司馬遷『史記』に刻まれた老子 世界観と思想の大きさは反比例する?
六月二十五日(金)のABCは、《司馬遷『史記』に刻まれた老子》というテーマを掲げましたが、副題として、―世界観と思想の大きさは反比例する?―というフレーズを付けてみることにしました。 司馬遷を読んでいると、中国古代のドラマを楽しみ、また、中国古代文化の知識を得られるだけでなく、文体の奥深いところで蠢いている〈なにか〉を感じます。武田泰淳もそれに衝き動かされて、名著『司馬遷―史記の世界』を書いたので […]
六月二十五日(金)のABCは、《司馬遷『史記』に刻まれた老子》というテーマを掲げましたが、副題として、―世界観と思想の大きさは反比例する?―というフレーズを付けてみることにしました。 司馬遷を読んでいると、中国古代のドラマを楽しみ、また、中国古代文化の知識を得られるだけでなく、文体の奥深いところで蠢いている〈なにか〉を感じます。武田泰淳もそれに衝き動かされて、名著『司馬遷―史記の世界』を書いたので […]
『老子』が他の中国の古典と決定的にちがうところは、老子はいっさいの固有名詞を登場させなかったことだ、というのはこれまでなんども言ってきたのですが、そのために、その語句の一つ一つは抽象度を帯びて、そのメッセージは多義的です。老子は、メッセージを多義的にして、誰もが、さまざまな問題がつねに自分の問題として、あるいは、自分の問題を他者の問題として考えることの出来る思考の装置を作ったのでした。第一章の冒頭 […]
今回は、岡倉覚三が『日本の覚醒』という著書の巻末に、見開きで付けた「年表」を読みます。 岡倉は、ここで「アジア」が本来、昔から、いかに表立たないところで、結びつき合い、それぞれの文化を養い育てようとしていたか、それは「同盟」というような軍事的政治的結びつきではなく、「人類愛」というべき人間的な衝動によって繋がっていたことが見える、弱い繋がりであった。それを、物欲と自己所有欲の強いモンゴル族や近代ヨ […]
なにかの出来事を「歴史」のひとこまとして語ろうとするとき、それを実証するために、その出来事を目撃した人、経験した人の証言を引用する。当の本人はなにも言っていなくても、その出来事、それに関わった人物の身近にいた人の証言は身近な存在であったというだけで信用度が高くなる。それが、その出来事から遥かのち、何十年も経ってからの回想であっても、その証言者が身近な人だったという理由だけで、信用され引用され、「事 […]
宮澤賢治がゴッホを(ちょうどゴッホが「⽇本」にそれをみていたように)⼤切な発想源としていたことを、前回勉強しました。もちろん、ゴッホは宮澤賢治を知りません。しかし、⼆⼈はとてもよく似ています。⼆⼈ともども、「修羅」を⾃覚しています。 この世の、とくに貧しい⼈びとのために、役に⽴ちたいと強く願い、そこに「まこと」の道を求め、それが成就できない⾃分に修羅を観ていました。(ゴッホは「修羅」という⾔葉を知 […]
2月19日(金)のABCは、プルーストが『失われたときを求めて』のなかでときどき使う括弧( )の意味深さを考えるところから、宮澤賢治がこの( )を独特の使いかたをしていること、そしてまた、日本語の文脈のなかで( )はどんな働きをする可能性を持っているかを思い巡らせてみたいと、『春と修羅』の「序」を読んだのでした。 3月13日は、もう少し賢治の詩と( )を追いかけてみます。 「春と修羅」という詩篇を […]
2月19日(金)のABCは、《プルーストから賢治へ》と名付けました。「賢治」とは宮澤賢治のことです。 6日(土)の「プルースト」で、プルーストの文章のなかで括弧、つまり( )の使われかたがとても意味深く、そのことを考えていると、日本語の使い手では、宮澤賢治が、この括弧を絶妙に駆使していますねって話になりました。プルーストの( )付き文章を見つめながら、思わず脱線していたのですが(この「脱線」こそプ […]
1月に読んだ「車窓から見る日の出」の描写と、それからすぐに続く「谷間の小さな駅のミルク売りの少女」との出会い(「出会い」と言えるかどうか、むしろ「少女を発見」と言ったほうがふさわしい)—これは、「日の出」の三倍くらい長い文章量ですが、そこを新たな気持で訳してみました。「車窓の日の出」は『失われた時を求めて』のなかでも美しい、というかイメージ豊かな文章で、ボクは以前ABCで読みました、「祖母さんが眺 […]