ラスコーの洞窟と敦煌莫高窟の両方を訪ねた美術史の研究者はボクくらいしかいないかもしれない──とボクはときどき、みんなの前で自慢する。
この両方の洞窟を訪ねて、ボクは〈美〉を経験するとはどういうことか、〈美〉の〈歴史〉を考えるということはどういうことかを、はじめて根源的に考え直す機会を得られた。それまで、どのラスコーや敦煌の本からも学ばなかった〈感覚〉が動き出し、予期しなかった〈発見〉があった。大乗寺を訪ねたときも、既刊の解説書や美術史に書いていない経験をした。
たとえ現場に行けなくとも、実物をみることができないときでも、じっさいにはどんなふうなんだろうと想像力を働かせていくこと。〈自分〉の感覚でその対象へ反応し自分の〈言葉〉でその反応を語り出すことが始まるのは、そのときだ。それは、たやすくできることではないが、しかし、他人の権威の言葉に安住しないで、自分の言葉を探し続けることは、尽きない喜びである(苦しみもついてまわるけれど)。
そのことに気づくとき、きっと、他者の言葉へも、よく耳を傾けることができるのだろう。自分の言葉で語ろうと模索することと、他者の言葉に耳を傾けることとは、ひとつの営みなのだ。
〈美〉や〈芸術〉の営みは、いつも、人間の〈弱さ〉や〈忘れ去ったもの〉の美しさ、かけがえのなさを思い起させてくれる。人間のそれぞれの可能性というものは、そんな〈弱さ〉を大切にするところから見つけ育てることができるのだ。
ラスコーの牡牛の大広間で聴いた蹄の轟き。莫高窟の石窟に、写真集や解説書に眼を背けられてうずくまっている夥しい数の清時代の壁画や塑像、朝昼夜、変容する座敷の光のなかに息づく大乗寺の絵襖。そんな出会いが考えさせてくれたことを、ボクは〈土曜の午後のABC〉と名付けた小さな部屋で語り始めようと思った。
〈土曜の午後のABC〉は、その小さい部屋に集まってくれた人といっしょに試みる小さな旅である。ボクは、折あるごとに考え見つけた〈美〉の破片をジグソーパズルのように組立てる旅の企画をしよう。そこに集まったひとりひとりが、汽車の窓をよぎる(現実の)断片から風景の全体を紡ぎ出すように、それぞれの旅路を歩んでもらえれば、と願う。
木下長宏