれの知識の一環となって働いており、金岡(巨勢金岡こせのかなおか。生没年不明。平安前期の宮廷絵師)、雪舟(諱いみなは等楊。1420-1506)の絵は、われわれが絵を描くときの「原素」(絵を描くという行為、絵が作られるとき見るときに人びとの考えを働かせる要素)となっており、薬師寺の薬師如来や法隆寺(金堂)の壁画など、これがどういうふうにして作られたか、その方法もいまでははっきり伝わっていないのだが、その天平の美しさに感動する心はわれわれの血の中を流れているのである。

藤原(平安)時代の最盛期の美術も、われわれはこれらがどのように作られたか、同じものを再現することはできないとしても、平安時代の美は現在のわれわれの感性と思想の働きに大いに役立っているのである。

もし、雪舟や相阿弥(生年不明、1525没ヵ。伝・大仙院の襖・庭)がいなかったならば、わが国の今日の美術は、おそらく現在と違う様相を呈したものになっていただろう。推古(飛鳥)時代、天平時代、藤原時代、東山(室町)時代、みなそれぞれに、われわれの思想の一部となって、始めて今日のわれわれは出来ているのだ。ためしに、いまの小学校の生徒に文様を描かせ、唐草模様でも描かせてみるといい、これは外国(西洋)の子供らにはちょっと描けないものを描いてみせてくれるだろう。それというのも、ほかならない、昔から多くの歴史を経過してきた日本美術の思想がわれわれ日本やまと民族の頭脳の内に生きて存在しているからにほかならない。

だから、美術史を研究するということは、ただ過去の作品や人物を記録するだけで終わるものではない。これは、同時に、未来の美術を創り出す基礎地を固めることでもあるのだ。われわれは、いってみれば、いま、未来の美術を創ろうとしている。後をふりかえると呆ぼうっとして形もはっきり捕らえられない過去の世界があり、前を見ればはるかな涯はてのない将来が横たわっている。この過去と未来の間にあって、われわれはその責任を全うせねばならない。たやすいことではない。とくに、今日、明治という激動の時代にあって、われわれの責任は重く、かつ大きいことはいうまでもない。諸君もよく判っているだろう、いまは学問、芸術、技術、宗教、風俗に至るまで、すべてが根こそぎ規準を失い、大変動している時代である。この時にあって、美術だけが超然と、その変動の外にいていいわけがない。

現在の美術は、過去と将来の中間はざまにあって、この二つを結びつける重い責任を負わされている。それは、日本だけの問題ではない。19世紀は、世界大変動の時代である。その原因はなにか、これはいくつも挙げられるが、まず大事なのは、「唯物論」の思想が勢いを増してきたことである。宗教も、実証的に考えを組み立てていかなければ、通用しない時代になった。美術もまた実証性が要求されている。実物を実物らしく描こうとしはじめたイタリア・ルネサンス以来、実証的・科学的にという流れは滔々として留まるところを知らない。

科学的実証主義を目指す学問技術の進歩は、その思想をさらに進展させ、宗教や道徳の思想にも影響を与え、すべての基準が「器械的」になってきている。

罪人を罰するに当っても、秤でもって物の重さを量るように、その罪を測定し、したがって罰金いくら、と裁定する。いや、その精密なこと、この上なしだ。

こうして文学も、だんだん高尚さを捨て、器械的な文学が書かれ受け容れられるようになってきた。これは社会全体の動向である。当然美術もこの影響から逃れることはできない。写生が第一という傾向が主流となり、あげくの果ては一枚の絵を制作するのに、あらかじめ図をつくっておいて、そこへ、注文に応じた人物を写実的に描き込む(「写真」する)というようなことをやっているのまで現われた。これはもうなんの味わいもない、ただの「写真」(写生)である。そこには、純粋な精神が自由に駆けまわるといった、心溢れる風趣はまったくみられない。これが、ヨーロッパ美術400年の実情である。これを救済するのは、われわれの任務である。

とはいえ、われわれ日本人が、過去の日本と将来の日本を結びつけようとすれば、その任務たるや大変なのである。ただ、旧来の教えを遵守するだけではだめで、科学学問の進歩をよく身につけ、これまでのありかたを深く反省して、現在採るべき行動の良し悪しを判断しなければならない。そのとき、歴史を学ぶことが大きな意味をもってくるのだ。

ある学者が言っていたことだが、自分がどんなことをしてきたか、どんなことができるのか、自分の能力や自分の居る位置がどうやら判ったと思えたとき、そのときはもう人生の終わりにきている、昔の人は、その意味では、自分のことがまだ判らない稚いわか年令の頃にいるようなものだ、と。

ためしに、歴史の本をちょっと開いてみるといい、昔から、時代の移り変り、英雄豪傑の最後を調べてみると、皆、たいていが、同じ末路を辿っている。文学芸術を愛した者は、それに溺れて軟弱な人生を送り、武士道を尚ぶたっと者は、粗暴な人生を過す。もし、彼等が少しでも歴史を勉強していたら、もうすこし別の人生を選べたかもしれないと思わないか。

昔の美術家が歴史をよく勉強していたら、ただ師匠(権威)のまねごとをするだけで終わらず、もっと新しい展開を生み出せただろう。たとえば、江戸時代の美術家がもっとよく奈良時代の美術を勉強していたら、200年もの長いあいだ、探幽(狩野探幽。1602-1674)独りに支配されているようなことにはならなかっただろう。江戸時代の狩野派の絵がだめになったのは、いうまでもない、美術史の研究をしなかったからだ。

ヨーロッパにあっては、7、80年前(19世紀前半)まではいろんな説が次々と現れて一定しなかったが、最近は研究が充実してきた。大家といわれてきた人も斥しりぞけられる一方、あまり知られなかった人の真価が見直されたりもしている。日本においてもまた、平凡なくせに大家と仰がれている人や、本当は大家なのだけれど認められていない人はいるはずだ。そういう事をちゃんと研究して明らかにするのも美術史の仕事である。美術家であることは、こういうことを研究して「己を知る」ことによってこそほんとうに美術家となるのだ。そればかりではない、美術史を勉強すれば、世間のこと、社会一般のことも学ぶことになり、それが美術を活かすことになるのである。

「美術哲学」つまり、美学にはまず基礎理論を固めて一般原理から特殊な美的事実のありかたを推論する方法(演繹)と、特殊な事実を総合してその共通点を求め、事物の間の因果関係を確定する方法(帰納)と、二つの方法があるが、美術史は第二の方法が有効である。この第二の方法だけで他は顧みない一派もある。いずれにしても、完璧な美術史を書くなどということはかんたんにできるものではない。まず、各時代の概略を区分し、それぞれの時代の精神にどんな特徴があるかを調べ、社会状態はどんなふうか、文学や宗教とどのような関係があるか、それぞれの時代の大家は社会にどんなふうに関わり、社会はまた大家たちをどんなふうに受け容れたか、そして、彼らは後世にどんな影響を及ぼしたか、など、こんなことをすべて研究しなければならない。

私が、そのようなことをことごとく知り尽くしているわけがない。とはいうけれども、上に挙げたどの一つも欠け落ちたら完璧な美術史とはいえないのである。だから、現在の私には完全無欠な美術史を講義する資格はない。諸君の望むところを充たすことはできない。

カーライル( Thomas Carlyle,1795-1881 )が事実は立体である、しかし、歴史は線である、と言っているが、線でもって立体を説明するというのは、むつかしい仕事なのである。ことに東洋美術史にいたっては、これまでほとんど研究されてこなかった。「本朝画史」と名乗る類はいくつかあるけれども、これは古い言い伝えの文献を集めて画人の伝記を仕立てただけのことで、その画人(画家)たちの画業についてや、相互に及ぼした関係にいたっては、どの書も誌していない。画家や彫刻家の系図があっても、これがまた信用できない。名前は記されているが、ほんとうに実在した人か怪しい者もいる。中世の名家といわれる住吉慶恩(慶忍。生没年不明。鎌倉中期の絵師)なんか、そのいい例である。慶恩作というのは伝わってきているが(「絵因果経」[1254書写]奥書にその名あるのみ)、その人の存在したことを証拠づける記録はない。周文(生没年不明。相国寺画僧)はよく知られているように二人いるし(秀文と混同)、可翁(南北朝期の絵師)になると三人(可翁宗然、可翁良全、詫磨長賀/栄賀)もいる。こんなふうに混乱しているから、完璧な美術史を書こうとするのは、私の如き浅学せんがくのできることではないと思われる。

それに、美術史を記述するためには、古物(古美術品)を鑑定する能力が欠かせない。これがまた難しいことの中でも難しい。

世の中には、誰々の筆という作品が数多くあるが、正真正銘本物であると信じられるものは少ない。落款があるものはまだいいほうで、落款もないとなると、昔の鑑定家の言っていることはほとんど信じられない。

たとえば、現存する絵巻のなかで、その絵を描いた人と詞書を書いたといわれている人の時代が異なるなどということはたくさんある。言い伝えをかんたんに信じられないのである。

信じられるのは自分の眼だけである。となると、ますます完璧な美術史を書くことの困難さが判ってもらえるだろう。

たとえ、作品や作家の史料がたくさんあったとしても、そのどれが信じるに足るか、それを判定するためには、その時代の全体の動きを洞察するだけの識見をもたなくてはならない。これもまた並の人間の誰もが出来ることではない。もちろん、私にも無理だ。

そうはいってきたが、私がこれまでなにがしか勉強し、学んできたことから、なんとかこれだけは、と思うところはある。そこを、諸君に伝えたいと思う。大体は、間違いないところと自負しているが、誤りもあるだろう。君たちはその点を理解してくれて、出来ればいつか美術史の研究を深め、まだこの世に知られていない大家を見つけ出し、また史料を発掘して、より完全な美術史を作り上げてくれることを期待する。

さて、私の講義は、まず東洋の美術史を論じ、それから西洋の美術史をのべ、最後に現代の美術、美学の情況、諸家の説を紹介する、という順で進めたいと思う。

東洋美術史の講義をするには、日本を主とし、中国美術史は日本の美術の説明に必要な程度に止めようと思う。というのも、中国美術史の史料、遺品は、収集調査するのが大変である。中国美術史の史料遺品はかえって日本の方が多くあるとか誰かが言っていたが、しかし、日本にある作品は真偽のはっきりしないものが多い。東山時代には中国の美術品がたくさん輸入されたけれど、誰々の作と称するもの、誰々の筆と伝わるもの、すぐには信じられないものが多い。

日本の美術史は最初より述べねばならないが、推古(飛鳥)時代をその始まりとする。推古以前の美術は考古学の分野に属するもので、美術として取り上げるに足る遺品はあまりない。たまにあっても、その伝来がはっきりしないから、美術の出来事として系統を立てて述べることが出来ないのだ。

しかし、美術という現象は、突然発生したものではない。原始的な世界から発達してきた要因が必ずある。

推古時代の美術は、厩戸皇子うまやどのみこ(聖徳太子。574-622)が奨励した仏教によって、突然誕生したというわけではない。それ以前から仏教美術が成立していく要素は準備されていた。欽明天皇の時代(539−571)に仏師が百済から渡来し、仏像ももたらされている。これは、推古美術成立の近因である。そして、遠因といえるのは、紀元以来、千年を超える歳月のあいだに養われた美術の要素で、それが、推古時代に入って花咲いたのである。

以上のような次第で、まずは推古以前の美術はどんなふうであったかを述べることも大切だと思う。