10月5日の<土曜の午後のABC>は波止場会館4Bです。
題して<古事記と日本書紀—天地開闢物語を読み比べる>です。
古事記、日本書紀冒頭の天地開闢話から、現代のわれわれはなにを学ぶか、と言い替えて もいいのですが、古事記のこの部分は、これまでになんども見て来ました。読み返すたびになにかしら発見があります。今回は、日本書紀の天地開闢の記事と読み比べます。
日本書紀では、当時の朝廷が認めていた開闢説が、最初の三神が現れ消えるまで、132字の漢字で語られます。古事記では107字(割注を除いた計算)で語られる冒頭部分です。
それから、同じ出来事を、書紀では、六つの別の言伝えを持って来て収録しています。古事記を入れると、七種類の開闢物語が、8世紀の朝廷で文字化されているというわけです。
七種類それぞれ、神々の呼びかたが異なっていたり、天地が形を成して、神々が生まれてくるまでの開闢以前の描写も違っています。
声で伝え合っていたことが文字に変えて遺される過程で起こってきたこんなことが教えてくれることに耳を傾けたいと思います。
テクストとしては、前回(9月14日)のABCにお配りしておいた「日本書紀」のプリントを使います。と言いましたが、それにボクが書込みを入れたのをお送りしますので、それを使いたいと思います(手書きで読み辛いですが、当日ボクが判読します)。
同時に、11月9日のABCで勉強したい「古語拾遺」の天地開闢部分をプリントして現代語訳をつけて、先もってお渡ししておきます。これは、古事記日本書紀より100年くらい後に書かれたものですが、藤原氏に除け者されて行く斎部氏が、最後の抵抗を試みて自分たちの家系の正当性を主張しようとして、国の歴史を、開闢から説き起こそうとした文書で、読ませます。
「古語拾遺」に目を遣る前に、10月は古事記と同じ時期に編まれた日本書紀を眺めておきたいという計画です。
昔の人が、天地の始まりをどんなふうに想像していたか、この三つを読み比べてみたとき、なにか見通せてきそうな予感がしています。