17 01 2026
范寛をはじめて観たのは、そんなに古いことではありません。ある方から范寛を知っているかと教えられたのが最初で、25年程前のことです。複製図版を眺めてなにか心を揺するモノがあった。そして15年前台湾へ旅し、本物を観て、これは、もし「名画」という言葉に相応しい絵画作品があるならこれだ、とボクを吃驚(うなら)せました。しかし、なぜこれがそんなに凄い作品なのか言葉を紡ぐことが出来ないのです。
范寛の作品は台湾の故宮博物院にあるこの一品しか遺っていません。(他に同じ故宮博物院やボストン美術館にも「伝范寛」註3がいくつかあります)。
会場で眺めていると、范寛のこの作品に匹敵する絵画は。ミケランジェロのシスティーナの天井画以外にはないと、そんな言葉はポロポロ出てくるけれど……この作品は5年に一度しか公開されないそうで、その後もういちど実物を観て確かめたい、観たい――と思い続けてこの2025年12月やっと実現できたというわけです。故宮ではこの范寛と郭煕、李唐の三点の山水画が国宝として、同時に同等の価値づけをもって展示されるのがつねです。が、以前この三点を同時に見比べていたとき、ボクにはどうしても他の二人の大家の作品と范寛とのあいだには、比べようがない違いがある。范寛の作品には、そんな凄さというか言葉に容易に出来ない深いものが、じっと観てると泌々と(いやこんな言葉もよくない)とにかく浸されてくるのです。
これはなにか。その後複製版を手に入れて、ときどきつらつらその複製を眺めるのですが、複製図版ではあのときに感じた違いのナニモノかが伝わってこない。あゝ実物と対面したい、と密かに胸を焦がしているとき、年末に公開されることが判り、すっとんで行った次第。
その15年間、中国の美術や文化を読む眼を自分なりに鍛えてきたつもりなので、以前より少しはなにかを見つけられるだろうという期待はまったく裏切られませんでした。二日間范寛に浸ることが出来ました。しかし、まだその二日間の経験を言葉に移し換えることが出来るほど熟していないのですが……。
范寛という人がどういう人で、その絵がどんなものか、断片的にメモしておきます。
范寛は生没年不詳。950年頃生れ1032年頃没と最近は公表されています。10世紀中国北宋の人と伝わっているだけです。范寛が展示されるとき、故宮博物館は郭煕と李唐と三点をセットにして展示するのが慣例ですと、先にも記しました。郭煕は1023年頃に生まれ、1087年に没しています。李唐は1040年頃に生まれ、1124年没です。
三点並べてHPでご覧になれます。
この三人の中で范寛の特色はと言えば、三人の中の北宋期の最も初期の(古い)画師であることは生没年から解りますが、伝えられている資料から范寛は民間の画家だったということです。このことを知って、ほかの二人の官院系の画家の仕事を見比べることは大切な仕事です。結論だけ記しますと、後の二人は、技は巧みになって行きますが、技が高まれば高まるほど、范寛の絵が醸し出して迫ってくるナニモノかを喪って行きます。後の二人は、主題をいかに巧みに描き出すかだけが問題となっていると言い換えてもいい。
范寛の絵は、主題をいかに巧みに描き出しているかという関心事から見始めて行くと、失敗します(これは実物と対面しないと気付けません)。
その范寛の作品のタイトルですが、明時代の巨匠と呼ばれる董其昌のメモが貼り付けてあり、それによると、「北宋范中立谿山行旅(けいざんこうりょ)図」とあって、これが現在この作品のタイトルとして通行しています。「谿山(たにやま)を旅行く図」というのですね。しかし、旅人と呼ばれそうな人は小さく前景の小道に二人描かれているだけ。董其昌はこの画面下方右の山道をロバを連れて行く人物を見て、この絵の主題と見たのでしょうが、じつはこの人物、大きな画面の中で実に実に小さく描き込まれているのですが、この大きな絵に占める姿は、どうみてもこの山中近辺に住む人です。後方の人が背負っているのは背嚢ではなく材木かそれに似たもので、先頭を行くのは旅の案内人と決めつけるのは先入観に囚われ過ぎではないか、と思います。先頭から二頭目馬の背に居るのは人か否か判らないほど小さく描かれています。実用品を運んでいる気配です。もう一人別の人物が描かれていて、それは、絵の左の森の中に居ます。天秤のようなものを担いでいて、旅人の姿ではありません。董其昌は、この作品の摸本まで遺していますが、こんな細部を見落して独断的なタイトルをつけたのです。そして、董其昌という権威がつけたということもあって、このタイトルが後世ずっと通称として伝えられて行ったのです。(画面を見ないで伝承される絵画の運命のことをここから考えたいが、それはまた別の機会にします。)北宋の終末期最後の皇帝徽宗(画家としても名高く、日本にも作品が届いています)のコレクションを記録した『宣和画譜(せんながふ)』には、范寛の作品が58点記録されています。しかしその中には「谿山行旅図」の名はありません。それは、このいまわれわれが話題にしている作品が徽宗皇帝のコレクションにはなかったのではなくて、別の名前で収録されていたからだと、ボクは考えます。「谿山行旅図」というタイトルは、董其昌が独断で付けたのです。そのことを心得て今作品を観て行くと、もっといろんな深いものが観えて来るようです。それが今回の本物と向かい合ったいちばんの収穫でした。
ボクがそのことに気付くのは細部をあれこれ見廻し出してからなのですが、それに気づく前、最初に作品の前に佇んで、じわっと見渡して、あまりにも大きいので近くでまず眼の位置辺り、つまり作品の下辺、そして徐々に上の方へと仰いで行くという姿勢というか身体の動きでもって仰ぎ見上げるとハッと気付いたのは、これは天地創生の図だということでした。
中国には天地創生の具体的な神話は伝わっていません。最初から伏犠など神のような皇帝が存在するのですが、易経は始まりの始まりに「太極」という状態があってそこから「陰」と「陽」が別れ出て、そうして八卦(はっか)が成立し六十四卦が観察出来ると教えています。――その易の「陽」、つまり天を形成する「乾」を象徴(という言葉はよくない、象徴ではなく、代理(リプリゼント)とでも言いますか註1)しているのが上方の高い大きい岩山だと気づいたのです。そして手前の岩(山道をはさむ前景)が「陰」すなわち「坤」なのです。下から上へとおのずから導かれる視線の動きはまさに易経「六十四卦」が説く下(陰)から上(陽)への動きなのです。註2
註1 これは「見立て」の方法の初期形態と言えます。その方法が、日本列島に伝わって来て、ただ絵の世界でだけでなく、書や歌、芸能、生活慣習のなかで、さまざまな学ばれ方をして列島独自の「見立て」の方法を熟させるのです。
註2 この范寛の絵は「高遠」の手法で描かれていると解説されています。大きな画面を下から(通常の目線から)上の方へと仰いで行く眼の動きは身体的で、まさに高遠の倣いに従って眼を上げて行く感じです。そうして、ふと気がつくと深遠の境地に入っている。これが、この范寛の「谿山行旅図」の最大の特徴の一つだと言えましょう。「深遠」とはそんな境地なのではないか。「三遠」と呼ばれている、「平遠(水平の人間の立ち位置か見渡す視線)、「高遠」(目線を上へ仰いで観た視線)、「深遠」(山の向こう側を見た視線)」ですが、これは、後世、別々の方法としての視線のように理解されて行きます。しかし范寛の「深遠」はそういう独立した山水の見かたではなく、山の向こう側(平遠や高遠では見えないところを描く、仙人のような眼差しでもなく、一連の身体の動きが眼というより身体に観取させる情景だということが解ります。これが、本来の「三遠」だったのでしょう。范寛の頃には「三遠」の方法は行われていましたが、まだ言葉で理論として方法化されていませんでした。その分、緩やかに自由に三遠が使われていたのです。
「三遠」を言語化するのは、じつは郭煕です。郭熙の息子が父親の言葉をまとめて『林泉高致』という書を作りました。郭熙の「早春図」はまさにこの「三遠」理論を実践した作品です。理論を完全に実現した完璧さが逆に「絵」が理論に縛られていて(李唐にもそれが観られます)、范寛のような言葉でかんたんに捉えどころのない、「絵」自体の息遣いとでも言えばいいか、そういう深さを実現出来なくしたのではないか、と今回観ていて気づきました。范寛には、理論になる前の「三遠」が生きているのです。
最初の一日、二時間程見つめていて、首が痛くなり、会場を出て博物院の庭の前に広がる光景へ眼を遣ったとき、改めてはっと気が付きました。あれは「陰と陽」の始まりの図というより、陰と陽が別れる「太極」の図なのではないか。
范寛のこの作品の言葉へ容易に還元できない深さこそ、天地乾坤の生成を描いているところにあることを知らされたのでした。
同伴してくれていた軟輪画廊主人(台北市)の水谷達朗くんも、いままで技巧(表現技術)の凄さに参った作品はたくさん観て来たが、范寛の作品はちがう。技ではないもっともっと奥深い表現力だ――と名言を残してくれました。その技も、范寛のそれは正規の美術教育を受けた人ならきっとやらないようなことをここでやっているのを二度目、三度目の実見で発見していくのですが、今日はまずはこれくらいで。
范寛の作品は現代にあって<芸術とは何か>、<美とはなにか>を考え直すことを促してくれる重要な作品だと気付かされます。(近代が矮小化してしまった<芸術><美>の働きを考え直すとでも言えばいいか。)
突飛な連想だと皆さんは思われるかもしれませんが、帰ってきてから奇妙にマーク・ロスコの絵のこと、ロスコと范寛に通じるナニカがある事に気づかされ、ロスコの絵を観たこと(本物を二年前パリで)を思い出し、彼の未刊の著述『芸術家のリアリティ』(みすず書房2009刊)を引っ張り出して読み直し始めました。
そして、<范寛からロスコへ、ロスコから范寛へ>という思索が、いま、大きな意味を持って問いかけて来るのを感じています。
註3 「伝范寛」という鑑定は、「谿山行旅図」と比べるとどうも迫力に欠けるという判定から、これは范寛真筆ではないとされたようです。ボクは、この問題をこんなふうに考えたいと思っています。いわゆる「伝范寛」も范寛の手によって作られたもので、徽宗皇帝の収集品58点のうちのどれかに相当するのではないか、と。范寛がどんな暮しかたをし、どんなふうにして、絵を描いていたか全く解りませんが、想像するしかなく、「伝范寛」級の作品を頼まれたら描いていた(現存の「伝范寛」は、「伝」とは言え、なかなかの作です)。そのなかでのちに董其昌が「谿山行旅図」と名付けた作品は特別だった。范寛が、長い時間をかけておそらく何年もかかって、作り上げた特別な作だったのではないか、というのです。