岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳

推古時代 1

すでに述べたように、推古以前の時代、日本文化の基礎をつくったのは、太古大和民族の自然な勢いによってだったが、推古時代に入ると、急激に文学美術は華やかさを増してくる。そして、その活発な活動を実現させたのは、ほかならぬ外国との交流である。日本人はもともとから優美な性質を持っている人種だったが、外国との交通が活発になる以前は、素朴で淡泊な境遇を作っていた。応神天皇(5世紀前半の天皇)の頃から外国の工芸の秀れているのをみて、その精美さを取り入れようとするようになり、その一つの成果が、推古時代の文学美術であることはまちがいない。

この外国との交流による刺激は、朝鮮を経て中国より輸入したもので、その意味では、日本の美術の要素と発展は、そのほとんどが、外国からもたらされたといってもいいすぎではない。こんな言い方をすると、わが国の美術は、はなはだ価値がないように聞こえる。しかし、外国からもたらされたものであっても、これを充分消化すれば、それはもう、その国のものなのである。だから、このことで恥じ入る必要はまったくない。極端な考えをする人のなかには、当時の美術をことごとく中国のものだという人もいる。しかし、社会が発展していくことを考えれば、そんな考えは成り立たないだろう。

一方、日本中心主義の人は、当時の美術のすべてを日本がつくったと主張して、明らかに中国からきたものも、日本固有の作だとする。外国文化を輸入して、自分の文化の糧としたことは、そんなに恥じることではないのだ。西洋の文明だって、その元はギリシァ・ローマから生まれた。彼らは、それをすべて自分の文化として議論している。われわれだって隋唐の文物を模倣し、これを消化して自分の文化にした。これを自分たちの文化として論じて、いっこうにかまわないのではないか。

ところが、なんでも日本にあるものは、中国産だとしてしまうのは、真に歴史を研究する者がとる態度ではない。推古時代の中国美術のレヴェルの高さは、その当時の日本にとって、まったく手が届くものではなかった。人びとは、いまだ粗朴な生活をしていた。日本の原始時代、日本文化の曙の時代は、すでに中国は漢の時代、輝かしい文化を作っていて、その影響は朝鮮に及んでいた。

古代朝鮮が文物制度を整備し、文学美術に見せていた高さは、応神天皇の時代の日本の姿より、ずっと優れたものだった。だから、当時の日本人は、朝鮮を宝の国と思って見ていた。朝鮮の船が漂流してきたら、そこには宝が積まれていると思っていたものだ。この漂流した船がもたらす宝を「浮宝」と呼んでいた。神功じんぐう皇后は、新羅を攻めるとき、西の宝国を征服するといって出かけたし、帰ってきたとき、80隻の船に金銀綾羅(金や銀で刺繡したり、金や銀の糸を使った綾織りといううすぎぬ)を積んで貢がせたと記録にある(『日本書紀』)など、当時の日本人が朝鮮を宝の国と見ていた証拠である。

応神天皇の時代には、百済の融通ゆうずう王が127県の秦氏(『日本書紀』では120県)を日本に送り、その工芸を伝え、仁徳天皇は、この秦氏を日本の各国に分置し、蚕かいこを育てて絹を献納させた。雄略天皇のときは、再びこの秦氏を召集している。いろんな職種の工人がみんな朝鮮や朝鮮経由でやってきたのだ。中国との関係は、天皇の代が改まるたびに親密度を増し、三韓征伐は、日本の実力を朝鮮にみせつけた。そのころ、朝鮮にあった中国美術のほとんどが日本にもたらされているとみてよいのではなかろうか。

大伴狭手彦おおとものさてひこ(6世紀中頃の武将)が百済に撃って出たとき、百済王は城壁を越えて逃げたので、狭手彦は王宮にある珍宝をたくさんみつけ、日本に持って帰ったという。今日、推古以前の時代に属する珍しい精巧な美術があるのは、ひょっとすると、この時のものかもしれない。

こうして中国の美術が新羅・百済・高句麗などを経由して日本へ入ってきた。しかし、推古時代になると、直接中国から輸入しようという欲望を持つようになり、使者を中国(隋)に遣った。古代日本の威力が、三韓を圧したことが、日本の当時の開化に大いに役立ったことはいうまでもない。三韓征服がなしえていなかったら、中国との直接交流は不可能で、とすると、推古の華やかさは見られなかったかもしれない。

さて、推古時代、中国の文物を輸入できるようになったが、その中国の文化制度をなんでもかでもぜんぶ日本に採用したわけではない。充分な吟味と選択が行われたのである。つまり、あの英傑厩戸皇子うまやどのみこがこの中国との交流の中心的存在として、中国文物の選択輸入に大いなる働きをした。

衣冠の制度、憲法の発布など、中国からたくさん教わったが、日本が吟味したところは大きい。憲法の各条は、仏教信仰と儒教を軸に立て、あの時代の情況に最も適合した条文に仕上げている。その考え方の緻密さ、主導者だった厩戸皇子が学問に秀でていただけでは不可能で、臣民や人民が皇子の考えを理解する能力をもっていたからにほかならない。(聖徳太子の作った憲法の条項には、仏教を信ずべしとあるが、ヨーロッパでも古代の憲法には、宗教信仰の条項は入っているから異とする必要はない。)

仏教というのは、非常に高度な思想の宗教なので、その教えをじゅうぶん理解することができないで、せっかく西からもたらされてきたのに、通過させてしまった国もあるくらいだ。しかし、日本ではその深意をよく理解し、その教えを実践した。その当時の日本人の知識のレヴェルはすばらしく高いものだった。服装もいずまいもきちんと秩序づけられていたし、法律も整備の緒についていた。まもなく結実する大宝律令たいほうりつりょう(701年)の芽生えは、ここにあるのである。

建築も技術が進展し、寺院が次々と建てられた。小野妹子おののいもこ(生没年不詳、推古時代の廷臣)が隋から帰ってきたとき(妹子は推古15[607]年、16[608]年の二度、渡隋)、船や馬を飾り立てて歓迎したということや、伎楽ぎがくが伝えられて舞踊や音楽も盛んになったことなど、伝えられているが、文化はいろいろな面で豊かになってきたのである。現在の法隆寺に遺っている美術品など、わずかしか遺っていないのだけれど、当時の文化の様子を想像するよい材料である。

では、こうした文化の発展の原因とはなんであったか。いうまでもなく、日本が中国の文化を輸入して消化し、自分のものにする力をもともと持っていたということである。単に、高度な中国文化が押し寄せて日本の文化を開明させたのではない。

中国の文化を輸入した国は日本だけではない。中国北方の民族もつぎつぎと中国文化を受け容れていった。しかし、その受け容れかたは、ただ外から侵入してきたというだけで、民族内部に受け容れる根拠がなかったから、その高度な文化は結局消滅してしまった。日本では、この受けいれが心の底から内部の欲求に基づいていた。だから、人びとはそれを消化する準備ができていたといえよう。

文学や宗教の思想が未発達だったら、美術も中国のように精度の高いものにはなりえなかったろう。日本に文学が朝鮮・中国から輸入されたのは、応神天皇(5世紀)以前のことと推測できる。日本はそのときすでに、三韓や中国と交通し、日・月・天・地のような簡単な文字は知っていたようである。天日槍あめのひぼこ(新羅の王子、垂仁3年渡来と日本書紀にある。古事記には「天之日矛」、景行天皇の頃渡来)が来たときなどにも、漢文をもたらしているはずだ。神功皇后が使いを魏の国に遣ったとき表文ひょうぶんをもって行かせたことも記録に遺っている。文字が上古の日本にあったという証拠である。その後、応神天皇の時代に、王仁わにが百済からやってきて、経書けいしょ(四書五経)を研究する学問(経学)を教え、日本に経学の伝統を開いた。

漢字が初めて使用されたのは、漢字の音を仮りて日本やまと言葉を書いたところからだろうが、継体天皇(430—531)の時代には音博士というのがいた(初出は持統5(691)日本書紀)。崇峻すしゅん天皇(?—592)の時代に観勒かんろくという百済の僧がやってきて(『元享釈書げんこうしゃくしょ』によると、推古10〔602〕)、わが国の文学の進展に力を与えてくれた。敏達びだつ天皇(538−585)の頃には、むつかしい表奏文を解読する史官もいた。

漢字を理解できる日本人が増えていくについては、欽明天皇(?—571)のとき、多数の仏教の経巻や僧侶が百済からもたらされたことも大きい。経文はいうまでもなく漢字で書かれているので、いよいよ、漢字を理解する必要は高まったのである。この頃の文字と思われるのが、伊予の石碑である。

日本に入ってきた思想の第一に挙げるべきは儒教で、この教えが日本社会にもたらしたものは大きい。その次に仏教である。仏教は儒教と並んで普及し、いろいろな解釈流派が生まれた。

そういうわけであるから、日本では宇宙や世界を理解するのに一つの思想に凝り固まってしまうことがなかった。いろんな考えかたが、その知力を養ったのである。

どこの国をみてもいいが、二つの宗教が同時に進行している国というのは世界中をみわたしてもない。ところが、日本では不思議といえば不思議だが、今日にいたるまで、儒仏は並立して共存している。このことは、逆にいうと、日本人の信仰心の薄さを非難することにもなる。しかし、このことによって、広く物の道理を考え知る力を持ち得たことは、はかりしれないのである。一つの宗教しか信奉しない国に往々見られる偏狭さがなく、昔からその政治は儒教を本とし、人の心は仏教で支えられているという日本のありかたは、他の国にはみられない。

なぜそういうことが可能だったのか、日本民族の純粋さによるのか、境遇環境がそうさせたのか。人種の固有の性質だとしてもなぜそうなのか、いまだによく判らないのだが、とにかく、二つの宗教が古より共存してきたことは、結果として大変喜ぶべきことであった。昔から仏教間の争いは、日本にあってもときどき見られるのだが、儒教と仏教との争いとなるとそんなにはないのである。


古代の文化の原動力を改めて挙げておく。まず、儒教。そして仏教である。仏教は直接美術に関係する思想ではない。しかし、美術の「霊妙」さ、その気品ある美は、推古時代以来、徳川時代まで、そして今日に及び、すべて仏教に関係している。つまるところ、日本美術の特質を形づくったのが仏教である。もし、旧神道派の物部もののべ一族が、仏教派の厩戸皇子や蘇我一族を征服していたならば、日本の美術は、全く別の展開をしていただろう。あるいは、もし、古代中国から美術が伝来することがなかったならば、推古美術の開花はもっと遅くなっていたかも知れない。推古美術は仏教とともに興り、空海時代(平安初期)もまた仏教(密教)の勢いが盛り上って美術の花が咲き、足利時代の美術は禅宗がその役割を果した。その他、日本の中で独自な発展をみせた仏教宗派もみな、美術の展開発展に大きく関わっている。

仏教は、こういう次第で、美術に深く関わっているので、仏教の起源について知っておくことは必要だと思う。

仏教の起源については、やはり、いろいろな説があるが、要約すれば、約2500余年前、インドに起った宗教であることは間違いない。とはいえ、そのとき、突然仏教が発生したというのではない。それ以前にバラモン教というのがあって、バラモン教のいろんな説が仏教が生まれる準備をしたのである。そして、仏教が登場すると、インド美術の様相は一変した。現今いまインドにある美術のほとんどは、仏教成立以後のものだといわれている。

仏教は、インドを席巻したが、400余年後、仏教に反対する宗教が起こった。そのために、いまインドでは南インド(セイロン)と北インドに遺っているだけで、教えは中国へ移動した。仏教が中国に伝わったのは、漢の時代明帝めいてい(太和年間227〜232A.D.)の頃で、だんだん拡がって朝鮮に入り、日本に伝わった。漢の明帝は、夢に金人を見て、インドに聖なる仏がいることを知り、使者18人あまりをインドへ遣わして仏を迎えたという。インドからはそのとき、僧侶や使者が仏像、駱駝と共に献納されたと伝えられている。

その頃は、中国と西域の交通が開けたばかりの時である。日本ではもともと「国神くにつかみ」といわれる古神道の神々を信仰していたが、そこへ仏教が入ってきた。古い神道には緻密な教義理論はなかったが、信仰する心はつよかったので、仏教が入ってきても反対する人が多かった。他の国をみると、高度な宗教が入ってくると、土着の宗教は征服されている。ところが日本ではあの当時、物部もののべの大臣らは自分たちが信仰する神々の宗教を決して譲らなかった。これは、古い神道信仰になにか確固とした主義・主張があったからにちがいない。古い神道の信仰の知識の高さは、キリスト教〔耶蘇やそ教〕が入ってくるとすぐに改宗させられてしまうような未開社会の宗教と比べものにならないものであったことが推測される。

いずれにせよ、最後に仏教派、蘇我馬子そがのうまこや厩戸皇子が勝利し、日本の仏教の隆盛期を迎える。それより以前、すでに司馬達等しばたっとが渡来して、奈良に草堂を建て、仏教を祀ったという記録もあるから、こちらの方が日本における歴史の最初に記録された仏教の始まりということになる。

その後、欽明13(552)年、百済の聖明王が仏像や経巻(経論)を献納した。これが公に日本に仏教が入った始まりである。この贈り物を受けるか受けないか、宮廷では激しく議論されたが、ついに受けると決まって、それを受け容れる寺院や仏具の準備製造が急務となった。いま、法隆寺にある仏像仏具建造物は、このときの勢いによって造られたものとみるべきである。

十七条憲法(604年聖徳太子が制定した日本最初の成文法)の第二条には、三宝さんぼう(仏と法と僧)を敬うべしと記され、百済から恵信(恵総の間違い?)、観勒といった高僧がやって来た。その頃、寺院は45、僧尼の数597人だった(日本書紀には推古32[624])に調査を行い、寺46所、僧816人、尼569人と記録)。ここにいたって、僧尼の制度も整備し、(観勒を僧正そうじょう、鞍造くらつくりの徳積とくしゃくを僧都そうづ、阿曇某あずみのぼうを法頭ほっとうに任命)仏教を奨励する政策を進めている。

こうして日本全土に仏教信仰が拡まった。

推古時代の大勢を眺めてみると、一方に中国文化を模倣しようとする勢力が興り、儒教と仏教が、その支えとなった。この勢力は、しかし、仏教に依存するところが大きく、儒教に頼るものは少なかった。それが推古時代の美術を、古代中国の影響を受けた仏教美術となさしめた理由であった。


中国美術の起源は、これもよく判らないが、黄帝こうていの時に、史皇しこうが画を考え出し、蒼頡そうけつが文字を創案したのが始まりといわれている。いま、中国の歴史を振り返って勉強してみると、字と画とは、深い関係があったことが判ってくる。大昔文字は、必ず象形文字として始まる。それから変化進展して片仮名のようなもの、漢字のようなものになっていく。そう考えるならば、始まりの始まりの象形文字のときは、字と画とは区別がなかったかもしれない。一説では、史皇と蒼頡は同じ人物だというのもある。そうかもしれない。

まったくのところ、中国では象形文字の思想は長く、現在にまでいたっており、漢の頃(1世紀前後)までは書と画の区別はなかった。ものを形容するのには三つの方法があって、それぞれ「図理、図識、図形」といったことが古い文献に説かれている。「図理」とは八卦(はっけ)のようなもの、「図識」は文字、「図形」は画で、この三つが人間の思想を表す方法で、東洋の絵画は、その始めより書と同源だという考えである。それは今日まで及んでいる。

西洋では、ギリシァをみても判るように、彫刻が主流で、絵画は彫刻に従って発達している。そのもっと始まりは絵が先か、彫刻が先かこれは判らない。ともかく、ギリシァ時代は、彫刻が主流で、絵画は彫刻らしく表現しようとして陰影を付けたりしたのだ。14,5世紀になってようやく絵画は彫刻から独立することが出来た。したがって、絵画は、西洋では彫刻とともに歩み、展開し、東洋では書とともに進展していった。それが、東洋の絵画は、西洋の陰影の代りに、線の肥痩をもって表現手段とする理由である。中国の諺に曰く、書をよくする者は画をよくす、と。ちょっとことわっておくが、呉道子はその例外の大家である。が、ともかく、こんな諺にもあるように、筆力というものは東洋絵画の基本なのである。これは、古代から現在まで一貫してそうである。

周の時代(紀元前5世紀頃)、「六書」(漢字論、なお漢代にも「六書体」論があり、絵画との関係では、漢の「六書体」が重要)に、すでに画が論じられ、舜(しゅん)帝のとき、官位服制を彩色で決めた法が制定され、これが色を塗る起源となったという。

ヨーロッパで現今行われている社会学(人類学・民族学を間違えたらしい)は、ヨーロッパ諸国や南洋の未開国を研究対象にしてなにやらいっているが、東洋の家族・社会の組織構成は、西洋とは非常に異なっている。

ヨーロッパを基準にして物事を断定し、論じるのは片手落ちもはなはだしいと思うが、ま、この問題は、そうかんたんにすますわけにはいかないので、さておいて、史皇の描いた絵がどんなものだったか、これはいまや知りようがない。夏の時代(紀元前21〜16世紀頃)の禹王は、九州の国の長官牧ぼくに、九鼎ていという銅器を鋳造させたが、その九鼎には山川、鬼神、すべての図が描き出され、天下の地理が示されていたという。しかし、当時の人がいう「画」とか「図」が今日の眼からみてどんなものだったか。古代原始人の画は、模様といってもいいもので、「模様」と「画様」(絵画)との区別できないようなものだったろう。

ではなぜ模様と絵画の区別をしなかったのか。区別できるだけの脳が発達していなかったのか。あるいは、そういう区別をすることを好まなかったのか。よくは判らない。

中国古代の鼎を見ると、模様のようなものがびっしり鋳出されている。あるいはこの模様のようなものが山川鬼神を表していたのかもしれない。周の時代(1100B.C.頃〜256B.C.)の鼎は、大体にして祭器で模様ふうの図柄ではあるけれども、形態は発達して、図柄も知識を伝え、道徳を教え、寿をことほぎ、邪気を払うための寓意をこめた絵で、じつに力強く、製作も大変だっただろうと思われる。

昔、悪賢い天子がいて、財を貪り、食を饕むさぼって民衆に嫌われた。彼のことを後に饕餮とうてつと呼んだのだが、古い鼎にはその饕餮の頭を断裁した形を鋳出して、人びとの貪欲どんよくを戒いましめている。杯を牛の角で作っているのなどは、さしずめ、酒の恐るべきは牛の角に触れるようなものだと譬えて、酒乱を戒めているのだろう。

鼎は帝王の宝器なので、これがあるところは、天子の住居があったところである。殷いん(紀元前16〜11世紀頃)の湯とう王の時代には、鼎を持っていた高官もいた。

鼎を鬼神の働きと同一視した説話もあり、鼎は霊異的精神が宿っている青銅器だった。

夏から殷(商)にいたる時代はまだ粗っぽく、周の時代になって文字や文も生まれ、文化は精密になってきたと昔からいわれているが、一説には、夏の時代にすでに象眼技術があった、そして周末にこの技術は複雑だが粗雑になった、という。全体としては夏殷周と進歩してきたというべきであろう。陶器なぞは太古からある。陶器は人間が最もかんたんに作ることができる。神農しんのう(中国古伝説の最初期の帝王)の時代にもう焼物は作っていたというし、黄帝(同じく古伝説上の帝王)の時代にいたってさらに盛んに作られるようになったという。また、燧人氏すいじんし(同じ古伝説上の帝王)も陶器を作ったというから、中国古代工芸は、早くも中国国土の生まれるとき、その「原素」を備え準備して、夏殷に芽を出し、周に入って花を咲かせたと考えられる。

いずれにしても、中国の美術を議論するのはなかなかやっかいである。というのも、秦の始皇帝のとき(紀元前221〜206年)、周代のものは破壊され、漢になってそれを復元しようとしたが、誤りも多かったからである。後の時代になって発掘したものを周代のものといっているが、じつは漢代初期のものであることも多い。

周は、中国文化の源泉である。漢はその周の勢力を集め直したに過ぎない。それらが六朝(後漢滅亡から隋の統一までの六王朝の時代、220〜580A.D.)に入って選択され、唐にいたって大成する。

中国文学に関していえば、周代に隆盛を極めている。孔子、孟子らは周末の大家だが、ほかにも多くの学者が現れ、中国人はこの時代を文学最上の時代と誇っている。

では、その文学隆盛期に美術はどんな様相だったか。いまだに模様だったか画様だったか。『孔子家語』(孔子の言行を誌した書、筆者不明、成立年不明、現在最古本は三国時代〔後漢滅亡220A.D.から魏・呉・蜀が鼎立した時代〕)には、「子(孔子のこと)が明堂めいどうに描かれている桀紂けっちゅう(夏の桀王と殷の紂王のこと、極悪無道の王の代名詞になる)の像を見て、その貌かお、一方は悪人だが、もう一方は善人のようだといった」とか、「周公旦しゅうこうたん(周の文王の子)が、武王の子成王を抱いてまわりの諸侯に参拝させている図がある」とか記されている。ということは、その絵は、孔子が絵の図柄を観て、そこに描かれている人物が尭舜(二人の古代の理想的帝王の名)とか桀紂とかを識別でき、周公が成王を助けたことが判るように描かれていたものであったことを物語っている。

それらはどのようにして描かれたのか。「絵事かいじは素より後にす」と『論語』にいっているところをみると、推古時代の絵のように、白い粉(素)を下地に塗って、その上に描いたらしい。『荘子そうじ』には、「宋の元君が画人を招いて絵を描かせた。画家たちは描く順序をお互いに譲り合ってなかなか前へ出ようとしない。と、一人の画人が無作法に前へ進み出し、衣服を脱ぎ、元君の前に坐って筆を執った。王は、この姿を見て、これこそ真の画家である、といった」とある。これは、当時の貴人が絵を描くということはどういうものかを観る眼を持っていたことを物語る話である。『韓非子かんぴし』には、「狗馬くば(犬や馬を描くの)は難かたし、鬼神は易し」とある。当時の人が、どんな絵が描き易いかを議論したのである。もちろん、彩色画も製作した。

こうして、中国古代の絵画も急速に進歩を遂げたのだったが、一度、秦の時代に衰退期がある。別の説によると、それまでに衰退していてその崩れたのを一掃したのが秦代であるともいう。ともかく、衰退した文化を補強したのが漢代である。漢代がやったことは、ひとえに復古である。もともと、復古というものは貯めることに力を尽くすに留まり、その精神は生き生きとしていない。古代中国には一種独特の進化力があり、漢以前にすでに、いろいろな国でその文化を燦爛と賑わせていて、その国を一歩出るとまったく別世界の文化が栄えていた。だから、ある国を占領すれば、全国を占領したことと同じくらい大きな事件となったのだろう。秦の始皇帝は周を征服して周文化を破壊しようとした(「焚書抗儒ふんしょこうじゅ」213B.C.〜214B.C.)が、その他の国の文化全部を火にすることはできるはずもなかった。だから、咸陽かんようという一都市(ここには20万人の富豪があつまっていたこともあった)の文化を焼き尽くそうと儒家の経書と詩書を焼き、儒家を生き埋めにしたとしても、まだまだ、完全に焼き尽くしたことにはならなかったのはいうまでもない。

その秦の破壊を逃げたところから漢の復古が始まり、その意味で、漢は中国芸術の始まりといってもいい。

それに加えて、漢代の人びとの生活は非常に贅沢であったので、絵を楽しむことも盛んで、この時代から美術を系統立てて論ずることが出来るくらい資料も遺っている。とはいえ、漢代の絵の作品が遺っているわけではない。唐の頃(628〜907A.D.)までは漢代の絵の作品が遺っていたようだが、現在は全くない。ただ書物に記録されている作品がじつに多くあるのだ。漢武帝かんのぶていは書画を「秘閣ひかく」(宮中の宝物や書画を秘蔵する書庫)に集めたというし、明帝めいていはみずから絵を描き、いい絵を探して集め、董卓とうたく(後漢末期の武将)の叛乱があったとき、時の皇帝少帝は書画を袋に入れて逃げたという。その袋を乗せた車は70余を数えたともある。

さぞかしたくさんの書画を秘蔵していたのである。麒麟閣きりんかく(前漢の武帝の建てた高殿)に功臣の画像を掲げたこともその一例である。当時の文章に赤や青の文字がよく出てくるのも彩色画が行われていた証拠である。

いずれにしても、後の時代にまで遺っているのは、石刻か鏡の背面にその一端を伝えるだけである。

画家の伝記も史書には記録されているが、作品は遺っていないから論じようがない。

鏡は日本にも伝わっていて、実物を見ることができる。石刻では、『金石索』に縮図が載っている武梁祠、武氏祠ともいうのがある。絵の様子は、法隆寺にある玉虫厨子と似ている。この二つ、どこかでつながっているはずだ。というのも、玉虫厨子は、隋時代の様式といわれているが、それは漢代の絵の遺風であることを心得ておくべきだからである。武梁祠に関する遺品もいくつか現存し、伝わっているらしいが、中国の考古学はまだ未開拓なので、材料が得られない。いつか、われわれが中国へ行って研究すれば、このあたりのことももっと明らかになってくるだろう。

武梁氏の祠は後漢の建和元年(147A.D.)に建てられたもので、石祠の縁にいろいろな彫刻がある。いまいう歴史画のようなもので、尭、舜、黄帝をはじめ、あの孔子が明堂で見たと同じような図柄ではないかと思われるもの、また、荊軻けいかが秦の始皇帝を暗殺しようとする図、仙人の図、鰐と龍との中間のような動物などなど、30余点の図が彫られている。後漢の頃は、この種の祠がいくつも建てられたようで、後漢の王文考が霊光殿の賦というのを書いている(『文選』)。それによると、その霊光殿は武氏祠と形態が全く同じであり、この種の墳墓が漢代に広く普及していたことが判る。

王昭君(前漢の官女だったが匈奴の王妃にさせられた)とか、麒麟閣とか、未央宮びおうきゅう(長安にあった漢の宮殿)とか、甘泉宮(同左)とか、いろいろ当時の秘話や逸話が建築物に描かれ建物を装飾したらしい。名臣功士の誉れを後世に伝えるための絵も壁画にされた。これらは、いまでいう歴史画で、ちょっとした大作だったのである。こういう美術のありかたは六朝時代にはいると衰えをみせ、唐に入って再び大成した。そして、日本の推古時代の美術は、いままで語ってきたような漢、六朝美術の影響の下に誕生したものである。玉虫厨子の絵がここにある、参考のために、よく見給え。

以上で、中国美術史の漢代までを語ってきた。要するに、夏、殷を経て周に入って絵と模様とを区別するようになり、精巧になってきたが、かえって錯雑となり、秦の焚書で葬られて漢に入って復興し、漢文明というものをつくり出したというわけである。しかし、漢文明は、漢時代固有の文化ではなかったから、めざましい進歩はしなかった。漢が亡んで六朝となり、六朝にあって唐宋文化の源泉が湧き出し始めるのだ。

六朝とは晋、宋、斉、梁、陳、隋の300年をいい、各王朝が興っては亡び、まことに錯雑な時代なのである。南北朝などというが、南の方は中国本州人が陣取り、北は夷狄(いてき)が侵犯して、二つの国が並立していたのである。もちろん、文明の性質もまったく異なる。

情況は、こんなふうに錯雑であったが、そう言う情況が思想の変化の原動力となるのである。以前から中国文化といえば、一定不変の国のように見られがちであるが、そういう単調さを破った六朝など、中国史のなかで非常に重要な時代である。六朝の前に春秋戦国時代(770〜221B.C.)があり、哲学思想が成熟し、それを六朝が継いで唐宋の源泉をつくった。六朝が成し遺した事蹟は小さいかもしれないが、文学美術に関しては大きな働きをしている。杜子美としび(杜甫、712-770、盛唐の詩人)、李太白りたいはく(李白、701〜762、同じく盛唐の詩人)が新体の詩を謡い、顧愷之こがいし(341〜402、東晋の画家)や呉道玄ごどうげん(?〜792、盛唐の画家)らが精妙な美術の技を極めたのも、この300年間の風雲惨憺のなかで養成されたその結実なのである。その混乱状態の活溌さこそ、春秋時代以来、かつてなかった混沌の時代といってもいい。夜に鶏の鳴き声を聞いて枕を蹴って飛び起きる、そんな時代である。ほととぎすの鳴き声を聞いて、天下の大勢を知るとか、こんな、まるで小説のような人びとの動きが、この時代の思想をつくっていったのである。

この時代は、いってみればヨーロッパの中世暗黒の時代に似ている。ヨーロッパ近代の歴史はこの中世暗黒の時代から生まれてきたのだが、中国六朝の時代もそんな混沌暗黒の世なのである。

当時の貴族は贅沢をきわめ、その上惨虐。たとえば陳の太子のこんな話がある。——彼は宮殿を出るときはいつも騎兵を従え、武器を持ち、人影がみえればただちにそれを刺し殺したという。なんとも惨虐である。隋の煬帝ようだいも、贅沢三昧をやったが、そのおかげで美術が奨励され、栄えた。こんにち知られている有名な人物も、美術を愛し、斉・梁・陳の国王もたいてい書画を集めた。晋は、劉牢之りゅうろうし(東晋の武将)の乱で、多くの書画を失ったけれど、なかにこんな話がある。大司馬という軍事関係の長官の位にあった桓玄かんげん(東晋の宰相、369〜404)、彼は、なかなかのたちの悪い政治家だったが、書画を愛する気持ちは非常に強く、敵地を侵略したら、まず書庫を開いて書画を奪い、それどころか書庫を所蔵している者がいると聞くとそれを奪いとったという。顧葢之が持っていた絵なども預かるといって持ち去り、返さなかったというし、ついに晋の安帝を攻めて帝位まで奪い、その珍宝をことごとく自分の宮殿に収蔵した。彼に服従を誓う将軍が出て来たら、許してやって、天下の名画を列ねた自分の部屋へ招いたという。

こんな話は、この時代、いかに美術が珍重されていたかを物語る。桓玄が打ち負かされたとき、宋の高祖は、桓玄のコレクションを自分の宮中の庫に収め、また斉の高帝がそれを奪い、高帝は名品を選んで目録を作らせた。

このころまでは、時代の古さが優劣の基準になっていて、古ければ古いほど尊重され、新しい作は軽く扱われていたのだが、高帝は作品の出来映えで優劣を定めようとし、同時代の大家47人に47の等級をつけ、340余巻を集め、政務のかたわらこれらを観るのを楽しみにしていたという。

梁の武帝も珍宝を愛した。書画を民間に探し求めて古今の書画を集め、自分でも絵を描いた。その部将の候景が反旗を翻すとき、武帝は秦の始皇帝が書画を焼く夢を見て、悪い前兆を予感したという。こういう夢で政情を予測する話があるというところに、当時の人がいかに寝ても覚めても書画を重んじていたかが判るというものだ。

その後、予感通り、候景が攻めてきて、武帝のコレクションに火をつけた。

北魏(西魏の誤り)が梁を征服したとき、梁の元帝は降伏するに当って、書画珍宝の奪われるのを惜しみ、24万巻(『梁書』では14万巻)を積み上げ舎人に焼かせ、みずからもその火中に身を投じて死のうとしたという。一人の官女がそれを止めたのだけれど、帝はそれをくやんで、剣を抜き柱に斬りつけ、儒雅の道ここに終ると刻みつけたという。この話も、生身の肉体と書画を同一視する思想を物語るものである。いかに書画が重んぜられたか、このあとまだ話がある。この燃える24万巻の現場へやってきた敵将(西魏の将軍)が、火の中へ飛び込んで書画を救い出そうとしたのである。400軸ばかりが灰とならず救い出された。それらは長安へ運ばれた。

陳の国も、また書画を求める気運が盛んだった。隋が陳を滅ぼしたとき、隋は800巻を回収したという。隋の皇帝煬帝は、観文殿という宮殿の背後に二台の蔵を建て、東の蔵を妙楷台みょうかいだいと呼び、天下の名書を収蔵、西の蔵を宝蹟台ほうせきだいと名づけ、天下の名画を収納した。彼は狩りをするときも書画を持って出かけた。あるとき、揚子江を渡るとき、船が転覆して書画の大半が水の底に消えたという。皇帝が死んだ後、彼のコレクションは蒙古の宇文化及うぶんかきゅう(隋の叛臣)が持っていったが、唐の時代になってまた奪い返し、唐の都へ戻った。


こんな次第で、六朝の帝王は誰もが美術を愛し、古いとか新しいとかではなく、作品の優劣を見て等級をつけるといった鑑賞法を立てた。皇帝だけでなく、貴族たちも書画を愛し書画に通じる人も多く出た。六朝300年、上流階級の人が美術を愛し、美術を奨励したその勢いを想像してみる必要がある。

美術を奨励すれば、必ず美術が盛んになり、豊かになるというものではない。その方法が適切に行われその情況の流れに合ったとき、美術の花が咲くので、もしその方法を間違えば、一流の美術家が疎んじられ、二流三流の者がのさばり、出来の悪い美術が世にはびこることにもなってしまう。こんなふうにして、本当に秀れた美術が地を這っているということは、ヨーロッパなどで起っている事態である。フランスでは大いに美術奨励が行われているが、そんなに進歩した美術が生まれてきていない。日本でも同じようなことがあった。以前まちがった奨励の方法をとり、文人画が盛んになって「真正の」美術が無視されたことがある。もっと昔にも、唐の絵唐絵からえが奨励されて土佐派のような日本固有の美術がほとんど消滅しかけたことがある。これらはみな奨励の方法を誤ったからで、美術を奨励するといっても、それだけで必ず優れた美術が育つわけではない。

最近も、美術を奨励しようという声があちこちから出ているが、ほんとうの美術というものは、奨励の声がかかったからやおら育ってくるというようなものであってはならない。優れた美術が育つかどうかは、美術自身の中にその力があるかどうかにかかっている。つまり、奨励したから優れた美術が育つという簡単な問題ではないということだ。

美術自身が、つまり美術に励む者がみずから進んで、社会に美術を奨励したいと思うようにさせなければならない。奨励するその目的は、美術の進むべき方向へ力を貸すところにある。決して美術を発達させる力そのものにはならない。