ミケランジェロ論を書きながら、ユダのことがとても気になっていた。
ユダは、なぜイエスを売ったのだろう。「私を裏切る者」とイエスは言ったが、ユダはお金欲しさに師を裏切ったのだろうか。それなら、ユダが、イエスの死刑が決ったとき、銀貨を捨てて首を吊ったのはなぜか。
ユダは、師を試そうとしたのだ。師を試すことは、自分を試すことである。ほんとうに彼は救い主キリストなのか。その疑問は、イエスへの判決とイエスの処刑に臨む態度で、ユダに答を与えた。
他者を試そうという行為は、じつは、われわれはしょっちゅうやっている。そういう日常の小さいと思っている言動のなかに潜んでいる事の重大さを、「最後の晩餐」と「ユダの自殺」の記事は伝えようとしている。
イエスが連行されたとき、「お前はあの男の仲間だろう」と言われて、「あんな人知らない」と三度も否定したあと、「どんなことがあってもあなたを裏切るようなことはしません」とイエスに誓った自分を思い出して号泣するペテロは、ユダのもう一つの姿なのではないか。
いま、「ユダ」でない人間はどこにいるというのだろうか。
ミケランジェロは、ついにユダの像は作らなかったが、とくに晩年の仕事をみていると、彼がずっと「ユダ」であることとは、と考えていたことが伝わってくる。
2013.6.6