岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 推古時代 (その2)

さて、六朝の時代に美術がめざましい展開をみせたのは、奨励の方法が当を得ていたからである。圧制によって美術を奨励するというのは、決してほめられることではないが、社会がじゅうぶん発達していない時代にあっては、それが「良法」(効果的な手段)となることがある。さらに、もう一つの要因がそこに重なっている。それは、鑑識の議論が盛んに行われたことである。

六朝以前の画論は、かんたんなものしかなかった。さきに紹介した『韓非子』の「鬼神は描き易いが、犬や馬はむつかしい」といった程度の単純なものである。鑑識の基準も六朝になって定められたのである。斉の高帝が優劣の等級を決めたのはその一つだ。

まず、顧愷之の画論がある。それから宗炳そうへい(375〜443)、王微おうび(415〜443)なども、絵を秩序立てて論じようとしている。

南斉の謝赫しゃかく(生没年不明)は、『古画品録』という本を書き、陳の姚最ようさい(生没年不明)も『続画品』を描いている。なかでも謝赫の画品論は、よく秩序立てて論評している。「画の六法」というのだが、後世に大変有名なこの「法」は、謝赫が言い出したのである。もっとも顧愷之もこれと似たようなことを説いており、以前から言われていたところを謝赫が整理したと考えたほうがいいだろう。

六法というのは、当時の絵画思想の深さを証拠づけるものである。その第一は気韻生動きいんせいどう(気と韻[気の韻]が生きて動いていること)である。これは最も高度な思想を表明している。気韻生動を六法の第一に置いたということが思想の高さを示しているのである。絵画の主要な働きは気韻にあるというのだが、こういう考えに、六朝が後の唐宋文化の源泉となったことがよく表れている。この考えは、東洋美術の「原素」といってもいい。もし、このときの画論が、気韻ではなく写生を最も重んじたとするならば、こんにちの東洋美術はまったく違うものになっていただろう。

六法の第二は、骨法用筆こっぽうようひつ(骨の法が筆を用はたらかせる:対象が持つ骨を描き切る筆の用いかたをする)である。絵には筋や骨になるものがなければならないというのである。この解釈にはいろんな説があるが、いまは最も妥当なところをとっておく。西洋の画論なら、用筆(筆の運びかた)のことなどは、いちばん最後の端のほうに置かれるだろう。骨法用筆を第二位に置くのは、東洋の絵画が書と連合して成立しているからである。用筆は絵画の精神となり、形の美しさにとどまらず、筆の運びの絶妙さが絵の重要な要素となるのである。西洋画なら陰影を用い幾何学でいう幅を持たない線が形の輪郭を表すのだが、東洋の絵画は筆を用い、線には肥痩ひそうが生じる。そのとき、筆の運びそのものに美しさが現われている。東洋絵画は筆を離れて成立しない。骨法用筆も東洋美術の原素をなす。

第三は、応物象形おうぶつしょうけい(物に応じて形を象かたどる)で、いわゆる写生。西洋絵画にあっては必ず第一位に置くところである。美術は写生ができなくては成立しえない。とはいえ、写生を第一にすれば、写生には美がないことになる。実物にも、人の心にも美はともに存在する。この双つの美を合わせているものが「真美」の精神といえる。だから、写生が第三位にあるのは適切な考えである。六朝の時代に早くもこんな適切な考えをしていたというのは驚くべきことである。

第四は、随類賦彩ずいるいふさい(類[本性]に随したがって色彩を賦ほどこす)。これは、漢文の習慣で「応物」と「随類」という具合に、前の句と対になるように文字を揃える対句形式をとっているからこんな表現になっているが(「気韻」と「骨法」、「経営」と「伝移」も対句である)、物(の類を決める本性)に随って彩色する(色彩を賦す)ということである。濃淡の大切さも当然その中に入っている。すべての自然の色は不完全で、美はそのままではそこにみえないようにみえるけれども、絵画はそれにその本性の色を与え、霊妙なものとする。これが第四位である。これもまた適切な地位である。

第五は経営位置([画面の]縦横たてよこをめぐって位置づける:構想に従い構図を決める。)である。絵を作るには、その「主」(中心・主題・前景)にするもの、「客」(主の引き立てに廻るもの・後景)、それぞれを適切に配置しなければならない。これが経営ということである。現在の考えかたからすれば、これが第二位に来てもいいくらいである。しかし、画家、つまり絵を作る立場からいえば、ひとたび絵を描こうという気持ちが起こってしまえば、経営位置はもう大体定まっているものだから、法則として第五位にあるのも、それなりの理由がある。

第六は、伝移模写でんいもしゃ(図を移してこすりとるように写す)。古画を模写することの大切さをいっている。これを六番目に置いたわけはよく分からないが、当時は、古画の模写はとても大切な仕事であったので、ここに置いたのだろう。

以上、六法のうち、第五位は除いてもいい。五法で充分である。顧愷之は、模写の大切さを説き、模写の方法についても説明しているから、模写の技術も当時からみればいまは進歩している。模写も大いに必要なことだろうが、後世の画論家は、模写と用筆の二つだけを大切だと言っているのもいて、これでは気韻の生動はどこへ行ったのだといいたくなる。

昔から画の六法はいろいろ論じられてきた。しかし、つねにどちらかに偏っている。たとえば、文人画の世界では、第一の気韻生動ばかりを言って、他の四法を軽視する。気韻生動だけでは、文学的な味合いは出るだろうが、絵画としては不充分である。他の四法があってこそ、絵画である。だから、文人画は物の形が「蕪雑ぶざつ」で彩色の妙に欠ける。筆力も弱く、位置(構図)に濃淡が生かされていない。これでは絵とはいえない。また、狩野派では、骨法用筆がとくに重んじられ、象形に味がない。気韻も生動していない。ときどき気韻を感じる作もあるが、たいていは用筆の力強さばかりが重んじられている。西洋画や四条派では、応物象形すなわち写生にばかり偏り、他の四法は生かせていない。浮世絵は、随類賦彩のみで他は知らないというふうだ。

こういうわけで、それぞれの流派が六法のうちのどれか一つは生かしているが、六法すべてを備えているというのがない。すべてを備え生かしてこそ「真正の」美術なのだ。じつに、画の六法は、古今に通ずる普遍的法則ではないか。この普遍的法則を提唱したのは謝赫だが、謝赫がこれをちゃんとこなしていたというわけではない。謝赫は君主に仕えて、たくさんの絵を観、鑑定力を養ない、絵に六法があることを発見したのだと思う。それにしても、六朝時代の鑑識のめざましいことは想像するに余る。

六朝時代に美術活動が活発だった第三の理由は、仏像の製作がさかんだったことである。仏教が初めて中国に伝えられたのは後漢の明帝めいていのときだが、そのとき輸入された仏像は粗朴なものだったと思われる。当時の作だといわれていたアショカ王の像が唐の時代まであった。唐の人はこれを批評して「形制古朴にして膽敬せんけいするに足らざりし(形は古く仰ぎ敬うには少し素朴すぎた)」といっているところから、そんなことを想像してみるまでである。その後、仏像は中国のなかで進歩し、またインドからすぐれた像も入ってきた。呉の孫権という人は、建業に仏塔を建て、晋帝は揚子江を渡っているとき、この仏塔を荘厳したという言い伝えもある。以来、仏教信仰が拡まるにつれ仏像や仏塔の製作も増え、晋代の優れた画家、士人は仏画や仏像を描き作った。

晋の明帝は、楽賢堂に仏の絵を描いた。顧愷之は、維摩詰を描いた。晋代には名工がいて、いくつもの仏像を作っている。などなど記録はたくさん遺っている。

顧愷之のこんな話もある。ある時彼は新しい絵を描いて、その場にいた者を驚かした。ある時は、人のために十万銭を喜捨してもらおうとしたことがある、なにをするのかと人びとが怪しんでみていると、堂を借りて10日あまりそこに籠っていた、そのあいだ誰も中へ入いれなかった、10日後絵が完成した。それを見、拝もうと各地から人びとがやってきて、何日もしないうちに十万銭があつまった、云々。戴逵たいきは博学で、琴も名手、書画にも秀でていた。その幼年時代のこと、瓦の屑に卵を混ぜ人形と碑を作ったところ、ある僧がそれを見て大家となることを予言したという逸話もある。長じて絵を描き、彫刻、鋳造にも長け、仏像が古拙で粗朴なのを憂いて、部屋の帷帳の後に隠れて、人びとが仏像をどんなふうに言っているかを聴き、沈思すること三年、ようやく無量寿仏を刻み上げた、その仏像は人びとの嘆賞の的であったという。

その子戴勃たいぼつ、戴顒たいぎょうも、琴、絵、彫刻に優れた腕前をみせた。ある時、仏像の顔が痩せていて治しようがない、戴顒にどうしたらいいかと尋ねた、顒が答えるに、顔が痩せているのではない、肘と両肩のあたりが肥大しているのだ、そこを削ればよい、とのこと。そのことばに従ってやってみると、見事、仏像の顔が蘇った。全体の均衡、形態のありかたについて顒もよく研究していたのである。

当時は夥しく仏像を造ったらしい。製造禁止令も出ている。趙の国の石虎の時である、帝に申し上げますと言ってきた者がいる、彼がいうには、仏教は邪教で、いますぐ、趙の国の人はみんな寺院に礼拝して焼香するのを禁じ、僧尼は還俗げんぞくさせねばなりません、と。同じようなことはいくつもあって、宋の元嘉12(435)年、中国に仏教が伝わって四代を経ましたが、古い寺院は壊れ誰も修理しようとしない、ただただ新しい寺院を造ろうと競うばかり、これではいけませぬ、今後は、仏像を鋳造しようとするときは、宮中へ申し出、勝手に造ったものは没収されるべきです、と奏上した者がおり、これが認められた。要するに、これらは、当時、仏像を造る者が多すぎるくらいいたことを裏付ける話である。

北魏のころには、僧や工人を私物化して養ないついに破産した者まで現れたため、私に僧尼、占い師、金銀工芸者を養った場合は、僧尼、占い師は死刑、主人の家はとりこわしにするというお触れが出たこともある。その後、僧侶は投獄され仏像が破壊されるほど、反仏教の動きは激しさを増し、高宗のときになって、この令がやっと解かれた。そして、再び仏教が栄えはじめた。

こういう波乱逆境の時代だから、仏像製作はかえって進歩したのである。仏教が中国にもたらされて、中国美術に一種の新しい題材が加わった。中国美術はもともと変化に乏しく、題材も、聖賢の像、あるいは山川草木のほか精神的な内容を描きだしたいというようなことはしていない。老荘学者や文人が神仙の談をしても、仏教の浄土や菩薩、あるいは地獄のような多彩な題材は出てこない。

仏教の慈悲を主とした教義は、不老不死の神秘の教えに比べて、精神的な意味合いが深く、情感や思想を描こうとするときに非常に有益である。ヨーロッパの三大宗教の一つであるユダヤ教は宗教としては非常に大きく広く信者を集めているが、ユダヤ美術と名づけるほどの美術は起こらなかった。イスラム教はユダヤ教に比べればいくらか美術を発達させたけれど、「自由自在」「完全無欠」な美術は生み出さなかった。

キリスト教も同様である。

つまり、宗教というものは、必ずしも美術にいい刺激を与え、豊かな美術を産み出すことができるものとは限らない。そのなかで、仏教だけは、豊かな美術を生み出す性質を持っていた。

六朝の美術は、この仏教の本質に促されて生長したことは疑う余地がない。

六朝時代の画家の伝記はたくさん遺っている。しかし、漢代と同じく、絵のほうはなにも遺っていないので、どんな画家だったかと述べても意味がない。とくに有名な人の名前だけ挙げておくと、中国では昔から「顧、陸、張、呉」といういいかたがされてきた。四番目の「呉」は、呉道玄で、唐代の画家である。呉道玄は中国美術を大成した人として知られており、この大成者の前に顧、陸、張の三人がいて、呉へ至る道を準備したというふうに読める。この三人が六朝の画家、顧愷之、陸探微りくたんび、張僧繇ちょうそうようである。彼らの作品は遺っていないが、唐代に直接影響を及ぼしたとされる画家であるから、その略歴を追っておこう。

顧愷之(344?〜405)、字は長康、号は虎頭。晋の人である。優れた画家で、当時大臣だった謝安は、顧愷之の絵は、他に並ぶことがない、蒼頡以来の画家だ、といって称えたという。こんないいかたがされる位だから、顧愷之以前の絵画は、まだまだ未熟なものだったのかもしれない。顧愷之がひとたび筆を下ろせば、人びとはみな口を揃えて「妙絶!」と称えた。桓玄と友人関係にあり、玄が長康(顧愷之)に所蔵画を預からせてくれと頼み、返すとき函の底を破って絵を奪った。顧愷之があとで函を開いてみると、絵がなくなっている。そのとき、顧愷之はこういったそうだ、「名画、神しんに入って飛去せり(名画だから霊が乗り移って飛んでいってしまったのか)」と。顧愷之はこれくらい愚直な絵描きだった。そこで、世間の人は彼のことを、才絶(すごい頭脳の持主)、画絶(その絵も超絶品)、痴絶(そして馬鹿さ加減も超絶)」といっていた。

あるとき、隣に住んでいる女性に恋をした。しかし、その女は顧愷之のプロポーズをはねつけた。顧愷之は女の容貌すがたを壁に描き、それに針を打ち付けると、女は身体中に痛みが走り、顧愷之に許しを乞うて助かったという逸話もある。

顧愷之は、写生にも秀れていた。また肖像画も得意で、いつも言っていたことは、「四体」の形が美しく描けていても「妙」を表すには至らない(気韻は生動しない、と解釈するか)。「伝神写生」(神しんつまり霊と心を伝え、生動を写す)を実現する上で重要なのは阿堵あとであるといっている。阿堵とは、眼のことである。東洋画で眼が重要視されるのは、ここから来ている。

顧愷之、あるとき裴楷はいかいという人の肖像画を造った。どうも似ていない。どうしたものかと思っていたとき、御本人を見つめ直し、突如謎が解けたと叫び、ちょっと絵に筆を加えると、たちまち裴楷その人の肖像になった。なにをしたかというと、眼の下に三本毛を増やしただけなのである。しかし、そういう注意力集中力の鋭さはすごい。

彼は詩も作った。故実(昔の儀礼や慣習、服制etc.)に詳しく、昔の人の絵を描くときには、その伝記を書いてから絵筆を執った。模写の方法についての著述もある。

謝赫がその画論で、絵画の等級を上中下の三品さんぼん(三階級)に分けているが、もちろん顧愷之は上品(第一級)に位置づけられている。ともかく最高の画家だと思われてきた。唐の時代は、顧愷之の絵のことを、絵を描くまえに描く対象について充分深く考えをめぐらして筆をとる、しかし、筆を執ってしまえばむしろそれは略筆である、したがって形という点からみれば、その精神が描かれていないかのように見える。張僧繇は肉を描き、陸探微は骨を描き、顧愷之は神を描き切った画家だ、と評している。

その略筆の感じは本校が所蔵している現在過去因果経(絵因果経)のような趣きか。宋の時代の作「烈女伝」は顧愷之筆と言われてきた。そのスタイルは絵因果経とよく似ている。宋の時代には顧愷之の絵はだんだんなくなって、僅かに扇などに遺っているものを翻刻し、清代に入って改刻したものだから、古画のもとの「深意」をどれだけ伝え遺しているか、心配ではある。けれども、おおよそどんなものかを見るにはこれで充分役に立つ。宋版烈女伝は本校にも一本ある。それをよく見たまえ。

陸探微(生没年不明)は、宋の明帝の侍従で、その絵の妙なことで知られている。謝赫にいわせると、古いにしえより六法を具備する者、陸探微と衛協えいきょう(265〜316)の二人のみだという。衛協は陸探微の師匠である。顧愷之と陸探微はその優劣を分けることができない、探微は筆が勁つよく、錐で描いたように凛乎りんことして(びしりと鋭く力がある筆跡で)神しんに向かっていると評している人もいる。

張僧繇ちょうそうよう(生没年不明)は、梁の天監てんかん年間(502〜519)武陵王に仕えていて侍郎という官職にあった。武帝が仏寺を建造するとき、荘厳は主として張僧繇に命じた。肖像も得意とした。ある時、皇子がどこかへ出かけていないのを淋しく思った王は、張僧繇に皇子の肖像を描かせて、それを傍らに置いていた。また、金陵安楽寺に龍を描いたときのこと、全部出来上がったが、ただ眼を描かなかった。眼を描いてくれと強く頼むと、張僧繇がいうには、眼を入れると龍がたちまち飛び去ってしまうと答えて描かない。さらに強く頼むと、張は筆を執った。と、風が起こり、雲が湧き、稲妻が光って、二頭の龍は飛んで行ってしまった。まだ眼を入れていない二頭の龍だけが絵の中にとどまったという。まあとんでもない話だが、こういう話が伝わるほどの名手だったということだ。似たような話は、土佐光信(1522頃没、室町時代の画家)の龍の絵にもある。巨勢金岡の馬もそうだ。これらはすべて中国でいわれてきたことを真似て作った話である。張僧繇の絵には霊があるというので、こんな奇談がいくつも遺っている。

この張僧繇の龍の絵は、後世まで遺っていたらしく、この絵を最初に見たときは拙いなと思うのだが、三度ぐらい見直して、初めてその妙なるところを納得するのだそうだ。こんな話から、その絵がどんなだったか想像してみるしかない。

さて、このあと、唐の時代になって呉道子が現れ、中国絵画の頂点を作った。彼の伝記については、唐時代の美術について話すときにしよう。

六朝の時代、300年、いろいろな出来事があって、思想は変転した。しかし、美術の奨励策は的を射て、鑑識の道も深まった。また仏像が盛んに作られ、美術の大家が排出し、とくに絵画では顧・陸・張、彫刻では戴安道一家など、その影響が、中国では唐の文化を、日本では推古時代の美術を生み出したのである。

推古時代の美術史に移ろう。

まず、この時代のもので現存するものを挙げておこう。そもそも奈良時代の美術の主流は彫刻である。絵画は、彫刻の主に対して従の位置にある。絵画が彫刻を圧倒するようになるのは、顧・陸・張を吸収して呉道子において大成した唐時代の美術の影響を受けた空海時代(平安前期)である。それ以前、絵画作品で現存するものが少ないせいかもしれないが、それだけではない。やはり推古の美術を知るにはなによりも彫刻なのである。運慶の時代(鎌倉時代)ともなると、彫刻は独立性を失い、絵画のスタイルが彫刻の様式に影響を与えている。だから運慶時代の彫刻は絵画の様式と合わせて鑑定した方がいい。彫刻の前面はなかなか趣があるが、背後に彫刻としての面白さがないのも、絵の影響力のせいである。

本来、絵画と彫刻は、それぞれ独自の性質があって、それによって、進歩しなければならない。どっちか一方が他方に従属していくなんぞというのは、美術という観点からみれば、喜ばしいことではない。ところが、奈良時代は、彫刻が主人で絵画は彫刻がみせる趣のなかにとどまり、独自の活動に乏しい。

推古時代の彫刻として現存する確実な作品は、法隆寺の仏像である。大阪の四天王寺してんのうじは聖徳太子が開基した寺であるから、推古時代の作が遺っていていいはずだが、大阪という繁華の地がその原因か、散逸してしまって、いまはなにも遺っていない。

江戸時代、文化年間(1804—1818)頃の記録には、この寺の四天王は法隆寺のものに似たり、とある。山口大口費やまぐちのおおぐちのあたい(生没年不明、飛鳥期の仏工)の作だったかもしれない。京都の広隆寺にも、いくつか推古時代の仏像がある。

法隆寺の現在の建築は、推古時代のものという説もあるが、天智時代以後の再建であることは、いまや確証も出、議論の余地はない。だから、建築のことはここでは触れない。議論の分かれるところは、金堂にある諸仏像と壁画の関係である。金堂内に並ぶ仏像はまちがいなく推古時代の作である。ところがその壁画は、仏像とはまったく異なる趣をそなえているのである。史書(日本書紀、上宮聖徳太子伝補闕記)に、法隆寺は天智9(670)年全焼した(「一宇不残いちうのこらず」)とある。金堂といえば伽藍のなかでも重要な建造物であるから、もし金堂が火災で難を逃れたら、一宇残らず、と記すことはないだろう。したがって、法隆寺の推古時代の建築は天智時代に焼失し、現存の建物は、その後に再建されたもので、和銅4(711)年修復という説があるから(日本書記には再建の記録がない)、天智9年より和銅4年のあいだに主要伽藍は再建されていたと考えるのが妥当である。

とすれば、金堂壁画とその内部の諸仏像の関係はどうなるか。仏像の光背には、鳥仏師と山口大口費の作であることを記した銘がある。したがって、これらは旧法隆寺の仏像であることは疑えない(のち擬古作説が出た)。とはいえ、この一丈有余(中尊86.4㎝高)の大銅像をどうやって火事のとき持ち出すことができたのか。建物の入り口は広くはない。仏像のどれを調べても火事による損傷の跡はない。しかもその上、一堂の中にある仏像と壁画の様式がまったく異なっているのは、どういう理由からか。これは、議論の結着がつかない問題である。或るひとは、法隆寺が燃えたとき、大雨が降って雷鳴が轟いたとあるから、火災は雷によるもので、そこへ大雨が降って、建物の上の方だけ焼失し、仏像は傷つかなかったのだというし、また一宇残らずというのは昔の人の大げさな言い回しで、じっさいはそんなでもなかった、だから、現在の法隆寺は当時のものである、金堂は燃えなかったという人もいる。

さて、その金堂の壁画なのだが、寺伝では鳥仏師の作だといっている。古い文献では曇徴どんちょうとある。曇徴という人は、聖徳太子の時代に渡来した三韓の僧(高句麗)で、顔料や水車の技術などを伝え、儒学に詳しいと伝えられているが、絵が上手かったという記録はない。聖徳太子の時代は、三韓の画工白加が、弟子16人を連れてやってきた記録があるから、太子が法隆寺を建てようというときに、白加たちに依頼しないで、画工でもない曇徴に頼む理由がない。私が考えるには、壁画の制作はもっと後の時代で、仏像だけが創建時の作だ。仏像は火事のとき、どういうふうにしたのか判らないが、無事に御堂の外へ出すことができた。もしくは運良く火災は堂全体に拡がらず、仏像を傷つけずにすんだのかもしれない。この辺の事情は、まだはっきりすることはできないが、ともかく仏像は無事に遺ったのだ。

壁画と仏像とはまったく様式が異なるから、両方が同時代のものとは、とうてい考えられない。もちろん、もっとのちの時代になって、たとえば、土佐派と狩野派のように、ほとんど別系統の様式が共存するということはある。それは、ひとたび流派というものが出来てしまえば、その伝統を人びとは大事にしたがるという傾向があるから、当然起ることだ。しかし、推古時代、初めて仏を作ろうというときは、人びとのあいだにあるのは、仏像を造って拝みたいという熱情がなによりも先にある。いろんな様式があって、その好みに従って製作しようなどとはしないだろう。様式は選択の余地なく与えられて、そこに熱情を注ぐのだ。つづく天平時代でも、まだそういう熱情の下にあるから、絵画と彫刻が一つの関連しあった様式をもち合って出来上がっている。そう考えれば、法隆寺金堂の壁画と彫刻は、まったく別の様式であることは見たとおりであるから、これは、壁画の方を天智時代の作としたほうがいい。仏像は推古時代の作、壁画は天智時代、そして建築もまた天智時代である。

法隆寺の金堂には、三尊が二組ある。薬師三尊(図1)と釈迦三尊(図2)である(現在は釈迦三尊と薬師如来一体。薬師は脇侍仏がいない)。

薬師如来の光背には、用明天皇が病気になったので、推古天皇と聖徳太子がその回復を祈願して作った(推古15〔607〕)という造像銘が刻まれている。また、釈迦如来の光背には、聖徳太子の冥福を祈るため鳥仏師に作らせたと銘が彫られている(推古31〔623〕年「司馬鞍首止利仏師しばのくらつくりのおびととりぶっし」に造らせるとある)。衣服の襞つまり、衣文えもんはわざとらしく重なった紋様をしていて、顔や手が大きい。博物館に陳列している四十八体仏(図3)(法隆寺献納宝物。明治11〔1889〕年法隆寺から皇室に献納された301点の内の、飛鳥・白鳳金銅仏)に似ている。格好はよくないけれど、釈迦如来としての仏相をきちんと備えた仏像としては、これが第一番に古い。おそらく、その他の釈迦は、これを基準に作ったと考えられる。

当時は、どのようにして鋳造したのだろうか。原型は木型を作ったのだろう。しかし、それを脱ぬくには烈しい火で内部の木型を灰にしなければならない。当時はすでにそんな技術を持っていたのである。

薬師如来、釈迦如来は、仏像の如来相として一定の規則がある。如来の手が、鵝王指がおうしといって、指の間に膜が水掻きのようになっているのも三十二相(相好そうごうともいう)の一つである。

仏像には、また、如来、菩薩、天部の区別がある。これからしばしば仏像のことについて語ることになるだろうから、その三つの仏像の区別を説明しておこう。

仏教ではよく微塵みじん中にも一世界あり(極小の塵にも一つの宇宙がある)といわれるが、人間の世界だけが世界ではないのである。天には三十六天あり、その最上位に位置しているのが、如来で、菩薩がそのつぎ、ついで天部である。人間は最も下に位置し、善事を積めば上に昇って、いつかは如来になれる。人間は本来みんな仏になれる「分子」(原素)を持っていて、その分子は、あたかも大海原の一滴の水のようなものだというわけだ。

こういう考えかたは、最近ヨーロッパの哲学にもとりいれられるようになっている。「万有」(宇宙にあるすべてのもの)のうち、人の耳目に触れるものは、さしずめそのほんの一部なのだ。大きい声のそのさらに大きい声や、小さいごく小さい声も、人間の耳では聴くことができない。光でも、その最も強い光や、逆に最も弱い光は、肉眼では見ることができないのだ。それならば、いったい人間がじゅうぶん知覚できるものというのは、どのくらいなんだろう。いつの日か、人間が進化して、神通力を持つようになったならば、そのときには人間がそれまで知っていたと思っていた世界がどんなにちっぽけなものだったと思い知るときがあるかもしれない。

菩薩というのは、如来とほぼ同じ位(地位)なのだが、ちょっと低く、時に化身して人間界へ降りてきて、人間と関わりをもったりする。如来は最上位だから、直接人間と関わったりはしない。

天部というものはもっと人間に近く、人間的な欲望は持っていて、人間界に関わっている。

次に、三尊について説明しておこう。三尊は次のような組合せ形式をもっている。

・文殊もんじゅ菩薩
釈迦三尊・釈迦如来
・普賢ふげん菩薩
・観音かんのん菩薩
阿弥陀三尊・阿弥陀如来
・勢至せいし菩薩[宝冠に水瓶をつけている]
・日光菩薩
薬師三尊・薬師如来
・月光菩薩

中央に如来(本尊)がいて、左右に菩薩が脇侍きょうじとして立つ。文殊菩薩は、智恵の菩薩で哲学を象徴しており、普賢は慈悲の菩薩、すなわち道徳を象徴する。釈迦はこの二つを合わせ調和させるが、人間の済度さいど(迷いや苦しみから救い、悟りの彼岸へ導く)に携わることはしない。この役割こそ、美術である。釈迦は円満で調和している。脇侍はそれぞれの役割がはっきりしているが逆に偏かたよりがある。

・文殊(智恵 哲学)
釈迦(美術)
・普賢(慈悲 道徳)

推古時代の如来としては、法輪寺金堂の薬師仏(坐像)がある。これは法隆寺金堂の薬師とよく似ている。同時代の作であることは議論の余地がない。(木造[樟一木造]である。)

推古時代の菩薩としてまちがいない仏像は、中宮尼寺ちゅうぐうにじの本尊、如意輪観音にょいりんかんのん(図4)である。銘記はないが、この中宮寺は、聖徳太子が薨去こうきょのあと、后や妾妃らが剃髪して尼となって立てた寺であるから、この時代のものにまちがいはない。この如意輪、右手を挙げ、中指と食指(ひとさしゆび)が軽く頬に触れるように指さしている(のちに半跏思惟像はんかしゅいぞうの呼称が定着)。後世、如意輪といわれる仏像は右手を頬に当て考え深い姿勢ととっている。そこで、一説には、中宮寺の如意輪は弥勒みろくだと主張する者もいる。(指先が頬あたりを指さすように軽く触れているのは弥勒説法のスタイルで)掌を頬に当てて支えるようにしているのは、如意輪菩薩が天部を済度しようとする形相だからである。後世、如意輪観音は六手を持ち、それぞれの役割を振り当てられている。しかし、奈良時代の如意輪は、二手である。たぶん、当時の仏教は法相宗ほっそうしゅうで、弥勒の立ち顕れる願望の強い宗派であり、如意輪よりは未来出世を告げる弥勒仏の法を信仰しただろう。釈迦の教えが衰えて弥勒菩薩がやってきて衆生を済度するという教えである。とすれば、いま奈良にあって如意輪と呼ばれているものは、弥勒かもしれない。

中宮寺のこの仏像は、聖徳太子の作といいつたえられている。台座を含めて七尺余(167.6 cm、樟、木寄造きよせづくり、漆地彩)。頭部が角髪みずら(上代の男子の髪型、平安以降は元服以前の年少者の髪型、美豆良と書いた)の形なのも他に例がない。表情は法隆寺金堂三尊に似て、熟視していると、いかにも優美な趣が伝わってくる。

京都の広隆寺(推古11〔603〕、秦河勝はたのかわかつが建立)の八角堂に如意輪と呼ばれる観音像が一体ある。これも聖徳太子の作と言い伝えられている。作り方は粗いが、中宮寺の観音とよく似ている。台座を含めて四尺余(123.3 cm、赤松一木造、宝冠をかぶる半跏思惟像)。

以上、二つの観音の坐像だが、立像としては、夢殿観音(図5)がある。

夢殿は法隆寺の一部で、その観音像はよく知られている。昔から秘仏にしていて、公開しなかった。私は明治17(1884)年だったか、フェノロサ(1853—1908)や加納鉄斎(1845—1925)と共にこの寺を訪れ、この秘仏を見せるようにと談判したことがある。そのとき寺僧がいうには、夢殿観音の扉を開くと雷が落ちる、明治初年、神仏分離令が出た頃、この扉を開こうとした者がある。するとたちまち空が曇り、雷鳴が轟いて、みんな逃げてしまった、必ず雷が落ちるといわれており、そんな前例もあるから開けることはできません、とこちらの要請を聴き入れようとしない。雷の事は心配するな、われわれが責任を持つと押し返して、堂扉を開こうとしたら、寺僧は怖がって逃げていった。

堂扉を開くと、千年の欝気がこもって耐えられないくらい鼻に衝く。蜘蛛の糸が張りめぐらされているのを払って、よく見ると、東山時代(室町時代)と思われる几案(机)がある。これを取り除くとすぐそこに尊像がある。像の高さ七、八尺ばかり(188.6 cm)、布切れや経切れでもって何重にも包まれている。人気ひとけに驚いて蛇や鼠が不意に現れ、これにはこっちが驚かされる。ともかく近寄って布を取る。布を除いていくと、白い紙が現れた。先年開扉して雷が鳴って逃げ出したというのはここらあたりか。布を剥ぎ終ると、七尺を越える仏像、手に珠を載せて端然と厳かに立っておられるのを仰ぐ。これはじつに生涯最高の瞬間だった。

幸い雷鳴もなく、寺の僧も胸をなで下ろしたようだった。

この像は、足利(室町)の頃までは秘仏ではなかったようだ。『七大寺巡礼記』の「上宮王院」には、「等身俗形(仏像の姿をしていない)」にして左手に宝珠を持ち、右手をその上に伏せて宝珠を覆っていると詳しく、その形相を記している。秘仏であったからだろう、彩色は鮮やかに遺っていて、光背に描かれた焔などとくに鮮明である。顔容は、上頬が高く下頬が落ち込んでいて、推古時代仏像に共通した特色をみせている。頭部、四肢(両手と両脚)は大きめで、鼻のあたりの溝の筋が深い。法隆寺の推古仏もそうだ。全体には木造だけど、手の一部分は乾漆で作られているようだ(樟一木造。総体を漆と白土で下地塗り、金箔押し。後頭部火炎文かえんもんの宝珠形光背と二重の複蓮弁からなる蓮華坐れんげざは別造り)。乾漆というのは木屑ぼくせつや布を芯にして漆で固めたものである(木屎こくそ)。

この秘仏内部(夢殿内部のことか)は鼠族のためにずいぶん痛めつけられている。どこでも秘仏というものは、とくに、鼠の害にあったり雨や湿気で腐っていたりするものが多く、なんともはや、言葉にしようがない。その秘仏を開いて、かえって価値がなくなり、むしろ開かない方がよかったなどというものもあるのだ。

あるお寺の秘仏なんぞ、錦襴で包み、これを開けばよほどの名品が現れてくるのだろうと、わくわくして包みを解いてみたら、なんと、ひとかけの燃え残った木片が出て来た。そのときのがっくりしたことといったら。

これは、その昔、寺で火災があり、木像も燃えてしまったが灰の中から燃えのこりの一片を取り出して、それを秘仏にしていたというわけなのだ。この錦欄の秘仏を見たいばかりに、数日かけて斎戒沐浴さいかいもくよく(経を上げ湯浴みして身を清めるなどの行)して寺の和尚の許しを得たのに空しい時間の浪費だったというわけだ。

夢殿観音(のち救世ぐぜ観音とも呼ばれる)は、最近また秘仏にして、なかなか見せてくれなくなった。しかし、きっと機会はあるだろう。そのときにはぜひ見てきたまえ。これは一見する価値がある。

法隆寺の倉庫にはもう一体観音像がある。高さ一尺七、八寸。本校に模刻がある。夢殿観音に似たところもある。(百済観音としたら、高さ一尺七,八寸は問題。聴講生の誤記とも読める。)

本校に所蔵するもう一体の木仏。これは見て判るように、とても粗いでき上がりで稚拙である。しかし、当時はこんな仏像が一般民間では拝まれたのではないか。これは、もともとは奈良の民家に伝わったもので、上頬がとび出て下頬がひどく落ちくぼんでおり、手足が大きすぎるが、これは推古仏である証拠である。

こんなわけで、大づかみにいえば、推古時代の美術は巧みさという点では劣るものが多い。夢殿と中宮寺の仏像は、なかでもぬきんでて美術的価値の高いものだ。

いっぽう、法隆寺四十八体仏というのがある。さきに明治10(1877)年ごろ宮内省から下賜金が出て、法隆寺が献納したものだ。総数はおおよそは、80体。なかにはみごとなものがある。それは宮内省が所蔵している。小像は博物館で展示している。

以上で、菩薩を終わって天部に移ろう。

天部といえば、まず、法隆寺金堂の四隅にある四天王(図6)だ。その光背(広目天)の銘に「山口大口費やまぐちのおおぐちのあたい」〔費は直の誤字〕作とある。『日本書紀』に、孝徳天皇白雉はくち元年(650)、漢山口大口あやのやまぐちのおおぐちに千体仏を彫らせたとあるのがこれに当るのだろう。とすると、これらは推古、天智の中間に位置する像である。作風は金堂の釈迦三尊薬師三尊と似ている。四天王というが、動きに乏しく、後世の四天王のように表情に怒りを含まない(正面向き、無表情で直立姿勢)。足の下に踏んづけている邪鬼も、一種異様の鬼である(後の邪鬼に比べて大きい、両手でなにかを支えていた形跡がある)。高さは、鬼を含めて四尺五寸余の木造である(133〜135 cm。樟、一木造。切金細工を施され、彩色、宝冠、腕釧わんせん、襞釧ひせんなどに透彫金具装着)。頭部を飾る金物は夢殿観音の宝冠と似ている。

鞍作鳥くらつくりのとりは、止利仏師ともいい、彫刻家の元祖である。この人については、いろいろ伝説めいた話があって、彫刻家の系譜には年令140歳に達し、口には嘴くちばしがあり、頭に鶏冠とさかを戴く、仏の化身であるという。とにかく推古時代の彫刻の大家として記憶しておかねばならない。止利は継体天皇16(519)年に帰化した司馬達等の孫で、多須奈の子である。達等は仏教信仰に篤く、草堂を高市の坂田原に営み、仏像を拝んでいたという。おそらく、この仏像は中国伝来のものだろう。達等が彫刻に長けていたとは記録に遺っていない。彼の娘は尼になり、信仰も篤かった。息子の多須奈もまた信心篤く、用明天皇が病気になったとき、出家して仏像を作り、天皇の平癒を祈願したいと奏上し、丈六仏(結跏趺坐して20メートル位ある仏像)を造ったという。これで多須奈が仏像を造ったことが判るが、自らが造ったかどうかは判らない。作らせたのかもしれない。しかし止利は自ら仏を造像したことは疑いの余地はない。『日本書記』に、推古天皇13(605)年夏四月、天皇は皇太子(聖徳太子)と諸臣に銅と繡の丈六仏を各一体作らせよと詔して、鞍作止利にそれを造らせた、とある。高麗王はそのことを聞いて、黄金300両を贈ったとある。翌14(606)年、仏像は完成し、元興寺がんごうじの金堂に安置しようとした。元興寺はその後、火事になり、当時の建物は遺っていない。ともかく、その丈六仏は大きすぎ金堂に入らなかった、というのだが、寺の者は堂の一部を毀こわして入れようとした。すると鞍作止利がやってきて、堂を壊さないで仏像を安置する方法を考え出した。仏像は見事金堂に収まり、みんなは止利の頭の良さに感心した。天皇は、朕ちんが仏法を盛んにしようとして仏舎利(堂塔)を求めれば汝の祖父が献じてくれた、僧侶を増やしたいと思ったときは汝の父と叔母がみずから出家してくれた、そしていま仏像を造像したいと願い汝に命じると、朕の願い通りの仏像を造ってくれ、その上、金堂に収めるにさいしても、汝は堂を毀すことなく納めてくれた、汝の功績この上ないことだ、と賞賛し、大仁の位を授け、近江国(滋賀県)坂田郡に水田20町を賜った、とある。

仏教奨励の逸話であるが、同時に美術奨励の始めでもある。

先にも言ったが、法隆寺金堂釈迦如来像の光背に「使司馬鞍首止利造」しばのくらつくりのおびととりをしてつくらしむとあるのは、この仏像を推古時代の確実な基準作とできることを示している。

絵画は遺っている作品が少ないから、彫刻のようにいろいろ考えることができない。わずかに見るべき作として、法隆寺金堂の玉虫厨子がある。厨子の内部に仏像を安置し(現在は観音像一体が安置)、須弥座の四面に粗朴な彩色画が描かれている。それは先日見せた。

扉にはそれぞれに二体の菩薩のような像が描かれている。どこか夢殿観音を思わせる。

絵画で記憶すべき、この時代のもう一例は、本校が所蔵している「過去現在因果経」(絵因果経えいんがきょう)である。巻物の上半分に絵を描き、下半分が経文である。絵は文の意味を画にしたもので(上の絵と下の経文が対応している)、もと三巻(四巻)あったのだが、他の巻は散逸し、本校には一巻だけ所蔵している。画風は非常に粗朴で、画としてじっくり味わうほどではないけれども、玉虫厨子と同様、この時代の作と考えられる。

ほかに、法隆寺(創建)時代の絵としては、注目すべきものはない。ただ、刺繡で忘れてはならないものがある。中宮寺にある「天寿国曼荼羅」(天寿国繡帳)(図7)である。刺繡の画風が当時のものである。聖徳太子が薨去したあと、妃らが集まって繡い上げたといわれる刺繡の帳とばりで、仏教を興隆させた太子は、きっと天寿国へ召されていっただろう、そのありさまを眼のあたりにみたいと、妃(橘大郎女たちばなのおおいらつめ)が倭東漢末賢やまとのあやのまけん(高麗加世溢こまかせい、漢奴加古利あやのかこりら)に画を描かせ、その図を(采女たちに、紫の羅に色糸で)刺繡させた。現在は破損がはなはだしい。裂れは処々に散逸してしまった(1275年の修復模作部分を含めて一部遺る)。

その絵の趣は因果経、玉虫厨子絵とそんなに隔たった異ちがいはない。曼荼羅というのは、この場合寺院の調度品というような意味で、帳の中央に主題が表され周囲は様々な装飾がなされている(天寿国繡帳の画面に点在する亀の背に銘文が繡いとられているが、その銘文の全文が『上宮聖徳法王帝説』に収録されていて、この繡帳の制作の由来が判る。絹地。88.5×82.7cm)。

以上、推古時代の美術としてまず確実な作品の概略である。


高橋勇ノート

玉虫厨子は現存する最も古い厨子である。この名称の由来については、二説ある。一つは、金物の隙間に玉虫が住んでいたから、それを採ってその羽根を隙間に入れて、彩色の一助にしたという説。その裏付けとしては、奈良時代(天平時代)に鳥の羽根を使って書の字や絵に描いたものがあることが考えられる。もう一説は、この厨子は光り輝いて美しい玉虫のようであったからこの名をつけられたという。この二説、いずれも信ずるに足りないが、ともかくそういわれてきたことを紹介しておく。

その玉虫厨子の形態であるが、図(図8)にみるようなものである。絵画の遺品というより建築として(飛鳥建築様式を遺す唯一の遺品として)重要である。厨子の中裏は金銅板を貼り、その板一面小さな仏像がたくさん打ち出されている。じつに、この様子は、経典に説く須彌を描き出しているのであろう。下の方に、塔の図と捨身品(捨身飼虎図)といって(釈迦の前身のサッタ王子が)餓えた虎(の母子)に身を捨てて(食べさせて)やる図、隣が涅槃経の図、その隣が舎利供養の図である。現在なら油絵というべき密陀僧という油のような絵具でもって描かれている(漆と考えられる)。これは、用明天皇が持っておられたものだと伝わっている。そのことの証拠はないが、推古様式であることはまちがいない。

天寿国曼荼羅は、どういう情況でつくられたか。それは聖徳太子が崩御されたとき、子供たちや妃たちが嘆き、推古天皇の要請もあって、太子は死後天竺に昇られるのだろうと、その天竺のさまを作り上げたものである。絵を描いたのは、東漢の末賢まけん、高麗の加西溢かせいで、中国や朝鮮からこの制作のために来たのか、早くから帰化していた者か、名前が伝わるだけで詳細は判らない。とにかく、この二人が絵を作ったとある。現在はこの曼荼羅(繡帳断片)が全国のあちこちに散蔵されているが、中宮寺にいちばん集まっている。その絵の様式は玉虫厨子とよく似ており、法隆寺の釈迦像とも通じている。今日の眼からみれば、絵といっていいのか模様といっていいのか区別がないような図柄である。

絵因果経という経巻が全国に三巻ある。その一巻は本校が所蔵しており今は博物館にあるが、この画風も推古式である。この絵因果経が作られたのは天智時代と考えていいだろう。

推古時代の建築はほとんど遺っていないから、まずは絵画と彫刻を概観して、この時代を終るとしよう。

器物の遺品が少しあるが、推古時代の美術を考えるのにいままでみてきた絵画と彫刻で充分である。今後もっと調査して重要な作がみつかるかもしれない。以上、推古時代の美術は、「形」は「完美」ではないが、仏教の影響の下、「意匠」の「高尚」さ(形の尊い美しさ)をみせている。ここに推古時代の特質を要約できる。