大和由佳
赤い糸だけでできた作品は、大きく分けて宙に浮いて見える上の層と床に広がる下の層からできています。はじめ、その全体像は大きく回転する星雲を思わせるのですが、部屋の壁の数カ所につながれた糸の張り詰め方は、その総量がどれほどのものかを伝え、いくつもの糸の結び目もまた、それをおこなったひとの指の繊細な動きを想起させるので、膨らみそうになった自分のイメージは等身大に引き戻されていきます。赤という身体に近しい色もそれを後押ししたと思います。
ある作品を前にして、その作品や自分のからだのサイズが、実際とは違うように感じられるというのは時々起こることではないでしょうか。私はそれを作品の魅力に感じ身をまかせることが多いなかで、池内さんのこの作品には等身大で見続けることを誘われたような、というよりも自分がそれを求めたような気がした、そのことが胸にひっかかったのでした。(余談ですが、ギャラリーの受付の横に展示されていた小品の中に、飾りの部分が糸で作られた、ごくシンプルなピアスがありました。たしか2000年はじめの頃の作品だったかと思います。それを見たときに、池内さんの作品はその触れがたさにもかかわらず、身体との親密さは一貫していて、今回の大きな作品についてもやはり等身大で見ることは適っているのではないかと、尚更思うことになりました。)
帰宅して、等身大で見ることについて思いを巡らせているうちに、あの作品を「測る」という動詞で語れないだろうかと考えるようになりました。きっかけは、場所の水平を出す道具である「水糸」からの連想でした。空間に一時的な線をすっと引くような、水糸を張る時の澄んだ感覚を起点にしつつ、そこには止まらない作品の広がりをみていきたいと思います。
大辞林を開くと、測るというのは、次の3つの意味があります。
物差し・枡(ます)・秤(はかり)などを用いて、物の長さ・量・重さなどを調べる。2. 心の中で推定する。想像する。3. おしはかる。予測する。
作品において測る道具は、目盛りのない作家の身体と感覚です。測る対象は、展示室の空間を満たす空気と、これから目の前に現れてくる存在の気配(作家自身もその輪郭を知ることはなく察知するしかないようなもの)との関係であり、その測ることの集積があの作品の中にある。両者は(分けられるものなのかもわからないのですが)つねに変化し続けているので、その震える関係を測り終えることは不可能です。それもあって作品からは、完成したものがもつ到達感よりも、未完なもの、あるいは生まれたての(しかし生まれられるくらいは熟している)存在がもつ「壊れやすさ」を強く感じるのかもしれません。
ここで話は変わり、グラフィティのことを少し書いてみます。目に見えてくる表現としては、池内さんの表現とそれはあまりにかけ離れているようです。しかし、グラフィティを描くひとの視点に触れることで、この「測る」という感覚はより伝わりやすくなるように思うのです。
とはいえ、私はこの分野に詳しいわけではありません。以前は、街の壁、シャッターなどにスプレーで即興的に書かれた絵ということぐらいしか知らず、正直に書けば、あまり好ましく思えないこともあったのですが、ある見方を知ってからすっかり変わりました。それをどこかで読んだのか、誰かに聞いたのかはっきりと思い出せないものの、確かこういう内容でした。グラフィティは都市に対してグラフィティライターがどのように接触したかというマーキングであり、例えば建物の高いところに描かれたグラフィティーは、自力でそこまで昇り、見つからないように手早く描き終えたその能力ごと見せている(見るべき)ものだ、と。さらにこの前、偶然話したグラフィティライターの方からは、ライターは昼はどこに描こうか都市を観察して歩いている、街のグラフィティはいつ消されるかわからないものなので、どこにどのようなグラフィティが現れたかは、常にチェックされ、記録され、情報が共有されている、ということを聞いたりもしました。描く側の視点を知ってからというもの、都市にそのような眼差しが行き交っていることに、どこかゾクゾクする気持ちになってしまいます。描く場所は、まわりの建物の構成やひとの視線(警察官や監視カメラの視線も含む)、壁やシャッターの材質など、ひとつとして同じものはない条件を複合的に判断して決まっているのでしょう。それは、街を動物的に感受しているとも言えると思います。(さらに脱線すると、私がこのことに惹かれるのは、自分が作り手として取り組んでいるインスタレーションという形式が、現代の作家にとって、作品を展示空間に体良く並べる、構成するという意味しか成していないのではないかと感じる時があるからです。グラフィティのほうが空間を扱うことではよほど緊張感があるのではないか、そう自分に問いたくなる時がたびたびあるのです。)
グラフィティが、生きる都市を生身の体で測り描かれているものだとしたら、池内さんの作品は、ギャラリー空間においてそれをしている。そういう身体的な「測る」というものが土台にあって、その土台じたいが作品に含まれ、姿をあらわしていると考えられないだろうか。それがまず私が考えたことです。
ただ、この「測る」というのは、宙に浮いて見える作品の上部にこそ強く感じるものです。その層から下に垂れる無数の糸、さらに床に広がる13kmにおよぶ糸でできた広がりは、「結ぶ」ことからも「測る」ことからももっと自由な、ゆったりと解放されるような感覚をもたらす部分です。撚られた糸のもつ性質に従いながら、全体には糸自身も気づかないうちに巻き込まれていたというような大きくゆっくりとした回転が潜んでいるからでしょうか。上から下へという重力に従うような動きと、下から上へという浮力を感じさせる動きとが共生する、不思議な溜まりがそこにはあります。
床に広がる部分の作り方について、池内さんはたしか「ある時、回転させたらできたんです」と、そのときの驚きを思い出すようにして、ギャラリーにいた方に話されていたのを思い出します(言い方はもう少し違ったかもしれないです)。作家の手の介入が、これほど抑制されることで遂げられた空間の作品化を前にして、その言葉は深く響きました。
あの作品を等身大で見ていたいと私が思ったのは、おそらく、空間とひとの技術・行為とがどのように関係を結ぶか、そのことへの徹底して注意深い試みを、自分の胸に刻みたいと感じたからなのだと思います。