『詩経』から始まる芸術の旅
『詩経』という東アジア最古の詩集から、芸術の始まりの姿を見つけてみたいと思っています。 〈無文字文化〉が現代に生きている、というより、現代という〈文字文化〉がいかに〈無文字文化〉によって生かされているかを知るために、です。 そのために、『詩経』をどのように読んでいったらいいか、試行を重ねながら、詩と美術の世界を往き来しつつ、尋ねて行く旅を楽しんでいただけたら、と願っています。
『詩経』という東アジア最古の詩集から、芸術の始まりの姿を見つけてみたいと思っています。 〈無文字文化〉が現代に生きている、というより、現代という〈文字文化〉がいかに〈無文字文化〉によって生かされているかを知るために、です。 そのために、『詩経』をどのように読んでいったらいいか、試行を重ねながら、詩と美術の世界を往き来しつつ、尋ねて行く旅を楽しんでいただけたら、と願っています。
詩(文学)と絵(美術)の最古のかたちを求めて—『詩經』から考えを始めてみたいと思います。 「美術」の始まりの姿を求めて、ラスコーの洞窟を訪ね、粥見井尻の土偶を見せてもらいに三重埋蔵文化センターを訪ね、いろいろあれこれ考える旅をつないできました。それを考える旅はまだまだ終りそうにないのですが、というのも「始まりビギニング」「始源(ソース)」「起源(オリジン)」「初源(ライズ)」「生成(ジェネシス) […]
今日は<もどき>と<忌み>をキイワードに、<無文字文化>の問題を考えたいと思います。 <無文字文化>の時代の長いながい沈黙に近い時の蓄積を前に感動することは、<声>のはかなさに深い思いを馳せることにほかなりません。 声は消えて行くが、形は消えない。昔の人は鋭敏に心得ていて生きていきました。 その様子を、まず、粥見井尻の土偶と同時期の草創期土偶とを見比べながら考えたいと思います。
<無文字文化>の時代(この時代を「縄文弥生時代」と呼ぶと見えなくなってしまう文化の営み)の厚み。その圧倒的な長さと見えない深さを予感しつつ、<文字文化>時代の成果を見直していく作業を続けたいと思います。
六月二十五日(金)のABCは、《司馬遷『史記』に刻まれた老子》というテーマを掲げましたが、副題として、―世界観と思想の大きさは反比例する?―というフレーズを付けてみることにしました。 司馬遷を読んでいると、中国古代のドラマを楽しみ、また、中国古代文化の知識を得られるだけでなく、文体の奥深いところで蠢いている〈なにか〉を感じます。武田泰淳もそれに衝き動かされて、名著『司馬遷―史記の世界』を書いたので […]
『老子』が他の中国の古典と決定的にちがうところは、老子はいっさいの固有名詞を登場させなかったことだ、というのはこれまでなんども言ってきたのですが、そのために、その語句の一つ一つは抽象度を帯びて、そのメッセージは多義的です。老子は、メッセージを多義的にして、誰もが、さまざまな問題がつねに自分の問題として、あるいは、自分の問題を他者の問題として考えることの出来る思考の装置を作ったのでした。第一章の冒頭 […]
今回は、岡倉覚三が『日本の覚醒』という著書の巻末に、見開きで付けた「年表」を読みます。 岡倉は、ここで「アジア」が本来、昔から、いかに表立たないところで、結びつき合い、それぞれの文化を養い育てようとしていたか、それは「同盟」というような軍事的政治的結びつきではなく、「人類愛」というべき人間的な衝動によって繋がっていたことが見える、弱い繋がりであった。それを、物欲と自己所有欲の強いモンゴル族や近代ヨ […]
なにかの出来事を「歴史」のひとこまとして語ろうとするとき、それを実証するために、その出来事を目撃した人、経験した人の証言を引用する。当の本人はなにも言っていなくても、その出来事、それに関わった人物の身近にいた人の証言は身近な存在であったというだけで信用度が高くなる。それが、その出来事から遥かのち、何十年も経ってからの回想であっても、その証言者が身近な人だったという理由だけで、信用され引用され、「事 […]