老子と無文字文化

3月26日(金)のABCで、日本の<無文字文化>のことを整理しておきました。

この<無文字文化>は決して過去の過ぎ去った遠い時代のお話=歴史ではなく、現代の爛熟した<文字文化>時代にあっても、大きな働きをしていることを、予感として確認出来たと思います。

今日5月15日(土)は、その問題を踏まえて、もう少し先へ進んで行きたいと思います。

問題の一つは、『老子』が書かれたころの中国の<無文字文化>はどのようなものであったか、日本のそれとどこが異なるか、考えておきたいということです。

1980年代ごろから中国の考古学は急速な発展を遂げてきました。その成果に学びつつ、『老子』が語る<中国の無文字文化>を読み取ってみたいと思っています。

今回はその第一歩です。

現代の<文字文化>にあって大きな働きをしている<無文字文化>というのは、こんなふうにいうことが出来ます。

文学作品は<文字>で構成された芸術作品だけれど、視覚に訴えてくる<文字>を通して、作者の<声>を聞かせ、その<声>を通して、文字面が羅列されて生まれる意味の彼方にある<なにものか>に触れさせてくれる。そのとき、その文学作品は、人を動かす。つまり、その作品を読んだ人を感動させる。

同様に、絵画は、文字を使っては表現しない芸術だから<無文字文化>の作品なのではなくて、高度な視覚に訴える表現によって絵画は、ただ<視る>だけでなく、<視る>ことを通して、その画面の像(イメージ)に潜んでいる<声>を聴き取らせ、作品が作り出している<なにものか>に触れさせる。それに触れたとき、その作品は感動を与えてくれる絵画作品となるのです。その<なにものか>とは、<生命の鼓動>と言い換えてもいい。

そして、この<なにものか>こそ、<無文字文化>がもたらすものであり、<文字文化>はこの<無文字文化>の働きによって、成熟しているのです。

この<文字文化>に対する<無文字文化>の役割は、『老子』が説く「反」(「道(タオ)」の原理)に相当するのではないか。

このことに気づいて、そこから、二つの課題が生まれてきました。

一つは、『老子』全文を「反」をキイワードに、もういちど読み直してみること。

もう一つは、この<無文字文化>の「反」としての働きに留意しつつ、諸作品を眺め味わい、美術史・文学史を見直していくこと。

どちらも、根気のいる仕事ですが、いろんな出会いが待っているようで、楽しい作業になりそうです。