《AKI INOMATA: Significant Otherness 生きものと私が出会うとき》と出会う

遠藤知恵子

十和田市現代美術館は、展示室の中以外のさまざまなところ−−建物の中を移動するときに通る階段や壁や天井や、外の芝生の上など-−に作品が配置されている。来場者に見つけてもらうため、園内のあちこちにキャラクターを潜ませたテーマパークのように、作品は、館内に何気なく設置してある。作品とそうでないものの境目はそんなに厳密ではない。訪れた人はインスタレーションの置かれた空間に入り込んだり、踏み台で伸び上がって首を突っ込むようにして作品を見たりと、見るために体全体を動かす。歩き回りながら全体像を把握する、サイズの大きな作品も含め、どの作品にも通じて言えることは、鑑賞者参加型である、ということ。“美術鑑賞”というよりは作品に紛れて遊んでいる感覚の方が強い。

だが、これはあくまでも大人のためのテーマパークである。作品のサイズは大人の体格に合わせられている。つまり、あくまでも、十和田市現代美術館の“遊び”は、大人に向けて“提供”されるもの。大人のための「アートのテーマパーク」なのである。

こうした「テーマパーク」としての美術館のあり方や、そこで提供される「アート」とはなんだろうかといったことについては、もう少し時間をかけて考えを深めていくこととして、今回は、お目当てだった《AKI INOMATA Significant Otherness 生きものと私が出会うとき》について、特に印象的だった3作品について、ご報告します。

1. 《girl, girl, girl…》 ミノムシ、服、ビデオ、写真 サイズ可変 2012 / 2019

展示室には、ワードローブ風にしつらえられたアクリルケースが置いてある。中には一輪挿しの花瓶に差した木の枝が見える。 ケースの周囲を、アンティーク調の木枠が囲う。

もそもそと動く“作者”を水槽の中に見つける快感…などと言うと、笑われてしまうだろうか。だが、空気孔のついたアクリルのケースの中を覗き込み、INOMATAさんの共同制作者である生き物を見つけるところから、この展示物の“鑑賞”は始まる。

あ。いた――そうして見つけたときには、私はもう、その生き物のことを好きになっている。自分が見たくて探し、見つけて、こうして出会うことができたからだ。

この《girl, girl,girl…》は、小さく切った女性用の服の生地を蓑虫たちに託し、それを思い思いの蓑に仕立てて着てもらう――いや、「それで思い思いの巣を作って住んでもらう」だろうか。そもそも、蓑虫たちに“住む”という観念はあるのか。Significant Otherness(かけがえのない他者であるもの)という、この展覧会のタイトルそのままに、私たち人間の思惑なんてお構いなしである。彼女たちは他者なのだ。そんな、ありのままの生き物たちの姿が、そこにはあった。

簑虫の雌は羽化しないのだそうだ。いつまでも幼時の姿のままで蓑の中に暮らし、羽化して蛾になった雄の飛来を待つ。そんな雌の簑虫の生態を、美しく着飾り男性に見初めてもらおうとする、人間の女性たちの姿に重ねる。また、そうした見立ての遊びに見合うよう、アクリルケースはアンティーク調の木製クローゼットに置かれたり、同じく木製の木枠の中に収まっていたりする。いかにも、“女の子”が使いそうな調度品に、水槽を仕立てているのである。

これらの展示物が人間社会を諷する一種の比喩となっていることは間違いないことなのだが、蓑虫の雌を人間の女の子に見立てて、社会の在り方に疑問を呈する…といった意図を読み取るには、蓑虫たちはあまりにも、 “作品”には、なりきらない。彼女たちはヒトではなく、ミノムシの生を生きているのだ。

他の展示作品を一通り見たあと、帰る前に彼女たちに挨拶していこうと部屋に戻ったときのことである。しばらく見ない間に、彼女たちは作品用に与えられた布切れの上に、自分で新しく切り取った緑の葉の切れ端を“重ね着”し始めていた。

彼女たちの伴侶――雄の蓑蛾が、この展示室を訪れることはないだろう。それでも、彼女たちは粛々と蓑を着続ける。端切れをまとう蓑虫たちの姿は、人間にとって都合の良い、メタファーの容れ物などではないのだ。

“作品”という概念を見事に食いちぎり、着込んでいる蓑虫たちの姿が小気味よかった。

2. 《ギャロップする南部馬》映像作品  2秒  2019年

純粋種がいなくなり絶滅した南部馬。その骨格標本を元につくった骨の模型に氷で肉付けし、雪の上を走らせたアニメーション作品である。この《ギャロップする南部馬》は、地元の方たちの協力を受けて制作されている。十和田市でさかんに飼育されていた南部馬が、この映像作品のモチーフだ。参考にした骨格標本は岩手県立盛岡農業高等学校が保管する「盛号」という名馬のもの。その骨格標本の写真を、十和田市馬事公苑(駒っこランド)称徳館が提供している。

外来種によって在来種が駆逐されたり、両者の交雑によって純粋種がいなくなったりすることに向けられる、批判的な眼差しには、どうしようもなくナショナリスティックで排他的な感情が宿る。だが、《ギャロップする南部馬》にはそうした感情は見られない。この地域でかつて人々と共同生活を営んでいた馬に、もう一度、雪原を走り回って欲しかっただけなのだということが、映像から伝わってくるような気がした。素材の一つである氷の冷たさや透明で明るく、きらきらと日を受けて光る雪景色、それに、馬のたてがみの位置に伸びる、チャーミングなつららのおかげかもしれない。

南部馬はずっと、人と一緒に働き、一つ屋根の下にごく当たり前に暮らしてきた。その事実に対し、狭雑物でしかないナショナリズムを持ち込む余地はない…とでも言うかのように、《ギャロップする南部馬》には、骨と氷と雪と、その向こうに広がる森からなる、余計なものは何もない画面が広がる。

南部馬の絶滅は、戦争に利用するため明治政府が交雑を進めた結果である。人間と共に農耕や運輸に従事していた南部馬を軍事に「転用」したことにより、かけがえのない相棒が失われた。明るい雪景色の向こう側に、私たち人間が真剣に考えなくてはならない歴史的経緯がある。

3.《やどかりに「やど」をわたしてみる ―Border―》 ヤドカリ、樹脂、水槽装置一式、ビデオ サイズ可変2019

薄暗い展示室内の大小の水槽に、赤い体のやどかりがいた。温度を管理する装置を完備し、岩や海藻や珊瑚や磯巾着などを配置したアクアリウムである。水槽のやどかりたちは、それぞれ、お城や教会やビルディングなどをあしらった透明樹脂の貝殻に暮らしている。

水槽の周囲を見渡すと、やどかりの水槽の合間に小さなガラスケースが点々と配置され、ガラスケースの中には一つずつ透明樹脂製の貝殻が収められている。建物のオーナメントつきの貝殻物件。貝殻のそれぞれに照明があてられ、きらきら光るその様子は、ただただ、きれいだった。

やどかりたちは、手のひらにちょうど載るくらいの体格。水槽を上から覗き込むと海の匂いがして、水槽全体が生きているのだということが感じられる。INOMATAさんがやどかりたちに透明樹脂の貝殻を渡し、そこに引越しして暮らしてもらう、というのがこの作品だ。やどかりの水槽、入居やどかりを待つ貝殻物件、それに、やどかりたちの様子を写した写真や動画など、全体を含めて、《やどかりに「やど」をわたしてみる ―Border―》というプロジェクトなのである。

「何かを作った」わけではなく、「他者が作り置いた物体の内部で暮らしている」このやどかりたちを、この作品の共同制作者と呼んで良いものかどうかは迷うところだ。だが、ともかくも当事者として、作品に参加するでもなく加わっている。

貝殻にあしらわれた建物は、それが所在地としている国家や都市を代表する、有名なものばかりだ。やどかりのいない静止した貝殻は、細かな彫刻をほどこした水晶のようにきれいだった。しかし、これらのやどかりたちは、オーナメントのついた貝殻を歓迎しているのだろうか。それとも、他に引っ越し先が見つからないからとりあえず入ってみたのだろうか−-分からない。やどかりは自分の暮らしに関わるものに触れ、それを取っているだけなのだ。

人工の貝殻物件に住み着いたとはいえ、やどかりにはやどかりの領分があり、彼ら(彼女ら)は、人間が生み出す意味の世界には住んでいない。私たち人間は対象を何かの象徴と捉え、目で見て意味を読み出そうとするが、やどかりたちはそうした意味の世界とは異なる尺度で目の前の物体を測っている。人間の目で見たとき、透明樹脂の貝殻を飾る余剰物、人間世界の有名な建物のミニチュアは、象徴としての役割にまみれているが、やどかりからしてみれば、どうでも良いことなのだろう。

やどかりは人間である私とは異なる尺度で目の前の事物と付き合っている。私が見ている、このやどかりの暮らしを、私はイメージの次元でしか理解できない。私がやどかりを見、やどかりについて脳裏に描き出すイメージは、やどかりの暮らしとは関係がない。私とやどかりとの関わり合いは、樹脂製の貝殻みたいにきれいだが、空っぽで、むなしいものなのかもしれない。

私のイメージに住み着いてくれている他者たちのことを、私はなにも知らない…にも、関わらず、やどかりたちは貝殻物件で暮らすことによって、私の世界を豊かにしてくれている。それだけは、確かなことだ。

企画展の展示物は他に…

・ビーバーに木片をかじってもらって作る《彫刻のつくりかた》
 木、ビデオ、繊維強化プラスチック サイズ可変/ 150×21cm 2018-2019年

ビーバーが作った“彫刻”に倣って繊維強化プラスチックで人間が作った彫刻も1点、展示されていた。今回の展示では、ビーバーの制作物がずらりと通路に並んでいたが、遠くから見ると道端に永く置かれて磨耗したお地蔵様のような風情だった。じっと見ていると人に見えてきそうで、でも、人の形ではない、もどかしいような何だかたまらない気分にさせられた。

・アンモナイトの殻を象った透明樹脂の殻に蛸に入ってもらったときの映像と化石の欠損部分を透明樹脂で補った立体作品を組み合わせた《進化への考察#1: 菊石(アンモナイト)》
 ビデオ、化石、樹脂  2分/ 13.5×13.5×7cm  2016-2017年

欠損部分を補って復元した透明樹脂の殻(化石を含まない、全て透明な殻)も作られていて、この透明な殻には蛸に入ってもらい、その様子を映像に記録している。吸盤のついた脚がにゅるにゅるとうごめくさまも、殻が透明だとよく見える。これも、蓑虫ややどかりのプロジェクトと同じように、生き物に協力してもらい制作した作品。

・福島県相馬市松川浦で採取した浅蜊の貝殻の成長線を観察する《Lines―貝の成長線を聴く》
 アクリルにUVプリント、ビデオ  155×60cm / 2分17秒  2018-2019年

東日本大震災の被災地域の浅蜊を調査し、制作。浅蜊の貝殻を垂直に切ったときに現れる断面には、成長線と呼ばれる、木の年輪のようなものがあるそうだ。地震や津波が浅蜊の生育環境にもたらした変化をこの成長線から知ることができる。《Lines―貝の成長線を聴く》の“聴く”は比喩表現ではなく、成長線をレコードの溝に見立てて刻み、音へと置き換えたことからきている“聴く”だろう。

展示室ばかりでなく、渡り廊下、中庭、カフェなど美術館全体をフル活用した展示で、展示スペースを歩き回るのが楽しかった。

十和田市現代美術館について補足

十和田市美術館は駅から少し離れた市街地にある。花柄の馬の立体作品がエントランス前に出迎えてくれた。美術館から一つ道路を挟んだ向かい側に、草間彌生の水玉付きの南瓜が遊具になった公園がある。この公園は「アート広場」といって、草間彌生以外にも、海外の作家による大きな立体作品を見ることができる。

朝早く行って「アート広場」を眺めながら、開館時間をぼんやり待っていたら、後ろの方から「草間彌生の作品、タダで見れるやんなぁ」と、喜んでいるお客さんの声が聞こえた。お客さんたちが使うことばは関西訛りのほか、英語、中国語、韓国語など。遠方からの来館者も多いようだ。館内のほとんどの場所が撮影OKであるためか、立派なカメラを持ってフォトジェニックな場所を探している人が多かった。

公園で写真を撮ったり、道路を挟んでタダで眺めたりしてもいいけれど、お金を払って美術館の屋上から見ても楽しい。美術館の建物の内側も外側も、空間全部を利用して展示物と展示空間を体験できる(見るだけでなく、体を使って覗いたり、音を出したりするものもある)構造になっている。

十和田市現代美術館には靴を脱いで入る展示室もあるので、靴下に穴が開いていないかどうかだけ、予めチェックしておくのがおすすめです。


《AKI INOMATA: Significant Otherness 生きものと私が出会うとき》
十和田市現代美術館、青森、2019.9.14-20201.13