プルーストから賢治へ—喩としての括弧

2月19日(金)のABCは、《プルーストから賢治へ》と名付けました。「賢治」とは宮澤賢治のことです。

6日(土)の「プルースト」で、プルーストの文章のなかで括弧、つまり( )の使われかたがとても意味深く、そのことを考えていると、日本語の使い手では、宮澤賢治が、この括弧を絶妙に駆使していますねって話になりました。プルーストの( )付き文章を見つめながら、思わず脱線していたのですが(この「脱線」こそプルースト的!)、19日(金)は、その脱線を放りっぱなしにしないで、宮澤賢治の書いたもののなかから、( )を拾い出し、括弧を読み書く愉しさと面白さに浸ってみるひとときにしたい、と思います(露伴の教えに従って)。

そのさい、資料には宮澤賢治のどの文章あるいは詩がいいかなと迷ったのですが、詩集『春と修羅』の「序」を読んでみることにしました。

19日(金)は、この「序」を読むだけで時間切れになると思われますが、お配りするコピーは、「序」から本篇に入り、比較的長い(詩集のタイトルにもなった)詩「春と修羅」まで途切れさせず復刻しました。このコピーは、大正13(1914)年に自費出版された『春と修羅』初版の復刻版です。脱字あれば旧漢字もそのまま、ちょっと読みづらいかもしれませんが、初版の雰囲気を味わっていただけたらと。(こんなことをすると、この初版本『春と修羅』全編をコピーしてみなさんにお渡しし、じっくりと読んで行きたくなりますね。)

そんな誘惑に抗しながら「序」を読みます。その「序」を読むテーマというかキイワードが《喩としての括弧》です。


「結びのための一言」《喩》としての括弧 補遺