森脇孝介くんからの手紙 2

広島の森脇孝介くんから、こんな手紙をもらいました。〈無文字文化〉論、〈他動詞文化=ヨーロッパ〉と〈自動詞文化=日本・東アジア〉の問題を考える上で、とてもいい材料になりそうです。(木下長宏)

2019.11.10 森脇孝介

ABCでの先生のお話で「創世記」と日本古代神話の特徴の違いに触れ、主語と目的語を持つ構成の文を作る他動詞を使った思考法が普遍性へとつながっていくのではないか、文化の型として他動詞的な文化、自動詞的な文化のふたつの型が考えられないだろうか。という話題が少し出て、言語構造と文化の形の関係という問題にはかねてより関心があったことあり、その辺りのことで心にひっかかっていた事柄のいくつかを少し書いてみたいと思います。

使われている言語の特徴からその言語を使う人々の文化の形を論ずる、というものは、気ままな床屋談義風なものから「学問」として提示されるものまで少なからず存在していますが、それらにおいてしばしば目にするのは、主語のあいまいな日本(東洋)語/主語の明確なヨーロッパ語、を対比させてそれぞれの文化の特質を説くものです。

政治学者朴忠錫『韓国政治思想史』(井上厚史、石田徹訳、法政大学出版局、2016)において、著者はある日の新聞の記事を引用し、その報道に「……という史上初の事態が生じることになる」という文章があることに注意をうながします。

 なぜわれわれ韓国人はこの場合に(中略、以下[…]で示します)こうした現象を招くことになる作為的主体が明らかな表現よりも作為的主体が曖昧な「生じることになる」という動詞を好んで使うのだろうか。「生じることになる」の原型は「生じる」であり、これは自動詞である。韓国語の場合、「生じる」という動詞は[…]一方で作為的主体が不確実であるかと思えば、他方では自然の論理が色濃く下敷きにされており、あたかも現実世界を(自然的)生成の世界のごとくみなす傾向が見られる。

『韓国政治思想史』(井上厚史、石田徹訳、法政大学出版局、2016、66頁)

 韓国人の日常における「生じる」の(中略)様々な用法の中には、二つの決定的な特徴が内在している。その一つは、[…]「生じる」が「作られる/造られる」の意味で用いられているということである。この二つの自動詞を概念的に単純化してみるならば、「生じる」が「自然」の論理であり、「作られる/造られる」は作為の論理である。したがって、これは「作られる/造られる」が「生じる」の中に混ざっているということ、「自然」と「作為」の間に自覚的境界はない、ということになる。換言するならば、[…]「自然」の論理の延長線上に「作為」の論理があるということを意味している。

 二つめは、[…]「生じる」の論理は人間の社会関係を説明する際にも、拡大・適用されているということである。[…]「生じる」という自動詞は一般的な社会関係における「作為」の論理を「自然」の論理に擬制(fiction)化しているものと言えよう。そして、まさにそのような意味で現実世界が一つの所与の世界として受け入れられているのである。

『韓国政治思想史』(井上厚史、石田徹訳、法政大学出版局、2016、69〜70頁)

このように韓国社会の特質を論じ、一方で西欧については

 ルソーが政治社会の起源を、「土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるほどおめでたい人物を見つけた最初の者が、政治社会の真の創立者であった」と論じたのは、言わば政治社会とは基本的に作為の世界であるということを意味していた。

『韓国政治思想史』(井上厚史、石田徹訳、法政大学出版局、2016、108頁)

と書き、『異質な社会としてヨーロッパを描きます。(「ヨーロッパと極めて対照的な東北アジア」という言葉〔106頁〕も現れます)

『韓国政治思想史』という著作なので、俎上に載せられるのは韓国語ですが、これと同趣旨の議論を日本語に関して論じられるのを見るのは決して珍しいことではなく、論調に硬軟の差はあれ、この種の論題において議論の筋のはこびとしてはポピュラーなものだと思います。

ヨーロッパの言語や文化を「他動詞的」と見るとき、それを「他動詞的なものとして展開していった」と考えるよりも、むしろ「自動詞的なものを失っていった」という見方をした方が、より歴史の豊かさに近づけるのではないだろうか、元々地域によらず、古代語において「他動詞の言語」「自動詞の言語」の両方を豊かに保持していたものが、時代が下るにつれ「自動詞の言語」の部分が徐々に失われていった、というふうに見た方がよいのではないか、と考えてみたいのです。

西欧で時代を通じて繰り返し読まれ訳される文章はやはり聖書なので、聖書の訳文を並べると面白いと思います。先生が講義で取り上げた『ルツ記』の冒頭は、

「士師の世ををさむる時にあたりて国に饑饉ありければ」で

元のヘブライ文は

וַיְהִ֗י בִּימֵי֙ שְׁפֹ֣ט הַשֹּֽׁפְטִ֔ים וַיְהִ֥י רָעָ֖ב בָּאָ֑רֶץ 

七十人訳聖書では

Καὶ ἐγένετο ἐν τῷ κρίνειν τοὺς κριτὰς καὶ ἐγένετο λιμὸς ἐν τῇ γῇ

ウルガタ訳聖書では

In diebus unius iudicis quando iudices praeerant facta est fames in terra

ルター訳聖書では

Zu der Zeit, als die Richter richteten, entstand eine Hungersnot im Lande.

現代仏訳聖書では

A l’époque où les juges exerçaiest le pouvoir en Israël, il y eut famine dans le pays.

となっています。

素人目ですが、こうやって並べてみると自動詞的表現(成る)がだんだん消えていき、そしてだんだん統括された文章を書きたい、という意志が現れてくる様子がうかがわれるように思います。

つまり

וַיְהִ֗י בִּימֵי֙ שְׁפֹ֣ט הַשֹּֽׁפְטִ֔ים וַיְהִ֥י רָעָ֖ב בָּאָ֑רֶץ
〔そして〕在った、成った 士師たち 裁くことの 士師の 日々に 〔そして〕在った、成った 地に

という文で、הָיָה(いる、ある、成る)を変化させた、וַיְהִ֗י ウァイイェーヒー〔そして〕成った(文を並べていくときに使う形)を使って、それを起こした主体を書かない自動詞的表現で書かれています。

ギリシア訳では

Καὶ ἐγένετο ἐν τῷ κρίνειν τοὺς κριτὰς καὶ ἐγένετο λιμὸς ἐν τῇ γῇ
そして成った 裁くことにおいて 裁きを そして成った 饑饉 地に

ヘブライ文を意識してか「そして成った」という語で文をつなぐ型を踏襲して書かれた「自動詞的表現」です。

In diebus unius iudicis quando iudices praeerant facta est fames in terra
日々に 士師の 〜する時 士師たちが 在った 起こった 饑饉 地に

ラテン語訳となると、ヨーロッパ語へと踏み出した、という感じで、士師たちについては「成った」といわずpraeerant(praesum 〔在る〕〔前にいる〕の未完了過去〔在った、いた〕)と書き、関係節quando(〜する時)という語を入れて文の構造を整理しようという意志がみえます。饑饉についてはfacta est(起こった、なされた)とする自動詞的表現です。

ルター訳になると現代の側に来た、という感じで、文は整頓されて士師たちが裁く、治める、という主語と動詞の形が前に出て、現代まで続いていきます。

今の、ほんの一文だけをもって、すぐに結論的なことをいうことはできませんが、なんというか歴史の「気配」のようなものが感じられるような気がして、面白く思え、書いてみました。

また井筒俊彦『アラビア語入門』において

 アラビア語では朝になったとか夕べが来たとか言わずに、人間の方を主にして誰々が朝に入った、とか夕べに入ったとか言う。故に例えばaṣbaḥnā fi tilka l-madīnatʿ は「その都に於て私たちは朝に入った」すなわち「我々がその都に居るうちに夜が明けて朝になった」の意味である。

『井筒俊彦全集 第十二巻 アラビア語入門』慶應義塾大学出版会、2016、262頁

というように、今の人が自動詞を使うところで昔の人が他動詞を使っていたという例もあり、なかなか単純にまとまらないので、そこが面白いです。

そういう「混沌」の部分をできるだけ取りおとさずにつかまえたい、という思いがあります。非力なのでほとんどつかまえられないままでいますが、理念としてはつかまえたいと思っています。


ついでにもう一つ、書いてみます。「オーストロネシア語族」(マライ・ポリネシア語族)のことです。世界でその種類がもっとも多い、地理分布がもっとも広範、というこの言語グループの分布図を見ると、その東西の幅は、西洋と東洋がすっぽり入ってしまいかねない広さで、そして、かつてみすず書房のPR誌『みすず』に乗っていた西郷信綱の晩年の講演で(どこかに埋まっていていま参照できず記憶によって書きます)古い相聞歌謡をたどっていくと、日本、韓国、中国、沖縄、台湾、ベトナム、フィリピンと大きな弧が浮かび上がる、と言っていたのが心に残っており、その関係もあって気になっています。

今回はこれで終わります。

私の語学の知識は乏しいもので、あまりしっかりしたものではないので、大分割り引いて読んで頂くようお願いいたします。


2019.11.24 森脇孝介

お元気でしょうか。

前の手紙をお送りした後、また少し興味を感じることがあったので、追加としてそれも書いてみます。

旧約聖書の「雅歌」八章六節の中に出てくる

愛は強くして死のごとく、嫉妬(ねたみ)は堅くして陰府(いんふ)にひとし

という句についてです。

現代からみれば、比喩の使い方に異質なものがあるように感じ、興味を引かれて種々の訳本を見較べてみました。そうするうちに、気がついた事があったので書いてみます。

ヘブライ文は

עַזָּ֤ה כַמָּ֨וֶת֙ אַהֲבָ֔ה קָשָׁ֥ה כִשְׁאֹ֖ול קִנְאָ֑ה 
嫉妬 陰府のように 堅い 愛 死のように 強い

七十人訳聖書では

κραταιὰ ὡς θάνατος ἀγάπη,
σκληρὸς ὡς ᾅδης ζῆλος·
強い 死のように 愛 堅い 陰府のように (嫉妬)

ウルガタ訳聖書では

fortis est ut mors dilectio dura sicut inferus aemulatio
強い 死のように 愛 硬い 陰府のように (嫉妬)

ルター訳聖書では

Liebe ist stark wie der Tod und Leidenschaft unwiderstehlich wie das Totenreich.

現代仏訳聖書では

l’amour est aussi fort que la mort. Comme la mort aussi la passion vous tient.

ここで興味を惹かれたのが קִנְאָ֑ה qinˈāという嫉妬(ねたみ)と訳されるもととなった語です。

これは基本的な辞典とされるGesenius-Buhlの辞典に

  1. Leidenschaft (der Liebe). Eifersucht
  2. Wetteifer
  3. Gottes Eifer

すなわち情熱、嫉妬、競争心、神の激情と広い意味が掲げられ伝道之書四・四「我また諸の労苦(ほねおり)と諸(もろもろ)の工事(わざ)の精巧(たくみ)とを観るに是は人のたがひに嫉みあひて成せる者たるなり」の「嫉み」、詩篇一一九、一三九「わが敵なんぢの聖言(みことば)をわすれたるをもてわが熱心われをほろぼせり」の「熱心」などの用例があります。

しかし、時代がくだってルター訳となるとLeidenschaft (情熱)現代仏訳のpassionのように、善悪またがった意味の言葉がなく、良い意味の方で訳すか、悪い意味の方で訳すか、訳者は選択を迫られる、という状況になっていることに気付きます。

ギリシャ語のζῆλοςが現代英語でZealとJealousyに〈割れて〉残っているのが興味深く思えます。

古代においては、情熱として現れるか、嫉妬として現れるかは表面の違いに過ぎず、その根元となるקִנְאָ֑ה qinˈā、ζῆλος、aemulatioの部分に名前をつけていたことが忘れられていった様子が浮かんでくるように思えます。

(aemulatio由来の現代語emulationは、競争、対抗、模倣の意味が残り、妬みの意味はすたれてなくなったようです。辞典に「《廃》ねたみ」と記されています)

というような事が、面白く思えたので書き送ります。