まず〈美〉があった。
二足直立歩行を始めたとき、ヒトは人(人間)になったが、二足で立ち上がりたい、立ち上がると〈世界〉が別の姿で見えてくるぞ、と人を唆したのは、新しい世界を見たいという純粋な〈美〉への欲望だった。この〈美〉への欲望はただちに〈利〉の欲望に絡め取られて行くのだが、その美と利の葛藤と相剋のドラマは、あとでゆっくり考えよう。まず問題にしておきたいのは〈世界〉という言葉=概念である。「世界」という言葉はずっとのちに造られる。——二足直立歩行の体勢から見えて来たモノ/コトをまとめて名付けるときに考えついた語である。それまでは、眼についたものを(〈世界〉の部分を、海を見て「ウ」と、木の葉を千切って来て「ハ」と呼んでみるとか、世界の部分の名付けだった。部分の名付けが溜まって来たとき、それら全部をまとめるなにかしら眼に視えない動きのようなモノがあることを感じ取った。それを「世界」(天下、世、the world, die Welt, le monde)と名付けた。掌で触れるようで触れない、摑み取れない、が確かに在る大きな広がり。始めは、掌に取れそうに思えたが、考えれば考えるほどそれは大きくなり、ついに「乾坤」「天地」「heaven and earth」と言葉の組み合わせで解ってくるような途方もない広大なモノでもあった。「世界」という言葉のいちばん最初の呼びかたは「ヨ」だったかもしれない。それから数万年の人類の歴史のなかで、揉み苦茶にされて、形を変え、呼びかたもいろいろ与えられ手をいれられ、生き残ってきた、長寿な言葉/概念である。
絵画や彫刻、詩や歌、舞踊、劇は、この「世界」という観念——「世界」は物ではない——を物象化(モノのかたちに)しようとした、人間の努力の賜物にほかならない。人の脳裏に、頭の中で育ったイメージ(像となって概念化された画像だけでは足りない。身振りだけでも伝えきれない、言葉にしても、歌ってみてもすべてを捕まえられてはいない概念像)である。
北齋は、この〈世界〉を図(画―絵)として描き尽くそうと生涯を賭けた。『富嶽百景』の序文で「百有十歳にしては一点一格生けるが如く」というのは、そういう描出力のことである。
絵手本というのは、そういう境域へ道を開く手本を提示するものなければならない。世界は決して描き尽くせるものではない。それでも描き尽くそうと、筆を揮い絵具を塗り込み続ける。日々、生命を繋ぎ、生命に輝きを与えたいと、食べ笑い泣き(排泄もし)一生懸命生きるのが、人生ではないか。絵・画を描くということは、北齋にとって(ということは、この世/世界を生きる人間にとって)そういう終りなき試みの繰り返しなのだった。その意味で、絵を描くということは、人生なのだった。この北齋の思いを支えていたのは〈美〉の探求以外のなにものでもなかった。
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前回10月18日(土)は、北斎自作の狂句や謎掛けを小判の錦絵にした数点をとりあげ、その狂句と謎掛けをていねいに読み、絵を観ました。(あの板画に彫られている狂句謎かけの書体は、北齋の手と読んで眺めたのです。)「別添配布資料参照。」
それは、おふざけ、諧謔、俳諧の意気(敢えて精神という輸入語を使わないで、現代に通じるどんな適切な用語があるか模索中!)が北斎の仕事の根底を支えていることを見つけて行く一つの作業でした。もう一つは彼の70年に及ぶ画工(えし)人生の時代区分への(永田生慈氏の時代区分を尊重しつつ)新提案として富嶽百景の跋文を読み直してみたいという試みをしました[別添配布資料参照]。これは作者自身の言葉で作者の画工人生を俯瞰してみるという試み、作者の言葉を使って作者の人生に渉り合おうという試みです。これは内的な時代区分とでも言えばいいか、あの跋文からは、そういう区分を尺度に彼の全作業を一つの過程として捉える事が出来そうで興味深いです。なにしろ彼がそれを記したのは七十五才のときで、それからさらに十五年、絵を描き続け、それを展望して自らを時代区分し、さらにじっさいには届かなかった年齢の時期の自分も観ているのです。生きられなかった時期は見果てぬ夢ですから美術史学では問題にしませんが、亡くなるまでの彼自身はそういう見果てぬ先の自分をつねに心に甦らせながら仕事をしていたのです。
そういう意味で、これは生前の時代に息づき反映されている〈時代〉。そういう時代区分の尺度を使うと北斎がもっと身近になって来ると思うのです。
さらに、この跋文では七十三才までの自分の仕事はてんで駄目だとあっさり切り捨てていますが、こうして捨ててもいい仕事に七十三才以降の充実した仕事の耕しが隠れています。まさに「無為は無不為」(老子)であります。それを見つけ出すこともまた北斎という人の仕事を楽しみ学ぶ大きな意義があるのではないでしょうか。狂句や謎かけの小判錦絵をそんな心がけでもって読もうとしたのでした。さて、今日(11月15日)は、そういう問題意識の下、北斎が絵手本に寄せた序文へ目を向けてみたいと思います。
いまボクが手元に集め得た北斎自述の序文は六種あります。そのうち『誹風柳多留』の序は前回読んだのでした。これだけは絵手本でなく諸氏の川柳作を集めた作品集に寄せた序文で、そのほかの五点は、自分の本、絵手本に自ら寄せたものです。今回はそこから雛形絵本に寄せた二点を読んでみたいと用意しました。(別添配布資料参照)
北斎が生きた時代、江戸時代晩期それも最晩期。絵画の動きは、大きく分けると三つの舞台を作っていました。一つは江戸時代以前に完成の域にあり、幕府の御用を勤めた、つまり江戸城と諸大名の御邸の絵襖や屏風を一手に引き受け、江戸上級支配階級の絵画意識を独占していた狩野派の舞台です。(狩野派は、それ以前古代から中世にかけて勢いを持っていた大和絵(京御所を根拠に、絵巻、絵屏風、絵襖など制作)と、唐絵から漢画※へと呼び方を換えて勢いをつけて来た水墨画(寺院を背景に絵襖、絵屏風など制作)を二軸にしてひとつの流派を作り、強大な勢力を作っていました。この狩野派の流儀を、北斎の時代には弟子たちが地方に散開し、「絵師」として蟠踞して伝えていました。それをボクは亜狩野派と呼んでおこうと思います。
もう一つは、文人画。南画とも呼ばれる動きです。これは徳川家に支える地方の諸藩に育った若い藩士たちが江戸後期、権力の空転によって画力を失った狩野派に不満を持った絵心ある人たち、というより、詩心ある人たちによって、改めて元祖中国(漢)に立ち戻ろうと、詩と画が一つになった絵を実践しようとして開かれた舞台です。文人画はそういう意味では最初の狩野派批判を籠めた日本列島に拡がっていった絵画運動です。狩野派批判すなわち反徳川幕府思想です。文人画は幕末の尊皇攘夷の武士たちの絵画意識に吸収されて行きます。
そして、もう一つは江戸中期の風俗画などと美術史で命名されている動きです。地方諸藩の邸装飾として拡がっていった大和絵と亜狩野派の流れを汲む絵画意識が、その頃機を一にして実力(つまりお金を動かす〈利〉の力)を蓄え富を運用し始めた商人たちの趣味を刺激し、育っていった「浮世絵」と呼ばれる舞台です。当時の狩野派や大和絵の枠からはみ出した絵師たちが主たる働き手でした。源流を辿ると岩佐又兵衛という人が浮かび上がって来ます。
この浮世絵を支持する層が金持の商人だけでなく、町人たちのあいだにも広がり定着していった頃、北斎はこの「浮世絵」の舞台で修行を始めました(十九才のときです。勝川春章という当時役者絵で評判の高かった親分のところへ入門しました)。なぜ浮世絵の舞台を選んだのか、彼の出自と深く関係があります。彼は江戸の下町、それも当時は「大江戸」の圏外にあると見做されていた葛飾本所割下水(かつしかほんじょわりげすい)に生を享け、このことに強くこだわり葛飾という姓を名乗ったと伝えられています。彼は自分の出自・根拠地を江戸の際(きわ)の外に位置づけ、そこから〈世界〉へ相渉ろうという考えを早くに固めていたようです。なぜ、そんな考えに固執したのか。ボクはこんなふうに読んでいます。北斎は幕府御用鏡師中島伊勢を父とすると永田生慈氏の年譜にもありますが、浅草の誓教寺にある墓には「川村氏」とあるのです。この川村姓と北斎がどういう関係にあるのか、北斎研究家たちは頭を捻ってきました。ボクの推理は、母が川村姓で中島伊勢のお妾さんであったというのです。
母は、旦那に苦労させられたのではないか。後に中島家の養子に入ったが(それはこの時代なら本家に男の子がいなかったら当然の成り行きで、きっとそうだったのでしょう。北齋は中島家へ養子に迎えられたのです。しかし、北齋は、中島家をすぐ出て来たと伝えられています。幼い時から日頃の養父を見ていて侍という存在が嫌いになっていたことが大きな要因だったのではないでしょうか。北斎はのちのち中国古代の武士たちはじつに勇壮な威厳を発揮する姿で描いていますが、日本徳川の侍はなんとも剣を構えてもへっぴり腰の見かけ倒し侍ばかりです。北斎の武家(さむらい)嫌いは実に徹底しているのです。それはこの出自、幼少時代の経験から来ているとボクは考えており、江戸の外に自分を位置づけようとする思いが強かったのも、北斎漫画などを見ていると強く感じ取れます。商人町人のプチブル趣向だった初期浮世絵を、北斎は完全に町人(農民、工芸者)の位相に引き下げた視座から〈世界〉を観て絵/画にしていたのです。その北斎がまず葛飾春章(しゅんしょう)の門に入り浮世絵(役者絵、美人画の錦絵、摺物など)を手がけるようになります。そこで、狩野派流の画術を勉強したい、しておかねばと考え、春章門に居ながら狩野派のどなたかに入門したようです。その人は狩野派門下だったが京の俵屋宗達の系列に属していたのでしょう。宗達−光琳の舞台は京都に本拠を置いていますが、一時光琳が江戸に出て舞台を作りました。その流れを汲んだ光琳派が江戸の街に画塾を開いていたことは想像に難くありません。北斎はそこに入門し、号宗理をもらうまでになった。そこで狩野派の実態を知ったとボクは考えています。
若い北斎はそこで頭角を現し、「宗理」の号を授けられるまでに至りますが、そこで身に染みて知ったのは、狩野派の実態でした。
改めて浮世絵しかない、と思いを固め、号「宗理」を捨て(譲って)独立。浮世絵師に戻ったのが三十九才のときでした。
狩野派はこの頃はすっかり萎縮していて「粉本主義」などと後に言われるほど、型にはまったような、ただ手本を真似する屏風絵などを作るだけでした。これはなにごとだと気づいた北斎は俵屋も捨て、また親分子分関係で不自由な浮世絵界からも距離を置き、「浮世絵」を生きようとします。浮世絵界は、とにもかくにも、まず自分を育ててくれた世界。そして、侍、御家人と言った身分からも家(流派)からも自由な生きかた(行きかた)を許してくれる世界です。そこで、再起というか、新しい生き方を始めるのです。こういう思いが『富嶽百景』の跋文で「一百年(五十歳)の此(ころ)より数々(しばしば)画図を顕すといへども七十年(七十歳)前画く所実に取るに足るものなし」という言葉を吐かせているのでしょう。意識の上では、北齋にとって四十歳からの30年は、納得のいく筆遣いを探し求める悪戦苦闘の時代だったのです。
「宗理」を、捨てて「北齋」の号を名乗ります。「北齋」の時代は、悪戦苦闘の時代ではありましたが、その分じつは忘れられない時代。多くの人が「北齋」という画工へ眼を向けていく時代でした。のちのちまで落款に「前北齋(さきのほくさい)」と忘れずいれたのには、そんな理由もあったのでしょう。「実に取るに足ものなし」の30年は、生涯忘れられない時代であったのです。
さて、こうして再起を賭けた四十歳。そこでまず出会ったのが狂歌本や挿絵。出会ったというより、狂歌本挿絵の仕事が入ってきたから狩野派の衰弱振りがいっそうはっきり見えてきて、俵屋の門を出たと言った方がいいかもしれません。
やがて自分でも狂句や川柳を作るようになり、それに絵をつけた仕事が増えてきます。北斎の名が知られ評判を得、弟子になりたいという人も増えてきました。北斎の弟子という人を数え出すことは出来ますが、系図は作り難い。北齋は自分の仕事を慕って来る人を拒まなかったが、親分子分の関係で受け入れなかったからです。絵手本は、そういう関係そ築く役割として彼は作ろうとしたのです。狩野派の分本を睨んで絵手本を構想したというとき、このことを理解しておきたいところです。さて、時代は「文化」期。
曲亭馬琴と出会ったことも大きい。(馬琴を評価した人に幸田露伴がいます。明治以降の近代文学人は馬琴を「勧善懲悪」主義の封建思想通俗小説家と決めつけて処理してきました。それとは反対の徳川に迎合しない馬琴の心映えを露伴は強調しています。「馬琴は心中に将軍政治を悦んでは居りませんでした。馬琴は実に時代と直角に交叉して居た」[「馬琴と其当時の実社会」明治41年])馬琴と組んだ挿絵が評判を呼びました。音羽護国寺で百二十畳の達磨絵を描いたり、(四十五才)、家斉公から招かれて護国寺で鶏を白い紙の上に歩かせ「立田川」を披露したのもその頃。名古屋にも旅をします。弟子になりたいという人が名古屋や大坂、京にも結構現れてきたということです。
そこで「北斎漫画」の下絵を初めて作りました。これは遠い所に居る人にも「描き方」の手本を与えたいという発想が大きな動機になって編まれたというのが通説ですが、北斎の胸の内には狩野派の粉本を凌ぐものを作ってやろうという思いがあり、このムラムラと来る武家社会への反抗心が北斎漫画、そしてそれに続く数々の絵手本制作への意欲を駆り立てたのです。
絵手本を貫く表現意思とでもいうのは、北斎にとっては〈草〉の生き方とでも言うべき人間の生き方の姿勢です。それを川柳仲間の作品集『誹風柳多留』第八十五編の序で明言しています。
和歌を「真」の世界と言うなら俳諧連歌は「行」、そして川柳は「草」である。その草の自由さこそ、いま必要なものなのだという思いをそっと沈めて――これが川柳―浮世絵の勢いなのだ――「草」という語を誌しています。(時に文政八年1825、六十六才。)
北斎に徹底していたのは、この人間の生きる姿を最も低い視点から見つめ続けることでした。
まず北斎の絵手本に寄せた序(+百景跋)を年代順に列挙しておきます。(まだまだもっと見つかることでしょうがとにかく、いま手元にあるところから拾った分です)
これらの文章の中から北斎の絵への志が焙り出すように読めてきます。
題して 北斎文集「序」編
[(4)のみ「跋」]
(1)今様櫛きん雛形(いまようせつきんひながた)(くしの部)序 [「きん」は竹冠に木編と金]
横本 文化壬午六秋1823(六十四歳)
(2)誹風柳多留(はいふうやなぎだる)八十五編 序
文政八1825(六十六歳)
(3)忠義(ちゅうぎ)水滸傳畫本(すいこでんがほん) 自序
文政十二1829(七十歳)
(4)富嶽百景(ふがくひゃっけい) 跋
天保五1834(七十五歳)
(5)諸職絵本(しょしょくえほん)葛飾(かつしか)新(しん)鄙形(ひながた) 序
天保七1836(七十七歳)
(6)和漢絵本魁(わかんえほんさきがけ) 自叙(董斎盛義書)
天保七1836(七十七歳)
(7)畫本彩色通(えほんさいしきつう) 序
弘化五1848(八十九歳)
※ 唐絵から漢画へ
平安時代は、禁中などに描かれる障壁画が唐絵(からえ)と倭絵(やまとえ)に区分されていました。正式な行事などが行われる部屋に唐絵が、公的でない部屋には倭絵が描かれたのです。つまり、描かれた主題によって唐絵と倭絵という呼び方が使い分けられていました。鎌倉時代以降、絵画の世界では、「唐絵」という呼び方が後退。道具、食器、壺など元、明から輸入した品を唐物と呼ぶ習慣に「唐」は残って行きますが、絵画は「漢画」と呼ばれるようになります。「水墨画」はこの呼び方の中から展開されて行きます。「水墨」、これは描かれた主題ではなく描く方法に注目した呼称です。どちらにしても隣国中国は、日本文化育成の親の役割を果たしているのですが、「主題」ではなく「方法」に力点が置かれるようになったのです。「主題」というモノを輸入するのではなく、主題が作られる「方法」を学んで、日本列島という風土の中に独特の美/芸術を作って行くことが無自覚の裡に定着していく—ここに、日本列島の文化の特質を見て取ることが出来ます。「主題」として受け容れている限り、模倣の域を脱することは出来ない。その現象・出来事が創られた「方法」を学び、自分たちの技にしていくとき、独自の文化が生成する。