W シモーヌ・ヴェイユ

≪第一部≫

シモーヌ・ヴェイユ。人名辞典などを引くと「フランスの女性哲学者」なんて説明がされているはずです。しかし、「女性」はともかく、彼女が「哲学者」と呼ばれるような仕事を遺したことが判るのは、彼女が亡くなってから1947年に最初の遺著(『重力と恩寵』)が出版されて以降のことです。最初に刊行された『重力と恩寵』は、彼女の晩年のノートで、カトリック教徒としての信条や考えが誌されています。シモーヌ・ヴェイユはまず「カソリック教徒の神秘主義者」として知られたということです。

その後、1955年に「自由と社会的抑圧の原因をめぐる考察」(邦訳題名『自由と社会的抑圧』岩波文庫2005)という初期の草稿が出版され、マルクス主義を批判した鋭利な思想家の面が紹介され、生前、リセ(日本の高校に相当)の「哲学」の先生であったことなどから「哲学者」という認識が定着していきました。

つまり、シモーヌ・ヴェイユに単純に「1930年代のフランスの哲学者」という称号を与えて彼女をそのカテゴリーに収めるわけにはいかない。生前は、彼女の書いたものといえば、労働運動の機関誌(『レヴォリューション・プロレタリアンヌ』)などに書いた短い文章くらいで、同時代の人びとにはほとんど知られていない存在だったといっていいでしょう。

まず、彼女の一般的な、ということは彼女の死後つくられた像を紹介しておきましょう。

シモーヌは、1909年2月3日、パリの裕福なユダヤ系の医師の家に生まれました。兄がいて名はアンドレ。アンドレ・ヴェイユという名前は、数学界では知らない人はいないでしょう。お兄さんのほうは、生前から「世界的な数学者」という称号にふさわしい人でした。

彼女もとても聡明な少女でしたがお兄さんの天才振りにひどいコンプレックスを持っていたという言い伝えものこっています。

リセを卒業してパリのエコル・ノルマル(高等師範学校などと訳されます。その入学試験もバカロレアという大学入学共通試験とは別に実施され、入学するのがなかなか大変)にすんなり入ります。が、その前にリセでアラン(本名エミール=オーギュスト・シャルチエ、1868?1951、生前から高名で影響力の大きかった哲学者・思想家・モラリストでした)の授業を受けていました。リセの名前は「アンリ4世(キャトル)」といいます。名門校です。

シモーヌはここを卒業してエコル・ノルマルを出て、その年(1931年)アグレガシガシオン(教授資格試験)にパス、「哲学」の教授資格を獲得しました。22歳のときです。 1931年から34年の三年間、リセで「哲学」を担当します。最初の1年(1931から32年)はリヨンの南西にあるル・ピュイ高等学校(リセ)、32から33年はディジョンの近くにあるオーセールのリセ、33~34年はリヨンの北西、ロワール県にあるロアンヌという街のリセで。このロアンヌにいたとき「自由と社会的抑圧の原因」を執筆しました。

毎年、勤め先の学校を変っているのは、彼女が過激な思想の持ち主で、行動もそれに劣らず、失業者の救済運動とか労働運動に参加し、当時のシモーヌに、「赤い少女」とか「トロツキーより過激なトロツキスト」などというニックネームがつけられていたといいますから、なかなかの活動家であり行動家であったのでしょう、学校・文部省当局が手を焼いて翌年も続けてほしくないと、いろいろな手を使ったからです。

ル・ピュイでの1年が終わったとき、彼女は、夏休みにドイツへ旅行します。ちょうどナチスが実力を持ち始めたころの情勢を見てこようという旅行でした。

そういう旅行や労働運動への参加を通して、彼女は同時代社会への批判力を磨いていきます。

「自由と社会的抑圧の諸原因についての考察」は、1955年(シモーヌ没後12年目)まで、日の眼をみなかったのですが、ここでシモーヌは、マルクス主義の矛盾・欠点とロシア革命の誤りについて鋭く論究追究しています。この本が1930年代に「書かれていた」ということには驚かねばなりません。多くのじつに多くの知識人が、ソ連のありかたにマルクス・レーニン主義の成就と人間解放の実現を夢見ていた時代です。いまでは、信じられないことですけれど、もちろんボクもまだ生まれていませんから、残っている文献資料を眺めて判断していることですが、この時期は良心的な知識人にとって、ソ連(ソヴィエト連邦共和国)は、人間の解放を目指し、虐げられていた労働者が政治の主導権を獲った理想的な国家を実現させた貴重な実例だったのです。

スターリンとの主導権争いに敗れてソ連を追放されたレオン・トロツキーも、スターリン批判をしてもマルクス・レーニン主義こそ人間を解放させる唯一の哲学であることを疑ったり批判したりはしていません。このトロツキーですが、スターリンに追放された(1927年)あと、じつは亡命先のパリでは、ヴェイユ家に泊まったこともあるのだそうです。そこでシモーヌは、トロツキーとマルクス・レーニン主義をめぐって論争したというエピソードものこっています。トロツキーはその後メキシコへ渡り(逃げ)、そこではフリーダ・カーロと恋をし、そのメキシコで、スターリンの送った刺客に暗殺されます。

  ともかく、こうしてトロツキーとさえ渡り合ったシモーヌのマルクス批判の一説を「自由と抑圧の原因の諸原因についての考察」から少し引用しておきましょう。

≪マルクス主義の生産力構想を検討するまでもなく、この構想を公理と認める社会主義文献に例外なくみられる神話的な特徴に驚かされる。マルクスはなぜ生産力が増大するのかを一度も説明しない。この神秘的な傾向をなんの例証もなく認めるがゆえに、マルクスは自身で思いたがるほどダーウィンに似ておらず、環境への適応という生物の不可解な傾向のうえに生物学の全体系を基礎づけるラマルクに似ている・・・・≫

×

≪さらにまたマルクスが、生産力には際限なき発展が可能であることを、論証もせぬまま、あたかも自明の真理のごとく想定するのはなぜなのか。マルクス主義の革命構想が全体的に依拠するこの学説には、いっさいの科学的特性が絶対的に欠けている。この学説を理解するには、マルクス思想がヘーゲルに端を発することを想起せねばならない。ヘーゲルは宇宙のなかで隠れて働く精神の存在を信じ、世界の歴史とは、この世界精神の歴史にほかならず、精神的なものの習いとして世界精神は際限なく完全性をめざす、と信じていた。マルクスはヘーゲル的弁証法を「逆立ちしている」と非難し、「足で立たせる」と主張した。そこで物質を歴史の動因たるべく精神にとって替わらせたわけだが、マルクスはこの代替による修正を手始めとして、精神の本質にほかならぬもの、すなわち最善をめざす絶えざる熱望を物質に帰属させるがごとく、歴史を構想してしまった。この点でマルクスは、資本主義思想の一般的潮流と深く一致する。・・・・・大工業の躍進のおかげで、生産力はある種の宗教を司る神へとなりあがった。歴史の構想を練るにあたり、マルクスは意に反してこの宗教の影響をこうむった。≫

×

≪生産力という宗教を楯に、数世代にわたる企業主たちは、いささかの良心の呵責もおぼえず労働者大衆を蹴散らしてきたわけだが、この宗教たるや、社会主義運動の内部でもひとしく抑圧の一要因を構成するものなのだ。なべて宗教は人間を神慮のたんなる道具とする。社会主義もまた、人間を歴史的進歩に、すなわち生産の進歩に奉仕させる。・・・≫(岩波文庫・冨原眞弓訳より)

  一寸長い引用になりましたが、引用し始めると思わず止められなくなってしまったのです。

それにしても、反マルクス主義者のガリガリの保守主義者、資本主義擁護論者がこういうのなら解ります。それは「敵意」を剥き出しにした言説だからです。シモーヌは、こうした保守主義者と闘うために、マルクス主義を批判しているのです。自分が友人として受け入れ扱う側にいる人(思想家。活動家)への容赦しない批判のまなざし、なんらの「権威筋」に依拠しない(そうしたらその「権威」の内部への批判の眼は曇ってしまう)、自分自身の感性と判断で、「世界」をみつめようとするまなざしが、ここにはあります。

  このまなざしこそは、現在のあらゆる階層の「知識人」が心して学ばねばならないものではないでしょうか。ボクは、シモーヌ・ヴェイユに出会って、このことを教えられました。

「マルクス主義」を「資本主義」の「流れ」の中に位置づける、つまり結局マルクス・レーニン主義は資本主義の一変種なのだという言い切りの見事さ、そしてマルクス主義も一種の「宗教」なのだと言い切る鋭さ??マルクスとサルトルを読むことを義務づけられていたボクの学生時代、このシモーヌ・ヴェイユの本との出会いはじつに新鮮な出会いでした。というより一種の衝撃でした。人類史的な規模でものごとを考えること、反対概念、対立し相容れないような振る舞いをしているもの(たとえば保守党と革新党といった政治活動)が、結局構造としては相似のものだということを知ることの重要さなど、ボクはまず、シモーヌから教わったという気がします。

そんな若いころの経験を思い出しながら、ついつい長い引用をしました。

さて、年代を追って先へ進みます。

1934~35年(25~26歳)にかけて、彼女はリセの教師で働くのを止めて、いくつかの工場で「女工」として肉体労働を経験します。職業安定所へ行き、「最低賃金」の「未熟練労働者」として働いたのです。もともと丈夫な身体の持ち主ではなかったのに、こんな労働で肉体を苛めつけながらともかく働き、帰宅するとへたへたの身体で日記をつけました。その日記が、亡くなってから『工場日記』として刊行されました。

彼女自身、公表するつもりで書いたとは思われない内容の文章を読んで、「彼女の思想は・・・」などと語っていいのか、と思うのですが、そのルノー工場で働いていた部分を、二段組6ページのコピーにして、ABCの当日はみなさんにお配りしました。

彼女自身はこうしてくたくたになって、紙に文章を書き付けることによって、なんらかの思索のもの覚えにし、また、なにかを考えていく糧にしようとしたのでしょう。そんな思いがこの日記を読んでいるとじわっと伝わってきて、思わず読み進んでしまうのです。

なによりもこの「日記」は、表現する(ここでは文章にする)ということの裸の、なまの姿というか、〈これ以上に「他者」への配慮のないところで「表現」すること〉がどんな力を持っているかを教えてくれます。

毎日、毎日、同じこと、変り映えしないこと、そのなかに一寸だけ変っていること、変ったことを書きつける、その〈一寸〉の変りかたの貴重さのようなものを、じいんと味わえる、そんな記述が続きます。

あまりにも悲惨なみずから「奴隷」としか呼びようのない日々、労働者の実状報告をそこに読むというのも、一つの読みかたでしょう、労働者たちのあいだにあるみにくい争いとか、そんな社会の中にも「階級」意識が巣喰っていること等々を知ることも貴重な記録といえます。

しかし、ボクはこうした公表される目的で書かれていない文章を読み、思わず止められない不思議な〈力〉のようなものは、なぜなのかをもっと考えておきたい、ということに重点を置きたいと思います。

〈ただひたすら書く〉(表現する)ことによって〈思索する〉ことを促し続けるなにか、そこに〈ひっそりと生まれている〉その〈不思議さ〉にボクは妙に感動を覚えました。

××日×曜、疲れている、歯が痛い、誰かがこんなことを言った。私はあれをこうした。これをどうした。××の生産に××分かかった。やっと×××個仕上がった・・・・こんな記述がくり返し続くのです。そして、突然次のような文章が来ます。

≪歯医者の家から出て(火曜の朝だと思うが--あるいは木曜の朝だったかもしれない)、・・・街の方へあがってくるとき、奇妙な体験をした。この奴隷の身で、わたしが、どうしてこんなバスに乗ることができるのだろうか。ほかのだれかれと同じ資格で、12スウ出して、バスを利用することができるのはどういうわけだ。これこそ尋常でない恩恵ではなかろうか。もし、こういう便利な交通機関はおまえのような者の使うものではない。おまえなんかは歩いていけばいいのだと言われて、荒々しくバスからつきおろされたとしても、その方がわたしにはまったくあたりまえのように思えるだろうという気がする。隷属状態にいたために、わたしにも権利があるのだという感覚を、すっかりうしなってしまった。人々から何も手荒な扱いをうけず、なにも辛抱しなくてもよい瞬間があると、それがわたしにはまるで恩恵のように思える。そういう瞬間は天から下ってくる微笑のようなもの、まったく意識外の贈り物なのだ。こういう精神状態をこれからもずっと持ちつづけて行きたいものだ。・・・≫(『工場日記』田辺保訳、講談社文庫、1972より)

暗い雲の覆った空の下、それという目立った光景もない道を歩き続けているうちに(それはそれで不思議に歩みがはずんでいるのだけれど)、ふいに明るい晴れ間、太陽の陽差しがさっと差し込んだ広場に出たような文章の一群です。

「ふつう」の人ならなんでもない当然のことと思っている「こと」に、信じられない「恩恵」を感じる瞬間の記述です。日常の出来事を「意識外の贈り物」と感じる感覚。彼女はこういう精神状態を「ずっと持ちつづけていきたい」と記します。ずっと持ちつづけて行くことが、「人間」にとっていかに困難か、知りつつもそう自分にいいきかせることの大切さを、ここで噛みしめたいと思います。

〈シモーヌ・ヴェイユの神髄〉といういいかたをするなら、そんなものが、この言葉のなかにあるような気がします。われわれはいま「こういう便利な交通機関はおまえのような者の使うものではない」といわれたら、「誰だって使う権利はあるんだ、そんな差別は許せない!」って反応するでしょう。こういう情況で、ふつうは、その「権利」を主張し、権利が「犯される」ような仕組みに憤ります。そうすることが当然の「人間」の権利だと。その権利の主張を放棄して僅かな「恩恵」に感動し喜んでいるなんて問題ではないか。これで「労働運動」をやっている人といえるのだろうかという反論さえ出るかもしれない。

確かにもし、シモーヌが一緒に働いている工場仲間にバスから降りろと言われないのはありがたいことだと思いましょうよなどと語ったとしたら、これは大問題です。(だから、ボクは「日記」を読んでそれを彼女の「思想」として語るための引用にすることをためらったのです)、これは日記の中にシモーヌが書き付けた言葉です。公表することも他者に読ませることも想定しないで、自分のために自分にだけ向かって言った文章です。

そのことをよくわきまえた上で、彼女の内面に(傍若無人に!)入り込んで、われわれは、彼女のこのつぶやくような感想に出会っていることを忘れてはいけないでしょう。

そんなふうに、こちらもためらいがちに読むとき、この文章は深い意味を持ってくるのです。それは、自分をどうしようもなくそしてこれ以上になく疎外された情況に置かれていることを実感として想定してみることを決して棄てない彼女の生きかたがそこにあるということです。その生きかたがあって、それに反応して綴られた言葉なのです、これは。

そういう、これ以上になく疎外された状態に自分が置かれていることを実感するということ、これは、人間という存在が抱えている不幸を知るということです。そういう不幸はじつは誰もが隠し持っている(後年彼女をカトリックへ近づけたのは、この認識だったとボクは思います。だから、ボクは彼女がカトリックに走ったことをそんなにとまどう出来事だとは思いません)。もちろん、誰もが隠し持っているといっても、必ずその不幸に見舞われているわけではないから、そのことは忘れてもっと上の権利を要求している。しかし、人間である限り誰もが隠し持っている(人間が人間であるための条件のそれは一つなのだ)と気づき、その〈不幸〉を決して忘れないでおこうと思うことは、とても大切なことではないでしょうか。

神父に洗礼を勧められたとき、シモーヌは固辞します。そのことわりの手紙で、その理由を洗礼を受けることの出来ない不信心者(神に選ばれない人びと)の側にいたいからだという、その論理とこのバスの体験はつながっています。

「隷属状態にいたために、わたしにも権利があるのだという感覚をすっかりうしなってしまった」と彼女が書き付けている箇所は、そこにとどまってじっくり考えなければならないところです。こういう「隷属状態」は、シモーヌが経験した過酷な最低の工場労働者生活だけにあるのではない、もっと「豊かに」暮しているつもりでいる生活にもそういう感覚を失わせてしまっている装置が張り巡らされており、われわれもまた、そんな装置のなかへはめこまれて無感覚になっているものがいくつもたくさんあるはずです。

こういう日常のなんでもないところに〈啓示〉や〈恩寵〉を感受することこそ、「芸術」がもっとも大切にしなければならないことなのです。

そう考えたとき、ボクはこのシモーヌの感じた「恩恵」は、サルトルが『嘔吐』の主人公ロカンタンに感じさせた「存在」の「嘔吐」感と同じ出会いかたから見つけた「感覚」なのではないか、とふと思いました。シモーヌの「恩恵」とサルトルの「吐き気」は、同じ、人間の存在していることへの感受の裏表ではないでしょうか。

工場で働いてみようとしたのは、彼女に「人間」の最低条件で生きるということを体験してみようという思いがあったからでしょうが、彼女はフランスの若者(だけではなく大人もそうですが)が誰でもするように夏休みはどこかへ旅行しました。しかし、旅行先でもいつも「工場日記」に書いたような「生きかた」へその〈自分〉を傾けて行ったようです。シモーヌのリセ(ロアンヌ)の生徒で、のちにその「哲学授業」のノートを出版したアンヌ・レノがこんなことを誌しています。

《本書のゲラ刷りの個性をおえたノルマンディーのレヴィルという小さな村の近くで、ちょうどわたくしがシモーヌ・ヴェイユと知り合ったころ、彼女が夏休みのあいだ海のつらい労働を手伝ったという漁師に出会った・・・「----あの人は何日ものあいだ、わたしたちとおなじような生活をつづけようとしました。何時間もぶっつづけていかなご釣りをし(あれは、ほんとうにきついんです!)、食事をとるとわたしたちと一緒にすぐまた海へ出るんです・・・。
――あの人は、わたしたちに算術を教えてくれたんです!
――避暑客のほとんどはあの人を好いていませんでした。あれはアカだっていうんです・・・。でもわたしはそうは思いません。だって、わたしたちの娘がちょうど暗記するために教理問答集をもってたら、『見せてごらん、説明してあげるから、あとで暗唱するのよ』っていったんです・・・」》

1935年9月にも、彼女は工場を出たあと、ポルトガルの小漁村へ旅をしています。そこでも、ノルマンディーのときのように漁師たちの中へ入っていったことでしょう。

1936年7月、スペイン市民戦争が勃発します。反乱軍と闘うために、国際義勇軍が組織され、ヨーロッパやアメリカの青年たちは人民政府軍の志願兵として参加しました(ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』などもこの体験から生まれたものです)。シモーヌも参戦すべく、8月にバルセロナへ行って志願します。

3

スペイン内戦について語った以上、「人民戦線」についてざっと語っておく必要があるでしょう。人民戦線というのは、1919年(ロシア革命2年後のことです)、レーニンの指導の下、モスクワに設立された世界革命を目指す「第三インタナショナル」が、1935年の夏のコミュンテルン第三回大会で決議した戦術に基づいて起ってきた運動です。ファシズムの独裁やあちこちで起っている侵略戦争に反対するために諸政党団体が小さな意見の相違を越えて団結し、広範な統一戦線を作り上げようとしたもので、1935年6月に、フランスに誕生した人民戦線政府が発火点になりました。フランスの人民戦線政府の寿命は1938年秋までで終わりを告げますが、スペインには1936年1月人民政府が生まれます、スペイン共和国の誕生です。この人民政府を潰そうとフランコ将軍が、ドイツ、イタリアの支援を得て戦争を起こしたのがスペイン市民戦争で、戦争は2年8ヶ月余り続き、ついにフランコ将軍の勝利に帰し、スペイン人民政府も1939年の明け早々消滅しました。

シモーヌは、バルセロナからアラゴン戦線へと送られたのですが、あいにく炊事場で熱湯を浴び火傷して入院、戦線離脱します。

その年の12月、リセ教授の方は一年間の休職願を出して、静養生活に入ります。

翌1937年夏、イタリアへ旅行し、アッシジの礼拝堂で、「生まれてはじめてひざまずく」という体験をしました。パリ郊外のサン・カンタンのリセに任命されましたが、体力は回復せず、休職の願いを出して、翌年(1938年)春、ラ・サルト県にあるソレム修道院に入ります。

こうして彼女のカトリック信徒の生活が始まりました。6月から8月にかけてはヴェネチアなどへ旅をしたあと、再び教職の方は休職延長を願い出て、両親と共にジュネーヴへ旅行しています。そこで、1939年9月、第二次世界大戦勃発を知ります。すぐにパリへ戻り、最前線の危険な場所で働く「前線看護婦部隊」を構想立案しましたが、これは実現してもらえませんでした。パリは1940年6月ナチスの手に陥ちます。家族と共に南仏へ逃げます。夏頃はヴィシーにいましたが、ヴィシーはまもなくナチス支配下のフランスの首都となります。10月、マルセイユへ。1942年の5月までマルセイユ暮しです。ユダヤ人法というのがヴィシー政権の下に制定されて、教職につくこともできなくなりました。

1941年6月、シモーヌ32歳のとき、マルセイユのドミニコ会派のジャン・ペラン神父と交流が始まります。その年の8月から10月までは、ギュターヴ・ティボンという農民哲学者の農場で働きます。このときの思索のノートが、彼女の死後、ティボン氏によって、刊行され『重力と恩寵』と名付けられた本になったのです。(1950年には、ペラン神父へ宛てて書いた手紙などをまとめた『神を待ちのぞむ』が刊行されます。)

1942年の復活祭休暇には、カルカソンヌ(南仏)へ旅行したりしていますが、ナチスはいまにもフランス全土を占領しようとしています。両親のたっての説得もあって、シモーヌは家族と共にアメリカへ亡命しました、1942年のことです。

南仏にいるつかの間に、彼女はオーク語(中世フランスのロワール河以南で語られていた言語)文化についての論文を書こうとします。ABCの集まりでは、シモーヌの言葉からじかにシモーヌを理解してもらおうと「言葉群」という二頁にわたるコピーをお配りしました。それはこのシモーヌの生涯を全部ご紹介したあと、第二部として掲載します。その「シモーヌ・ヴェイユ言葉群」の(4)は、オーク語についての論文の一節で、この短い言葉に彼女の「思想」と「態度」がきらめいています。

ふつう歴史家は、遺された史料から(実証的に)、過去を再構成することに務めますが、彼女は滅亡し消えてしまったものへ、なけなしの想像力をはたいてこそ〈歴史〉が自分のところへやってくる(蘇る)と考えていました。

こういう考えには彼女の〈歴史〉についてというものへの鋭い洞察が前提として隠されています。〈歴史〉というのは、避けようもなく、つねに「勝者」によって書かれたものしか遺りません。つまり〈歴史〉とは勝者の記録なのです。敗者の記録は抹殺されてしまうか、歪曲改竄(かいざん)されるしかない。だから「歴史」としてのこされている「史料」は必ずしも正直な証言とはいえない。そのことをよくわきまえて、〈歴史〉を読み書かねばならない。これはシモーヌの生きかたの基本ともいうべき姿勢でした。

つねに敗者(弱者)の側にあろうとし、そのためにあらんかぎりの想像力を鋭敏にしておくこと、です。

1942年1月12日付、ペラン神父に書いた手紙が『神を待ちのぞむ』に収録されていますが、そこでは、神父が勧める受洗を辞退する弁明が吐露されています。彼女は、自分が洗礼を受けることによって、「神に選ばれた者」になることを辞退したいというのです。いいかえれば、それは「教会の外にいること」を願いつづけたいということであり、「教会の外にいる」ことによって「不信仰者の集団」から離れる位置をとらない生きかたをしたいというのです。

「教会の中」へはいってしまうことによって、自分は救われるかもしれないが、救われない人々から離れることは自分にとって耐え難いことだと考えること―――ここにも、〈敗者〉〈弱者〉の側から離れてはいけないという彼女の生きかたが貫かれています。

シモーヌは〈神〉は信じたけれど、規格にはまった「カトリック教徒」「キリスト教徒」ではありえなかった人でした。

アメリカへ逃れて「自由」の身になっていることにいたたまれないのがシモーヌです。いったん「亡命」者としてアメリカに受け入れられると、かえって出国するにはとても面倒な手続きが要るのですが、彼女はついに「自由フランス政府」があるロンドンへ向かいます。1942年11月、5月にアメリカへ渡ったのですから僅か半年後のことです。「自由フランス政府」というのは、ナチスに支配されるフランス国土から逃れ、国内の抵抗活動(レジスタンス)を国外から助けようとする活動組織で、ロンドンに本拠を置き、のちフランス大統領シャルル・ド・ゴールが指揮を執っていました。

彼女はここで、「対フランス活動部」に属し、国内レジスタンス組織からくる報告を分析したりする仕事に携わる一方、ド・ゴール派が戦後のフランス解放のために用意しようとしていた「人権宣言」の草案の起草も依頼されたといわれています。「根をもつこと―――人間の義務宣言のためのプレリュード」という著述として、1949年出版されました(その一部を「言葉群」に収録しました)。

  ロンドンにいても、彼女はなんどかフランス本土への潜入を企てましたが許可してもらえなかったようです。そして、ロンドンにいて、ナチス占領下のフランスの人びとが配給で得られる以下の食糧しか口にしないという生活を自分に律して、栄養不良と衰弱状態に陥り、1943年にミドルセックス病院に入院。8月17日にはケント州アシュフォードのサナトリウムへ送られ、一週間後の8月24日永い眠りにつきました。

人間の不幸を反権力への闘いのなかで取り返そうとして、そのためにはみずからその〈不幸〉に身を置くこと、〈不幸〉をみずから生きること、自分の中の〈不幸〉を体験することから始めようとしたその生きかたは、これ以上になく〈思想〉と〈実践〉を一致させようとした〈生きかた〉でした。

  「根をもつこと」という彼女の最後の文章は、彼女が投げ出されてそこに生かされている20世紀という時代が、トータルな意味で「根なし草」の時代だという認識を鮮明に語っています。「根なし草」すなわち「難民」。政治的には、「難民」は、21世紀に入ってもなお続々と生み出されています。精神的な意味でも、この「根なし草」は、われわれをむしばんでいて、遠ざかろうとはしません。20世紀のみならず、シモーヌの想像にははるかに及ばない(しかし、いま、われわれが息をして身体を動かしている)この21世紀も、精神的な「難民」の時代であることを誰も否定できません。

  シモーヌ・ヴェイユの言葉(その生きかたと思想)は、いまこそわれわれがじっくりと耳を傾けねばならないと思います。

  シモーヌが埋葬されたのは1943年8月30日。彼女の思想が人びとに注目されるのは、彼女が亡くなって5年を待たねばなりませんでした。

以上で、かけあしですが、シモーヌ・ヴェイユという一人の人間・思想家の概要をご紹介できたかと思います。6月24日の集まりにはシモーヌ・ヴェイユの「言葉」をあれこれ拾って「言葉群」と題してA4二枚にプリントし、お配りしました。≪第一部≫を閉めるに当って、このプリントを再掲しておきましょう。

同時に三枚目としてシモーヌ・ヴェイユがロアンヌのリセで行った「哲学」の授業のなかから拾った、彼女の「芸術論」を構成する「言葉」を集めた一枚も掲載しておきます。これは≪第二部≫で使います。

4

[各「言葉」の冒頭に付した数詞(1)(2)…は、木下が引用の便宜を考え付けたものです。][24日当日お配りした資料と番号が変っています。]

シモーヌ・ヴェイユ 言葉群

(1)ひとり人間のみが、人間を隷従させうる。原始人でさえ、自然のうちに人間に似た想像上の存在を宿らせ、あまつさえ、その意志を人間に解釈させたりしなかったならば、自然の奴隷とはならなかっただろう。いかなる場合においても、勢力の源泉は外的世界である[a]。とはいえ自然の無限の諸力の背後に、虚構であれ現実であれ、神的あるいは人的意志が潜んでいなければ、自然は人間をうち砕きはしても、辱めはしなかっただろう。
「自由と社会的抑圧」(富原真弓訳、岩波文庫、)
[a](木下註)シモーヌのいう「外的世界」はまさにボクがつねづね言っており、繰り返しお見せしている「〈自己=人間〉vs.〈世界〉構図」の〈世界〉に当たるものです。「原始人でさえ自然のうちに人間に似た想像上の存在を宿らせ」たとシモーヌは言ってます(彼女は「ラスコー」は知らなかった!)。ここから、〈自然=世界〉vs.〈人間=自己〉の〈古代〉型、〈近代〉型、〈現代〉型へ変遷が始まるのです。
つづいて、「とはいえ…」以下は、じっくりと読む必要があります。〈強者〉と〈弱者〉が、〈勝者〉と〈敗者〉の関係をとるとき、〈強者〉による〈弱者〉への〈辱め〉の関係がすべりこんでくることを指摘しているからです。

(2)力はおのれに属する者をだれであれ「もの」にする。極限なまで行使されると人間をまさに字義どおりの「もの」にする。亡骸にするのだ。だれかがいたのに一瞬後にはだれもいない。これこそ『イリアス』が倦まず提示しつづける光景である。
(「ギリシャの源泉」(富原真弓『ヴェーユの言葉』より)

(3)言語(ランガージュ)のなかに幽閉された精神は、よくても獄中にあるにひとしい。さまざまな語(モ)が精神に同時に提示しうる関係性の量が、精神の限界である。より大量の関係性の組合せを包摂する多くの思考について、精神は無知のままである。たとえそれらの思考が完全に厳密かつ明瞭であり、それらを構成する関係性のすべてを完全に正確な語で表現できても、それらの思考は言語の埒外にあって言語化になじまない。
『ロンドン論集とさいごの手紙』(『ヴェイーユの言葉』より) (4)敬虔はわれわれに命ずる、たとえ希有なものであっても、滅亡した文明の痕跡を慕い、その精神を銘記することに務めよと。
「一叙事詩を通してみたある文明の苦悶」(『ヴェイーユの言葉』より)

(5)わが国の労働者もまた移民である。…地理的には同じ場所のとどまるとはいえ、精神的には根こぎにされ、追放されたのちに、労働に供せられる肉体という資格であらたに容認されるのだから。 
「労働者の根こぎ」(富原真弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』青土社)

(6)想像力による色彩でさえ実在(レアリテ)の感情(サンティマン)がある。/もうひとつ、ほんとうに実在するものとすごくちがうサンティマンがある。/これを、知覚において分析すること。/この基準をみつければ、なにごとにもあれ、人間の心理に関わる生活の全体の価値についての観念に適用できる。/(これはシャンティエ[アラン]の考えに欠けていることだ) 
Cahiers 2(仏文全集6より。木下訳)

(7)今日(こんにち)、小学校に通っている農民の子供は、ピュタゴラス以上に宇宙のことを知っていると一般には信じられている。子供が従順に、地球は太陽のまわりを回っていると受け売りするからである。ところが、子供はもはや星を見てはいないのである。教室で教えられる太陽は、子供にとって、彼が見る太陽となんら関係も有しない。ひとは子供を、彼を取り囲んでいる世界から引き離してしまう。
「根をもつこと」(山崎庸一郎訳『シモーヌ・ヴェイユ著作集5』春秋社)

(8)根をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、もっとも無視されている要求でもある。また、定義することがもっともむずかしい要求のひとつでもある。人間というものは、過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きと保持している集団の存在に、現実的かつ能動的に、しかも自然なかたちで参与することによって、根をもつのである。自然なかたちでの参与とは、場所、出生、職業、境遇によって自動的におこなわれる参与という意味である。人間はだれでも複数の根をもちたいという欲求を抱いている。道徳的・知的・霊的な生活のほぼすべてを、自然なかたちで参与しているさまざまな環境を仲介としてうけとりたいという欲求をいだくのである。
「根をもつこと」(富原真弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』)

(9)人類の大部分が物質主義に埋没している時代には、神とキリスト教に自らを捧げつつ、身は教会の外にあるという男女の存在を神は欲したまわないのかと自問せざるを得ないのです。
「1942.1.12 ペラン神父への手紙」(田辺保訳『神を待ち望む』勁草書房)

(10)絵画における空間と孤独。空間とは孤独、すなわち万物の無差別性である。ある事象は他の事象より大きな意味を担いはしない。キリストの磔刑でさえも落ちる一本の松葉以上の意味を担いはしない。神は存在するすべてをひとしく欲する。時間と空間はこの平等を感じさせる。キリストの身体は、そこいらの樹の幹以上に大きな空間を占めることも、異なる在りかたで空間を占めることもなく、同じように時間の流れに呑みこまれていった。もろもろの芸術は、時間と空間を素材として、この無差別性をめざす。
Cahiers3(『ヴェイーユの言葉』)

(11)すぎさった痛みとすぎさった歓びの想起には、それぞれ独特ではあるが、ひとしく味わいがある。わたしたちが感じる味わいや歓びのうちに、想起があらわにする独特の味わいをみいだすこと。 想像力にもてあそばれることなく、ある解逅により純粋なかたちで立ちあらわれる瞬間、過去は、永遠の色彩をおびて時間に属する。そこでは実在の感覚は純粋である。まさに純粋な歓びである。プルースト。 現在、わたしたちはこれに縛られている。未来、わたしたちは想像のなかで捏造する。過去だけが、わたしたちがこれを再捏造しないかぎり、純粋な実在たりうる。
Cahiers 3(『ヴェイーユの言葉』)

1933~34年ロアンヌのリセで行われた「哲学」講義より。(『ヴェーユの哲学講義』アンヌ・レーノー編、渡辺一民・川村孝則訳、ちくま学芸文庫)

(12) 美は私たちの身体を捉えます。 (13)私たちは美しい作品をまえにすると、自分の存在を忘れてしまいます。 (14)美は教育はしません。 (15)私たちは観念を越えることはあっても、美しいものを越えることはありません。 (16)美的な完全さについての「一般的な観念」はありません。バッハのフーガを聞くとき、完全なのはそのフーガ自体です。

(17)美はひとつの≪総合≫です。知性にじかに語りかけ、直接的で直観的な思考によって捉えられているからです。…推論は論理にもとづくものであり、直接的な思考はひとつの感情にすぎません。…外見は感性をとおしてもたらされ、私たちは推論によって外見の背後にあるものを見つけ出さねばなりません。ところが美においては、外見の背後にあるものを直接捉えてしまいます。(たとえば、理解するために音節数を数えなければならないような詩は美しくありません。)

(18)芸術は多様性のなかにおける同一性です。…人間が考えるかぎりでの自然は、有限なものと無限なものとから織り成されているのであって、私たちは、その織物のなかの無限なものを有限なものをとおして捉えなければならないのです。

(19)星の輝く空には精神が到達できるようなある対象を見ることができます。…私たちはなにか永遠なもの、純粋なものを見ているという感情を抱きます。…自然によって提供されるこうした単純な関係は貴重なものです。なぜなら、そうした関係は私たちに、「きみはきみの有限な精神を使って無限な自然のなかへ自分を解き放つことができる」と言っているように思えるからです。

(20)私たちは、知覚することを止めずに理解することができるとき、大きな≪よろこび)を感じます。

(21)ひとつの芸術作品の持つべき単一性はたえず危険にさらされ、しかも各瞬間ごとに救い出されるものでなければならない。〈建築〉――それは無限のしるしを生み出す源泉であって、私たちに空間の探索を促します。神殿の場合、形のつながりが充分に変化に富み、その結果私たちに単一性を回復させる必要を感じさせなければならない。[ギリシャの神殿はひとつの<総合的な単一性>を、すなわち無限の多様性を集合させる単一性を持っています。]大聖堂をさまざまな角度から見ると、個々の外観はそれぞれ特殊なかたちで全体につながっていて、しかもそれらのあいだにひとつの絶対的な単一性、すなわち、それをもとにして無限の関係を感じとることのできる大聖堂という形態があることが理解できます。

(22)フェードルはその絶望を、叫びとして炸裂させてしまいそうに見せながら各瞬間ごとに詩句として炸裂させるのです。規則正しさが各瞬間ごとに危険にさらされ、しかもそれに打ちかつことが必要です。

(23)人間の身体が美しいものであるためには、ひとつの調和を、動きや情念によってたえず危険にさらされながら各瞬間ごとに救い出されるような調和を、示していなければなりません。

(23)芸術は私たちに、精神も自然のなかにとどまることを教えてくれます。倫理は私たちに、まことの思考にしたがって行動するよう呼びかけます。美は、理想が現実のなかにあって伝えることのできる証言にほかなりません。

≪第二部≫

1

≪第二部≫で考えたいのは、シモーヌ・ヴェイユの芸術論です。シモーヌ・ヴェイユは「哲学者」という仕事は知られていても「芸術批評」という仕事はのこしていませんでした。そのせいもあるのでしょう、「美術」の分野の専門家――美術史家、美術批評家etc.で、シモーヌ・ヴェイユを引用し、語り、彼女の考えを自分の「芸術」論に取り入れている人は、ほとんどおりません。

このこと自体、じつは非常に重要は、「美術」と「美術批評」界にとって致命的な問題だということも、いっておきたいと思うのです。「美術」批評、「美術」論、「美術」史は、いまやその「専門」性が自立していることを「幻想」として、いいかえれば、信仰のように確立していて(いちばん酷いいいかたをすれば「学」としてはいまだ「自立」していないのに、「自律」しているという「信仰」だけは確固として「確立」していて)(制度と社会=学界だけは保護されているものだから)、その「学界」の中で生まれ育った思想と方法だけを継承してその「学」が形成されています。「学界」の外にある思考(思想)からあらためて自分が取り囲んでいる対象領域への思索を学ぼうとほとんどしない。

これは、いいかえれば、人間の活動全域の中で孤立していることにほかならないのだけれど(20世紀の終りごろまで多くの「学」がそうでしたが、とくに)、「美学」「芸術学」は他の領域が「美術」「芸術」への遠慮がちなまなざししか送らないせいもあって、(それは他の領域にとって「美術」「芸術」が自分の世界へ侵攻してこない活動だと判っているからできていることなのだけれど)、つまり、他分野から「専門」扱いされているせいで、あたかも「独立」「自律」していると信じている(「信仰」している)学問分野なのです。

こういうときこそ、「ほんとうに自分たちの分野は独立/自律しえているのだろうか」と自問しなければならないのです。しかし、まだ、そこまで成熟できていないのが、この分野です。

そして結局「自分たちの」「専門」領域と了解しあう世界の内部で、そこで時を重ねて使われてきた概念と用語法だけで、その世界の内部の現象を整理しようとしてきました。(いまも、続けている)。

こういう状況がいつまで続くかボクは予測できません。「現代美術」「現代アート」といわれる世界が、現在あまねく広がっている「脱領域」の気運に乗じて、いろいろさまざまな「表現」をくり拡げてはいるが、いくら「新しい」表現を試みても、概念としては、「これも芸術」「あれも美術(アート)」というふうに「芸術」「美術」として認可されるだけで、「美術」を「アート」といいかえたら新し味があると考えているだけで、ほかはなにも新しくさえもなっていない。「美術」「アート」という概念は、いっこうにカビがはえたまま。ひどいのは、現場に関与している人が、自家中毒を起こしていて、概念にカビが生えていることに気づかないということがいろんなところでみられることです。

そんな情況を、ボクももう変えなきゃなどと思わなくなってしまった。といっても、じっとはしていられないので、とにかくボク流のやりかた考えかたを遺していこう、そしたら誰かがきっと気づいて、そんなことが一つ二つとあればまた〈情況〉そのものも少しずつ変わることがあるかもしれない、ともかく見捨て黙りこくるのだけはしないでいよう。ボクのこんな憤慨とも愚痴ともいえないものに現に共感してくれている人はなんにんもいるし、ボクのこんな考えをさらに元気づけてくれる仕事をしている人もいる…と〈土曜の午後のABC〉は始めたのでした。

現代の「脱領域」する「美術」「芸術」活動を現行の「美術」「芸術」概念で処理しようとするかぎり結局それらの活動は慣行化された「芸術」「美術」という「品物」以上のものにはなりえない。この自家中毒症から脱出するには、「表現」という行動への果敢な挑戦を続けながら、「美とはなにか」「芸術とはなにか」という問いと(思索を)、既成の(学界で通用すると保証されている)権威づけられた用語・概念で処理して自足しない問い方をしていかなくてはならない(作家も批評家も研究者も、すべからく「芸術」「美術」にたずさわる者みんなが)。

これは、これ自体、言うは易く行うは難しである。まあ、とにかく、そのことを忘れず、いろんなことを考えてみるしかない。

こうしてシモーヌ・ヴェイユという旧来「美術」には無縁と思われた人の「芸術」「美術」への発言に耳を傾けることが、深い意義を帯びてくるといえると思うのです。

―――という次第で、以下「シモーヌ・ヴェイユの芸術論」です。

☆☆☆

24日にお配りしたシモーヌ・ヴェイユの略年譜(この略年譜はブログでは再掲しませんでしたが、第一部でその各項を文章化してほぐして記述してあります)には、年譜を始める前に、エピグラフのようにアランの言葉を掲げ、末尾にシモーヌの言葉を掲げました。今回は「言葉群」をはじめ、彼女の芸術論のためには、その「哲学授業」から数々の文章を編集して配付しました。この年表の末尾の一句は『カイエ(Cahiers)』(手帳・ノートという意味のフランス語ですが)から選んで今回の≪言葉≫にしました。

たくさんの彼女の言葉を選んだ上にとくにこれを≪言葉≫としたのは、やはり、この言葉に光を当てたかったという思いがボクにはつよかったことは確かです。

まずそれを挙げましょう。

A:「芸術とは待つこと( attente )である。」

この言葉の意味は追々と解きほぐして行きます。

さて、年表の冒頭に掲げたアランの言葉です、それは―――

B:「美とは、精神が自然と出会い、そこにみずからの善を見出すことである。これこそ人間のなかの高きものと低きものとを和解させることの奇蹟にほかならない。」

というのです。

ボクが当日配布した年表は、Bの言葉をまず年譜の冒頭に置き、Aの言葉を最後に掲げて、AとBでサンドイッチされたシモーヌの生涯の軌跡、という構成意図をもつようにしてみました。

ただ、なにげなく彼女の師匠の言葉と彼女自身の言葉で飾ったのではありません。

彼女の人生の始まりを幼い頃の彼女の思想の導き手であったアランの言葉で飾るのはいい考えだとは思いました。Aの言葉はまた彼女にとっては、その短い生涯の中では初期に属する言葉です。しかし、この初期に刻みつけられた一つの言葉は、彼女の生涯を貫き、そして彼女の最後を飾るにふさわしい言葉として輝いていることも確かです。

2

アランの言葉がシモーヌ・ヴェイユの生涯の始めにあるということは、こういうふうにアランからの教えをスタート台にして、彼女の思想的生涯が始まったということを告げたかったからです。

アランは、そのくらい大きな力を持った人だったと思います。アランは、非常に多くの文章を書き、『芸術論』もあるのですが、ここに掲げたのはじつは、『シモーヌ・ヴェイユの哲学授業(レッスン)』(邦訳『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫1996)の〈審美的感情についての心理学〉という章のエピグラムに選ばれている一句です。この本はシモーヌがロワールのリセの先生をしていたとき、その生徒だった(ということは18歳の女の子だった)アンヌ・レノという女性が、のちに(1951年に)、自分の当時のノートをまとめて刊行したもので、シモーヌが直接ペンを執った文章ではありません。ボクはこれからこの本から引用してシモーヌ・ヴェイユの芸術論を語ろうとしているので、意地悪い人は「それはシモーヌ・ヴェイユの本当の言葉じゃないよ」と異議を唱えるかもしれません。そのことは重々承知の上で、それだからこそ、ということは一人の女生徒の頭脳を通過して定着したシモーヌの≪言葉≫ということにむしろ意義をみつけて、語りたいと思ったのです。

で、このアランの引用は、最終的には編者アンヌ・レノが選んだ言葉ということになりますが、それが選ばれていった経過は、いまとなっては判りません。シモーヌがこの授業をしたとき引用して生徒たちに聞かせたのかもしれないし、アンヌか編集者が見つけてきてここに飾りたいと思ったのかもしれない(たぶん、やはり、シモーヌが授業で語ったと思いますけど)。いずれにしても、編者たち(この本の編集を担当した名前の判らない編集者、この本は「10-18(ディーディズユイット)叢書」というよく知られた叢書の一つとしてまず刊行されたので、その「10-18叢書」の編集者も結構意見を出したでしょうから「たち」と複数形でいいます)が、このシモーヌの「芸術」について語った授業にとても似つかわしいと思って掲げたアランの言葉です。

そのことを大切に思って、ボクも選びました。そのアランの言葉ですが、これはじゅうぶん注意深く耳を傾ける必要があります。

「美とは(いいかえれば「芸術とは」)、精神が(つまり「人間(註)が」)自然と出会い(「人間=自己」を取り囲み、人間に働きかけ、また人間が働きかけることによって自分と世界との関係を作っていく「対象」と向かい合い)、そこにみずからの善を見出すことである」とアランはいっています。「善」というのは、「人間」が生きていく上での「人間」と「人間」とのあいだの行動=倫理関係のとりかたについての価値体系に属する概念です。ここは、とても注意深く読まなければなりません。

(註)「精神」 spirit (英) esprit(仏)geist(独)という語には「霊」=「神」という意味もあります。しかし、Godでなくあえて spiritという限り、その神的意味合いをできるだけ受け入れたとしても、人間の心(mind)に宿った神の霊と解していいので、あえて「人間」といいかえました。「自然」についても同じことがいえます。人間にとっての「自然」nature には、神が宿ってもいます。

  人間が、自分を取巻いている自然という対象物へ働きかけ(そこで「出会う」といっていますから、「人間」「自然」の相互からの働きかけになっている、一方通行ではないように「人間」が感じられている状態になっているということです)、「自然」という対象からなにかを与えられたという実感と同時に「自然」という対象に自分がなにかをなしえた、それをほんとうに自分にとっての「対象」としえた、あるいは「自分」と「対象」が一体となったという実感をもったとき、―――それが「精神が自然と出会い」というアランの言葉の内実です。もう一つ註釈を加えておきますと、この「精神」が「自然」と「出会う」という行為は、まず芸術家(作家)が制作する行為として想定できます。これは、絵を描く、詩を書く、作曲をするということの行為の原型です。

くどくどいうまでもないかもしれませんが、「精神」とは「作者」の謂いであり、「自然」は画家が描こうとする対象(イメージ)、詩人が謡おうとする印象と感情、作曲家が組み立てようとする情感であり、同時に、画家にとっての紙、カンヴァス、絵具、筆、詩人にとっての言葉、言語、ペン、紙、作曲家にとっての音、音符、それを奏でるピアノや声楽の音です。そして、この関係(「精神が自然と出会う」)は、同時に「作品」を前にした「鑑賞者」と「作品」の関係でもあります。このことが、とても大事です。

そういうふうに「対象」と出会ったとき、―――ここまで考えてくると、すぐにアランの次の言葉へ赴(おもむ)く前に、つぎのことがはっきりといえます。すなわち、こういう「精神が自然と出会う」ということは、なにも「芸術」の世界のことだけではないのではないか。これは、「人間」の行動や思索の基本的なありかたではないか、ということです。

その通りなのです。このことは、「芸術」という行為・営みは、決して人間の営みのなかの特殊(他と全く異種)なものではなくて、きわめて「人間」的な他の活動ジャンルと共通する行動のあらわれの一つなのです。

アランは、このことをよく心得ていて、すぐに、「精神が自然と出会ったとき、そこにみずからの(ということは精神にとっての)善をみいだす」といいます。「精神」(人間)が、「精神(人間)」にとっての「善」をみいだすこと、それが「美」だ、といっています。

しかし、こういういいかたは、すんなりとア、ソウカと読み通すわけにはいきません。「人間」が「自然」という対象と出会うところに「芸術」が生まれ「美」を感じるというのはすでに考えましたから、もう問題はないでしょう。しかし、人間が自然と出会ってそこに人間にとっての「善」をみいだすとき、なぜそれが「美」なのでしょうか。

「善」というのはさきにも書いたとおり「人間」と「人間」の関係に関わる価値概念、つまり倫理・道徳の世界に関わる概念です。ということは、アランはここで美の原理と倫理の原理をごっちゃにしているようにみえます。折角、カントが「哲学」とも「倫理学」とも異なる一つの自律する学問としての「美の学問」=「美学」の可能性を確立し、ヘーゲルがそれを「芸術学」にまで築き上げてくれたのですが、アランはそれを振り出しに戻そうとしているかのようです。

シモーヌは、こんなアランの思索の方法をウンと学んだのです。そして、これは、逆説めいた警句ではない、もっと深く重い意味をもって、シモーヌの思考過程に根を下ろしたにちがいありません。

このアランの言葉は、現代のわれわれにも深い重い意味を投げかけています。それを「フランス人のエスプリの利いた逆説的言説」と受け止めてしまうことを許さないこと、それこそ現代の知識人の問題点だと考えさせてくれる言葉として、ボクは読みたいと思います。そうしてシモーヌの「美」「芸術」への思索もそういう意味合いを伴って、われわれのところへ放たれている、そのようなメッセージを読みとろう、というのがこの≪第二部≫の意図です。

アランの言葉を、もういちど咀嚼しなおしておきます。彼は、精神(人間)が自然と出会い、そこに精神にとって善を見出したとき、美が成立するといいました。これは、いいかえれば、人間と自然との出会いという過程作業(芸術の制作・鑑賞・もちろん、自然美への嘆賞も含めて)が、「善」という人間が生きていく上での一つの指針、「人間、いかに生くべきか」という問いへの答を見出した(と思う)とき、そこに「美」がある、それが「美」という経験である、といっていることです。

これを「美学」「芸術学」と「倫理学」を原理的に混同していると批難するのは簡単ですが、これはもちろん、アランが承知でやっていることです。問題はなぜアランは、それを承知でこういったかを考えるところに進まなければなりません。

「美学」「芸術学」と「倫理学」を混同していることを批難するのは「美」「芸術」行為というものは、他の人間活動のジャンルからよけいな干渉を受けたりすることは許されない、「芸術」はそれ自体で自律し、自立性をもった高貴な精神活動なのだから、という考えがわれわれの裡に浸透しているからです。この考えはヘーゲルが築き上げたものでした。

われわれのちょっと前の歴史にも、苦い経験があります。ナチス、ソ連……ちょっと前の中国、その前の日本帝国もそうです。国家政策にそぐわない芸術は「堕落した」芸術だと弾劾排除したナチス、「人民」の規範となる人物像を創作しなければならないという芸術倫理を打ち立てた「社会主義リアリズム」、戦意昂揚のために「美術」活動を統率管理しようとした日本軍国主義政府……そんな経験から、われわれ現代人は、「美術」や「芸術」が「政治」や「倫理・道徳」の役に立つような働きをすることは、「芸術の内的原理を侵犯されることに等しい、オゾマシイことと思いがちです。

3

それはその通りではあります。「芸術」の自由な活動が他の分野の「善」だとか「道徳」だとか、「政策方針」だとかによって左右されたり拘束されたりすることを許してはなりません。

現代芸術(モダンアートからポストモダンアートへ)は、こうして芸術表現の自由を獲得し、その獲得した世界の内部でのみ「自由」であろうとし、その「自由」の享受にひたってきたといえます。

その「自由」とは、近代から現代にかけた確立された「美」「芸術」「美術」概念に保証された「自由」でした。概念は崩れることがなかった故に、その概念の枠内ではどんな表現も可能である「自由」さが保証されていた、そしてその概念というのはなによりもまず他の領域からの干渉侵犯を拒絶できる「自律性」の原理に支えられていました。そうであることによって、逆に、いちいち「芸術」とはなんなのかと問うまでもない自明性も獲得してきたのです。「芸術とはなにか」という問題を提出する本はこれまでは何冊も出ていますが、すべて、よしんば不分明な境界線しか引けないにしても、「芸術」という概念が成立しえないと、いいかえれば「芸術」を破壊しきった言説を提出した本はありません。それをもう一ついいかえると、どんな芸術論も結局「芸術」擁護論、「芸術」という制度の保護者なのです。「境界を超える」といっていますが、境界を超えたものを受けとめているのは、拡大された「芸術」の概念です。

「美術」を「アート」と言い換えておくとなにか判ったようなつもりでいられるのは、そういう「自明性」に支えられているからです。200年前までは、「神」がそんな「自明」性に支えられてきました。

「美術」という概念はかつての「神」にとって代り、「アート」作品は「神」の役割を担う偶像として教会(美術館)に祀られている。これが現代の芸術/美術の構図です。

そして、かつては「神」の代理人になるのは厳しい資格審査を経た司祭や牧師にしか許されなかったけれども、現代では、ちょっと訓練すれば、誰でも司祭になれる。これが「民主」社会の中の「教会=美術館」運営管理のありかたです。

司祭を製造するために美術大学が続々と設置されました。いまは、通信教育でも司祭を生産しています。

司祭の語る言葉(作品)は、それが「美術」「アート」として保証されているものですから、なにをやっても自由です。といってもたいていの場合、教会の内部に飾れることという暗黙の了解の下にです。教会に飾られあるいは教会の倉に蔵われている限り、その扱われかたも「神品」なみです。

その貴重品扱い振り、その表現の自由さは、「美術」「芸術」が、他の人間の分野(政治とか道徳とか)の役に立たなくていいと保証されているからこその自由です。

この保証をとっぱらったらどうなるか、その苦い経験をわれわれはナチやソ連でみてきたわけです。

しかし、もういちどここで問い直してみましょう。「芸術」「美術」は人間の「生きかた」(倫理や政治)にはなんの役にも立たなくていいのか?それとは全く別世界にいることが、「芸術」「美術」の「自立」「自律」を保証することなのか?

たぶん、「近代」という時代を迎えるまで、「芸術」「美術」には、いつも他のジャンルからの、とくに道徳的人倫的な立場から役に立つことは要請され続けていたはずです。

ミケランジェロの「最後の審判」の天井画は、もし、ローマ・カトリックの教理を伝えるのに無益であり有害であったら、あの絵はあそこに描かれたことが許されてこなかったでしょう。もちろん部分的に、カトリックの法王や領主の「気に召さない」描写や表現をミケランジェロはやります。ミケランジェロは権力からの干渉を不快に思い、憤慨し、闘います。しかし、そうして「芸術の自由」が獲得されてきた、とわれわれは考えすぎているかもしれません。

バッハのカンタータがルター派の信仰に逆撫でする音楽だったら、歌い継がれることはなかったでしょう。それどころかバッハは、なによりも教会の役に立つ音楽を書きたいと思って数々の作曲をしたのでした。こんにちわれわれは信仰に関係なく、その音楽を聴こうとします。それは「純粋に」バッハの音楽を聴いていることになるのでしょうか。

東アジアでも古く張彦遠は(おっとこれは次回最終回のABCのテーマでした、その予告篇みたいになりますが)『歴代名画記』の巻頭で、絵というものは人々を「教化」すると断言しています。

アランの一句は、こういう「芸術」「美術」の(むしろそれが本来の姿といっていいかもしれない)ありかたをすっかり忘れた現代人に、それを想い出させようとする、つまりあらためて美術/芸術のありかたを根源・始原から考え直させようとする言葉です。

ナチスやソヴィエト連邦が要求したようにではなく、「芸術」が人びとの(われわれの)生きかたへどんなふうに役に立つことができるか、われわれは真底考えてみなければならないのではないでしょうか。〈美しく〉あるということが、相似にこれ以上にない〈有益〉で疑う余地のない〈善い〉ありかたであるような〈美〉〈善〉を求めることと言い直してみましょう。

どこかの権威や圧力団体が掲げる「善」ではない、誰もが共有できる「善」を求めること、といいかえてもいい。ここに「美」のありかたの(その「美」を表出することを使命とする「芸術」の)根源的な存在意義をみいださねばならない、とアランはいっているのではないでしょうか。

こうしたアランの言葉をシモーヌはどう展開したのか。結論は「芸術は待つことである」という句に集約されるのですが、その言葉を発するに至るまでの彼女の思索をロアンヌの哲学授業から拾ってみました。

この「哲学」授業より引用した言葉は、今回の報告の(その4)に「シモーヌ・ヴェイユ 言葉群」と一緒に収録しております。参照して下さい。( )内のナンバーはそこに記してあります。

まず、(12)「美は私たちの身体を捉えます」といっています。まだメルロ・ポンティの身体論なぞ登場する前の発言です。「美」というと「魂」とか「精神」「心」に働きかけてくるものというのが、一般的通念のところへ、いや、それ以上であり、あるいはそれと同時に「美」というのは「身体を捉える」のだということです。「身体」に関与する・働きかけるということは、われわれの「生活」「生命」(どちらもフランス語でなら la vie 〔ラ・ヴィ〕、英語なら the life )に関わっている、ということであり、「美」の問題は「生きかた」の問題と関わるということです。(13)の言葉は「生活」「生命」「生きかた」のことを「存在」といいかえたのです。

「美しい作品をまえにすると、自分の存在を忘れる」というのは、ただ感動のあまり恍惚とするだけで終わるのではない、「忘れる」ほどに自分の存在とそのありかた(つまり「生きかた」)へ迫ってくるということです。

「美」とシモーヌはいいますが、これは「芸術作品」だけでなくもっとさまざまな「自然美」なども含んだ意味で使われています。しかし、その「美」が与える感動作用は「芸術」でも「自然」でも共通している、そういう「自然」や「芸術」が生み出す「感動作用」のことを「美」と呼んでいます。「芸術」はつねに「作品」という具体的な物質化されたものとしてわれわれの前に現れてくるのですが、「美」はそういう具体的な物質性の背後にあるもの「感動作用」という意味でもって使い分けられていると読むといいでしょう。

4

(14)「美は教育はしません。」これも軽く受け止めるだけでは「芸術」という表現活動は「教育」の手段でも目的でもないというメッセージで終ってしまいます。もちろん「教育」の手段でも目的でもないのですが、わざわざ「美は教育はしません。」とことわらねばならないことの背後に「美」「芸術」と「教育」の深い関係があるということをシモーヌは告げようとしています。「美」「芸術」が「教育」にいかに役立ちうるか、あるいは「教育」はいかに「美」「芸術」を役立てうるか、という問いには人類史の古くから問われ議論されてきた、その問いをいまも続けること、それが大切だといおうとしているのだ、といいかえたいと思います。「美」「芸術」の「教育」的有効性を測るのではなく、その両領域の深い関係を考えてみることが大切だということです。

そういう問い方の姿勢の中で、(15)の「私たちは観念を越えることはあっても、美を越えることはない」という言葉が生きてきます。

「教育」の手段や目的、それを支える理念は、観念であり、その観念はつねに更新され(越えられ)てきました。「美しいもの」=「美しい作品」はそういうふうに「更新」されることのできないものです。「美しい作品」は一回きりしか制作されえない、そしてつねに一回切りとして鑑賞されるしかない。その作品の「美しさ」は、そういう一回きりの出会いのなかで成就するのです。

「観念」=「考え」は更新され、それ自身超えられていくものですが、「美」=「芸術作品」は、そういう更新のされかたを許さないものとして、われわれの前に与えられる。もちろん、ある作品は、のちにその作者によって加筆修正されたりすることはあるけれども、その都度その都度、それはその(制作された)時点で「超えられることはない」存在としてそこ(作者と鑑賞者の前)にあるのです。

ということは、逆にいうと芸術作品にはこれが「完全」だという規範、予め用意された尺度、「一般的な観念」はないということです。ある完成された見取り図とか規格(完全であるための条件・条項)があって、その基準を満たせば「完全」な作品であるというやりかたは不可能だということです。作品はその場その場でそのようなあらわれかたで「完全」な「完成されている」ものとしてそこにあろうとし(もちろん、すぐにいろいろな批判のまなざしによって別のありかたへ変られるとしても、そのときはそれとして、それ以外にありえないものとして)、そこに在ります。その意味で、「美の完全さについて一般的な観念はない」ということは、「美」「芸術」が持つ「完全さ」はつねに相対的であることによって絶対的なものなのだといっていいでしょう。(16)でシモーヌがいいたいのはそのことです。「バッハのフーガを聴くとき完全なのはそのフーガ自体だ」というのは、「フーガ」は「作品」といいかえられますから、その作品を鑑賞するときその前に立って作品と真向かうとき、完全なのはその作品のありかただけだということです。その作品が作品として、それに出会う人に対してしか「完全」でありえないということです。

(17)では「美はひとつの《総合》である」といっています。作品が「美」を完成させるとき、つねにひとつの「総合」である。知的活動・感情作用の一局面や断片で説明しきれないというのですね。この場合、注意すべきなのは、「《総合》である」ということは、一つの作品と真向かうときはいつもその「全体」と向き合っているべきだという意味でもあることです。と同時に、もしその作品がある「完全さ」を備えているのなら、たとえ部分(ディテール)を観、聴いたとしても、すでにそこに一つの「総合」がある、感取できるということでもあります。「美」「芸術」はつねにフラクタルなのです。

その「ひとつの《総合》」は、「知性にじかに語りかけ、直接的で直観的な思考によって捉えられているから《総合》なのだ」と彼女がいっているのはそういうことです。「一般的な観念」の操作は飛び超えてしまう力を「美」「芸術」は持っているということでもあります。「推論(一般的な観念の操作による思考)は論理にもとづくものであり、直接的な思考(美の感情/判断)はひとつの感情にすぎない(結局「感情」としか名付けようのない心の動きに収斂する)」、だから推論の場合、「外見」をみて「感性(視覚・触覚etc.)を通して」その現象、そのものを理解するのですが、「美」はそういうあらわれかたをしている「もの=作品」の外観をいっきょに飛び超して、あるいは貫いてその「外観の背後にあるもの」(外見では見えない、「観念を超えたもの」「身体を捉えてしまうもの」「自分の存在を忘れてしまうもの」、日常的な〈観念〉の手続きで了解しているような理解の仕方を超えている出会い(「詩を味わうために音節数を数える必要はさらさらない」とシモーヌがいうところ)へ連れてくれるのです。

さて、こうして「美」を体現する「芸術」というものの本質へ迫る提言をいくつか出しておいて、シモーヌはこういいます。(18)です。「芸術は多様性のなかにおける同一性だ」、というのも、「人間が考えるかぎりでの自然は、有限なものと無限なものとから織り成されており、「芸術」と出会うということは、そういう存在物のなかに隠れている、あるいは隠れるように存在し、語りかけようとしている「無限なもの」を捉えるということだ、というのです。

ここでは「多様性」と彼女がいうのは「有限なものと無限なものとが織り成されている」ものであり、「同一性」というのはそういう有限と無限の織物のなかにある「無限なもの」のことでしょう。のちにこれを「単一性」という日本語に訳されて登場しています。

(19)は、われわれのごく日常的にありそうな振舞いを例にとって、「芸術」「美」の特質を考えようとしています。この「哲学」の授業がリセの最終学年(日本でいえが高校三年生)の女学生に語られていることを、もういちどここで思い出しておきましょう。

  星空を仰いだときなにか「精神」(自分という存在のエッセンスのようなもの)がその星空へ届いている、そこにむかって到達しようとしているようなそんな「無限感」にとらわれる。それは日常の生活(「有限」の蓄積と反復の世界)のなかでは決して感じない、「永遠」で「純粋」(無限)ななにかと出会った/出会いそうだという感情です。「星空」という「自然」(「有限」なものと無限なものとから織り成されている世界)が与えてくれるこの素朴な感情(「単純な関係」)は「貴重なもの」だとシモーヌはいいます。「貴重だ」ということは二つの意味があります。一つはそれが「芸術」「美」のありかたが与えてくれる感情/経験の最も生なものであるということ。もう一つは、そうであることによって〈人間〉vs〈世界〉の関係の〈古代的〉=〈初原的〉なありかたをそこにわれわれは重ね合わせているということです。

  ここまで書けば、「なぜなら…」以下は、これ以上語る必要がないと思います「そうした(単純な)関係は『きみはきみの有限な精神を使って無限な自然へ自分を解き放つことができる』と言っているように思えるから」。

「有限な精神(自己)を操作して無限な自然へ自分を解き放つ」―――これこそ「美」の体験というものだ、ということです。

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(20)の「私たちは、知覚することを止めずに理解することができるとき、大きな《よろこび》を感じます」という言葉は、その「有限な精神を使って無限な自然へ自分を解き放つ」の別の謂いかたです。「自分を解き放つ」ことはかけがえのない「よろこび」なのです。

また、「知覚することを止めずに理解する」というのは(17)の《総合》の方法です。一般的な概念は、ある現象や物事を「理解」したとき、「知覚」することは捨てている/遠ざけているのです。

  人間の心の働きを「真」「善」「美」の三つの原理に分けて考えるようになったのはカント以来で、「真(真理)」は知性や理性によって認識されるもの、その最高のありかた、「善」は人間の倫理が目指す最高のありかた、「美」は人間の審美感性が獲得する最高のものとして、「知性・理性」の働き、「倫理」の働き、「審美」の働きはそれぞれに侵犯し合わない/し合えないとする考えが定着しています。その結果、ある現象や存在を認識するときは「知性」と「理性」の支配圏でその認識が行使され、シモーヌのいう「知覚」=「感覚的な認識」「感情による判断」は、その現象や存在に出会った初めのときにはそういう「知覚」を働かせてそれに近づいていたくせに、知的に「理解」しようとする段階ではそういう「知覚」が下した判断には理屈ぬきの「好き嫌い」なども含まれていますから、そういう恣意的な判断は、知的な認識にはふさわしくない、というわけです。

ふだん、われわれは、たいていそういうふうに物事を判定して、私的な個人的な「知覚」のレベルの判断を遠ざけ、理性的知性的に行動し発言しようとします。

しかし、「美」「芸術」の世界では、この捨てられ遠ざけられている「知覚」の判断や「感情」が大きな働きをし続けているのです。そういう「感覚」「感情」を最大限に生かしたまま、ある現象や存在を「理解」すること、「理解」できるようにすること、これが「芸術」の営みなのです。

それは、「芸術」にだけできること、といいかえてもいい。そしてそれが出来るとき、それは、かけがえのない「よろこび」を与えてくれるというわけです。

(21)から(22)、(23)にかけての引用で、シモーヌは「絶えず危険に晒されながら、しかも瞬間ごとに救い出されている」ことを、芸術作品のありかたの重要な条件として語っています。この言葉は、シモーヌ・ヴェイユの芸術論の中の重要なキイワードでもあります。

(21)では「ひとつの芸術作品の持つべき単一性はたえず危険にさらされ、しかも各瞬間ごとに救い出されるものでなければならない」といい、その例として建築、ギリシア神殿と大聖堂(カトリックの)を挙げています。「芸術の単一性」というのは、さきに「多様性のなかにおける同一性」といったもの、そして「観念」としてではなく一個の「作品」としての「完全」性を別のことばでいいかえたものです。(23)では「調和」といっています。(17)の《総合》も、同じことの別の謂です。そういうかけがえのない一個の〈独自性〉〈統一体〉といいかえてもいいでしょう。芸術が「作品」として自立するときに、さけようもなく備えている属性、それあるからこそ「芸術」と呼ばれうるものです。あまりにも自明なことなので、現代のわれわれはことさら言葉にしなくなったものでもあります。

しかしその「単一性」、「完全」な「作品」は、「たえず危険に晒されている」といっています。「作品」が「作品」でなくなる危険にたえず晒されているというのです。その例に、作品としても最も堅牢であるはずの建築を出しています。

そして、「《建築》というのは、無限であることの〈しるし〉=兆候=記号=暗示を生み出す源泉だ」といいます。

それはわれわれがその「建築」という「空間」の中にいて、あるいはその外観を眺めていても、その建築物の固有の「空間」へ「探索」する。その建物の部屋割りはどんなふうになっていてそれぞれの壁や柱やはどんな形をしていて建物の構造をどう支え、そこにどんな装飾が施されているか、等々。それらは、それぞれに別の部分であります。そして多様な形、ありかたをしています。しかし、それぞれの「形のつながり」は「充分に変化に富んで」いるけれども、つねに全体の構造と関連し、その意味で各部分はつねに全体という「総合」の「単一性」を「生み出している」。それをシモーヌは「形のつながりが変化に富み、その結果私たちに単一性を回復させる必要を感じさせる」といっています。「個々の外観はそれぞれ特殊なかたちで全体につながっていて、しかもそれらのあいだにひとつの絶対的な単一性」があるといいなおしています。ここでいう「かたち」は〈形態〉であると同時に〈関係性〉〈ありかた〉という〈機能のかたち〉のことも意味しています。「絶対的な単一性」ということばが出てきましたがその単一性というのは「絶対的」、つまり、ほかにかけがえのないものなのです。この「絶対的単一性」を(16)のバッハのフーガのところに当てはめてもいいでしょう。「美的な完全さ」とは「絶対的な単一性」にほかなりません。

そして、この「絶対的な単一性」は、「それをもとに」すなわち、そこから「無限の関係を感じとることのできる」存在=携帯を理解させるものだと付け加えています。この「無限」は「有限なものをとおして捉え」られる(18,19)、あの「無限」です。建物とその部分は、「有限」なものです。その空間へ探索する者(精神)も「有限」です。「単一性」はわれわれを「無限」へ誘う「しるし」なので、われわれはそれを捉えたと思っても、それが永続きする保証はない、その意味でたえず見失う危険に晒されているのです。

こんにちでは、「芸術」作品は「芸術的感興」を与えることだけを目的にしているように受け止め、作品と接しますが、こういう習性はごく近代の慣わしです。ギリシアの神殿やカトリックの大聖堂は「芸術的感興」を与えることを目的に建てられたわけではありません。まず「宗教的」な目的があって、それを現代人は自分たちの「芸術的感興=歓び」のためにみているにすぎないのです。

ところでシモーヌがいう神殿や大聖堂における(a)「ひとつの絶対的な単一性」と(b)「それをもとにしての無限の関係」は、カテドラルや神殿と芸術作品の双方にそれぞれの生きた働きをしています。(a)は大聖堂では「絶対的な単一性」は「神」とその身体としての「教会」の意図の顕れです。芸術作品の場合は、「作者」の意図として現れます。(b)は、大聖堂では「神」の意図の究極的な人知を越えた計らいとして感受され、芸術作品の場合、作者の制作意図を超えた感動・発見となって鑑賞者に伝わるものです。

シモーヌがこの両者の関係をちゃんと把握した考えをしていることは凄いと思います。

作品は制作されていく過程においてもそうであったように、完成され公衆に提示されたあとでも、たえず危険に晒されているといく認識、これは、芸術作品というもののありかたの本質を指しています。

建築に限らない詩や文学、劇にあってもこの「たえず危険に晒され、各瞬間に打ち克ち救い出されている」という関係は内蔵されています。その一例として、ラシーヌの『フェードル』を例に挙げています。絶望の叫び声は、ただの叫び・喚きとして爆発して消えてしまいそうになりながら、その言葉が詩となって、劇(行為)の一瞬一瞬にその絶望に打ち克って蘇らせているものがある。その詩は、古典詩としての規則によって書かれ詠じられていますから「詩」となるのですが、同時に詩となるために与えられた「芸術的形式」の「規則正しさ」がその「絶望」のほんとうの悲しさ、つらさの叫びを遠くへやってしまう、そういう「危険」も担っています。叫びとして炸裂してしまいそうになる絶望(「有限」な感情)を詩(「無限」への扉を開くもの)というかたちへ炸裂させる。

これは「芸術」表現の第一段階です。ここで「ある《総合》《単一性》が獲得されています。しかし、ここでも「危険」は直面しているのです。「芸術」(ここでは「詩句」)という眼に見えない規矩に縛られることによって、「無限」への道は塞がれる危険です。ですから、たえずそれに「打ち克つことが必要」なのです。

その「超克」によって得られるものこそ「調和」の美しさなのですが、この「調和」も決して永続きするものではありません。その「調和」じたい「たえず危険に晒されている」ことを心得ておかねばならない。

逆にいえば、絶えず危険に晒されていないような作品は、美/芸術として完全とはいえないということでしょうか。これは、制作者は自分の作品と取り組むときによく心しておくべきことでしょう。また、鑑賞者も対面する作品に不滅の完全を求めるのではなく、その作品が孕んでいる危険性を察知し、その作品と向かい合うことによって、その作品を危険から救い出そうとするとき、ほんとうにその作品と出会っていることを知らねばなりません。批評というのは、そういう出会いをこそ綴るものでなくてはならないでしょう。

もう一つ大切なこと、こういう「瞬間ごとに打ち克ち、救い出される」のは、「作品」そのものであると同時にその作品と出会っている人間(鑑賞者)自身が、作品と出会っていることによって瞬間ごとに救い出されていることは、もう付け加えるまでもないことでしょう。そして、このとき、あのアランの「精神が自然と出会い、そこにみずからの善を見出す」という「美」のありかたの命題が成就しているのです。

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(23)「人間の身体が美しいものであるためには、ひとつの調和を、動きや情念によってたえず危険に晒されながら各瞬間ごとに救い出されるような調和を、示していなければなりません。という言葉から、中井正一がいっている水泳の例、ボートの例などを想い浮べることもできます。スポーツに人が魅かれるのは、そういう「美」(危険に晒され瞬間ごとに救い出される緊張感と動き)の故にでしょう。

シモーヌの(23)の言葉は、さらに大きな問題へ突入しています。それは、「善」の問題を単に心(倫理)のレヴェルだけでなく、存在(身体を含めた全体としての存在)まで押し拡げた考えかたを示していることです。ここにきて(1)の「美は私たちの身体を捉えます」という言葉が呼応し合い、蘇っています。もちろん、美が身体を捉えるように、善も身体を捉え、身体に捉えられています。

さて、最後の(24)。これはこれまで語ってきたことの総まとめのような文章です。

「芸術は私たちに、精神も自然のなかにとどまることを教えてくれます。」これは「精神」も「自然」のなかに「とどまることができる」と言い直した方がいいかもしれない。もちろん「精神」と「自然」はアランの言葉と呼応し、響き合っています。「精神」は「自然」と出会い、「自然」のなかにとどまるとき「芸術」が生まれる(「精神」が「自然」になるといっていないところに気を配っておきましょう。宗教は、大胆に「精神」は「自然」になると言い切りますが、その意味では、「芸術」は「宗教」の危うさをよく知っている表現手段だといってもいいでしょう。「宗教」はそう言い切ることによってときどき人間をつまり「精神」を盲目にします。もっとも、そんな宗教と似た「芸術」もたくさんこの世にはありますが……)。

つづいて、シモーヌはこういっています、「倫理は私たちに、まことの思考にしたがって行動するよう呼びかけます。美は、理想が現実のなかにあって伝えることのできる証言にほかなりません」と。「精神」が「自然」のなかにとどまるとき、精神(人間)は「無限な自然のなかへ自分を解き放つことができる」(19)ことを感じとり、それは「理想」という「無限」(美の完全な姿であり、倫理の絶対的な目標であるもの)が「現実」という「有限」のなかにあることによってなにかを伝えようとしているのを聴き感知することができるというのです。「理想が現実のなかにある」というのは、「精神」が「自然」のなかにとどまるありかたと逆です。「無限」が「有限」のなかに入っているのです。つまり、有限な存在が無限のなかにとどまること(これ自体、たえず危険に晒されていて瞬間瞬間になしえているしかないことですが)ができるとき、「無限」は「有限」のなかに入り込むことができることを暗示しているのです。なぜ「暗示」かというと、次にシモーヌはそういうことを「伝える証言にほかならない」といういいかたをしているからです。

これは事実の証言ではなく、可能性への証言です。ここでは「美」と「芸術」がまったく同義に使われていないことにも気を付けておきましょう。「芸術」は作品として自らを成就し、いつも「有限」の姿かたちをまとっています。「美」はそういう「有限」な存在を貫いている「無限」なものへの呼称として、シモーヌ・ヴェイユは注意深く使い分けているようです。そのことを意識しながらもういちど今回挙げたシモーヌの「美」「芸術」に関する言葉を始めから読み直してみてください。

「芸術」はわれわれ人間に「精神も自然のなかにとどまりうることを教えてくれる」、一方、「美」は「理想が現実のなかにあって」(これは一種の降臨です、この言葉を語ったときシモーヌは無神論者であったようだし、もちろんカトリック教徒ではありませんでした。しかし、教会で信仰告白をしたからキリスト教徒だとかどうとかいうことを超越して、シモーヌの思想は早くから宗教・信仰の問題を考えるレヴェルで営まれていたことがこんな言葉からも判ります、オッとちょっと脱線しました)、「理想が現実のなかにあって伝えることのできる証言」が「美」だといい分けていることを確認しておこうとしてこの引用を繰り返したのですが、ここで、「芸術は待つことだ」という今日の言葉へ向うことができます。

「美」とは「無限」を指示する「理想」が「有限な」「現実」のなかに受肉することによってわれわれ人間に〈なにか〉を伝える「証言」となることにほかならないとシモーヌ・ヴェイユがいうとき、その「美」を実現しようとする「芸術」はどこまでも「証言」となることを目指しているのであって、「美」の「理想」そのものになっているのではない。だから、(16)でいうように「美的な完全さについての〈一般的な観念〉というものはなく、「完全なのはただその作品」そのありかたなのです。」

「証言」というのは「事実について語ること」であり、それを「聴くこと」「見えないものを聴くことによって理解すること」がその「美」と出会うこと、その「芸術作品」を鑑賞することなのです。これは「待つこと」にほかなりません。

この「待つ」ですが、原文は「アタント attente 」です。待つこと=出会いを求めること。アタントには「待ち時間」という意味もあり、この意味合いもよく味わっておくべきでしょう。一つの「空間」を占める作品は「待ち時間」としてそこにわれわれに与えられている。なにを「待つ」のか、「理想が現実のなかにあって伝えること」だとシモーヌはいうのですが、この抽象的な言葉から、われわれはそれぞれの作品の具体的な場面でこの言葉が導いてくれるものを、それこそ「待たなければ」ならないのです。

Table d’attente (ターブル・ダタント)というフランス語があります。これはまだ何も描かれていない板、何も刻まれていない大理石という意味の熟語です。この熟語がシモーヌの言葉に投影しているものにも耳を傾けておきたいと思います( table はもちろんタブロー tableau の語原です)。

「芸術は待つことである」、それは、まだ何も刻まれ描かれていない、なにかがそこに現れるのを待つ場/機会。

こういう言い振りから、中井正一の「絵画は一つの問いである」というような言葉を重ね合わすこともできます。まったく中井のいう「問い」とシモーヌのいう「待つこと」は、同じメッセージの別の姿です。そして、こういうところから1930年代に及ぼしたハイデガーらの実存主義/存在論の影響を読みとって一つの論文を書くこともできます。

しかし、シモーヌや中井のこんな発言を当時の時代思潮の砂跡に位置づけてなにかを知っても、「美」「芸術」に出会うことにはならないでしょう。「知る」ことは、もはや「見ないこと」「見ようとしない」ことへとわれわれを導くからです(これはシモーヌ自身、彼女の最後の発言として「根をもつこと」で書いていることです。たとえば「言葉群の(7)」。その意味では、「芸術」は、精神が自然と出会い、そこにみずからの善を見出す「美」を生み出すために、「知る」ことの呪縛から脱出しなければならない〔「知る」ことに満足するということは分類することで満足することになり、「知覚しながら理解する」(20)ことを放棄し、「人間のなかの高いきものと低きもの」(アラン)を分節させ標本箱に入れて納得してしまうことになる危険に晒されている。現代は晒されているどころか、そこに陥って平和でいられるようにすらなってしまっている〕、そういう「芸術」の役割の大切さをシモーヌ・ヴェイユのこの言葉は告げていると思います。

シモーヌ・ヴェイユの彼女の言葉のなかに散逸する芸術についての言葉を拾い集め、彼女の芸術論を再構成することの持つ意義はいまこそ大切だと思って、まずその序説を試みてみました。

いつもとちがう長い報告になりました。ひとまずここでペンをおきます。