岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 天平時代(その1)

いよいよ奈良時代のピークといえる天平時代に入る。この時代は、前の二つの時代、つまり、推古時代、天智時代の勢いを受けて、それを一層の高みへ到達させたもので、この時代には、ことさらに朝鮮や中国、インド・ギリシァ風の影響は認められない。推古時代に築かれた作風がますます「精巧」となり、天智時代に入って来た「新風」(外国の作風)が日本化されて一つの「進歩」をみせる時代である。その展開ぶりは、ちょうど中国唐時代とよく似ている。

奈良時代というのは、諸君もよく知っているように、非常に「盛大」で、その文化度は今日眼にできる僅かばかりの遺物を見るだけでも、その規模の広大なこと、華麗にして荘厳なことは納得できる。今日の奈良には東大寺、興福寺の寺領ぐらいしか遺っていないが、古の奈良は、今の西の京から春日山にまたがって、この原野を覆い、そこに整然とした都市が建設された。楼閣は空高く聳え、寺院の鐘の音は、条坊に響き渡り、天上の宮殿もかくばかりかと思われるほどであった。

しかし、東大寺はその後、再三炎上、西大寺も当時の面影はまったく残さず、元興寺、大安寺は荒廃して跡形もないのが現状である。僅かに当時を窺うことができるのが、薬師寺の塔と唐招提寺の一部ぐらいか。

とはいえ、この僅かばかりの遺物の壮観ぶりすら、後世には見ることができない。平安時代の遺物は規模も小さくなり、室町時代の美術は独自の発達をしたけれど、禅味に陥り、淡白を尊重したので、奈良時代の壮大さと比べることができない。たとえば、東大寺の大仏一つとっても、エジプト、アッシリアの昔のことはさておいて、同時代の東洋にあって空前絶後の大きさである。西大寺にしても、古い記録によれば、堂の四方に龍がいて、中央には鳳凰が玉を口に含み立っており、その壮麗なること、人びとは天上の楼閣にいる思いがした、とある。あの時代の人びとの生活の美、仏教の美は、日本の歴史のなかで類をみない。ことに正倉院の宝蔵(木造、二軒の校倉あぜくらと板倉からなる。寄棟造瓦葺、南北32m、東西9m、高さ14m、床下2.5m、聖武天皇遺愛品、東大寺文書など9000余点を収蔵)は、今日に至るまで無事伝わり当時の生活、少なくとも宮中の一部を知ることができる。それをみれば、その華麗さは想像できよう。

正倉院は聖武天皇崩御後一周年の祭祀に当って、娘の孝謙天皇が先帝の遺愛品をすべて東大寺大仏に寄附(奉納)し、その祭祀に用いられた幡や舞楽の面なども寄附された。それを保管するために建立されたものである。昔は、双倉ならびくらと呼んでいたように、大きい倉庫二つだったが、それでは充分でないので、あとで大きい倉庫の中間にもう一倉建て増した。三ツ倉になったわけである。校倉造といって、木を組み、床下六、七尺、その下は人間が通れるくらいに高い。だから大気の流通が十分で、倉内はつねに乾燥している。日本列島は海に囲まれているから、潮流のせいもあって、湿気が強い、普通の倉か石蔵や煉瓦造りの倉なら、当時の遺物をこれほどみごとに今日までのこすことはできなかっただろう。建築がすばらしかったので、番人もいなくても、その近くでは源平の戦い(治承・寿永の乱、1179—1189)もあり、三好・松永の争い(1565年)もあって、兵士どもが乱暴狼藉を働いたものだが、正倉院には手をつけなかった。これはじつに不思議なことである。やはり皇室の尊厳のなせるところかもしれない。

こんなふうに、「千百年の間」、宝物が無傷で守られてきたというようなことは、戦乱が繰り返され、国家や領地の主人が入れ替りつづけた諸外国ではとても考えられないことである。ヨーロッパ人がつねに誇るポンペイは、イタリア、ナポリの近くにある遺跡で、15、600年前、ヴェスビヤス火山が噴火して、一つの都市がその灰の下に埋もれてしまった。それを近代になって発掘したもので、ローマ時代の建築や当時の人の生活のありさまがそこからいろいろ判る。しかし、このポンペイにしても、たまたま偶然の結果、灰に埋もれて遺っていたので、正倉院とは違う。正倉院は保存しようとして保存してきたものなのだ。

正倉院は、天皇在世中、一度だけ勅使を差し向けて開くことができる。だから、ある時は50年、100年も開かれないことがある。開扉されるときは、重々しくとり行われる。倉の中に入るのは、天皇の住居に入るときと同じように、おいそれと周りに手を触れてはいけない。

明治維新の初め、華族の人たちの拝観を許可されたことがあったが、全員手に箒ほうきを持たされたという。御倉の中を掃除するという名目で入場を許したのだ。

正倉院に収められている多くの宝物は、美術としても、歴史の上でも、この上ない至宝で、その中に聖武天皇が平生ふだん使っておられた品もある。たとえば、じゅうぶん墨が染み込んだ筆を始め、剣、衣裳、履物もある。これらを見れば、当時の生活は現在の「外国風」に近く、床の上で履物をつけて歩いていたことなど判る。他に、碁、双六、琵琶、鏡などもたくさんある。これらを寄贈されたときの献物帳と呼ばれる目録は現在の遺物と完全に一致しないが、重要なものは揃っている。いくらかは散逸したようだ。たとえば、甲冑の類。おそらく昔の天皇が持ち出したのだろう、甲冑が一具も遺っていないのは残念である。

御物の中には、玻璃はり─ガラス製品もある。玻璃は西洋の比較的近年の発明のように思われているけれども、6000年以前の大昔のエジプトにもあった。それが、フェニキア、ギリシァに伝わり、中国の『北史』にも書かれている。中国に最初に登場するのは、六朝においてか漢の頃か。その製法が西域から伝わったのか、中国内でも独自に発明されたものか。日本にも昔からあるようである。古墳などから出土している。しかし、国外から製法を伝えられたものか、わが国内で発明したものなのかははっきりしない。出雲玉造と呼ばれる地名があるが、これは玻璃を製造したことを伝えるもののようである。正倉院にある玻璃は、切子玉もあり、その精巧なことには驚く。

織物の中には、ペルシァ風の模様のものもある。どこから来たものか判らないが、中国か朝鮮を経由して入って来きたのか、あるいは中国北方から西域を通ってきたのか。いずれにしても、正倉院の宝物は高度な文明の国の産物であることだけはまちがいない。

明治維新のあと、正倉院の調査をしたのは町田久成氏(1837〜97)である。その後、黒川真頼(1829〜1906)先生がやっている。黒川先生は、新たに唐櫃からびつを作らせ、そこに宝物を並べて入れるようにされたので、昔とは趣が変ってしまった。先年、宮内庁からのお達しで、夏の8月9月の間、虫干しをした。爵位を持った人及び「実技家」にだけ特別拝観が許された。これは願ってもないいい機会だった。君たちも機会があったらぜひとも観てきたまえ。発見するところ、じつに多いことだろう。

正倉院御物の内容が明らかになって、始めて奈良時代を語ることができるというものだ。その前の天保時代の頃に、開扉かいひされたときに模写した絵もいくつかあり、それまではそういう絵から奈良時代の一端を理解していただけだった。こうして、御物の調査が進んで、発見できたことは計り知れない。これらの御物は天皇家に属するもので、一般の人間には触れる機会はないといえ、それらについて知識を持つ事によって、奈良時代のその「華麗雄大」さが裏付けられる。

もちろん、他にも奈良時代の「壮大」さを実証するものはある。金銅仏像など、丈六の作が多くある。ただ形が大きいだけでなくて、一種独特の「妙味」(美しさ)がある。次の時代になって、定朝やさらに後の時代の運慶などが登場するが、その美しさの「霊妙」なことと「高尚」な点では、定朝も運慶も及ばない。

ギリシァの彫刻は、西洋人が大いに自慢し、誇りにしている最高の芸術だが、わが日本の奈良時代の美術は、ギリシァ美術と四ツに組んで、一歩も譲るものでないと、私は信じている。もっとも、この両者をどう比較するか、その方法論が難しい。その時代の宗教、文学など、両者の「理想」が実現されている、その淵源をじゅうぶんに理解しなければならない。ギリシァは「写生的」(写実美に優れ)で、奈良は「理想的」(様式美に秀で)である。奈良時代に作られた人物像など、容貌は婦人のようだが乳房のふくらみもなく、観音様のような女性像がある(秋篠寺の伎芸天)。もし「写生的」の眼でこれを比較し、批難しても、ほんとうに比較したことにはならない。では、どのような方法で比較するか。「写生」という観念を捨て、宗教観に縛られることなく、ただ、その作品が「寓する」(隠し持っている)「神韻」(美の気配)を感取するところから始めるのでなければならない。その細部を吟味することができれば、奈良美術がギリシァ美術に劣らないことが判るにちがいない。さらに議論を深めて、奈良美術とギリシァ美術と、どちらが「美の極点」(美の極地)をきわめているかということになれば、日本とギリシァの哲学を比較しなければならない。いま、ここでこんな議論をやっても、難しい話になってしまうからやめておこう。

ともかく、日本の彫刻史の「発達」は、奈良時代(天平美術)に頂点を極めた。絵画の頂点はもっと後の時代である。日本における絵画の歴史上の頂点と、彫刻の頂点とどちらが高いか。この問題もなかなかの難問である。諸君、自分で考えてみたまえ。

以上、述べて来たように、奈良時代のその壮麗さは、文学に譬えれば『万葉集』にみられるようなもの。後の時代と非常に異なった特質を持っている。その特質を、彫刻を例に考えてみると、藤原時代の定朝の彫刻は、『古今集』である。奈良時代は要するに『万葉集』なのだ。こんにち、奈良時代に属する美術は当時の幾百分の一にしかすぎないけれども、このことは、十分に想像し納得することができる。

首都でなかったことによって、現代にまで、運よく戦火を免れた多くの美術品は、寺院にあるものである。それら、今日に遺る美術品を調べてみると、天平時代は二期に分けることができる。

第一期の特徴は、天智(白鳳)時代に入ってきたインド・ギリシァ風のスタイルが、始めて日本風に変容しようとし、聖武天皇の最盛期に完成するところに見られる。

第二期は、聖武天皇崩御のあと、美術が次第に衰え、孝謙天皇の時代の衰退に至る原因をなすものである。物事、すべて「極点」(頂点)を極めれば必ず滅びに至る。孝謙天皇の時には、天下の情況、政治体制など壊れていき、国家の精神も緊張度を喪失、美術の精神もそれを受けて「緩慢」になり、形も精度を失い、精神的な高さをもった作が少なくなっていった。

したがって、天平時代にあって、最も優れている美は、聖武天皇の時代である。天平時代というのは聖武天皇即位(神亀元年724)より光仁天皇即位(宝亀元年770)に至る46年間である。この間の彫刻を見れば、その作風が順序立って発達していることが判る。博物館にある写真をお見せしよう。この機会に推古時代から天平時代までの展開も、写真をみて説明しよう。(小川一真撮影の写真数十葉を見せる。)

天平時代の現存する作品を列挙していこう。

この時代の始まる直前、すなわち天智時代の終わりにあっては、作品はだんだんと「進歩」して、「形」「趣き」は「霊妙」の域に到達した。そして、この時代につながっていく作として、まず挙げておかねばならないのが、薬師寺講堂の薬師三尊である。この寺の金堂の三尊は、彫刻として奈良時代「第一」と呼べるものであるが、これが生まれるためには、いくつもの要因が用意されていなければならなかった。講堂薬師三尊は、「天武」(天智)天皇時代に作られたものだが、その「法式」(作風)は、天平の魁となっており、金堂薬師三尊はそこからもう一つ上の段階へ「進化」した作とみることができる。講堂三尊の中尊は、坐像で、高さ七尺(267.5㎝)くらい。左右の像はおよそ一丈(300㎝)くらいである。

蟹満寺の釈迦如来像は金銅仏で、さっきの薬師三尊と比べると、作風の上で一歩前進しているが、まだ衣紋えもんなどに熟していないところがみられる。この仏像、元はどこにあったのか。伝来は詳つまびらかではない。この寺は、天平時代に建てられたものではない。後世の建立で、観音を祀る寺だったから、この釈迦像は、他の天平時代に建てられた寺から移されて来たものと考えられる。海住山寺かいじゅうせんじにあったという説もある。坐像で、高さ八尺(240.3㎝)、いわゆる丈六である。この像はその技術をみれば拙いところがあるが、その精神はまことに「霊妙」である。

次に挙げるべきは、薬師寺東院堂聖観音像である。この像は、言い伝えによれば、百済より献ぜられたもので、年代ははっきりしない。立像で高さは台座を含めて七尺余り(188.9㎝)、その出来具合は、立派で、まったく日本で造られたものではない。その「感情」、「方法」なども「外国製」(中国か朝鮮)のものである。その制作年代は、作風(「方法」と「感情」「製作」の出来具合)から推して、蟹満寺釈迦と薬師寺金堂三尊のあいだとみたい。

薬師寺金堂三尊は、まことに眼を奪うばかりのすばらしい仏像である。中尊は坐像、八尺(254.8㎝)くらい。脇侍は立像で一丈二尺くらい(日光=311.8㎝、月光=309.4㎝)。その銅の色合い、鋳造の手際、頭部、手、脚などのプロポーション、容貌おかおの品位、いずれをとっても調和した具わりかたで、まことに天平期「第一」の作というべきである。その脇侍である日光・月光菩薩は、東院堂の聖観音を真似て造られたと推測でき、中尊は蟹満寺の釈迦をさらに一歩高めたものである。蟹満寺の釈迦如来は、頭部がやや大き過ぎるきらいがあるが、薬師寺金堂の中尊はそういうプロポーションが成熟している。これこそ「純粋日本風」の趣である。奈良美術を「外国」(ギリシァ)美術と比べるときにはまずこれらの仏像をとり上げて比較論ずべきである。奈良に来て美術鑑賞しようと思う者は、まずここを訪ねるべきである。この仏像を鋳造したのはどんな人だったのだろうか。お寺にはなにも伝わっていない。ともかく天平時代に造られたことだけはまちがいない。行基菩薩ぎょうきぼさつが造ったという説もある。講堂三尊から遅れること30年、天平時代初めの作と私は見る。中尊の台座は、高さ五尺、横一間くらい。銅造で、鬼(邪鬼)、唐草などを半肉(レリーフ)に彫り出している。その手際の「精巧」なこと、目をみはるばかりである。この台座も本尊と同時に鋳造されたと考えられてきたが、最近、いろいろ研究されて、同時代のものではないという考えに傾いてきている。推測にすぎないけれど、台座の制作は聖観音といっしょに、中国か朝鮮からもたらされたものではあるまいか。そして、聖観音も、本当のところは百済にあった日光か月光菩薩なのではなかったろうか。

天平時代の初期に属する作品としては、また、興福寺東金堂に日光菩薩、月光菩薩がある。趣きは東院堂聖観音に似て、薬師寺金堂三尊と同時期の作か、あるいはその前に造られたものか。その後か。まだ断定しかねている。この寺は、藤原氏起源の寺であり、天平時代の創立である。この二像はその頃からあったものか、記録がないのだが、たぶん創立当初からあったと思われる。薬師寺金堂三尊が堂々と落ち着いた風情をみせているのに対し、この菩薩は、やや痩せ気味で、造形技術は器用に仕上げているから金堂三尊の後の作とみるべきではなかろうか。しかし鋳造法には不手際なところがあって、粗いから、その前とした方がいいのか。この二体、興福寺に入って右の方にある。中尊の薬師如来は後世の作である。

華原磬かげんけい(興福寺)。写真で見たように、数頭の龍(二頭の龍)が上部で「縛られ」(柱に尾を絡ませ)、下部(基台部分)に獅子がうずくまる。じつに「壮絶快絶」というほかない。獅子、龍の力ある表現は、近世の作者には夢にも実現できそうにない。その伝来は、詳しくはわからないが、おそらくは唐代初期のものではないだろうか。形や楽器としての作りかたなど唐風である。その上の部分にいわゆる「面向不背の玉(珠)」を戴いていたという。隋の頃、日本に贈られたものという説もある。どうだかよく判らん。たとえ中国のものとしても、当時ならすでに日本にも薬師寺三尊(金堂)のような精巧な作もあることから、これは中国製だから日本美術史に入れないとすることはしなくていい。中国のこの時代の精神は天平精神に直接影響を与えているから、中国伝来のものも日本美術として論じるべきである。

次に挙げるのは東大寺戒壇院の四天王である。戒壇というのは、「戒」すなわち僧侶の守るべき五戒、十戒等を授ける所で、天平時代僧侶たちの道徳が乱れたとき、これを引き締め直すために、鑑真和尚(和上)を中国から招き、律宗を拡めてこの戒壇を建立した。中に、須弥山を象った壇がある。この須弥壇は、東大寺や唐招提寺にもあるが、その壇の四隅に四天王が佇っているのである。この堂はたびたび火災に遭っているので、建築は後世のものだが、塑像(彩色、切金、瞳は黒曜石嵌入133.3〜134.8㎝台座とも)の四天王は、創建当初のままである。模写コピーのまだ完成していないものが本校にある。その形は、竹内久一教授が模造された三月堂の執金剛神や梵天(月光菩薩)ととてもよく似ている。ひょっとすると作者は同じ人なのかもしれない。少なくとも、執金剛神や梵天と同時代であることは疑いの余地はない。その表情に「凛然」とした(きりっとして侵しがたい)ところがある。まことに「巧妙」な作である。執金剛神は後世の作で、ひたすら強さを表そうとして作られており、ちょっと「野卑」に流れているきらいがある。彫刻においても、絵画においても、「一時の怒相」(ただ単なる怒りの表情)や「一時の笑」をそのまま造形しようとすると、その出来映えは、ただ怒っているだけ、笑っているだけで終ってしまう。絵画の場合、平面に筆と絵具で描くのだから、表情が一定になるのはしょうがないけれど、彫刻の場合はいつみてもただ笑っているだけというのでは嫌になってしまう。ほんとうに優れた彫刻の技は、こんな人がもし、ひとたび怒ればどんな表情になるだろう、この人が微笑めばどんなだろうと感じさせるのでなければならない。ギリシァ盛期の彫刻もそういうレヴェルの作だからすばらしいのである。戒壇院四天王も、同様、みごとな技で作られていて、四天を睨み悪鬼を降服させる力が表されている。後の時代、運慶なども、よくその「意」を「外形」に表そうとしているが、四天王の場合は、「活動の趣」(四天王の役割を果たす動き)がその眼に含まれている。四天王のうち一つはギリシァ彫刻のシーザーのようである。その踏み付けている邪鬼も、後の時代になると、ただ不気味な「異しい」姿にしか作られていないけれど、この戒壇院の邪鬼は、ほんとうに鬼である。気持ち(「情」)が滲み出ている(「含まれている」)ようだ。

彫刻は立体の美術であるから、前後左右のプロポーションが調っていなければならない。ところが、後の時代になると絵画が主流になるから、衣紋などの造りかたに不自然なものが多い。西洋では、すべての対象物がよけいな凹凸などない整然と調っているのを彫刻的といっている。「statuetic」(statuesque)というのはそういう意味を含んでいる。そしてこの戒壇院の四天王は、身体と手、脚の衣の襞が無理に「突出」したりせず、「完全」である。こんなふうに仕上げるには、よほどの名人でないとできないだろう。後世の彫刻では衣紋の変化が強すぎたりして、「神変不思議の精神」(天上の存在物の持っている絶妙なありがたさ)が出ていない。もっとこの四天王から学ばねばならないというものだ。

もし、この四天王に問題があるとすれば、脚の勢いが欠けているところだけだろう。いずれにしても、この四天王、まずなによりもその全体の斉ととのっていることにある。だから、いろんな四天王像があるが、これはその中で最高の作だ。動きは、攻撃の姿勢をしているのだが、こういう天平時代の仏像だと、動きの観念も昇華されていて、理想化され、一種の沈着さを湛えている。後の源平時代などでは動きはより自然に作り出そうとしていて、それはそれで当然の傾向だろうが、そういう表現はやっぱり天平美術の「高雅沈着の美」(どっしりと落ち着いていて一種の尊さを湛えた動き)には及ばない。

次に挙げるべきは三月堂(法華堂)の梵天と帝釈天(現在、日光・月光菩薩、塑像、日光207.3㎝、月光204.8㎝、彩色、切金の痕跡あり)である。その姿はただ合掌しているだけで、他になにをしているというわけでもないが、その姿の中に言葉に尽くせない情感と動きを感じとることができる。頭髪や衣紋も調っていて「優美」で「高尚」な思いに充たされる。この像をみて、そういう気持ちに搏たれないという者がいるなら、そやつは邪な心の持ち主にちがいない。ギリシァ美術と比較する東洋美術の代表者には、これを選べばいいと思う。この仏像の姿は、フィディアス(PhidiasフェィディーアスPheidiasとも。前五世紀、クラシック期を代表する彫刻家)や「セトリース」の彫刻の表現方法と非常に似ている。西洋人は梵天と帝釈天(日光・月光菩薩)を見て、動きが乏しいと言うかも知れないが、その「情趣」(心に沁み込むさま)は、わが梵天・帝釈天の方が上だ。ギリシァ彫刻の頂点といわれるフィディアス作のオリンポスの本尊ジュピター像も、ただ坐っているだけで、そんなに動きが生きているわけでもない。眼の周囲に稲妻のようなものを感じるくらいだ。現在のジュピター像はコピー(ローマン・コピー)で、現物ではないから、こういうのと比較するのは問題だといわれるかもしれないが、その「高妙」さにおいては、梵天・帝釈天にとうてい及ばない。

ギリシァ古代の宗教と仏像とを比較してみるがいい。ギリシァ人が神と呼んでいる者は、情欲もある身近な人間で、これと、人間よりはるかに高度な「高尚円満なる」(精神に訴える感動をもっていて、しかも解脱した境地を無理のない姿で表現している)如来とは比べものにならない。あの梵天の「情」(日光菩薩が与えてくれる感動・情感)を理解できない者には、東洋美術の神髄(「趣味」)を理解できないだろう。梵天(日光菩薩)は女性のような姿かたちをしていながら、胸のふくらみなどは表現されていない、これは西洋の解剖学的見地からすれば奇形というかもしれない。しかし、ここが大事なところだが、美術は実物を写すのではない。美術は実物から離れてその真価を発揮する。美は実にあるだけではなく、想にもある。心の中にも、外にもあるということだ。博物館にある竹内久一教授の模作を見るだけでもいい。いうまでもなくコピーである。そのコピーにしてあのごとくである(感じとるものがあるだろう)。まして、本物は、私なんぞがあれこれ余計なことを言うまでもない。手、指をみたまえ。関節はない。しかし、なんと豊かで、ほどよく肉づきがあって、しかも細くすらりとしていることか!これは、実物にはない美しさ、美の極致である。人間の手と指の究極の美しさはこんなふうなのではないかと思わざるをえない。

高橋勇ノート

この時代にいたると、すべての条件が「完備」し、まったく外国とのつながりをなくして国内の力でもって美術を発達させるようになる。皇室にあっても、歳入が豊かで、実力も権力も具わり、非常に余裕がでてき、あの信じられない規模の大仏を作ることになった。

この大仏(盧舎那仏るしゃなぶつ)の趣意は、宇宙を体現、代表する仏である。

現在、正倉院には聖武天皇の道具を収めている。葬式のさいに使った道具も収められている。そのなかには、楽器をはじめ、衣服など、あるいはペルシァ風、ギリシァ風の道具もあり、世界天下の富をことごとく集め、美を極めたもので、後世の人間にとっては、呆れ驚くばかりである。

ここから推察すると、おそらく僧侶も大臣も民衆の生活も、レヴェルは大いに高かったと思われる。

天平時代の美術品は、非常に多くの遺品がのこっているので、それらをすべて語り尽くすわけにはいかぬが、要点を述べていこう。

天平時代は、奈良美術の頂点を極めた時代である。あらゆる事物が「壮麗」を極めているが、その後、戦さがあり、火をつけられて、いまはその一部を窺うことができるだけになってしまった。とはいえ、その一部を現在いま見るだけでも、当時の美術の「進歩」していたことは察せられる。

正倉院の所蔵品を見れば、当時の人びとの生活がいかに高度なものであったかが判る。おそらく、当時の大寺院では、みな正倉院(倉)を持っていて、寺院の宝物を蔵っておいたものと思われる。そんななかで、いまもあるのが東大寺にある正倉院で、聖武天皇崩御の一周年に当り、大典が行われ、贅を尽くした儀式が終わったあと、孝謙天皇が、その儀式の具をはじめ、平常聖武天皇が使っておられた一切の調度品を大仏に献上された。それが正倉院に蔵まったというわけである。

この献上品の目録が遺っている。東大寺献納帳と呼んでいる。これに照してみると、品物が明らかになる。ここに蔵している品は、ずっとそっくり遺っていたわけでないことも判る。嵯峨天皇のとき、ここの所蔵品のいくつかを他に移したらしい。目録には甲冑二百組とあるが、残念ながらいまはその一つもない。

鎌倉時代に修理したものもあったりするが、しかし、おおかたは孝謙天皇の時献上されたままなのである。正倉院は、歴代、その扉を固く閉め、天皇といえども一代一度きり開くに止まり、重要な用のあるときは勅使を遣わして開かせたくらいで、五十年あるいは百年にいちど開扉されるくらいだった。

屋根など壊れ、雨が洩って貴重な品を汚していたこともあった。ふつうここに入るときは、皆「覆面」して、「生気」(息)のかからないようにする。鍵なども、特別の職人に作らせた。奈良は源平の乱、興福寺の法師らの横暴、松永三好の乱などによって、兵火に焼かれたが、正倉院だけは幸いにしてこの災難をまぬがれてきた。松永三好など暴虐の限りで、寺々の珍品宝物を略奪したが、正倉院だけは手を下さなかった。勅封の致すところか。

まことに、この正倉院は、太古の品々を多数所蔵し、千有余年安全に保存してきたこと、世界にこんな例はない。

まず双倉あぜくらとして作られたが、入り切らなかったので、二つの倉のあいだをつなぎ、一つの倉にしている。現在、それ故に、三ツ倉と呼んでいる。この三ツ倉に所蔵されている全ての品が解明されているわけではない。

なかにはすばらしい碁石や碁盤もある。鏡など、数え切れない。銀に七宝を組合わせたものもある。これは、七宝の始まりの品だ。瑠璃の器もある。勾玉のごときは大箱に山をなし、舞楽の面など箱がいくつあるか判らないくらいだ。毛氈もうせんはペルシァの模様である。現在のヨーロッパでも、もう製作できない高級な絨毯である。ほかに、聖武天皇の履いていた靴、紙、硯。鞘が蒔絵の剣、杖。管弦楽器は琴、笛、いずれも新品のようである。開扉を容易に許さなかったからである。

これらはことごとく日本で作られたものとはいえまい。唐や朝鮮からもたらされたものも多い。とはいえ、当時は、すでに朝鮮、中国、日本のあいだに技術の差はそんなにないから、奈良時代はこんなふうな高度な生活をおくれたのだ。

当時は僧侶の権威も権力も相当なものだった。勢力を高めて来た藤原氏をはじめ、上流社会は、こんな贅沢と美麗を享受していたのだ。

つぎに、この時代の美術品について、現存するものをみていこう。

天平時代の作品として、第一に注目すべきは、制作の出来不出来をさておいて、東大寺の大仏である。作の出来不出来はさておいて、といったのは、いまではこの大仏は、ほとんど当時の面影を遺さないからである。

聖武天皇のときに作られた大仏は、定めし、その鋳造法も出来上がりも驚くべきものだったろう。平重衡たいらのしげひらが火を放ったとき、火の勢いは強く、伽藍も燃え尽きたが、大仏の頭部が焼けて落ちてしまった。源頼朝が勝って、平家のそんなやりかたで仏罰が下ったのだといい、頭を修理して付けた。東大寺勧進帳という募金を呼びかけた「回文かいもん」が遺っていた。その後、こんどは松永、三好が火を付け、また頭部が落ちた。元禄時代になって、人びとが尽力し、第三回目の頭部が復元された。しかし、彫刻の技術など天平時代に比べたらとても及ばない。体部と均衡のとれた頭部は望むべくもなかった。それが、いまある大仏の姿である。完全というわけにはいかない。

この大仏は、梵網経ぼんもうきょうを典拠にした宇宙世界を体現した仏像である。聖武天皇がこの大仏製作を勅せられたとき、朕ノ宝ヲ尽シ朕ガ山ノ材木ヲ以テセルハ是ヲ作リ易シト雖モ、是ノ土ノ供徳(功徳)ニアヅカラシメント思フニアリと述べた。

この工事には精神的な(宗教的な、政治的な)意味がこめられていたのである。

東大寺三月堂(法華堂)は、天平の建立のままに遺っている。中央に須弥壇を置き、そのまんなかに立つのが不空羂索観音ふくうけんじゃくかんのんである。昔はどうだったのか判らないが、左右に梵天、帝釈(日光・月光菩薩)の二像が立っている。とくにその梵天は、すごい傑作である。形は「写生」(写実的)ではないが、「写生の意」を持っており、動きは極めて乏しいが、その像を観る者に思わず崇敬の念を起させるものがある。まことに、これこそ「理想的」と呼ぶべき出来上がりである。西洋の彫刻は動きはよく表現されていて、その動きに息を呑むことがあるが、勢いの表現で人をひれ伏させようとしている。昔の帝王の像など、雷や剣を振りかざしているとかいったぐあいだ。それに反して、日本の仏像は、柔らかく人の心をつかみ、動きの勢いで人を畏れさせるような姿をしない。「隠然」として尊敬の情を含んでいるのである。

三月堂の四隅に四天王が立っている。塑像で、一丈余の大きい像である。塑像というのは、土に苆(すき)を交ぜて作り上げる。この土は東大寺の後ろの土地あたりから取ってくる。塑像だと仕上げた表面に自由に彩色することができる。

中央にも大きな梵天帝釈天が立っている。そして、この堂の後ろにある厨子には執金剛神が収められている。これも塑像である。

戒壇院の四天王も三月堂の梵天帝釈天(日光・月光)とよく似た作風である。戒壇院というのは、戒を修める行事をするための建物で、東大寺の戒壇院の中央には須弥壇がある。四天王は、その須弥壇の四隅に立っている。これも塑像で、天平の四天王の再興に「精巧」な作である。もともとは戒壇院にはなかったと思われる。大仏の守護神として作られたという伝えもある。この内の一体を竹内教授が模刻されている。この像の欠点は足だ。足の力の入り具合が弱い。腰より上の表現はほとんど完璧といってよい。