《ドーナツの穴の食べかた—その2》

3月14日(土)のABC、タイトルは、前回に引き続き、

《ドーナツの穴の食べかた(その2)—子供を描くということ—》 とします。

この一月、原稿を依頼されて「子供を描く—江戸から明治、大正、昭和、そして現代へ」という一文を書きましたので、それをいっしょに読み直したいと思います。

(なかなか北齋へ戻れませんがご容赦ください。)

現在、書店並んでいる『美術の窓』3月号に掲載されています。依頼があったのが確か年が明けてからで、締切がすぐ近くでちょっとびっくりしましたが、その依頼には編集部からの注文がついていて、横山大観の「無我」、岸田劉生の「麗子像」、奈良美智の「少女」を入れてくれと。—この3点、おそらくボクが積極的に取り上げて語ることはないだろうと思う三者でした(麗子像を制作する以前の劉生のことは『思想史としてのゴッホ』でだいぶ書きました)から、ちょっと考えて、明治直前の江戸後期、北斎と應擧の郭子儀、そして昭和の松本竣介をそれらに加えたいと返事してOKになり、執筆しました。

さきに挙げた人たちことについてももっと書きたいことがあったのですが、そのほかに、もう一人柳瀬正夢の「満洲の少女」(旧洲之内徹コレクション)とボクが名付けた鉛筆画も取り上げたかったのですが、指定枚数の問題もあり、また柳瀬の場合、書きたいことの方向がちょっと違うかなということもあって、諦めたということもありました。今日は、この柳瀬正夢の「満洲の少女」についても語りたいと思います。

今回のタイトルを《ドーナッツの穴の食べかた(その2)—子供を描くと言うこと—》としたいとさきに書きましたが、『美術の窓』に掲載されたタイトルは、「日本人の子ども観 近代・現代篇/絵画の真実と自由の源泉」とあります。これは、編集部が付けて下さったタイトルと見出しです。本文のなかでボクは「絵画的真実」と「絵画的自由」というあまり聞き慣れない言葉を使いましたが、編集担当の方はこれを面白いと思ったのか、生かしてくれました。この二つの概念/言葉はじっくり議論しなければならないのですが(いつも、そうとは言わずにこのことを考え語ってはきたのです)、これこそ「ドーナツの穴」に相当すするテーマだと思います。《絵画》という一つの実在を成立させるために不可避な不在者を指す概念です。つまり「ドーナツの穴の食べかた」を考えることは、絵画的真実と絵画的自由を考えることの喩となるのです。絵画的真実と絵画的自由を問うということは、ドーナツの穴の食べかたを考えることから始まる、のです。今日の後半は、この問題へ向かって行きたいと思うのですが、時間がないかもしれません。

絵画的真実とは、絵画という方法でしか表現出来ないナニカです。それを見つけ描き出すことに、画家たちは自分の能力すべてを賭けてきたと言ってもいい。真実とはそういうものです。眼に視えない、が確かにあるモノ/コト。それを描き出そうと画家たちは苦闘する。その活動を万全に働かせようとするのが自由です。

われわれ、絵を観る者は、作品から苦心の跡を感じ取って、共感するとき、いいしれぬ感動を覚えるのでしょう。したがって、その感動も個人個人によってさまざまなのです。

この問題を別の角度から考えてみます。絵画を例に取って、一つの作品に向かい合ったときわれわれはどんな反応をしているか、その過程を図解してみました(別紙)。