岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

鎌倉時代(その1)

前回までに語ってきたところは、平安時代、つまり藤原時代の概要である。そこでは、二つの運動方向が発生していた。「剛健」と「優美」である。この二つが並走してあの時代を作っていたのだということを強調しておいた。

藤原時代の盛期は、優美が主流を占め、保元−平治の乱が起って、社会の動きが一変し、優美繊弱に対抗する剛健の時代が始まる機運が高まってきた。鳥羽僧正はそういう時代の先駆を行く。剛健の気風が発達して、鎌倉時代になると「率直剛健」さでもって一時代を築くにいたる。

とはいえ、この時代は藤原時代に遺されていた美術の要素が発達して実現されたものであることは忘れてはならない。一口でいってしまえば、この時代にいちばん目覚ましい活躍をしたのは「雄豪率直」な土佐絵である。その飾ることのない作風は、当時の社会の形式や虚飾を棄てる生きかたと関係が深い。

土佐派の絵巻物の特徴はもちろんいろいろ上げられるけれど、光長、慶恩、信実(1176〜1265)といった絵師は、みんなその絵が要求されている「意趣」(絵の目的)を描いたら、それで充分だと考えていたようだ。だから、人物を描く場合、その背景となる山水などは敢て描かない。西洋人はそれを見て、人物がまるで「虚空」を歩いているようだといっている。着彩も、一部は緻密に塗り、一部は粗く塗ったりしている。あの藤原時代の隆能たかよし(源氏物語絵巻を描いたとされていた)のように、手技を尽して「形趣を創り」(形の美しさに凝り)、顔などを美しくするために筆を重ねた痕がよく判る絵とまったく対照的である。

「伴大納言絵巻」なぞ喧嘩のようす、火事に集まる人びとの雑踏ぶりなど生き生きと描いているが、それらの人物の顔を美しくていねいに描こうなどとはしていない。ただ自然のまま描いたというふうだ。

「古法」(伝統)を守らないで、権威ある「画格」(前時代の人が尊重していた絵のよさ、絵のあるべき味わい)など大胆に破り捨て、藤原時代とまったくちがう画風を生み出した。

後の時代、雪舟なども「格を破って」(伝統を否定して)、雪舟派、等谷派を作ったが、雪舟の場合は、宋元の古法を守るという目的があった。

鎌倉時代には、そんな守るべきものはなにもなく、これは「醜い」これは「俗」であるから描く値打ちはないなどという基準も捨てていた。だから「餓飢草紙」などでは、餓鬼が糞にまみれているところや人びとが集まって道傍に便をしたのを餓鬼が食べているといったところも平気で描いている。

徳川時代になると、「雅俗」(雅であることと俗であることの趣味の階級差)の区別が厳しくなって、描いていいものと描いてはいけないものの区別が立てられるが、鎌倉時代は無骨な武士の時代なので、こんな雅俗の区別に頓着しなかったのである。つまり、既成の美の基準に縛られることはなかったのである。

──だから、人を斬って血を流すというような場面でも、それを上手に描けば高尚な趣味をもった絵に仕上がるはずである。題材がいかに高尚でも下手に描けばいい絵にはならない。美にふさわしい題材とか雅俗の区別などといった主題は、美術にとっては問題にならないことなのである。

慶恩が描いたという「平治物語」の焼打ちの場面なども、人物をあえて美しく描こうとなどしていない。人物群のなかに裸の者がいるがその裸体の人物は決して下品ではない。人物の「配合」は、このうえなく巧みである。群衆を描くのは、絵のなかでもっとも難しいことだが、「平治物語」の群衆は、人びとの「配置」も上手く、生き生きしていて、ほかに例がない。

ルーベンスが、アマゾン戦争の絵を描いていて、これは人馬が入り乱れた場面を見事に活動的に描いているといわれている。しかし、これとて「平治物語」の、描きぶりに比べれば近くに寄れないほどだ。

当時のこういう絵を、現在いまの言葉で言い当てるなら、これは「浮世絵」である。古の土佐絵は、当時の「真状」(現実の姿)を写すという目的に徹していたのである。後の時代になって、歴史画とか浮世絵とかいった区別をするようになったが、こんにち「歴史画」と称して描いているものは「想像画」にほかならない。「真の美術」(ほんとうにあるべき美術)を描くためには、画家は「浮世絵」であることに心がけねばならないだろう。いまの人は、浮世絵を蔑んでいるが、同時代の出来事や現象を描いて、人の心を把むのは、絵にとって最も大切な、ほんとうのありかただと思う。こんにちの土佐派をみれば日本の歴史画だという人が多いが、当時の土佐絵は同時代の情景を描いていたのである。

この時代の絵師たちの筆運びが、自在に生き生きとしていて、なんにも囚われるところがないことについては、ほかの時代に類例をみないほどである。

ときどき、一種の殺気を感じることがある。これは、こんな戦乱の時代にあって、絵師たちも知らず知らずのうちに、殺気を心に潜ませていたのかもしれない。

「平治物語」、「伴大納言」、「北野縁起絵巻」は平和な時代の絵巻物語だが、これらも人物の顔かたち、表情は、みな殺気を帯びていて、ことあらばお互いに刺し殺すぞ、といった「気象」(気配)を漂わせている。

ここにこそ、土佐絵の真髄がある。東山(室町)、徳川(江戸)時代になっても、この「心」(「気象」)を持ち続けていたら、こんなに現代の絵が堕落することはなかっただろうと思われる。

土佐の家系は、300年前に滅び、こんにちは形骸化した画派としてその面影の形式を伝えるのみである。

この時代の彫刻についていえば、運慶派が登場することである。しかし、鎌倉末期の彫刻は、彫刻独自の世界を作ろうという気力を喪失し、絵の盛行に引きずられ、だんだんと衰退していく。

鎌倉時代は、前時代の藤原時代の影響を受け、次の時代の東山時代へ橋渡しをする期間である。いろんな要素が働いているが、時代の流れは二つに分けることができる。

第一期は、建久元(1190)年、幕府設立のときから、伏見天皇の正応しょうおう元(1288)年まで。およそ100年間。この時期が、まことに、鎌倉時代の勢いのあったときで、幕府を開いて以来の剛健の気質に満ちている。正応年間(1288〜1293 鎌倉後期)は、北條貞時(1271〜1311)が執権の時代。宗教の世界では、日蓮が登場する。

第二期は、その正応元年から応永元(1394)年、南北朝統一のときまで。およそ100年。初期と比較すると少し優美さが出てきた時代である。北条氏が滅び、天皇家は南北に分裂、政権をまとめる力を失い、美術も衰え、「古風」(伝統)を守ることもできず、当時の土佐派は、ただ前期の惰性で絵を作っていただけである。その上、土佐派のなかから優美さを求める者が出てきて、絵は細かくなっていく。「大和絵山水」が発展していくのはこの時期である。

第一期の代表者は、光長、慶恩、信実である。隆信(1142〜1205)は信実の父であり、藤原時代の終りに位置づけるか、あるいは鎌倉時代の初めに置いていいか。光長、慶恩、信実、隆信のほかに名を挙げておくべきは、経信つねのぶ、邦隆、行長などである。

第二期として挙げるべき名前は、隆兼、吉光。吉光は「法然上人絵巻」を描いた。それから、長隆、勝賀、澄賀ちょうが、恵日坊えにちぼう、栄賀、明兆など。明兆は東山時代へ橋渡しをする人である。

この第二期に入って、二つの方向が生まれた。長隆までは剛健の気力をもって「日本的」な世界を作っていたが、勝賀、澄賀になって宋美術を輸入、宋風に傾き、明兆の時代となると、さらに宋の模倣がひどくなった。それが東山時代へ受け渡されていく。明兆に続くのが、如拙、周文。そして雪舟が登場するのである。

勝賀、栄賀らの時代、画師の伝記も仕事内容も詳しいことは判らない。ともかく、栄賀は鎌倉時代第二期の最後に置くのがいいだろう。要するに、鎌倉時代の特色は、第一期の光長、慶恩らに代表されるということだ。

第二期が第一期のときのように大家を出さなかったのは、それなりの理由がある。

初期には、たくさんの寺院の再建や修復が行われ、「美術家」がその技量を試す機会がたいへん多かった。源氏が平氏を討伐するときの口実として挙げていたのが、平重衡が東大寺を焼き払ったことだったように、平氏を仏敵として扱った。当然、平氏を討伐したあと、寺院の修復をせざるをえなくなったわけで、この期に奈良の寺院の多くが再建された。彫刻の運慶が頭角を現わすのもこの期を利してであり、絵画の世界にあっても、光長、慶恩らの名手が出てくる。

彼らの彩色は壮麗で、隆能、隆親ら藤原時代の画家とまったく趣きを異にしている。この壮麗さは、奈良時代の美術の復古を心がけたところから生まれたのだが、いいかえれば、奈良の古寺を修復したことによって、その美術を「目撃」することができたところから始まっている。

光長たちは、仏画も描いた。しかし、第二期に入ると、そういう古寺修復の事業も少なくなり、美術は実用性より遊戯を目的とする傾向が強くなっていったのである。

鎌倉第一期を整理しておこう。

まず、光長。かれは承安(1171〜1175)から文治(1185〜1190)の時代に活躍したらしい。別の説では、藤原隆信(1142〜1205)と同時代という。

経隆の子、あるいは隆親の子供、国隆の子であるともいう。どれが正しいか、私には判らない。現在入手出来る史料では、とてもじゃないが、光長の生没年も家系も判定しようがない。史料はないから、作品から彼(作者)のことを分析していくほかない。

ところが、光長筆と言われている作品はいろいろあって、なかには怪しいものもある。それらの作品をみると、まったく異なる傾向の作品があって、どう考えても一人の人間の業とは思われない。

そんななかで疑いないといえるのは、「年中行事絵巻」である。もと御物で、60巻あった。光長時代の年中行事が描かれているのか、はたまた古い絵を光長が写したのか。これも意見が別れている。私はあとのほうじゃないかと思う。

筆勢は、他の光長といわれている作と近く、光長筆であるといっていいだろう。昔から皇室にあって、なかなか人目に晒されることはなかったが、住吉具慶(1631〜1705)が修復を依頼されて家へ持って帰り、わずか十数日で「粗雑」に(急いで)模写をした。骨書きのままと彩色したものとがある。原本がその後火災に遭って燃えてしまい、いまはその模本16巻が遺るだけだ(現東博)。この模本の出来具合については議論しないでおこう。ともかく、この絵巻をみると、人物の動きや構図は、じつに見事で、ほかにこれに比べられるものがないくらいなのだ。この白描絵巻に色が着けられていて、原本を彷彿と蘇らせることができたら、これはすごいことなのだが。

次に「伴大納言絵詞」。これは、酒井家の所蔵(現出光美術館)。三巻。さっきの「年中行事絵巻」と同じ筆であることはまちがいない。「伴大納言絵詞」は、色彩が輝いている。他の土佐派の絵に比べて群を抜いている。この絵巻は、伴善男とものよしおが御所の応天門に放火し(左大臣源信に罪を着せようとしたが失敗)、流刑に処せられる話を絵物語にしたもので、子供の喧嘩を野次馬が集まって見ている場面など、じつに生き生きと描いている。

「吉備大臣入唐草子」(「吉備大臣入唐絵巻」現ボストン美術館)も、その筆運びの勢いが「伴大納言絵詞」と共通している。これはもと若狭(福井県)の松永八幡宮に所蔵されていたが、いまは三井家が持っている。一巻。これもほんとうにすばらしい絵巻で、その「気力」の「豪」(筆遣いの力強いこと)は、鳥羽僧正や慶恩のほかに対抗できる者はいまい。

「餓飢草子」は、名古屋の河本氏が所蔵している。模本が博物館にある。

以上列挙したのが、光長筆といわれる二種類の絵のA系列に属するものである。もう一つ、B系列に属するものがある。非常に巧みに見事に描いているけれども、筆遣いがA系列と異なる。

「病草紙やまいのそうし」、名古屋の関戸氏蔵。いろいろな病人のようすを描写してなかなか巧みである。 

「地獄草子」は博物館、柏木氏、岡山安住院の毘沙門堂がそれぞれ一巻ずつ所蔵している。

「粉河寺こかわでら縁起」二巻は、紀州和歌山の粉河寺の縁起(設立の由来)を描き、粉河寺が所蔵している。

「彦火火出見命ひこほほでみのみこと草紙」は、若狭の松永八幡宮に所蔵されているという。彦火火出見命が海の国に行く物語を絵にしたもので、写本がいくつもある。画風は光長にしては劣る。

 源氏物語若紫の巻の絵詞が博物館にあって、昔から光長筆といわれているが、画風は光長とはいえない。

ほかに、「普賢十羅刹」青木氏所蔵は有名な仏画である。その他、「三十六歌仙」、「稚児文殊」、「聖徳太子画伝」など、光長筆といわれているものがあるが、確かではない。要するに、光長の「本色」(光長の光長らしさ)を見せているのは、「伴大納言絵詞」と「年中行事絵巻」だということになる。

慶恩は、住吉家では確かにそういう人物がいたということになっており、住吉家で作成された『大和錦』には、隆親の子で、光長の弟としている。この系譜は、都合よく作られた者にちがいなく、おそらく、住吉具慶らが、新たに一家を立てようとしたとき、歴代名門の絵所である土佐家の始祖光長に匹敵する人物が必要だった、といってそんな人物がおいそれといるわけがない、そこで「平治物語」の筆者「慶恩」を住吉家の始祖に仕立てた、というのが実情ではないか、と思う。具慶という人は、なかなか世才に長けた人であることは疑いの余地がない。

住吉慶恩という名は、他のどの史書にも出てこないから、そういう人物は存在しなかったとう学者もいるくらいだ。ま、こういう意見は少し言い過ぎかなと思うが、とりあえずは、慶恩という人がいたとしておいて、「平治物語」のような絵を描いたと想像してみようではないか。名前が文献に見当たらない、恣意的な家系図に記されているだけだから、という理由だけで抹殺するには、あまりにももったいない。「平治物語」の筆は「絶大の名手」の筆である。[たとえ、本当に慶恩が存在しなかったとしても、「平治物語」の作者は必ずいる。[高橋勇ノート]]

ここで一つ問題になるのは、住吉慶忍という人物のことである。青木氏所蔵の「因果経」の奥書に「住吉住人介法橋すけのほっきょう慶忍並ならびに子息聖衆丸」とある。その「忍」の字が「恩」とよく似ているから、読みまちがえて「慶恩」の名が伝えられてきたのかもしれない。

「小柴垣絵巻」には、「住吉豊後法橋」の落款が捺されている。この人は、のちに法眼になった人だが、これが慶恩だといわれている。この「小柴垣絵巻」の画風はなかなかのものである。光長とはまったくちがう画風で、「剛健の気」を含んでいる。その画風を慶恩とするべきか否か。この議論はちょっとお預けにしておくとしても、慶恩と呼ばれる「絶大の名家」が、この時代に存在していたことは否定できないだろう。「因果経」の奥書は「建長六年」(1254)であるから、これは慶恩の時代よりちょっと後ということになる。

「忍」は「恩」の字の読み間違いではないかという説も棄て去るわけにはいかないが、ともかく、住吉家ではこの慶恩を祖として伝えられてきたので、そういうふうに言い伝えられ信じられてきたという事実を、かんたんに抹殺無視してはいけないと思う。

それに、住吉家には、「介法橋」の称号は、天文(1532〜1555)の頃までずっと相続されてきているようだし、そのころの春日大社の絵馬にも「介法橋」の名がみえる。

慶恩筆と伝えられる作で最も有名なのは、「平治物語」三巻である。ほかに断簡もあるけれど、後世の「補修」(補筆、写本)かどうか、この三巻と比べればまったく劣る筆力である。三巻というのは、「六波羅ろくはら行幸巻ぎょうこうのまき」(東京国立博物館)、「信西巻」(静嘉堂文庫)「三条殿焼打巻」(現ボストン美術館)である。「三条殿焼打巻」は、いまは外人の手に落ちてしまった。ごく最近のことで、それを買った人の名はきみたちもよく知っているだろう。

「六波羅行幸巻」は蜂須家の所蔵。「信西巻」は岩崎氏が所蔵している。「小柴垣絵巻」は徳川家の所蔵と伝えられていたが、一説によると、家臣の手に落ちたともいう。写本がいくつもある。

「当麻曼荼羅縁起」は鎌倉光明寺の所蔵で、大巻である。慶恩は「春日曼荼羅」7枚を描いたと伝えられている。もし、その7枚があれば、慶恩として見ることができるのだが、現存しない。「住吉明神」図が川崎氏に所蔵されている。その他「不動縁起」「地蔵縁起」など、所伝は多い。とはいえ、慶恩を代表するのは保元、平治物語の絵巻で、これらはわが国の貴重な「至宝」である。その一巻が欠けてしまったのは、なんとも残念だ。

土佐行長(生没年不明)。『大和錦』によれば、光長、慶恩、行長の三人を兄弟としている。これも強引な系図で、行長の生没年は判らないが、おそらく建仁(1201—1204)頃活躍した人だろう。「能恵法師絵伝」が京都太秦うずまさの広隆寺にある。これも名画である。「荏柄えがら天神縁起」は前田家、「田原藤太草子」が田安家に所蔵されているが、この草子が行長かどうか判らない。

土佐経隆つねたか(生没年不明)。古い文献に経親の子としているのがある。『大和錦』には光長の子としているが、これも信じられない。経隆の絵をみると、鎌倉時代らしい特色(「剛健」さ)はあるが、藤原時代の「繊巧」(細くたおやかな描法)を継承し、そのうえ「活気」(力強さ)がある。尾州の殿様(尾張家)と蜂須賀家が分けて持っている「西行物語」は細い筆で描かれている。「春日曼荼羅」もあるというが見ていない。

御物の「百鬼夜行」図は「旧本」を写したものという。その他「鞍馬縁起」「太子絵伝」など経隆筆と伝わるものもあるが、私はまだ見ていない。仏画にも、経隆筆といわれるものが時々出ている。細い筆で美しい絵が多い。

藤原信実(1175〜1265/1266年96歳没説もある)。隆信の子。隆信は元久2(1205)年に64歳で亡くなった、藤原時代と鎌倉時代に跨またがる人である。高尾山神護寺に隆信筆の「源頼朝」像、「文覚」像、「平重盛」像などがある。

隆信は法然上人に帰依し、知恩院に信実筆の法然像がある。「太子絵伝」五幅対も描いたというが、どこにあるのか判らない。

隆信は肖像画の名手として知られている。信実はその子で、父子とも貴族の身分であった。信実は文永2年(1265)89歳で世を去った。代表作は「北野天神縁起絵巻」で、現在も天神社に所蔵されている。これは菅原道真の伝記絵で、全十二巻。前半六巻は、道真の一代記で、幼少の頃より筑紫(北九州)に流されて死に、怨霊が雷となって禁裏に落ちたなどという話を絵物語にしている。後の六巻は、当時の殺伐とした時代にあって、平和な絵物語で終ることができないかのように、道真の死後、政敵時平らが地獄行きの苦難を経験するというような、地獄の苦しみのすべてを描いている。

高山寺こうざんじ所蔵の「華厳縁起」は、華厳宗が朝鮮(新羅)よりもたらされた由来を語る絵巻で、見ていくとほんとうに「壮快」(すばらしい)。

もとは徳川家の所蔵だった「画師草子」も信実筆と伝わる。美術学校にも「臨画」本(模写)がある。

税所さいしょ氏所蔵の釈迦も「名画」である。佐竹家の「三十六歌仙」は信実筆と伝えられているが、画風がまったく異なる。秋元家、蜂須賀家などに散在している「栄花物語」も、信実筆というが、「気力」が少なく、その「優美」な画風は、どちらかといえば、藤原時代のもので、「厳島絵巻」を描いた絵師たちの筆になるものだろう。もし、光長、慶恩を雪舟にたとえるなら、信実は雪村の位置にある、そんな画家だ。

この時代、巨勢家は名前は続いていたが、実力は発揮できなかったか、作品も遺っていない。

巨勢尊智(生没年不明)は、建久年間に活躍したらしい。宗久(生没年不明)も、尊智と同時代人という。源慶(生没年不明)も建久頃の人。彼は中将姫が作ったという言い伝えの当麻曼荼羅を補修し、新曼荼羅を描いたというが、「いまは見ることができない」。この新曼荼羅を、後に慶駿(1190〜1265/6)が補修した。

源尊(?〜1243頃)は嘉禎年間(1235—1238)の絵師である。

詫摩家からは、勝賀(生没年不明)が出ている。彼も建久年間の人だ。高尾山に春日、住吉二明神の絵がある。

恵日坊は、名を成忍じょうにんといった(生没年不明)。勝賀の子で、明恵みょうえ上人の弟子という。高山寺に明恵上人像がある。彼が描いたという文殊など、いろいろある。

彫刻では、運慶(?〜1223)をまず挙げねばならぬ。父を康慶(生没年不明)といった。康慶は藤原時代の仏師康助の子である。康慶作としては、興福寺南円堂の不空羂索観音。まずまずの出来である。興福寺中金堂には法相宗六祖の像がある。これも康慶の作らしい。康慶は、その当時は大いに重宝がられ、東大寺再建のとき造ったといわれるものが、たくさんある。

運慶は雲慶とも書く。寿永年間(1184—1185)に法橋に叙せられ、その後、法印の位を得、備中法印と号した。東大寺再建のとき、たくさんの仏像を制作した。また、陸中(岩手県)平泉中尊寺の薬師十二神将も作った。仏像を造る寸法を定め直し、「首」(頭部)は定朝の寸法より大きくなった。玉眼を入れるのも運慶が始めたことだといわれているが、玉眼は運慶以前にもある。

秀衡ひでひらが中尊寺を建てるときの運慶は、後世に創られた話だろう。

東大寺南大門の「二王」(仁王)は、異説もあるが、これは運慶の作としなければなるまい。

六波羅蜜寺ろくはらみつじの六体の観音は非常にいい。興福寺東金堂の維摩と文殊。京都の誓願寺の四天王。博物館の十二神将も運慶作と伝えられている。

安阿弥快慶あんなみかいけい生没年不明)は康慶の弟子で、当時は運慶と並んで人気があった。彼の作と伝わるものもとても多い。東大寺南大門の二王も快慶作という説がある。博物館にある阿弥陀仏も彼の作という。その当時、彼の作る仏像の「体」が美しいことが評判だった。

運慶と快慶の関係は、絵画における光長と慶恩の関係に似ている。

湛慶(1173〜1256)は運慶の子で、法印に叙せられて尾張法印と号した。東大寺の仏師だった。作品の多くは高山寺にある。建長3(1252)年、三十三間堂の仏像を作った。そのとき湛慶八十二歳。三十三間堂の本尊は「気力」という点では東大寺南大門の二王に劣るように思う。湛慶は絵も描いたそうだ。

康弁こうべん(生没年不明)。運慶の三男。一時、春日大社に属していたようだ。で、天燈鬼や龍燈鬼を作った。その模作が博物館にある。

康運こううん(生没年不明)。湛慶の弟で、法橋になった。別の名を定慶という。三十三間堂の二王は彼の作である。

康勝こうしょう(?〜1237)。運慶の子。作品も多い。法隆寺金堂の隅にある阿弥陀は康勝が作った。そのころ推古時代の阿弥陀が盗まれたので、代りに作ったのだという。その方法はなかなか考えさせられるものがある。というのも、推古仏を写して、鎌倉風の仏像にすれば、不釣り合いになってしまうから、衣紋は推古風にし、顔容の造りは鎌倉風にしたのである。光背に「承徳年中白浪云々」の銘がある。

陳和卿ちんなけい(生没年不明)は宋人で、東大寺大仏の首が火事で落ちてしまったとき、日本人の工人にはこれを修復することができなかった。そこで宋に依頼をして、陳和卿が鋳工や大工七人を連れてやってきた。頭部を彫ったのは快慶という。その頃は大掛かりな鋳造など久しくやっていなかったので、大仏を修復する技術も忘れられていたのだろう。奈良時代なら、こんな修理はかんたんにやってしまったことだ。陳和卿はこの修復事業で成功し、領地を伊賀(三重県)と播磨(兵庫県)などに下賜された。弟に陳仏寿(生没年不明)というのがいた。陳和卿は、将軍源実朝に言い寄って、大きな船を七里浜で製造し、宋に行こうとした話もある。

日本の彫刻は、この鎌倉の第一期で役目を終る。第二期は絵画が主流となり、彫刻の独立性を失ってしまった。さらに、禅宗がさかんとなって、禅宗は仏像を置く必要を説かなかったからますます彫刻が衰えていった。

その後、造像彫刻の気運は恢復する機会をみつけることができないまま、ずっと衰退の一途を辿っていった。この恢復は明治のいまやるしかない。

[(鎌倉時代の彫刻は)藤原時代の、すなわち定朝の方法に倣わず、独自な一派の発展をみせている。それは、定朝式と奈良式の二つを採り入れたからである。(運慶式とは、定朝式と奈良式の折衷である。)運慶はそのほか宋の方法も少し勉強し採り入れている。[高橋勇ノート]]

作品リスト

01「伴大納言絵詞」三巻 平安後期 出光美術館 紙本着色 31.5cmh 上巻825.3cm、中巻849.2cm、下巻919.4cm

02「平治物語絵巻」三巻 鎌倉中期 「三条殿夜討巻」ボストン美術館「信西巻」静嘉堂文庫 「六波羅行幸巻」東博    紙本着色 縦41.4〜42.7cm

03「アマゾン戦争」ルーベンス 

04「北野天神縁起絵巻」鎌倉初期 現在遺品20点以上

05「法然上人絵巻」鎌倉中期 「法然上人伝法絵」流通本四巻(嘉禎三年[1237]原本存在せず) 増上寺本 琳阿本 弘願寺本などあり(「法然上人行状絵図」四十八巻 鎌倉中期(14C)知恩院 )

06「年中行事絵巻」原本平安後期1157~79成立 寛文元年(1661)16巻

07「吉備大臣入唐絵巻」一巻 平安末鎌倉初(12C末〜13C初)ボストン美術館 紙本着色 322×2472cm(四巻に改装)

08「餓飢草子」(「餓鬼草紙」)平安後期 紙本着色 縦26.8〜27.2cm

09「病草子」 (「病草紙」) 平安後期 紙本着色 縦26.0cm

10「地獄草子」(「地獄草紙」)平安後期 紙本着色 縦26.0〜26.5cm

11「粉河寺縁起絵巻」一巻 平安後期 紙本着色 30.8×1887.7cm

12「彦火火見命草紙」三巻 鎌倉時代 明通寺(福井県)

13「普賢十羅刹図」(伝光長)平安時代=芦山寺本 鎌倉時代=日野原家本

14「三十六歌仙絵」二巻 平安末(13C前半)公任撰の三十六歌仙の肖像と詩歌 佐竹家本は大正8年分断 伝信実筆 良経書 紙本着色 36.0cm 上畳本(28.0cm)と共通の祖本があったか

15「稚児文殊」

16「聖徳太子絵伝」兼輔「聖徳太子伝歴」の絵画化 四天王寺(宝亀八年[771]現存せず)延久元年(1069)秦致貞筆

 法隆寺絵殿障子絵(現東博) 橘寺 鶴林寺  堂本家本は絵巻十巻(正中元年[1324]の奥書)

17「小柴垣絵巻」(伝慶恩)一巻 所在不明

18「当麻曼荼羅」綴織(蓮糸曼荼羅)8C(根本曼荼羅)→観経変相図 仁治三年(1242)貼装 延宝四年(1676)剥がして掛幅装 398×396.9cm 鎌倉以降転写本(禅林寺本 文亀本)縮図本あり

19「春日曼荼羅」七枚 現存せず

20「住吉明神図」所在不明

21「不動縁起」(「不動利益縁起」)一巻 鎌倉末期 大正末現在青木幾太郎蔵

22「地蔵縁起」=「矢田地蔵絵巻」「矢取地蔵絵巻」「星光寺地蔵絵巻」「岩船寺地蔵絵巻」など 地蔵菩薩霊験記として東博本 法然寺本 フリア美術館本 妙義神社本etc.

23「能恵法師絵伝」鎌倉中期(伝行長筆寂蓮書)一巻 広隆寺

24「荏柄天神縁起絵巻」鎌倉中期 紙本着色 一巻 前田利為蔵 縦約30cm 奥書に元応元年(1319)「右近将監藤原行長」とあるとのこと

25「田原藤太草子」(「俵藤太草子」)伝長隆筆 一巻 徳川家

26「西行物語絵巻」鎌倉中期(13C後半)徳川美術館(32.0×603cm)万野家(32.0×1176cm)各一巻 紙本着色 久保家本 三巻 紙本着色 釆女本(原本海田釆女佑相保筆)の模本=宗達 寛永七年[1630]他

27「百鬼夜行図」室町後期(16C前半)大徳寺真珠庵 紙本着色 33×746cm

28「鞍馬縁起」

29「法然上人像」鎌倉中期(13C中頃)二尊院 紙本着色「足引御影あひびきみえい」104.2×78.7cm 「鏡御影」(金戒光明寺)も同図容

30「源頼朝像」平安末〜鎌倉初(12C末)神護寺 隆信筆(『神護寺略記』) 絹本着色 139.4×11.8cm

31「文覚像」鎌倉前期(神護寺蔵詫間俊賀筆「真言八祖像」と近い画迹) 絹本着色 112.7×100.0cm

32「平重盛像」平安末〜鎌倉初(12C末)神護寺 隆信筆(『神護寺略記』) 絹本着色 139.4×11.8cm

33「華厳縁起」(「華厳宗祖師絵巻」)六巻 鎌倉初期(1221〜32頃)高山寺 新羅僧義湘(625〜702)と元暁(617〜686)の伝記 明恵上人詞書 「元暁絵」は成忍筆 紙本着色 縦31.6cm

34「絵師草子」鎌倉中期(14C前半)御物 紙本着色30.0×790.3cm

35「釈迦」?

36「栄花物語」(「駒競行幸絵巻」)鎌倉後期(「こまくらべの巻」の絵画化)紙本着色 縦34cm 静嘉堂文庫(長156cm)久保惣美術館(長380cm)各一巻

37「厳島絵巻」

38「新当麻曼荼羅」→18

39「春日明神」「住吉明神」

40「明恵上人像」鎌倉初期(13C初)(華厳縁起)恵日坊成忍筆 高山寺 紙本着色 145.2×58.2cm

41興福寺南円堂「不空羂索観音」鎌倉前期 文治五年(1189) 康慶 坐像 寄木造漆箔 玉眼 336cm

42興福寺中金堂「法相宗六祖」神叡(〜737)玄昉(〜746)善珠(737〜797)行賀(729〜803)玄賓(〜818)常謄(740〜815) 坐像 寄木造 彩色玉眼 73.3〜84.8cm

43平泉中尊寺「薬師十二神将」

44東大寺南大門の「二王」(仁王)(金剛力士像)鎌倉前期 建仁三年(1203)運慶快慶各一体作 寄木造 阿形;836.4cm 吽形;842.4cm

45六波羅蜜寺ろくはらみつじ「六体の観音」?

46興福寺東金堂「維摩」「文殊」鎌倉前期 建久七年(1196) 寄木造 康運こううん作 彩色 法橋幸円(像内朱書銘)

47誓願寺の四天王?

48東博「十二神将」?

49東博「阿弥陀仏」?

50三十三間堂=蓮華王院「本尊千手観音坐像」「千体千手観音」寄木造 本尊;334.8cm 千体千手観音;170〜190cm

51「天燈鬼」「龍燈鬼」鎌倉前期 興福寺復興の折、西金堂須弥壇に安置(現国宝館) 建保三(1215)康弁作、檜材、寄木造、彩色、天燈鬼;78cm、龍燈鬼;77cm

52法隆寺金堂の隅にある「阿弥陀三尊」鎌倉中期 寛喜三年(1231)銅造 鍍金 阿弥陀;64.6cm 観音;55.4cm 勢至は現代の作

53隆兼の「春日験記かすがげんき」(「春日権現霊験記」)二十巻 鎌倉後期 絵所預高階隆兼筆 覚円法印 詞 延慶二年(1309)三月奉納 絹本着色 御物 縦41.5cm

54円伊の「六条道場絵巻」(「一遍聖絵」十二巻 京歓喜光寺(七巻のみ東博)絹本着色 縦38.2cm、正安元年(1299)の奥書に「画図法眼円伊」 14C模本)