ロスコ『芸術家のリアリティ』(Indigenous Art の章より抜粋)
① リージョナリストとアメリカ伝統主義者は全くのところ、その考え方の基礎を題材に置いている、その考え方は、われわれにはまったく関心を引かない。特別な題材が絵画を芸術の王国に高めるなどということはない。また、それが芸術としての意義を破壊することもない。 ② さきに挙げた(アメリカのインディジェナスと言われる)画家たちも、ヨーロッパからの源泉を分け合って、それを勉強して、自分たちの仕事を完成させたとい […]
① リージョナリストとアメリカ伝統主義者は全くのところ、その考え方の基礎を題材に置いている、その考え方は、われわれにはまったく関心を引かない。特別な題材が絵画を芸術の王国に高めるなどということはない。また、それが芸術としての意義を破壊することもない。 ② さきに挙げた(アメリカのインディジェナスと言われる)画家たちも、ヨーロッパからの源泉を分け合って、それを勉強して、自分たちの仕事を完成させたとい […]
ドーナッツに穴があるのは誰でも承知していることですが、あの空白はどんな味がするのだろうと考えた人もいらっしゃると思います。 そのことをお考えになった人に敬意を表しつつ、ボクもボクなりの《ドーナッツの穴》議論を(談義くらいにしておけばいいふしのかもしれませんが)ちょっと展開してみようかと思います。 ボクは、生まれは太平洋戦争開戦以前の1939年で、戦争に破れたときは満六歳になったばかりのガキンチョで […]
<もう一つのabc>を、2025年12月26日(金)18:00〜21:00、木下宅で開きます。前回申し上げていたように、忘年会風の集まりにしたいと思っていますので、集まりいただいた方とはワインなぞ傾けながら、zoomの方々とはスクリーン越しに、あれこれお話できればと。 ですので、いつものように森山くんのレポートもお休みいただき、ボクも「范寛」を観て来て興奮まだ冷めやらぬ時にいますので、その話を気軽 […]
今年最後のABCのご案内です。12月13日(土)は14:00〜17:00、波止場会館3F、中会議室です。テーマは、《北齋の文章を読む(4)—北齋・底辺からのまなざし》とします。ただいま資料作成中。明日には届けます。「底辺からのまなざし」というのは、ボクの北齋論の基調であり主調です。これからしばらくお付き合いお願いします。この観点から、<美>と<利>の問題を考えて行きたいと思っています。「底辺」とい […]
前回1回目は、飯島虚心『葛飾北齋傳』の始まりのところをちょっと齧りました。 (時間があればじっくり検討したいのですが、それはまた別の機会を)。そして、2回目は、「北齋」と呼ばれた人物の生涯を概観しつつ、その思想と呼びたい働きへ近づいて行きたいと考えています。 新しく、ボク流の略年譜を作りました。もちろん、決定版ではありません。これからなんども改訂し、書き直して行くべき第一稿というところですが、今回 […]
北齋(宝暦十[1760]]を知るには、なによりたくさんその仕事を観て、彼についての基本資料を読むにこと、その繰り返しに尽きます。いつも初心を忘れずに。ABCでは、まず基本資料中の基本資料である、北齋没後50年目に出版された、飯島虚心(半十郎、天保十二[1841~明治34[1901])の『葛飾北齋傳』(明治26[1893]刊行)を読んで行くところから始めたいと思います。資料は、その北齋伝の冒頭を書き […]
今⽇は古事記の「序」に取りかかります。太安萬侶の書いた序⽂です。古事記上巻神代篇をていねいに読み切って、これに取りかかろうというのが、古事記をABCで始めたときの⼼積りだったのですが、まだその⽬標を果たし切らないまま――逸る⼼が先を急がせます。なにがボクを安萬侶の「序」を読むことへと逸らせるのか。この「序」⽂は、〈美〉を求める芸術家魂の呟きが聴こえて来る、それをしかと確かめたいという 思いが募るか […]
8日の勉強会のタイトルは、<天照大神と須佐之男命の対決場面を読む>です。救いようのない不信関係にある姉と弟は、呪力の勝負によって自分の正当性を主張し合います。この行為を促しているのは<美>への希求か<利>の欲望か。少なくとも、その物語を文字に移そうとしていた太安萬侶は<美>への希求に燃えていたようです。