詩の最古のかたちを求めて—『詩経』から

 詩(文学)と絵(美術)の最古のかたちを求めて—『詩經』から考えを始めてみたいと思います。

「美術」の始まりの姿を求めて、ラスコーの洞窟を訪ね、粥見井尻の土偶を見せてもらいに三重埋蔵文化センターを訪ね、いろいろあれこれ考える旅をつないできました。それを考える旅はまだまだ終りそうにないのですが、というのも「始まりビギニング」「始源(ソース)」「起源(オリジン)」「初源(ライズ)」「生成(ジェネシス)」「根源(ルーツ)」という言葉には、二つのテーマが背負わされているからです。一つは、いうまでもなく、人類が「美術」という営みを始めたその最初の様子を捉え記述することであり、これは、これが最も古いと評価されて出てきても、またそれよりも古いものが見つかるかもしれない、永遠に答の固まらない課題です。それでも、答は確定しないからと言って、この問題への興味を放棄することは出来ない。それは、いったい人間とは、人類とはなにか、という問いにつながっているからでしょう。(これこそ老子の言う「玄之又玄」。せいぜいわれわれは「衆妙の門」の前に佇(た)てたとしたらそれが精一杯と知りながら、なお止めることは出来ないのです。)

 もう一つは、現在生き、「美術」とともに在るなかで、その最も古い姿、始めのありかたを問うこと、問い続けるという行為そのものが、現在われわれはどうあるべきかへの反省や展望、現状認識と批判にとって、これ以上にない意味深い思索を誘ってくれるのではないか、ということです。手元にある史料を吟味しながらこういう始源の問題を考えていくことは、考える手応えもあるし、楽しい作業でもあります。現在の作品を観る歓びが増えてきます。

 ラスコーを訪ね、粥見井尻を掌に載せたときから気がついていたのですが、「美術の始源」問題の、この二つの課題は、「美術」という領域のなかに閉じこもって考えていては粗末な答しか見つかりっこないだろうということでした。昔の人は「美術」とか「文学」とか「舞踊」とか概念(ことば)の区分などしていなかったから当然と言えば当然なのですが、いま、こうした分類による概念を使ってしか物事を考えられないわれわれは、この問題にどんな近づきかたをしたらいいのでしょうか。

 ともかく「ジャンル」はいやおうなくわれわれの思考の前に立ちはだかっていますが、それぞれのジャンルの門からその世界に入り、その世界が作っている壁に穴を空け、別のジャンルとの共通する働きを見つけ考え整理していく、という作業を続けて行くほかないのでしょう。そんなことをもう何年もやっては来たのですが、しかし、そうして勉強することが楽しくなくてはいけません。どんなふうに楽しく進められるか。はたして今日はうまく行くか。今日九月四日(土)は、文学の分野へ分け入り、中国で最も古いと言われてきた詩を味わいながら、いろんな気づいたことを取り上げていきたいと思います。

 中国で最も古い詩といえば、いうまでもなく『詩經』(以下「詩経」と新字で表記します)が頭に浮かびます。

『詩経』は周(前1027〜710)の時代に王朝で謡われていた詩のほか各地(黄河流域の諸国)の歌謡が集められた詩集で、当初は三千編余りあったと言います。それを孔子(前551〜479)が整理編集して、三〇五編を選んだと伝えられているのが現在読まれている『詩経』です。それ以来、『易経』『書経』『春秋』『礼記』『楽経』と共に「六経(りっけい)」として尊重されるようになっていきます。[中国では書物を「経」「史」「子」「総集(叢書、類書)」「小学類・別集・小説・筆記・雑ざつ」に分類されて階級付けされています。]

 つまり『詩経』は儒学の経典として、その読みや解釈も儒教の権威を説く内容として読み解かれてきました。そういう答をしないと科挙試験にパスできなかったのでしょう。そんな解釈が二○○○年続いていたのです。二〇世紀に入ってフランスの中国学者によって、これは「詩」の本だから「詩(歌謡)」作品集として読むべきだという解釈が現れ、やっと詩として読まれるようになりました。

 さて、そもそも文章が始めて綴られたとき、それは〈詩〉の形をとっていました。語数を整えて書く(文字文化)とか韻を踏む(無文字文化)とか、厳格な規則はまだ制度化されていなかったけれど、歌を唄うようにつくられていたのです。声と歌を文字にすることは一つだったと言えばいいでしょうか。『老子』にもその傾向が実現されています。

『詩経』はたしかに中国最古の詩集です。しかし、これは文字文化が成熟した周の時代の作品です。甲骨文や金石文研究が豊かな成果を挙げるようになって、そこに、それよりもっと古い詩はないのかと考えるのは当然です。ある日本の漢詩集案内(入門書)に、三皇五帝の一人である堯(ぎょう)帝の時代に農夫が謡っていたという歌謡の詞が紹介されているのがあります【資料1】。なかなか素朴で古代の詩らしく読めます。しかし、この詩は司馬遷の『史記』の本紀(堯帝の章)には紹介されてはいません。この詩がみんなに知られるようになったのは、一四世紀に編まれた『十八史略』という書物で、二つの点で、この農夫の唄は、最古の詩らしく捏造されたものではないかという疑問が残ります。

 この農夫の歌が引用される箇所の前に、堯帝が、子供が唄っている歌を聞く場面があります。その詩も『十八史略』には引用されています、この子供らの唄の方は選ばず、農夫の単純な歌の方だけを選んでいるということが一つ。編者の「古代」に対する偏見というか先入観が、これを選ばせている感を拭えません。それに、農夫の歌も、古いものは単純素朴だったというのでそれらしく後世(あとで)作られたのでは、という匂いがしないでもない。これが二つ目の理由です。

 このエピソードは『十八史略』で有名になりましたが、内容は堯帝の時代、平和で豊かな時代が五十年以上続いている中、人民はどんなことを考えているのか、私の政治に満足しているか、問題があったら解決しなきゃいけないと側近に尋いても問題ありませんとしか答えない、それならばと、堯帝は身分を隠して街へ人民の様子を探りに行った。そこで子供らの唄うのを聞いたのですが、その歌詞が先ほどの引用です。これはどうも大人が無理に子供に唄わせているようで、堯帝は気に喰わない。とそこへ、一人の老いた農夫が何かを頬張りながらお腹をポンポン叩いて足で拍子を取りながら、こんな歌を唄っているのに出喰わしました。これを聞いて堯帝は自分の政治が間違っていなかったことを確認し安心したという話です。この最後の一句、「帝力何有於我哉(ていりょくなんぞわれにあらんや)」は、「帝(みかど)がなにをしているのか、帝にどんな力があるのか、ワシはなんにもしらないよ、でも自分で自分のことをやって毎日つつがなく暮らせているよ」という老農夫の独り言のような歌で、これは『老子』の中で、国の指導者の理想型として繰り返し語られているところです。自分の政治について人民に意識させることなく、人びとが豊かな暮らしを営むことが実現できている、そんな天下の治めかたです。このエピソードとそこに引かれている歌は、『十八史略』に採用される前にどこかに誌されていたものと思われます。まだ調べがついていませんが、ともかく今日の課題中国大陸で最も古い詩の例とするのには、ちょっと憚る感じです。

 この農夫の歌で連想するのは『詩経』の詩です。まず『詩経』の始めから八番目と十一番目に収録されている「芣莒(ふい)」と「麟之趾(りんしし)」をご紹介しましょう【資料2】。こういう語句の繰返しは舞踏を伴って歌われていたことを強く連想させます。つまり、単なる「文字」の表出ではなく、もっと「身体的」な歌の言葉なのです。同時にいうまでもなくこの舞踏は、神々に捧げられるものでした。当然踊りを観ている周りにいる人びとも手拍子をとり、声を合わせて歌っていたのでしょう。この身体的言語としての歌のかたちに、始源性を見ることが出来るようです。

 次に、『詩経』の冒頭に置かれた(編集された)詩を取り上げてみましょう。

 題は「関雎(かんしょ)」【資料3】。(作品の細かい読みは当日喋るとして)、これは現在、婚礼の時に唄われた歌だというのと、巫女が祖霊の降臨を乞う歌だというのと、いくつかの解釈がされています(昔は儒教的こじつけで別の解釈がされてきたのですが)。

 解釈はいろいろ可能ですが、ボクが注目しておきたいのは、この短い詩には、鳥と草摘みが歌い込まれていることです。先ほどの「芣莒」も草摘みの歌です。草摘みの歌が『詩経』にはたくさんあります。若草に呪力があり、若草を摘みそれを蔬菜に料理するというのは一つの呪的行為であり、愛する者同士結ばれるようにという〈願掛け〉として、人びとのあいだに共有されていたのでした。

 この若草摘みのテーマが、じつは『万葉集巻之一』の巻頭に引用されています。ワカタケルの王(稚武、のちの雄略天皇)が作られたとある長歌【資料4】です。日本列島の古い歌がいかに中国大陸の伝統を踏襲しているかに感じ入ります。 

 菜を摘むという日常的な個的な行為が、呪的意味をまず中国から(朝鮮経由で)与えられ、大和朝廷で歌と踊りの定式を獲得し、宮廷などで披露されていったのでしょう。万葉集の巻頭の歌に、稚武王(わかたけるのおおきみ)の作として収録される前に、伝承として日本列島における呪的意味が満たされ、大宮人の宴と儀式に組み入れ伝えられ繰り返し演じられていったのでしょう。それが巻頭の位置を得た第一の理由かと推測します。

 それから、この稚武王の詩では登場しませんが、『万葉集』でよく詠われているのが鳥です。

『詩経』でも「関雎」以降、鳥は、天と地の間の使いをする呪力の持主として崇められ、歌われています。

『万葉集』でもそうですが、のちのち鳥のテーマは絵画の分野で大きな位置を占めていきます。それは、おそらくこういう詩(歌謡と舞踊の歌)と深くつながっているようです。この「歌」と「舞踊」という身体による表現行為と土偶や壺などを作る行為とは、ひとつながりの古代的表出行為として観察できるようです。(この観察報告は、今後の課題です。)