T 敦煌莫高窟

敦煌莫高窟は、敦煌という街(現在は「敦煌市」)はずれ、街から東南方向25km程離れたところにあります。南北に流れる大泉河という川があって、その川際に絶壁がそそり立っている。その絶壁に何百という石窟が穿たれ石窟寺院が建設されています、それが莫高窟です。(敦煌の街とは大泉川でつながっています。)

絶壁の上(莫高窟からいえば尾根に当るところ)から西へ、シルクロードの砂漠が始まります。小さい白い砂の砂漠で、毎日、風紋が姿を変えて拡がっています。ほんとに細かい小さい砂粒で、そこをボクはちょっと散策してみようと車椅子で乗りこんだら、前輪のベアリングに砂粒が入りこんで青ざめたことがあります。

莫高窟の壁はなべて東を向いております。つまり、石窟には朝日が差し込んでくるのです。午前中に石窟を訪れると自然の光に包まれた寺院の姿を体験できます。しかし、いまは、ここを「寺院」として、つまりここで祈りを捧げようとして訪ねる人は、いなくなりました。25年前、二度にわたって訪ねたボク自身、祈りを目的として訪ねたわけではなかったのです。

現在、この莫高窟を管理している敦煌研究院の方々は、どうなのでしょうか。なかに、きっとここを「寺」として護ろうとしている人がいるかもしれません。しかし、研究院の方々が書いている文章を読むかぎり、そういう人は発見できません。すべて「美術史」の研究対象としてこの莫高窟を見、測定し、分析する報告ばかりです。

4世紀の中ごろに、莫高窟は、開鑿された(註1)という記録がのこっていますから、4世紀から千数百年にわたって、この地方の祈りの場であった莫高窟は、20世紀に入ってからは、美術史の研究の対象となり、観光の対象となって保存されてきたということです。

当時(25年前)もそうでしたが、観光化した現在では、懐中電灯で照らして仏像や壁画を断片的に見せているのでしょう。莫高窟はすっかり観光名所になってしまったわけです。

信仰の場から観光名所へ、莫高窟が変身するのは20世紀に入ってからです。

4世紀半ば、初めて仏龕が掘られたときから1500年、ここが信仰と祈りの場であったあいだは、じつは、莫高窟は人びとにはほとんど知られていませんでした。

敦煌莫高窟が人びと(中国、そして世界の人びと)の眼に晒されるようになるきっかけを開いたのは、近代ヨーロッパです。

19世紀の終り、ヨーロッパ諸国のあいだで急速に、東アジア・中央アジアへの関心が昂まり、探検隊が国家政府によって派遣されるようになります。

シルクロードの探検家の系譜をみていけば、最初にその冒険を企てたのは、ロシアのブルジェワルスキーですが、彼は1870ー73年、甘粛省・チベット・モンゴルを探検します。その後も第二次は1876ー77、第三次1879ー80、第四次1883ー85年と、天山山脈からロプ・ノール、ホータン、タクラマカンなど旅をしますが、ついに敦煌へは行きませんでした。

『さまよえる湖』(岩波文庫)で知られるデンマークのヘディンも五次にわたってシルクロードを探検します(第一次1893ー97、第二次1899ー1902、第三次1906ー08、第四次1913ー16)が、敦煌へは行きませんでした(のちものち、1934年9月やっと訪ねています)。

ドイツのル・コックもグリュンウェーデルと共に(分担して)1902年から5年へかけて二次にわたり、さらに1905年から07年、1913年ー19年とクチャやトルファンを中心に探検しています。その1905年の旅行のとき、敦煌で文書が見つかったという話を商人から耳にし、訪ねようとしました。折悪しく、引継隊長のグリュンウェーデルを出迎えねばならない事態になって、敦煌行きは断念したのでした(彼は、このときのことをのちのちまで悔しく思い出しています、『中央アジア発掘記』昭森社、のち『中央アジア秘宝発掘記』角川文庫と改題)。

敦煌に行って、そこに蔵われていた文書や絵画を、最初に買い取ってヨーロッパへ送ったのは、イギリスのオーレル・スタインで、1907年2月のことでした。

ヨーロッパ列強の中央アジアへの関心は、いうまでもなく世界制覇への帝国主義的野心に基づくものですが、学問(とりわけ歴史にかかわる学問)は、なべてこのヨーロッパ帝国主義の躍進と開拓のために身を捧げていたのです。 国際東洋学会というのが19世紀末に組織されます。その第13会大会は、ドイツのハンブルグで開かれましたが、そこで「中央アジア及び極東の歴史・考古学・民族学研究国際学会」が設立されました。そのとき、すでにそこで敦煌のことが報告されています。

スタインは、それを聴いて敦煌訪問への旅程を組んだのでした、彼にとっては第二次の中央アジア探検のときです。(スタインは三次にわたって旅行をしており、第一次は1900年ー01年、第二次が1906年ー08年、第三次は1913年ー16年です。あとの二回に敦煌を訪ねているのです)。

当時、莫高窟は、王円ロク(竹冠に「録」を書きます)という道士(仏教の僧侶とは言い難かったのでしょう)が守りをしていました。彼は、莫高窟近くに居を構え、誰に頼まれたというのでもなく、この莫高窟の管理をしていたのでしょう。

ただ守りをするというのではなく、お金が出来たら材料など買って(人も雇って)、崩れた壁画や塑像をこつこつと修復もしていたのです。彼がこの17窟(もちろんこういう番号はのちに敦煌文物研究所がつけたもので、われわれは便宜上これを使っているにすぎません。石窟に番号が付けられたときから、莫高窟は信仰の営みを剥奪されたのです)に経巻が埋まっているのを発見したのは、1900年5月(光緒26年6月25日)のことだったと伝えられています。

スタインは、この王道士と交渉して、大型馬蹄銀四個と引替えに、漢文文書50包、チベット語文書5包を手に入れます(王道士がこの窟をみつけてから10年目のことです。彼はそれまでにも経巻を少しずつ持ち出して金に換えていたでしょうが、こんなに大量に売ったのはこれが初めてだったでしょう)。スタインは、いったん引き上げたあと、四ヶ月後、最初に同行していた通訳の蒋孝ワン(王偏に「宛」)を、莫高窟へとって帰らせ、さらに230包程の文書を手に入れ、ロンドンへ送りました。これらの文書資料は、1909年1月ロンドン着、翌1910年6月公開されます。

1919年3月の第三次探検のときにも敦煌を訪ね数百巻に及ぶ教典を手に入れていますが、その経緯は彼の著書『中央アジア踏査記』(白水社)や『考古学探検家スタイン伝』(六興出版)などに書かれています。

彼の集めた美術品は『西域美術大英博物館スタイン・コレクション』全三巻(講談社)などで見ることができます。

スタインには、探検のたびにまとめた『古代コータン』、『砂に埋もれたコータンの遺跡』(第一次)、『セリンディア』、『キャセイ沙漠の廃墟』(第二次)、『内奧アジア』(第三次)などの著述もあります。

そのコレクションは、大英博物館(美術品)、大英図書館(文書)、ほかにニューデリーのインド博物館に収められています。

彼は、ヨーロッパにおける最初の敦煌文書発見者という栄誉を獲得しましたが、ついにこの厖大な文書が蔵われていた石窟(17窟、一般に「蔵経洞」と呼ばれています)の扉を開けてもらうことは叶いませんでした。王道士は、スタインを石窟へ招き入れなかったのです。

註1:
のちに述べます、ポール・ペリオが1909年フランスへ持ち帰った大量の敦煌文書の中に「沙州地誌」(「沙州」というのは「敦煌」の旧名、「沙州」が「敦煌県」と名付けられこんにちに至るのは1760年以降です)には、「永和八年癸丑(きちゅう)の年」に創建されたと誌されています。「癸丑」は、東晉の永和九年(353A.D.)に当るので「八年」というのは「九年」の書き損じと考えたい。とすると、「沙州地誌」によると莫高窟の創建は西暦353年ということになります。

ほかに、莫高窟の14窟にあったという「大修李君重修仏龕碑」(「重修莫高窟仏龕碑」とも呼ばれてきている。これは唐の時代、聖暦元(698)年、李懐譲という人が建てた碑文です)には、楽ソン(「ソン」という字は人偏に尊です。ワードではでないのであしからず)と法良という僧が、前秦の建元2(366)年、ここにはじめて岩を穿ち龕像を掘り、伽藍を建てたと誌しています。これに従うと、莫高窟創建は西暦366年。しかし、前秦の建元年間のころ、敦煌地方は前秦領ではありませんでした。

この「建元」は前涼の「建元」(357-361)でなければ話が合わないという説があって、その計算で数えなおすと「敦煌」での「建元2年」は西暦358年です。

行脚の修行を続ける僧が、この莫高窟へ辿り着いて、霊的な体験を得、参籠の穴を穿ったのが始まりだったのでしょう。156窟の外壁に記された「莫高窟記」(咸通6[865]年記。現在文字はかすれてしまっていますが、写本が遺っている)は、14窟にあったという「重修莫高窟仏龕碑」を参考に書き改めたものといわれています。そこには、こんなふうにあります。

「莫高窟は、州の東南25里、三危(さんき)山の上にある。秦の建元時代、沙門(さもん)楽ソン(らくそん)、錫杖をついて修行の旅の末、この地に来た。そして、三危山を拝むと、金色の光が千仏の姿となって現われ、空にかかった。そこで、岩を穿ち、龕と像をつくった。つづいて、法良禅師が東からやってき、楽ソン師の龕のかたわらに一龕をつくった。伽藍が建ち出したのは、このふたりの僧からはじまる。」

三危山というのは莫高窟からみれば大泉河の向こうの東方にある山で、楽ソンや法良は、朝日が神々しく山の上に輝くのをみたのでしょう。太陽の姿はまだ現れないうちに、山の稜線にまぶしく光を放つようすは、まさに、莫高窟の並ぶ岩壁に佇つと拝めます。そして、おもむろに朝日が、石窟にさしこんで、壁画や塑でできた仏像を浮び上がらせます。

現在、この楽ソンや法良の時代の遺跡はのこっていません。最も古いと推定されるもので、北涼期(422ー439A.D.)です。

2

「蔵経洞」といわれる小さい石窟があって、現在第17窟と番号がつけられて呼びならわされていますが、これは、16窟の大きな石窟へ通じる通路の脇(北側)に掘られた小振りの石窟(高さ3m、広さ2.8?の方形窟)です。(そういう通路脇に掘られた窟を「耳洞」と呼んでいます。)

20世紀初頭にスタインやペリオ(のちに大谷探検隊の橘瑞超と吉川小一郎も)敦煌へやってきたとき、この耳洞には、巻き上げられた文書のたぐいが何万巻と詰め込まれていたのでした。

ポール・ペリオはフランス人で、当時フランスの植民地だったインドシナ(現在のヴェトナム、ラオス、カンボジア)にあった「極東学院」の教授をしており、そこをベースに1906年から8年にかけてカシュガル、トルファン、敦煌など調査しました。彼は、中央アジア諸民族の言語をマスターし、その点がスタインとの決定的なちがいといえます。1908年2月敦煌を訪れたときも、王道士と中国語や現地語で直接話をしたようです。

こうして、スタインに対するときよりも警戒心を解いたのでしょうか、王道士は、封印してあった(といっても自分は自由に出入りしていた)17窟へ、ペリオを招き入れました。堆く積み上げられた巻物文書の横で、油灯の明かりを助けに文書を調べているペリオの写真が一枚遺っています。

すでに上の方に積まれた部分は、なくなっていて、奧の北壁に描かれた絵が一部見えています。これは、19世紀後半、チベットの支配下にあった敦煌を漢人の手にとりもどし「帰義軍節度使」を名乗った張議潮(初代節度使)の時代に描かれたものと推測できます。文書が詰め込まれるまえ、ここには洪辯(コウベン、じつは「ベン」という字はこの「辯」の俗字に当る漢字が慣用的に使われていて、どの莫高窟の本もその漢字を使っているのですが、ボクのワードでは出てきませんのでお許しください)という僧の坐像がもともとあり、その背景として北壁の絵が描かれていました。二本の樹がアーチ状に立ち、それぞれの樹の下に杖をもった侍女と、鳳凰が向かいあっている図柄の大扇を捧げもつ比丘が立っている、一種の樹下人物像です。それぞれの樹の枝には、鞄と水瓶がぶら下げられて、洪辯和尚の旅姿を象徴しているようです。

この17窟の西壁に「洪辯告身勅牒碑」があり、洪辯は、張議潮が敦煌を奪回した報らせを長安の都にある唐の皇帝(宣宗)へ届ける使者の役を果たしたこと、宣宗皇帝がそれを喜んで張議潮に帰義軍節度使の官位と洪辯へ河西都僧統の位階を送ったことが記されています。このとき、敦煌へ戻る洪辯一行とともに中原(チュウゲン=中国の中心部)の工人たちも連れて来られたのかもしれない。そんな想像をしたくなるほどに、17窟北壁の樹下人物図は、樹下人物図というモチーフが莫高窟ではすごく珍らしいとともに、数多くある莫高窟の壁画のなかでも洗練された味合いのある絵です。

洪辯像も、その姿は唐招提寺の鑑真和上を彷彿させる落ち着いた雰囲気と仕上がりです。こういう高僧坐像も莫高窟の中ではめずらしい(塑像の背中に洪辯和尚の遺骨灰が入った袋も発見されています)。この坐像は、ここに巻物や文書を入れるときとっぱらい、17窟の本堂に当る16窟に置いてあったそうです。ここに経巻巻物を詰め込んだのはなぜかいろいろ理由は詮索されています。井上靖の『敦煌』も、その理由を推測した小説です。もちろん記録も遺っていません。

帰義軍節度使時代末期、1050年頃まで、西夏族が敦煌に侵入したとき、文書を慌ててここに隠したという説は、ペリオが立てた説で、この17窟に封入された文書経巻の最も新しいもので、太平興国(976ー983)あるいは至道年間(995ー997)のものなので、西夏文字の文書や経巻がないことから推論しています。ほかに、これらは棄てられたものだとか、書庫だったのではとか、いろんな説がありますが、ペリオの説は説得力があります。

現在では、「蔵経洞」になる以前の姿に戻され、つまり洪辯坐像が樹下人物像を背景に安置された形に戻され、拝観できるようになっていますが、それは、20世紀後半になってからのことです。じつは、安置と呼ぶには、洪辯が座っている台座が、磨きも塗りもしていない材木と呼んでいい板をつないだもので、この荒々しさはなんなんだろうと、21年前、洪辯像の前に立ったとき驚いたのをいまでも忘れません。唐招提寺の座敷に安置されている鑑真和上像とのちがい。ここに沙漠のなかの小都市の石窟での信仰の粗野な姿をみていいのか、こうして洪辯像が17窟に戻されたのが20世紀後半だから、ここに信仰を喪った美意識が露呈されているとみるか。それはともかく、11世紀初めから19世紀末まで、1000年のあいだこの小窟は大量の経巻文書を詰め込まれて封印され、洪辯像は主室に放置されていたのです。

さて、この洪辯像は塑像ですが、塑像といのは泥土で作り上げる立体像(彫刻)です。

木組みを作って、その木の骨組に葦や砂漠に生えている草を束ね麻縄で巻きつけ、スサ(細く刻んだ藁。草冠[クサガンムリ]に「切」という字がワードでできません)を交ぜた泥土で盛り上げ肉付けします。その土が乾いたら麻布で作ったスサをまぜた細かい泥土で造形を整え、膠でこねた白土を表面に塗り、形を仕上げ、最後に、彩色です。蜜蝋をかけたり、金箔を押したりもします。

莫高窟開鑿期(350~450A.D.)の100年間の遺品や石窟跡はみつけられませんが、この塑像の手法は、おそらく、その創建期から変わっていないでしょう(創建期は、もっと素朴で原始的な塑像だったから、いまに遺らなかったとも考えられます。また開鑿期100年の石窟がなくその遺品もないのは、その開鑿期石窟を改造してのちの石窟が造られたからでしょう。むかしの人々は、そういう「遺産」を「保存」しようという意識をまったく持っていなかったでしょう)。

創建期(4世紀)から20世紀の冒頭、1910年まで、1500年に及んで仏像はこの塑像の方法で作られてきた(木像もありますが、主流は断然塑像です)ということは驚くべきことです。

あとで書きますように、敦煌と莫高窟には漢民族以外の多くの民族が入り乱れて1600年の歴史を作っており、いろんな民族文化が入り込んできたのですが、仏像を作るという手法は、大きな変化を遂げなかったのです。

もう一つ、こうして塑像を安置するにあたって、洪辯像の場合でもその背景は壁に描いたように、仏像の塑像を置くと、その付属物、光背などは壁に描きます。「影塑」と呼ばれているレリーフ状の塑土で作った飛天や天女、菩薩、飾りの文様、などを壁に貼り付けたりしているのもありますが、これも壁に付けられているという意味で、塑像と壁画は切り離すことのできない一体性から成り立っていること、そして、その伝統が1600年つづけられていることにも、この機会に注目しておきたいと思います。

塑像であること、塑像と壁画が一体となって「像」を作りあげていること、その意味で石窟という寺院建造物の構造的な存在であること???莫高窟の特質は、まさにここにあるといえます。

素材という面から見ると、あくまで「土」と「植物」から成るものです。「石窟」といいますが、壁に描いたり、塑土を盛り上げて作った小龕や、石窟の外郭に木造建築を模したものや、じっさいに木造で建築したもの(9層楼の96窟など)もあり、柱に木材を配したものは多数あります。

ともかく、鉄や金属を使わないで、あくまで「土」と「植物」から出来上がっていることが「莫高窟」の原質だといわなくてはなりません。これは、とても大事なことだと、ボクは思います。そこから、アジア的な「古代」性が読めてくるように思うからです。つまり、ボクは「敦煌」から「アジア的な古代」型の特質??中国だけにも、インドだけにも還元しえない特質、いいかえれば、インドで育ち、中国で発展し、朝鮮へ伝播し、日本で展開する「アジア的なるもの」の多様な姿の原質となるもの??を読みとれるような思いにずっととりつかれてきたのです。(今回Tの回にやはり「敦煌」を選びたいと思ったのは、そんな思いがずっと蟠[わだかま]っていたことと、この問いには、まだ充分な答を見つけられていないので、改めて問い続けたいと自分にもみんなにも呼びかける機会にしたかったということがあります。)

3

ペリオは、1908年2月25日、敦煌に着き、3月3日には17窟の中に入り、20日余りその調査に費して、6000点程(スタインが持って帰ったあととはいえ、中国語や中央アジアの言語に精通していたペリオは厳選して)王道士から買い取っています。

ペリオに同行したフランス人は、測量技師でもあり医師でもあったルイ・ヴァイアンと写真技師のシャルル・ヌエットでした。ヌエット氏が持ってきたのはガラス乾板の写真機で、これで莫高窟内外をほんとに隈なくといっていいくらい撮影しました。

ペリオは5月30日まで3ヶ月滞在して石窟一つ一つに番号を付け、ノートし、その成果は『Les Grottes de Toug Huang (敦煌石窟)』という全六巻の写真集となって、1920年から24年にかけて刊行されています。

これは、もちろんモノクロ写真ですが、われわれが見ることのできる莫高窟の最も古い姿がみえる貴重な記録です(ボクはまだ貧乏だったころ、京大の美学の研究室に保管されているこの写真集を、書庫の中で、一枚づつ接写撮影したものでした。それを焼き付けるとファイルノート3冊の分厚いものになりました。まだコピーなんて気楽にできなかったころのことです)。

5月30日に敦煌を発って、10月5日に北京へ着き、そこで、収集品(大量の文書類のほかに木像や帛などの美術品もありました)をそこからフランスへ送り出します。ペリオの収集品は、ギメ美術館やフランス国立図書館に収まっていますが、ペリオの研究の成果はまだ完全に刊行されていません。講談社から『西域美術 ギメ美術館ペリオ・コレクション』全二冊というのが日本では出ています。ボクはペリオの著述目録を作るというのでフランスに招んでもらったのですけれど、これが大変。いまだに終りません、というよりもう10年位前に諦めました)。彼自身は再びハノイへ戻り、改めて翌年1909年、北京へ出て(これはフランスへ帰国する途中に立ち寄ったということなのですが)、ここで敦煌の文書のまだ本国へ送らないでハノイへ持参していたものを、中国人の研究家達に公開しました。

中国の研究者たちは、このとき、初めて敦煌文書の重要さを知ったといっても過言ではないでしょう、政府に働きかけ、残っている文書類を保管する処置がとられ、1910年北京の京師図書館へ運ばれたのでした。「アジアとその古代」は、やはりヨーロッパ近代によって発見され喚起されたのです。

中国政府が、しかしこのとき全文書を押えたというわけではなかったようです。

大谷光瑞が組織した大谷探検隊の橘瑞超と吉川小一郎が莫高窟へ行ったのは、1911年から12年にかけてですが、このとき、369点の写本文書、2点の塑像など手に入れています(『新西域記』1937)。このとき、二人は428窟と444窟の壁に鉛筆のようなもので、敦煌を訪ねた日と名前を壁に刻んでいます。観光客や修学旅行生が法隆寺の柱なぞに名前を刻むのと共通の心理でしょうか。ペリオの勉強振りと比べると、なんとも恥ずかしい日本の探検家たちです。(大谷探検隊収穫は『西域考古図譜』1915年國華社などに収められました。)

そのあと、ロシアのオルデンブルグ探検隊が、1914年から15年敦煌へやってきて、写本18,0000点、絹画1000点以上、263窟の壁画10点以上、塑像10数体入手しています。現在美術品はエルミタージュ美術館で保管されているようです。何年か前から日本でも一部展示公開されてきています(「スキタイとシルクロードの美術」1969、「ソ連収蔵名品百選展」1971、「シルクロードの遺宝展」1985、「シルクロード大美術展」1996、「エルミタージュ美術館特別名品展」1996、etc.)。

ロシアのオルデンブルグも壁画を剥がしているのですが、アメリカからはラングトン・ウォーナーが(岡倉覚三とも付き合いのあった人です)、1924年1月莫高窟へ行き、壁画20数点を剥がし、328窟盛唐の供養菩薩像、257窟の影塑(壁に貼り付けたレリーフ状の塑像)などを剥がしてアメリカへ持って帰りました。ハーヴァード大学内の美術館に所蔵されています。ウォーナーはその翌年(1925年)にも莫高窟へ行こうとしたようですが、地元の人に拒まれて実現できなかったという話があります。

日本ではウォーナーは奈良と京都を米軍の空襲から守った日本文化財の恩人のように言われていましたが、中国では莫高窟の大盗賊ですと、ボクが敦煌を訪ねたときも、敦煌研究所の人が強調していました。

こんなふうにして、敦煌莫高窟は中国の人に自覚され、世界の眼に晒されるようになったわけです。

中華人民共和国が敦煌文物研究所を設立して(1944)、今日の敦煌研究院に至り、莫高窟もそこで管理研究されるようになりましたが、20世紀の初頭、ヨーロッパの探検家によって発見されたときから莫高窟は、信仰の場所から研究と観光の名所へ転換したのです。

スタインやペリオが宝物を買うために交渉した王道士は、莫高窟最後の信仰者だったといっていいのかもしれません。その後名も知らない人びとが莫高窟を訪れ、そこで祈りの営みを繰り返した人がいたかもしれない、けれども、中華人民共和国になってからは、公式には寺院活動は禁じられます。

いまから25年前ですが、ボクが中国を訪ねたとき、こんな経験があります。上海でのことですが、ある仏教寺院を案内してくれていた中国人青年通訳が、明代の弥勒と布袋(ホテイ)が安置してある建物へ入ったとき、「ちょっと待ってくれますか」といって突然膝づいて無言で掌を合わせ祈り始めました。祈り終って「なにを祈ったのか」とボクが尋いたら、笑って答えてくれませんでした、代りに彼の口から(ちょっと間をおいて)出たのは、「宗教の信仰は禁じられているので、これは秘密にしておいて下さい、お願いします」という台詞でした。もちろんボクはそんなこと言わないよと請け合って彼を安心させましたが、まだ老若男女誰もが人民服を着ていた時代です。マルクス・レーニン主義の唯物弁証法で管理・武装されている世界の奥の襞では、こんなふうにして信仰と祈りの行為が息づいているのか、とちょっと感動ともいえない思いに捉われたものです。

通訳としての彼は、やはり当時の中国ではエリートだったはずです。

莫高窟では4世紀以来、こうしてさまざまな民族の人が、この石窟に入り、入っては出て行き、なにかを祈り、なにかを願いこんな仏像と壁画の世界を作っていったのでしょう。

大泉河に沿って、南北へ1.6km。その岩壁に、数百個の石窟が穿たれています。どの一つをとっても、高松塚古墳やキトラ古墳の規模とは比べものにならない、大きな石窟です。それが、ある窟には26mにも及ぶ大仏を掘り込んだり、数メートルの高さになる背屏(仏像の背後に立つ板壁)を削り出し、仏龕や須弥壇を造り、天井の真上まで、びっしり千仏や藻井(ソウセイ、天井中央の正方形の部分の飾り模様)を隈なく塗って行く、それだけでも気が遠くなるような労働です。何人もの人がこの制作建造のために働いたり、駆り出されたりしたのでしょう。

壁画の下の方に、その石窟を開いた供養人像が描かれていたりします。中期以降になると、供養人像の名前も記されています。それらの人は、この石窟を造成建築するのにお金を出し命令を下した権力者であって、じっさいに塑像制作に従事し壁画を描いた工人たちではありません。石窟の暗い光の中で、精一杯着飾って礼仏する姿を描いてもらった有力者たちの像をみていると、それを描いた名もない工人の働く姿が、その絵姿にダブってきます。

王円ロクという人は、供養人像の一人になるほどの有力者ではなかったのか、彼が独力でこの石窟の壁画や塑像を修復したり新たに掘ったり造ったりしたわけではないだろうと思います。そういうときは、工人を雇っていたでしょう。そのために、スタインやペリオからもらったお金を使ったのだと思います。

彼の写真は二枚遺っていて、ペリオが撮った一枚は正装姿です。もう一枚は普段着といった格好で、左手をポケットに入れ屈託なく笑っているのですが、こんな写真を見ていると、工人のまとめ役をやっている頭領のような僧という感じが伝わってきます。

清と呼ばれる時代、その後半、彼は莫高窟のそばに住み、たくさんの石窟を修理し、新たな窟もつくったのです。敦煌莫高屈の祈りの場の最後を見届けた人になったのでした。

敦煌莫高窟。清代の塑像と壁画例です。 
撮影:木下長宏。転載を希望される方は許可を得てやってください。

4

敦煌莫高屈の本を開くと、どの本にも莫高窟は、14世紀、元の時代に活動は終ったと書かれています。 しかし、じっさいに莫高窟を訪ねてみると、清の時代に修復されたもの、清の時代に新たに造られたり描かれたりしたと思われるものが、もの凄くたくさんあります。

莫高窟は決して、元の時代でその活動を終えていない。清の時代まで活動していたことは紛れもない。莫高窟の歴史は4世紀後半から20世紀初頭までの活動を視野に入れて記述しなければ、その一部しかみたことにならないのではないか、これは、ボクが莫高窟を二度にわたって訪ねたときの強い印象でした。

九層建ての96窟は、莫高窟の中でもひときわ聳えていて、敦煌のシンボルのように写真集やTVでも大きく扱われますが、あの頂上のとんがり屋根は清代の建造物です。

なぜ、敦煌の研究家たちは清を無視するのでしょうか。いいかえれば、清の時代の仕事を「美術」として認めないのでしょうか。清の時代の仕事といっても北京や台北の故宮博物院でみるような精緻な工芸品や奔放な筆遣いの書画とは全く違う様相をしているので、「中国の美術」と認められないのでしょうか。ボクは、清の時代といわれる仏像や壁画を視野に入れた莫高窟の美術史は「中国の美術史」に一括りできない独自の「敦煌美術史」とでもいうべき美術の歴史を呈していると考えて、『敦煌遠望』(五柳書院)を25年前に書きました。

ボクが二度目に莫高窟を訪ねたときは、すでにその考えが煮詰まってきていたので、極力「清」の痕跡を確認しようと、石窟を見て廻りました。

ペリオの写真にも、ペリオはわざわざ清の時代のものを記録しようと思っていなかったでしょうが、いやおうなく撮影されています。敦煌文物研究所が開設される前の中華民国の時代から莫高窟や近くの楡林窟、西千仏洞などを調査した謝稚柳という人がいて、『敦煌藝術叙録』という本を遺してくれました。石窟を隈なく調べてそこにある壁画や塑像の主題や時代などを記録した目録です。ボクが莫高窟を訪ねたときは、まだ史葦湘氏の内容総録(平凡社『中国石窟 敦煌莫高屈』全五巻の付録となって刊行されています)がでていなかったので、この謝さんの目録をベースにいろいろ調べてみようとしたものです。

史葦湘氏の目録と比べると、いろいろ時代判定とかも変わっているのがわかります。

その史さんの目録を読むと、「清代の重修」とか「清代」という文字は頁を開くごとに眼にはいってくるといってもいいくらいです。史さんは11窟と228窟は清代の新しい窟と判定しているほどです。

その清代の壁画と塑像の写真を、お目にかけましょう。莫高窟の石窟内部の写真を撮るのはなかなかたいへんです。お金を払えば撮影可というところはどの写真集にでも載っている壁画や塑像で、ほかは撮れません。16窟など、ペリオの写真(モノクロ)で観察していたので、スライドで撮りたいと思ったのですが、だめでした(いろいろ手続きを通せばいいのかもしれませんが)。でも、逆に、外観・外景は許可なしで撮れます。ここにお目にかけるのは、そんな外壁の仏画と入り口の外側に立つ塑像です。こういうのがいっぱいあるのが敦煌莫高窟の実像です。

少なくとも、20世紀の前半まではそんな姿で、断末魔の巨竜のようにのたうち喘(あえ)いでいたのが莫高窟だった、といいたいのです。

もういまは姿を変えて「現場ミュージアム」になっているようです。ボクが1980年初頭に目撃した莫高窟も、もう息絶えた石窟寺院でした。でも、ついさっきまでまだ息をしていたというぬくもりはありました。

莫高窟の二枚の清代の写真から、その塑像と壁画から、故宮博物院にある清代の象牙細工や絹画(これらは高級美術です)とは異質な、しかし、不思議なエネルギー、地底からぐっと湧き昇ってくるような力を感じませんか。

アジア古代の美の源泉がこんなところに遺っているのではないか、それをもっと追っかけて行きたいという気持ちにとらわれませんか。

しかし、この追究は、なかなか大変です。

近代ヨーロッパの美学と美意識で育てられる教育を受けた者(ボク自身)にとっては、とりわけ大変で疲れ切った作業でした。一日、そんなふうに石窟をみて、最後、勉強の終りは57窟を訪ね、初唐の優しくて美しい菩薩の前に佇ち、ほっと疲れを癒してもらうのは、限りない救いのように感じたことを、いま、告白せざるをえません。(いまや25年前の思い出話ですから、許してもらいましょう。)

いずれにしても、莫高窟は20世紀初頭まで宗教活動としての造窟活動をしていた(明代の空白はいかんともしがたいのですが、明代350年間の長い空白があって、それを乗り越えるように、清代の人びとが再び莫高窟に息を吹き込んだ、それがあの写真にお見せしたエネルギーです)という視点から、莫高窟美術史を書こうとすること、そして、敦煌の美術史は、中国の美術の一部なのではなく、一つの独立した文化圏を形成するものとみること、という二つの方法論をたてると、当然、時代区分も変わってきます。敦煌の歴史的実情にあった時代区分が必要です(それもボクは『敦煌遠望』に提示しておきましたが、ここでもう一度掲示しておきます)。

(A)があるべき「敦煌美術史」の時代区分。(B)がこれまで慣行化されてきた「中国美術史」の一地方形態として処理される時代区分。それは、ほとんど中国中原の時代区分をあてはめているだけです。

敦煌莫高窟 時代区分表
開鑿 永和9(353)年〔『沙州地誌』〕/建元2(366/358)年〔「重修莫高窟仏龕碑」〕

(A)
最初期
北涼支配期 422~439(註1)
北魏支配期 440~534
西魏支配期 535~556

初期
北周支配期 557~581
隋前期 581~599(頃)

中期
隋後期 600~618
唐(初唐) 618~712
唐(盛唐) 713~786

後期
吐蕃支配期 787~848
帰義軍節度史時代前期 848~905
帰義軍節度使時代後期 905~1053

晩期
西夏支配期 1053~1226(註2)
元支配期 1227~1372(註3)

最晩期
明 1372~1722(註4)
清 1723~1911(註5)

(B)

北涼 397/421~439
北魏 439~534
西魏 535~556


北周 557~581
隋 581~618



初唐 618~712
盛唐 712~766


中唐 766~835
晩唐 835~907

五代 907~960
宋 960~1036


西夏 1036~1226
元 1227~1368

註1: 北涼建国は397年。しかし、河西地方は、400~421年まで西涼が支配。
註2: 西夏建国は1023年。
註3: 元の中原支配は1205年。
註4: 永楽3(1405)年 沙州衛設営。
   嘉靖3(1524)年 嘉峪関閉鎖。
註5: 雍正元(1725)年 沙州所設置。
   雍正3(1725)年 沙州衛設置。
   乾隆25(1760)年 敦煌県設置。

この新しい枠組みで、改めて莫高窟諸時代の塑像や壁画をみていくと、新しい発見がある、これも楽しみです。

5

最後に、中国中原の論理というか、美の基準で敦煌の美術を見ていこうとすると、もう一つの大きな発見=論理に出会ったことを報告しておきます。

それは、中国では「書画同源」といい、「書」と「画」は起源は一つだったという理論が、中国ム東アジア美術を見、考えるときのものさしになっていますが、敦煌はこの基準の外にあるということです。

莫高窟はむしろ、彫刻と絵画が一体となって石窟を作ろうとしています。(この問題は、ヨーロッパでの絵画の彫刻の起源的関係との比較という大きな問題へ誘われていきますが、それについて考えるのは別の機会にします。)もちろん、墨を絵具の一つとして用い、筆も書のそれと相似か同じ物を使っていたでしょうから、そこに書と画が「一つ」になっていく動きを読むことはできます(そういう意味で「敦煌」は「アジア」です)。

しかし、敦煌莫高窟の制作に従事していた人びと(工人たち)の意識に、書画同源思想は働いていなかったとは、莫高窟各窟をつらつらみていくと気づきます。

それは、とても重要なことで、敦煌に古代アジアの美意識の生まな姿を見ようとするとき、それは「書画同源」思想の埒外で産まれたことを知らされるわけです。

そんなことを考え、ボクは20年前、パリで『敦煌遠望』を書いていたのですが、書いている途中、ペリオの文章のなかにこんな一句をみつけました。今日の「言葉」はそれにしようと思います。

たいていの本が、中国の絵画は、中国の書の発展と関係があると書いておりますが、私は、反対で、中国絵画の起源は、書と無関係であったと考えております。
古代の中国では、絵描きは工人(アルティザン)であり、士人ではまったくなかったのであります。書家が絵を描き、だんだんと、その絵が彩色から離れていくのは、ずっとのちの時代になってからのことです。それは、偉大な芸術に発展して、ついに水墨画を完成させることになりました。しかし、中国絵画の初期の歴史を、晩唐から宋朝期に出来上がったこの型で判断してはなりません。
ポール・ペリオ(『アメリカ中国美術協会報』第一巻一九四五年)

われわれの生活は、既成概念の体系(枠組)の上に(その構造の中に)「生存」しています(生きています)。

その既成概念の共通(共同)相互了解なしに、「われわれ」の「生活」は成立しえないのです。しかし、そうして「既成」のものが「既成」として反復・蓄積・伝達・了解・承認されていくに従って、その既成の概念は「制度」と化し〔「物」化し〕、その概念と制度を共有する人間のあいだに権力関係が生じてきます。この「権力」関係は、眼に見える形で現れて人びとを呪縛するものと、眼に見えない生活体系の行動、言動、意識層の深みで(意図的に/あるいは意図的でない場合まったく善意のつもりで―じつはこれがいちばん問題)眼に顕わとなる権力関係を支え育てている働きをしているジャンルとがある。「芸術」はじつは、このジャンルとぬきさしならない関わりをもって成立しています。

そのために、十分疎外された人間としては許し難い生きかたとみえる考えを持って日々の生活社会関係を御している人間で、無意識に(善意のつもりですらいて)実践している生きかた(意識)を結構「正しい」と信じている人間が多い。そのことに気づかせ、これを救おうとするとき『宗教』が働く。

そういう枠組に安住している(権力関係に依存している)ために、もっと別の眼で別の美しい姿かたちを楽しめるのにそれを閉ざしている人間がたくさんいます。たいていの人間は大人になったとき旧時代の美/芸術意識に属する人種になっているのです)。

「現代美術/芸術」というのは、それを批判する行為でした、その意味で、「現代芸術」はいつの時代にもあったといえます。いつも「異端」「反抗」者であって、次の時代には「権威」になったのです。

「現代」をみるとき、このまなざしを忘れないでいたいと思います。われわれの環境は、既成の権力と制度を操作する者と操作される者に分断され、その分断境界線は不可視化され(不可視化することが時代の進化だとすら考える「権力」欲が人間にはうずくまっています)、権力に身を委ね安住することが幸せだと思い込もうとする人間を生産する〔こういう意識のありかたはかの「古代」型の再生産でもあります〕装置がますます巧妙、精緻になっていく状況下、つねに、その生きかたが、比喩的にいえば「現代芸術」でありつづけるまなざしを持ちつづけることは、人間が人間であるために大切なことではないでしょうか。

美術史もまたそういう権力関係の中にどっぷり漬っているのです。美術史はいわゆる「芸術」行為、「制作」(創作)、「鑑賞」(収集、美術館・画廊で、いろんな書籍〔画集・評論・批評〕での)、「展示」(美術館と画集等の複製生産公開)〔「鑑賞」と「展示」はコインの裏表のように一体ですが、じつは「制作」も、そこに張り付き=一体化した三角錐が「芸術行為」なのです〕といった意識と行動の底辺=基礎枠を提供保障するものだから、いっそうこの権力構造への批判のまなざしは厳しくなければならないと思います。

敦煌莫高屈の美術史をこうして考え直すことも、そういう既成の制度に安住する美術史と美意識への批判となり、新しい考えかたと生きかたへ寄与するものでありたいと思っています。