『失われた時を求めて』の森へ(4)夜明けの汽車の窓の日の出

プルースト(Marcel Proust 1871〜1922)の『失われた時を求めて A la recherche du temps perdu』、最初の「第一巻 スワン家の方へ Du côté de chez Swann」がグラッセ書店から刊行されたのは、1913年11月でした。自費出版でした。

ガリマール書店、ファスケル書店から出版を断られて(1912年12月)、一年後です。その後ガリマール書店が発行している『NRF』誌の顧問をしていたアンドレ・ジードが、この判断は大きな誤ちだったと詫びを入れ、第二巻以降はガリマールから刊行されていくのですが、プルーストのこの本に関する構想もどんどん変わっていきました。

始めは三巻構成;『失われた時を求めて』を全体のタイトルとして、

 第一巻「スワン家の方へ(あるいはブルジョワ社会)」

 第二巻 「ゲルマントの方へ Le côté de Guermantes(あるいは貴族社会)」

 第三巻「見出された時 Le Temps retrouvé(あるいは「永遠の憧れ」、二つの「方」の出会い)」。

最初1913年以前は、総題としてIntermittence du Coeur「(心情の間欠」と日本語では訳されて来ている)としていました。

それから、どんどん、構想か膨らんでいきます。10年後全体の草稿は出来たのですが、その完成(校了と出版)を待たずにプルーストは亡くなってしまいます。そのへんのことも、事実の裏付け調査ではなく、彼の構想の変容に伴う思想の現れが、われわれに伝えてくるものを考え学ぶことは、大きな課題ですが、今夜は、そのあと、つまりガリマール書店から出版された『花咲く娘たちのそばで A l’ombre des jeunes filles en fleurs』が、1919年12月にゴンクール(Goncourt)賞を受賞することになったときのことをちょっと考えておきたいと思います。そのとき、10名の審査員のうち6票がプルーストに、4票はロラン・ドルジュレス(Roland Dorgelés 1886~1973) の『木の十字架 Les croix de bois』に投じられたという経過があり。これが当時大きな論議を呼びました。『木の十字架』は第一次世界大戦で兵士であった青年の体験に基づく小説だったからです。

プルーストの『失われた時を求めて』を読み考える上で、第一次大戦は避けられない問題です。最初の出版主だったグラッセ氏も戦場に駆り出され、行方が判らなくなっています(1916年スイスの病院に居たことが判ります)。プルースト自身にも、病身にもかかわらず徴兵検査の召び出しがくるほど(1915年5月)、誰もが戦場へ駆り出される状況だったのです。グラッセと話し合って続巻はガリマールからに決まって出版へ動き始めた矢先、印刷所の植字工がみんな応召され、『花咲く娘たちのそばで』の校正刷が出なくなったこともあり(1917年、校正刷をじっと待っているプルーストを想像してみて下さい)、

その戦争の影を『失われた時を求めて』の本文のなかから読み出すことも大切な作業です。

ボクはこの辺のことを考えながら、そのころスペイン風邪がヨーロッパを席巻し、パリの人たちの脅威になっていたことも思い合わせて読んでいきたいと思っております。

第一次世界大戦で、フランスの戦死者は135万人。1919年1月から6月にかけてパリで講和会議が開かれ、6月末ヴェルサイユ条約が締結。勝利国となったフランスですが、1914年以降ドイツの進攻に押されてフランス領内が戦場となっており、その傷痕は大きく、人びとも疲弊していました。ゴンクール賞は、休戦から一年後です。

ついせんだってまで続いていた戦争の悲惨さを、若い従軍兵士がじっさいに目撃して来た経験を綴った小説とブルジョワの金持ちの文学者が戦争にも行かず、凝りに凝った文体で旧社会を舞台にした小説と、どちらが、その年の文学活動の最高の栄誉にふさわしいか、それが議論の中心であったのですが、この問いは、いまも考えねばならないテーマです。

そのことを頭の隅っこに忘れず置きながら、今回は、その「花咲く娘たちのそばで」のなかの一節を読んでみたいと訳してみました。