2016年の読書より

2016年も、いろんな本を読んだ。いただいた本も多いし、ウェブの通販でもずいぶん買った。

ときどきは、書店へ出かけて、手にとってぺらぺら眺めてみるのは、やめられない。通販では、内容予測がほぼ確定している本しか注文しないが、店頭では、思いがけない本をみつけたり、それを買って帰って読んで、いろいろ教えられたり、新しい楽しみと出会ったりする。

たくさん読んだこの一年の読書のなかから、記録しておきたい出来事が二つある。

もう何ヶ月か前の話だが、京都のSURE という出版社から一冊の本が送られて来た。封筒に「著者代」とあった。封を開いてみると、鶴見(俊輔)さんの『敗北力』だった。

著者が出版社に依頼して送って下さる本に「著者代送」と記してあることはよくあるが、その場合、著者は存命中なのがふつうである。当然どなたかの最新のご活躍の一端を送ってくださったのだろうと、いつものように封を切った。ところが、そこから出て来たのは、すでに亡くなられた鶴見さんの著書だった。鶴見さんが冥界から送ってくださったような気がして、その本を開く手が少し震えた。

いまも、その「著者代」と書かれた封筒を捨てられないでいる。

同時に届いたもう一通の手紙が、鶴見さんの奥さんからの手紙で、ボクの近著『自画像の思想史』を読んで、その感想を綴ってくださっていた。

ボクは鶴見さんがご存命のあいだは、本を出すと送ってきたが、こんかいの『自画像の思想史』は、亡くなられてしまったので、送らないでいた。奥さんは、新聞に載った書評を読んで、この本を注文され、読了されたのだった。少女時代のご記憶を呼び起す本だったと誌されていた。「あとがき」に、ボクがこの本は鶴見さんに捧げたいが、鶴見さんはもういない、というようなことを書いたのを(わざわざご自分で購入された本のなかに)見つけて、奥さんはやはりなにか不思議な出会いを感じられたようだった。

「著者代」は、奥さんの指示だったことにちがいない。(奥さんは、鶴見さんの遺著が出たので別便で送りますとは手紙のどこにも記しておられなかった。だから、奥さんの指示だったにちがいないというのは、ボクの推測にすぎない。いくつかの不思議なそして幸せな巡り合わせが、ボクのまわりに一瞬渦巻いたのだ。)このお手紙もボクの宝物となるだろう。

そういえば、ボクは、数年前に鶴見さんからいただいた一つの葉書を、本棚に立てかけて飾っている(2011年5月7日の日付。それから半年後鶴見さんは倒れられ、この葉書はボクにとって最後の便りになった)。そこには、《あたたかくなって、赤ん坊を町で見るようになりました。いやおうなしに、私のいない日本を考えます。》と記されている。

鶴見さんはこの地上にいなくなったが、鶴見さんの遺した言葉は、ボクたちに投げかけ続けられている。

『自画像の思想史』を責了したころだった。長い仕事を手放した奇妙な解放感を抱いて、本屋さんへ出かけた。新刊の文庫の棚をあれこれ眺めていると、『ひとはなぜ戦争をするのか』というアインシュタインとフロイトの往復書簡が文庫になって再刊されているのを見つけ、ペラペラとページを繰ってみた。と、―「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか。彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです―というアインシュタインの言葉に出会い、これは捨て置けないと、購って帰り、一息に読んだ。

この文庫には、現代日本の脳学者と精神分析医のお二人が解説をつけている。脳学者のは、解説というにはひどすぎる。アインシュタインもフロイトももう古い、いまはITの時代だからと、自説を振り回すだけで、アインシュタインとフロイトから自分がどんなメッセージを受け取ったかも語っていないし、受け取るべきかを読者に告げようともしていない(ひとはなぜ戦争をするのか、本気で心配なぞまったくしていない人の文章だ)。もう一つの解説、精神分析医学者のほうは、もう少していねいに、アインシュタインとフロイト(とくにフロイト)の言葉に寄り添い、二人の言おうとしていることを伝えようとしている。

それにしても、驚き、同時に悲しくなったのは、二人の解説者が、どちらも、《知識人は紙の上の文字を頼りにして、複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとする》というアインシュタインの言葉に、留意していないことだった。お二人は、この言葉になにも感じなかったのか。

この言葉は、二人の解説者にとっても、もちろんボク自身にも、そして日本の、いや現代の世界中の知識人に突きつけられた警告ではないか。この言葉を前にして、ボクたちは、身を糾し、心を洗い直さねばならない。その言葉に撃たれて、思わずボクはこの文庫本を買って帰ったのだし、この言葉を巡って、あらためて自分(たち)を見つめ直す機会を作りたいし、作り直さねばならないと思う。われわれが、どのくらい、《紙の上に書かれた文字(情報)だけを頼りに、この複雑な現実を安直に整理して解ったつもりになっているか》、生きている一瞬一瞬ごとに、振り返らなければならない。

この言葉を、絶えず、頭のなかの出発点に置いて、アインシュタインとフロイトの84年前の言葉を読めば、そのひとつひとつが、新鮮な姿でわれわれの前に現れてくるのではないか。そういう解説を読みたいと思う。これは、ボク自身が書くしかないか、と苦笑いする一方、現代の日本の知識人の傲慢さと鈍感さに、考えこんでしまったものだった。(忘れず付け加えておこう。ボク自身も、そんな鈍感さと傲慢さを無意識の裡にいつも振り回しているにちがいなく、出来るかぎりそれに気づかねばならないと戒めていることを。この心構えは、鶴見さんの《自分がいなくなった後の日本を憂えている》という遺言を、ボクたちがどう受け止めていくか、と繋がっている。)

2016.12.28