古事記—美から利へ—

11月11日(土)のABCでは、古事記の冒頭部分の読み直しを試みました。

そこで、「天」という文字は「アマ」と訓じるべきこと。

古代列島、東アジア大陸に住んでいた人は、人の生命活動、集団としての生命のかたちとそれを作り育てる勢いを、植物とくに草と同種と観ていたこと。したがって、「身を隠す」という記述は「土中に入る=根となる」と読めること。

そして、「葦」の一句がパスカルを呼び、パスカルから「弱さのなかに見つける美」の大切さを教えられ、この思想は列島に住んできた人びとの生きかたと共鳴することを見つけました。

古事記を読んでパスカルへ進むなんてことは、古事記の勉強ではめったにやらないことでしょうが、しかしこういう読みこそ大切だとボクは思っております。そういう思索の飛躍を呼んでくれることこそ素晴らしい古典であることの証左です。そういうわけで、11日はパスカルの葦の章を原文からじっくり読みました。「noble」という単語の大切さも再認識出来ました。

さらにパスカルのフランス語から、セミコロンやコロンを軽視する/必要としない日本語の特性、日本語文字の最小単位にはなお生命(固有の音、すなわち声)が生きているが、西洋のアルファベット文字は固有の声、意味を持たない無機物に還元されること。このことがそれぞれの世界観のかたちを決定づけていること。などを学ぶことが出来ました。

この文字の最小単位が有機物か無機物かのちがいは、その言語の生態を決定的に異種の体系(文法、語彙形成etc.)にして行くのですが、なおそれにもかかわらず、言葉である=人の声を記号化するという点において共通するものがあることにも、ちょっと展望を開くことが出来ました。

それは、人間の欲望の最も根源的なものは「美」への欲求であるということでした。

と、けっこう収穫の多かった午後でしたが、今回12月1日は、古事記本文の続き、伊邪那岐伊邪那美二神による国作り行動の章句へ入って行きます。

この行動は、じつは「美」を産む行動、つまり芸術の誕生の物語であり、国生みの行為は動

物的性行為ではなく、植物の生育に「見立て」ていることを解読していきたいと思います。 

伊邪那岐伊邪那美を始めその後の神々の子供の産みかたに、「身籠る」という描写が一切ない(母親のお腹の中で生まれる準備をする時間への関心の欠如)という点に注目します。

そして、物語は、「美」を最も大切な生きる原理とする姿勢から、おもむろに「利」を求める生きかたへと、神々が自分たちの生きる原理を移動させて行く姿を語っていきます。

「美」から「利」へ。これは人間であることの宿命なのでしょうか。