岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 天平時代(その2)

同じ三月堂の金剛神(塑像、173.9cm)は、東大寺の守護神である。大金剛、つまり天竺の武器(印度の『ヴェーダ』に出てくる)バジュラ(サンスクリット語でvajra)の大きいのを手にして、忿怒の姿をしている。その「作風」は梵天(月光菩薩)に似ている。梵天(月光菩薩)を女性とすると、その兄弟か従兄弟くらいの関係にあるものといっていいだろう。頸あたりの肉は少し肥りすぎているが、じっくり見るとその「肉取り」(肉づけの仕方)は巧みで、胸部の肉は鎧の上からその動き具合が透けてみえるようである。胸、そのほかなども左右にちがいがあり(バランスがとれていて)、「精神」(執金剛神の役割と思想)が生かされている。身につけているものも、時代を経てだいぶん剥げ落ちているが、模作(東京国立博物館蔵)はその点少し想像を加えて仕上げている。この像は昔からとても有名で、平将門の乱のときには飛んでいってこの乱を平定し、戻ってきたときには、汗が流れ落ちていた(頭頂の飾りが蜂になって飛び去り、将門を刺し殺した)という。また平重衡しげひらが東大寺に火を放ったとき(治承4〔1180〕年12月)には、水を吐き出して火事を防いだという言い伝えもある。最近まで秘仏だったが、今は見ることができる(現在は毎年12月16日のみ開扉)。戒壇院の四天王と共通する趣きがある塑像である。三月堂の創建のときに作られたものと思う(三月堂は、もと金鐘寺こんしょうじの仏堂、天平18〔746〕年頃、不空羂索観音ふくうけんじゃくかんのんを本尊に建てられた)。竹内久一教授の模作は彩色鮮明で、諸君は実物と違うというかもしれないが、これは、さきほどもいったように、実物をみながら往古の創作当時のありさまを想像して制作したからだ。

そもそも模写には、二種類の方法がある。剥落(退色)したところをそのままに写す方法と、もともとはこうであったろうというところを推測して「復古的に」写す方法である。後の方法は僅かに部分的に遺っているものから、全体を復元するのだから、模作する人にとっては苦心の多いところである。つね日頃から古仏に慣れ親しんでいる者からすれば、前者の方が自然でいいという人もいるだろう。これは、模写復元の問題として、今後もっと研究しなければならないことである。

奈良時代の仏像で、新たに制作されたものがあるが、それらがはたして当時もこんなに「華美」(はなやかでぎらついて)であったか、そうだとしたら、天平時代の寺院建築物も同じように「華美」でなければ道理が合わない。しかし、寺にそういう記録は遺っていないから、判断のしようがない。ともかくも、天平時代の彫刻彩色はこんなふうだったのかもしれないという一例を示しただけのことだ。

彫刻の彩色については、いろいろ議論がある。東洋にあってはごくあたりまえのことなのだけれど、西洋ではこれが大問題になっていたのだ。それについての著書もあり、彩色がされていたのか、されていなかったのかの議論をさかんにしている。大理石に馴れた眼には、彩色した彫像は異常に映るのかもしれない。純白、あるいは一定の色でなければ彫刻とはいえないと主張する者は、ギリシァの古代においては色彩を施していたけれど、だんだんいろんな色を試みた末に、純白が最も尊いというところに落ち着いたなどといっている。そういう人は、したがって、東洋彫刻の彩色されたのを見て、「野蛮国」はいつも彩色された像を好むといって嫌っていた。ところが、最近ギリシァ、アレキサンドリアなどで発掘されたギリシァ古代の家屋の柱の装飾など、赤や青や黄色に塗られていたり、大理石彫刻にも着色されたのが出て来た。それらがすべてギリシァ盛時(クラシック期)の美術だったから、その白い色を尊ぶようになるのはギリシァ時代盛期のあと、スコーパス(Skopasスコパース、前4世紀の彫刻家、建築家)の時代の頃からで、ギリシァ全体がそうだといえなくなった。建築の彩色されたものもいくつか発掘されている。これはつまるところ、白は寒々しい印象を与えるというところから起こったものか。彩色されていないものには、必らず「渋様」の古色がつけられている。あるいは、木を「台」(素材)として、象牙、金などを装飾して彫刻像にした、顔は象牙で衣服に金の眼を嵌め込んだり、ルビーやサファイアなどの宝石を用いたりしたのもある。あの大彫刻家フィディアス〔フェイディアスともいうが〕、彼は大理石は用いなかったという説も登場している。要するに、彫刻の彩色はいかにしてなされたかは、諸君がこれから研究しなければならないことだ。

さて、三月堂だが、これは東大寺の境内にある(大仏殿=金堂を中央に、戒壇院=西の反対側つまり東にある)。平重衡が火を放ったときも、後に三好松永の乱のときも、二月堂は焼けたが、この三月堂は幸いにも延焼を免かれ、道内の諸仏が無事遺っている。

本尊は不空羂索ふくうけんじゃく観音。木像(脱乾漆造漆箔)で、高さ一丈六尺余(362cm)。頭上の瓔珞ようらく(宝冠)には曲玉まがたま(数百個の玉と銀仏)が飾られている。日本固有の装飾が中国伝来の仏像に施されている例である。不空羂索とは、「網や索も必ず空しからざる」という意味で、網を手にし、人をあまさず救う菩薩である。造形の品位は少し劣るところがあるが、この時代の作として有名であったことはうなずける。この菩薩の左右に梵天(月光)と帝釈天(日光)が立っている。

三月堂には、ほかに四天王がある。乾漆像で、脚の下に踏み付けている邪鬼を入れて高さ一丈四尺(持国天330.8cm、増長天306.0cm、広目天327.2cm、多聞天306.0cm)くらいである。乾漆の製法にはいろいろある。木屎こくそ(刻苧こくそとも書く)で固めて漆を塗る方法。泥を盛って形を作り、これに布を貼って漆を塗り、あとで内部の土を取り去る方法。これは張子のように出来上る。この方法は、あとで腐蝕する心配がない。軽いから、この四天王のような大きい像でも動かし易い。この方法は天平時代にもっぱら行なわれたようだ。本校にもこの方法を研究して、コピーを作ったのがある。中国では元時代にさかんに行われている。唐代にも行われたという記録がある(起源は戦国〜漢時代の夾紵きょうちょjiazhu)。四天王が踏み付けている邪鬼にも精巧なのがある。一人の王が二匹の邪鬼を踏みつけているのもある(増長天)。解剖学的見地からすれば、興味深い骨格である。この三月堂には、ほかに地蔵の像(鎌倉、木造89.0cm)などある。奈良へ行ったときはぜひ立ち寄ってくるといい。

次は、法輪寺十一面観音。法輪寺は法隆寺の隣にある。この寺に大きな十一面観音が安置されている。その丈、およそ二丈余り(360cm)。天平時代の仏像のなかで最も大きい(現在は平安前期)。「木像」(一木造)。顔のプロポーションがよくないが、大きさにかけては驚かされる。

秋篠寺(本堂=鎌倉初期再建。三間×二間の母屋。一間通りの庇を巡らせ、寄棟造よせむねづくり、本瓦葺ほんかわらぶき。四隅に束柱つかばしらのある壇上基壇。円柱や母屋の組入天井etc、天平仏堂の古制を遺す)は、古い建築をのこしていて、いろんな仏像がある。技(伎)芸天女と伝えられている一体がある。口を(軽く)開け(首を傾げ)、笑みを含む。これは伎芸天ではなく、観音の一体(仏を取り巻く音声おんじょう菩薩)かもしれない。ふつうの伎芸天女なら、片手に花を持ち(左手に天華てんげ、右手に)裙くんを掲げる(つまむ)姿をしている(宝冠を頭に、髪は肩に垂れている)。天平時代は(顕教で)、密教は日本に入ってきていないから、伎芸天の経軌はまだ伝わっていなかった。この像の微笑して歯を見せ、左手を胸のあたりにおいて(じっさいは垂らしている)、盤を掲げるような仕草をし、右手—これは後世の補作かもしれぬが、右手は垂らして何の用をしているのかよく判らない(手招きをするように曲げている)。他の伎芸天と様式はずいぶん異なる。そこに味わいもある。木像(205.6cm)で、頭部だけ乾漆である。伎芸天については、これからも興味深いテーマである。

秋篠寺にはまた(伝)救脱ぐだつ(239.2cm)菩薩がある。乾漆仏(頭部のみ、体部鎌倉期の木造)で、いい出来具合である。

法華寺は光明皇后祈願の寺で、秘仏十一面観音を安置する。高さ二尺五寸余(100cm)。伝えられているところでは、異人が天竺(唐という説もある)からやってきた。名を賢文子けんぶんしという。日本に生きた観音がいると聞いて、それを「写真」(描こう)しようとやってきたという。観音というのは皇后のことである。その願いは叶えられた。そして、二体彫り上げ、一体は日本に置いておき、もう一体をもって天竺に帰っていった。途中で消え亡うせたという説もある。その像は、まことに「華奢」で「粋」である。姿形は細長く、お顔はきりっとして光明皇后はこんなお方であったろうと忍ばれる。軽やかさもあって、見ていて飽きない。

滋賀県彦根市の近く「観音寺村」(向源寺か)に十一面観音の木像があると聞く。私は実際に見ていないが、写真をみるかぎりなかなかの出来で、法華寺の観音より優れ、三月堂の観音(日光・月光)には劣る。どの点が及ばないかといえば、「品位」の点である。

新薬師寺の十二神将。この寺は聖武天皇の建立で、十二神将はその形がなかなかいい。戒壇院四天王に比べれば、一段下るが、そのすぐ下に位置づけられる。

法隆寺伝法堂の釈迦三尊。これは乾漆像で三組九体から成る。この堂には近傍の亡びた寺の仏像が集まっていて、いいものがある。

唐招提寺の鼓楼には、観音像や四天王などたくさんの仏像がある。その他、天平彫刻はたくさん遺っている。あの夢殿の行信ぎょうしんの坐像は塑像である。法隆寺金堂の吉祥天、東大寺の行基ぎょうき菩薩、法隆寺の梵天、千手観音、興福寺の四天王など、奈良にある仏像の大半は天平時代の作である。天平時代は、一定のレヴェルを保っていて、他の時代とは一線を画す。

絵画については、遺っているものはない。

天平時代の第二期、孝謙天皇の時代(749〜)になると、衰頽(すいたい)の兆きざしが表れるというのはすでに述べた。その時代の作品では、まず西大寺の四天王があげられる。銅造(漆箔。鎌倉期に再現。多聞天は桃山以降の木造)である。これを鋳造したとき、銅がなかなか溶けない。そこで、天皇が手ずから坩堝るつぼを撹拌された。すると、たちまち銅が溶解したという説話がある。有名な仏像だけれど、先日写真でみせたように、容貌に精神的な緊張感がなく、衣紋なども乱れていて、リズムがなく、「静粛」な(静かで引き締まった)感じがない。戒壇院の四天王に比べれば、「大いに下る」。とはいえ、近世の作に比べれば、決して劣るものではない。

法隆寺(金堂)吉祥天女(168cm)、それからあちこちの堂の観音など、この頃の作はすべてプロポーションが悪く、天平時代以前は顔や頭部が大きすぎてバランスが悪かったが、天平末期になると顔や手腕などが小さすぎて肩の辺りが大きすぎ、精神の表現に欠けている。おそらく、あのころは、社会も腐敗していて、いたずらに奢侈に走った結果こんなアンバランスな美的感覚に陥ったのだろう。かつてのあの天平時代の完全さはもう見ることができなくなってしまった。  要約するに、天平時代の最盛期は、天平の初年(729)より聖武天皇の時代(→749)までで、その終わり頃より孝謙天皇に至っては「華美無気力」となって衰えはじめ、光仁天皇の時代(770〜781)は、さらに衰頽の一途を辿り、空海らが登場して、一変し、平安時代の美術が興るのである。

天平時代の絵画で現存するものは、まことに僅かで法隆寺にもない。残念というほかない。一つ確かな天平時代の絵は、正倉院の「美人屏風」(鳥毛立女図)である。しかし、これは唐のもので、天平絵画とはいえない。

もう一つ、この正倉院の「美人屏風」とよく似ていて天平時代の作と推定できるのは、薬師寺にある吉祥天女の絵である。縦二尺横一尺(53.0×31.7cm)くらいの小さい絵である。このスタイルはまさしく天平式である。

本校が所蔵している吉祥天女の扉絵(『稿本日本帝国美術史』では「弁財天」。現在は13世紀としている)は、孝謙天皇の初期に属すもので、奈良にあったある秘仏の扉であったから、色彩が鮮明に残っている(奈良と京の国境、浄瑠璃寺の吉祥天女を安置した春日厨子の後壁と伝わる)。中央に吉祥天、左右に梵天、帝釈天、前扉四枚には四天王を描いている。この四天王は西大寺の四天王銅像に似ている。したがって、孝謙天皇の初め、天平美術衰頽の兆がみえる頃の絵とする。これらの絵、線はみな「繊弱」(弱よわしく)、肥痩ひそう(太い部分と細い部分のリズム)がない。太かったり細かったりはしているが、粗雑である。

博物館に普賢の絵がある。天平の末の作。空海時代に近い。

その他いくつか断片が遺っているが、大作といえるものはない。

天平時代の特質を整理すれば、まず第一は、「理想的」であるということである。その「霊妙高雅れいみょうこうが」さは、日本美術の全時代を通じて、再び出現することはなかったほどの極みに達している。この「高尚遠大」さは、当時の仏教が「高尚」であったからである。いきおい、美術家もそういう「高遠」な如来や菩薩、仏像を作ろうと努力したのである。後の時代、密教が入ってきて以降は、信仰は「実地的」に(現世利益を求める傾向が強まり)釈迦や弥勒菩薩を拝むようになっていく。さらに時代を経ると、不動尊のような「身近な」仏像を拝むようになる。美術の世界においても、そういう信仰が反映していく。定朝、運慶といった優れた仏師にしても、その天平美術の「高遠」さにはとうてい及ぶことはできなかった。

天平美術の特質の第二は、「意匠専一」(造形のためにすべてを捨てて身を尽くした)であることである。「理想的」な考えを実現するには、この「意匠専一」でなければならない。少しも無駄なものを表さず、ただ必要なものだけに力を注ぐ。むだな線など引かないで、力を一つところに集中させる。その技の巧みさ、妙なる冴えは、まことに驚くばかり。一見下手なように見えることがあっても、決してまずくはない。ちゃんと考えがあって、手を省いている。これはちょっとできないことだ。この特徴が天平美術に最も顕著に認められるところである。

もう一つ、天平美術で賞賛すべき点は、法則がないということである。時代によっては、法則はいろいろ生まれてはいる。しかし、この時代の法則はその人の「顕わそう」としたことが、作者自身の心から湧き出てきたものであって、決して流派があらかじめ権威をもって決めている法則ではなかった。まったく独自に工夫したその結果の作であり、古人の業績を気にすることもなく、それぞれが考え出して作っている。たとえば(戒壇院の)四天王の邪鬼をみるといい。邪鬼の形の一定の規則なぞなく、しかも邪鬼の邪鬼らしさをみごとに写し出している。いや、なんともすごいではないか。彫刻がその人体や身体の比率割合などに定式を出すようになれば、もうそのとき、彫刻は亡びているといっても過言ではない。

天平時代は、材料の選び方も自在で、後の時代のように、木彫家は木ばかりで仕事をし、銅像を作る者は銅しか扱わないなどということはなかった。天平時代という時代は、自分の思想を発表するのに、どんな素材であれ、それに最も適しているものを求めた。一個の仏像を造るに当っても、胴は木造にして頭は乾漆などというのもあった(秋篠寺の例は、現在では木造部分は鎌倉期の作とされている)。塑像、乾漆、木彫、銅像など、その選択はまことに自由、自分が考え求めるところに随ってそれらの素材を活かした。こういうことは実力(技術と思想の両方)がなければとうてい出来ることではない。これから美術家になる諸君も、法則に縛られず、自分の考えを大切にして、自分の考えに最も適わしい材料を選び、最も「高尚な」作品を作るよう努力しなければいけない。

いつものように、天平時代を終るに当って、この時代に名前をのこしている作者の伝記をざっとみておこう。

まず、賢問子(生没年不明)、稽文会けいぶんかいともいう、長谷寺縁起に出てくる。また稽文首ともいっている。(稽首勲けいしゅくんとも)。稽首勳を同一人ともいい、兄弟とも父子とも、いろいろ伝えられている。その伝記は「奇異」なもので、地蔵菩薩の化身だとの言い伝えもあり、春日作などとかいうのも伝わり、春日明神の示現ともいわれる。春日という名は、春日部に住んでいたからという説もある。要するに聖武天皇の時代にこんな人物がいたということだ。賢問子の作だという長谷寺観音(神亀6〔729〕年に十一面観音を作ったと伝える、神亀2年4月8日説もある、)は焼失した。その昔、法隆寺に彼の作の十一面観音があったというが、今はないから、なんともいえない。いまでも奈良に行くと、お寺で賢問子の御作だ、稽首勲の御作だと僧侶が力説している仏像があるけれど、これは信じることはできない。ある書には、藤原有澄のことだという。名から判断すると朝鮮から来たように思えるが、信じられる裏付はない。

公麿きみまろ(生没不明)。その父は百済からの渡来人という。百済での戦争から逃れてきたとも(白村江の敗戦時645か)。聖武天皇が廬舎那仏るしゃなぶつ(東大寺大仏)を建立されるとき、国中の鋳工があまりに大仕事なので名乗りを上げようとしなかったとき、公麿が出て、工事を担当指揮した。五丈六尺(現15m)の大仏は、前代未聞の大仏であった。『扶桑略記ふそうりゃくき』には「…天平勝宝元年同月(七月)廿四日…三箇年間、八箇度奉鋳大仏はちかいにわたってだいぶつをいたてまつる。大仏史従四位下国公麿、大鋳師従五位下高市大国、従五位下高市真麿」とある。大仏はなんどかにわたって鋳られ、鋳物師に大国、真麿などという者もいたことが判る。いずれも、この時代の大家は彫刻も鋳物の技術もこなしたのである。それは、ギリシァの昔でも同じことである。

僧観規(生没年不明)。十一面観音を作ったという。この人は死んだ後また現れたとか、奇異な伝説がある。

高男麿(生没年不明)。多武峯とうのみねの本尊を作った人として伝わる。伝記もなにも伝わっていないので、ほんとうにいた人かどうかすら怪しい。


高橋勇ノート

その他、天平彫刻としては、法輪寺十一面観音。高さ一丈六尺程もある木像。

それから法華寺にある十一面観音。法華寺は光明皇后が建立された尼寺で、その昔、藤原氏の娘が尼になってこの寺で修行したと伝えられている。そこに十一面観音がある。天平彫刻だが、彫刻家の名前は判らない。伝説では賢文子だという。この賢文子というのは、朝鮮の人だという説もあり、印度人だという説もある。印度の王が、その彫刻家に東国日本に生身の観音様がいると聞く、その像を模写して参れといったとか。生身の観音というのは光明皇后のことで、そういわれると、この観音像は皇后の肖像に似せているようにもみえる。お顔は「写生的」で、生き生きとしており、「精巧美麗」なこと(細かくきっちり仕上がっていて、とても美しく神々しいこと)、驚くばかりである。この観音像はどちらかというと「痩せ形」である。丈は僅かに四尺ほどにして、白木の造りである。昔から秘仏としてなかなか拝観させなかった。現在も管理している者がいて、そのいいつけを聞かないと見られない。

近江国彦根近辺の観音寺村というところに、一体の観音がある。これまた稀にみる傑作で、天平美術の作風をみせている。姿かたち「円満」にして(ふくよかで)「威厳」のある趣をしている。

薬師寺の東院堂に十一面観音がある。薬師寺には、天平時代の作が多い。新薬師寺も聖武天皇の建立であり、大きな薬師の像がある。十二神将は、さきの戒壇院の四天王と作風が共通している。

天平時代は二期に分けられる。その時期は細かくはいえないが、およそに別ければ、第一期は聖武天皇在世期、第二期は孝謙天皇時代。第一期は天智時代の「風習」(影響)を受け、天智時代の精神を失わない時機で、形もほぼ整い、精神も極めて鋭い。それに対して第二期、即ち孝謙天皇期の作は、形状の発達という点からみれば、第一期に勝れていても、精神が非常に衰えている。力は強いが粗野に流れ、柔らかいものは柔弱にゅうじゃくになりすぎて嫌味に流れ、円満なるものはさらに円満にしようとして、大きく大げさになっている。とはいっても、これらの作は、高いレヴェルの上での話で、後世の作の及ぶところではない。

興福寺北円堂の四天王は、乾漆像だが、この像など、まことに真に迫り、外面に力が「顕れて」いる。この四天王を戒壇院の四天王と比べてみると、戒壇院のは外面に力が出ていないように見えるが、その内面に計り難い力がみなぎっていて、侵すことのできないものを感じる。北円堂の四天王は第二期の作である。

第二期は、こういう具合で、力を外面の形状に出さないと人びとに感動を与えられないと考えるようになっていく。こういう考えは、すでに精神の衰えの兆しがある。第二期の作として代表的なのは、西大寺の四天王である。この像は「丈六尺」もある銅造である。孝謙天皇の時に作られたことが文献にみえる。その四天王の一つが意のままに鋳造できなかったとき、天皇みずから工場へ足を運び、その溶けた金液を掻き回し、みずから指揮を執って作られたとある。この四天王、形は極めて「鈍敏」(鋭敏の誤記か)であるが、いくぶんか品位に欠けている。

絵画

天平時代の絵画で現存する作は、非常に少ない。天平時代の絵を模写して、五、六○○年経ているものがあって、それはそれで別の作である。

正倉院に美人を描いた屏風がある。鳥の羽根を以て飾り、それに彩色し、顔にも色彩を施している。いまは羽根は剥落して、線描のみになっているが、天平の画風をそこからみてとることができよう。

吉祥天の扉絵がある、これは秘仏の厨子の扉絵で、戸は六枚。その一枚が美術学校に所蔵されている。裏は「開かない」。外面には雀が描かれていて、裏は胡粉を塗り、その上に梵天、帝釈天、四天王などを描いている。「美麗」なものである。この絵は第二期に属する。西大寺の四天王と「趣き」が共通している。秘仏だったので、光が当たらなかったから近世の作のように新鮮である。

奈良の美術はすでに述べてきたように、推古(飛鳥)に起源を持ち、天平に至ってその「極」(頂点)に達し、そこから衰えはじめる。物事すべて「進歩」すれば「変化」する理である。人すでに満足という思いに至れば、そこに衰退がはじまる原因が生まれる。

天平美術衰退の「大原因」は、天平の末期になって、朝政が乱れ、僧侶が権力を持ち過ぎ政治を動かそうとしたこと。郡県制度の維持のため大臣たちの諸国巡回にかかる費用が増えることになり、国庫は減少、そのため重税を課し、盗賊が増え、等々の悪循環を起こしはじめたことである。朝廷の驕りが極点に来て、官を売る者も現われ、宗教も理論のみに走って、現実の精神を失っていった。こうして、政治、宗教いずれも「紊乱びんらん」に帰し、社会は「腐敗」し、美術もこの影響を受け、「高尚」さを失い「柔弱」となっていった。強いものも「殺伐」たる強さしか表現しえず、かつての趣きを恢復できない。こうして奈良美術は、一転藤原美術へと場面を変える。宗教も一大変化を遂げ、政治の上では、桓武天皇が平安遷都を敢行する一大変遷が起り、すべての物事を一新させなければならない事態となる。この一新する「大気力」を起させたのは、ほかでもない、天平末期の「一大腐敗」があったからである。