タイトルとはなんだろう?

作品のタイトルは作者がつけるもんだ、といまでは誰もそのことを疑わない。しかし、絵の場合、作者が責任をもって自分の作品のタイトルをつけるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。

ゴッホは、ほとんど自分の作品にタイトルをつけていない。現在われわれが親しんでいる「烏の群れ飛ぶ麦畑」も、ゴッホが死んでずっと後に慣習化した呼び名だ。

タイトルと作品の内容は、それぞれに干渉し合う。そういうタイトルなら、この絵のこういう描きかたはこんな意味をもつ、とか、こんなイメージにこのタイトルというのは、作者の意図はどこにあるのだろう、とか。タイトルと作品のメッセージとは、不可分である。

作家がいいかげんにつけたものも多いようだが、いったんつけられてしまうと、そのタイトルのその作品という関係は固定化されてしまう。戦争画などで、当時の時代に媚びたタイトルをつけて、戦後別のタイトルに変えているのに出会う。これなど、昔は「コレコレ」のタイトルだった「ナニナニ」という作品として、人目に晒されるわけである。

タイトルの持つ意味について、ふと考えこんでしまったのは、先日、なぜそういうタイトルがつけられたのか、どうしても理解に苦しむタイトルに出会ったからである。いま、長崎のハウステンボスで開催中の「幻のゴッホ展」に、ゴッホが描いた石膏像の油彩画が二組出品されている。絵をよく観れば、それぞれ二つの石膏像の絵は、同じ像を別の面から描いたことは疑いようがない。なのに、タイトルが異なっているのである。「ヴィーナスのトルソ」と「女性の石膏トルソ」と。こんなにちがうと、ゴッホが同じ石膏像を描こうとしながら、出来上った絵に別々の意味を持たせたかったのか、と考えたくなる。ところが、この絵にゴッホは、タイトルはつけなかったのである。この展覧会の企画者か、この作品を所有する美術館かが、なにか考えがあってこのタイトルにしたとしか思い当たらない。タイトルを操作することによって、新しいゴッホ解釈を示すことができるというのだろうか。としたら、それは許すことはできない。

2012.9.12