岡倉覚三のアジア愛  あるいは、なぜ岡倉はAsia is one.をその後言わなくなったのか

なにかの出来事を「歴史」のひとこまとして語ろうとするとき、それを実証するために、その出来事を目撃した人、経験した人の証言を引用する。当の本人はなにも言っていなくても、その出来事、それに関わった人物の身近にいた人の証言は身近な存在であったというだけで信用度が高くなる。それが、その出来事から遥かのち、何十年も経ってからの回想であっても、その証言者が身近な人だったという理由だけで、信用され引用され、「事実」として流布される。

たとえば「ゴッホの自殺」という出来事もその一つ。ゴッホ(1853~90)が亡くなる一ヶ月前に彼の絵のモデルになった下宿先の家主の娘さんが、すっかりお年を召した事件の五十年後に語った顛末が、「ゴッホの自殺」の最も信頼できる証言として、その後(1950年以降)の「ゴッホの自殺」を語り考えようとする人の「裏付け史料」となって引用されていったのも、その好い例だと言えるでしょう。

「事実」の虚構化、とでも言えばいいか。こういう現象はいたるところで起こっています。

岡倉覚三(1863~1913)の場合にも、それが観察出来ます。今回あらためて『The Awakening of Japan』を読み返し、いくつか大きな決定的な確認が取れましたので、その報告をしたいと思います。