宇治郷毅氏による「木下長宏」紹介

旧友宇治郷毅さんが、「同志社大学校友会神奈川支部」のweblog に「木下長宏」を紹介する長文のエッセイを寄稿してくれました。エッセイというより論文に近い力の入った文章で、こんなふうに書いてもらうと面映ゆく恥ずかしいのですが、ボク自身忘れていたことも拾い上げてもらっており、ABC のみなさんにも「木下」を知っていただく良い資料になると思い。宇治郷氏の許可をもらって、この一万字を超える「木下長宏」論を「ABCの部屋」に飾ることにしました。
長文ですので、5部に分けて掲載します。

宇治郷毅氏は、彼も本文で紹介してくれているように、ボクが同志社大学に入った一年生のときからの旧友、それ以来ずうっと、親しく、長さで言えばいちばん長く、それぞれ遠くにいて別の仕事をしてきましたから、そんなにしょっちゅう会うわけではありませんが、年に一、二度は会っていた、友達中の友達の一人です。

宇治郷氏は、同志社大の英文科に入学したのですが、考えるところあって政治学科に転入、修士論文は「孫文の政治思想の研究」だったと記憶しています。修士を終えると、国会図書館に就職し、国会図書館副館長を務めて退職、すぐに母校同志社大学に招かれて社会学部教育文化科の教授に就任、先年定年退職した、という経歴の持ち主です。

国会図書館勤務中から、「歴史」のなかに埋もれた人びとの隠れた貴重な痕跡を掘り出す作業に心を傾け、尹東柱に関しては、母校に足痕を遺す不幸な詩人として、早くに資料発掘に取り組んでいました。ボクがまっさきに尹東柱の名前を教えてもらったのは、もちろん宇治郷くんからで、その後、一般に知られるようになるまで、早くから、ボクたちの間では「親しい」詩人でした。
もう一人の同志社時代の旧友森田進氏と協力して「尹東柱」の本(正式署名は『死ぬ日まで天を仰ぎーキリスト者詩人・尹東柱』日本基督教団出版局)を出したことを、彼は「楽しい思いで」として回想してくれていますが、宇治郷氏には『詩人尹東柱への旅』2002、緑影書房という著書もあります。この本には副題がついていて「私の韓国・朝鮮研究ノート」で、尹東柱をめぐっての資料調査から、韓国図書館史、在日韓国・朝鮮人史研究、同志社に学んだ朝鮮人学生などについての章もある、韓国・朝鮮と日本近代の問題に関心を寄せる者には、かけがえのない一冊です。

また、宇治郷氏は、旧植民地期朝鮮図書館史、旧植民地期台湾図書館史研究の権威でもあり、『石坂荘作 日本統治期台湾における地方私学教育の精華』2013、昂洋書房という著書も出版してます。台湾基隆に住み着いた一商人石坂荘作が私材を投じて現地の庶民教育に貢献していった記録で、たんに歴史に埋もれた人を発掘するというところにとどまらず(それだけでも大きな仕事ですが)、植民地に住むことになった宗主国の一私人(これは決して自分の意思で選んだのではなく、時代の流れのなかで否応無く選ばざるを得なかったことが多い)の生きかたを考える、そういう意味で「現代」へ問題を投げ掛けてくる本です。

そんな、地味な歴史の仕事をコツコツを積み重ねてきた宇治郷毅氏が認めてくれた、ボク自身忘れていたことを、史料をさがして裏付けて書くという彼の本領の発揮された文章です。版を改めて五回に分けて掲載します。

(補)宇治郷氏とはほんとうに長い付き合いなのですが、今度この文章を読ませてもらって、はっと気がついたことがあります。彼の従事していた仕事ととの関わりからでしょう、ボクが「現代芸術」という場でやってきたことはほとんど彼に語っていなかったということです。ボクは、美術史、芸術思想史の勉強のかたわら、現実の芸術活動に無関心であってはならないと思い、多くの作家さんの仕事に言及し、批評を書いたり、紹介文を書いたり、企画書をつくったり、時には、乞われるままに「作家」になって作品を展示したり(ざっと思い起こすだけで4回くらい)、(それらはすべてボクの「芸術思想史」を考えるために役立ってくれると信じ)しかし、これらの資料はほとんど残していない、という始末。このことを宇治郷氏に伝えたら、(これは、簡単に裏付け資料は集められないこともあるのでしょう)「そんなこともやっていたのか、今回は木下の芸術活動については触れないでおこう」ということでした。ちょっと、このことも、付記しておきます。


<友人紹介>
宇治郷 毅
横浜で活躍する木下長宏さん
-元横浜国立大学教授で、現在私塾を主宰―

[略歴] 木下長宏(きのした・ながひろ)
1939年、滋賀県生まれ、3歳の時ポリオにかかり両足の自由を失う、62年、同志社大学文学部入学、66年同大学院修士課程へ、68年博士課程に入り74年退学、77年京都芸術短期大学に就職、同大学教授を経て、98年から2005年まで横浜国立大学教授、退職後横浜で私塾〈土曜の午後のABC〉を主宰、1992年に『思想史としてのゴッホ 複製受容と想像力』で第43回「芸術選奨文部大臣新人賞(評論部門)」を受賞、著書は単行本、翻訳本を含めて20冊に及ぶ。同志社出身の最大の近代芸術思想史の研究者。
(詳しくは以下をお読みください)

1、 しなやかに強靭に生きる人

(1) 幼少年期―障害をうけとめ、自立への道を歩む
70年という長い人生で多くの良き友人、知人に出会った。しかし親友というものが利害や付き合いの長さをこえて精神的、人格的に影響を与え合う存在とすると、親友と言える人はそう多くはいない。木下長宏さんは、私が親友と呼べる一人である。畏友と言ってもよい。彼とは若い時から切磋琢磨してきたつもりでいるが、のんびり屋で怠け者の自分にとっては彼から教えられ、与えられたものが圧倒的に多かったと思う。今でもそうだが。
彼とは、同志社大学の一年生の時、1962(昭和37)年に初めて出会ったので、もう50年をこえるつきあいとなる。あるキリスト教関係のサークルで初めて出会ったが、それまで私の故郷(岡山県倉敷市の片田舎)では見たことのなかった松葉杖(現在は車椅子)姿で現れたので初対面では少々びっくりした記憶がある。後に親しくなって聞いた話では、1939(昭和14)年に滋賀県彦根に生まれたが、3歳の時ポリオ(急性灰白髄炎)にかかり両足の自由を完全に失ったとのこと。さらにびっくりしたのは、小学校4年生まではお母さんの押す乳母車で小学校に通ったこと、その後は学校には一度も行っていないこと、もっぱら自宅で自学自習したこと、さらに15歳の時発奮して勉強を始め大学認定試験にパスしたことなどであった。知れば知るほど驚くべきことばかりであった。私のように田舎で平々凡々にボーと育った人間から見ると、想像を絶する厳しい生い立ちである。身体上のハンディキャップはもちろんだが、精神的にもどれほど大きな苦労をしてきたのであろうか。でも彼は、それを口にすることはない。
そして18歳で京都外国語短期大学英語科に入学した。

(2)同志社大学時代―人生の礎(いしずえ)を築く
木下さんが同志社大学文学部美学芸術学専攻に転学してきたのは、1962(昭和37)年彼が23才の時である。私の彼との出会いはこの時であった。木下さんと私が同志社で過ごしたのは、1962年から68年までの学部と大学院修士課程時代の6年間ほど。「学生運動」「大学紛争」真っ盛りの政治の季節であった。多くの学生、教職員がその渦に巻き込まれ、右往左往し、また苦しんだ時期でもあった。それ「デモ」だ、それ「大学封鎖」などといってまともに勉強はできなかった。誠実な性格の木下さんはいろんな面で保守的な指導教授と対立し、この時期苦しんでいたようだ。彼は不純、不正なものには妥協できない性格だったからであろう。
木下さんは、その後同志社大学大学院文学研究科哲学・哲学史専攻の修士課程を経、博士課程に6年間在籍した。修論はヘーゲル哲学(「ヘーゲル美学思想の形成」)についてであった。長く大学院に在籍したのは、研究のためでもあり、また職が見つからないためでもあった。
この時期、大学宗教部の一講座を担当した。大学院生の身分で、正規の講座を担当したのは木下さんが初めてであったと思う。またこの時期、「平安教会」(日本基督教団)の教会学校の教師も熱心に努めた。この時の生徒さんは早や古希を迎える年齢となったが、いまでも一年に一回同窓会を持っているという。
大学院満期退学後もなかなか定職がみつからず、会社の嘱託や、私塾の英語教員、予備校の国語教師、大阪の私大の仏語非常勤講師などのアルバイトを続け、糊口をしのいでいる。無職であったこの時期が、心身ともに彼の最も苦しい時期であったと思われる。
ところが彼はこの苦境の中で、『岡倉天心 事業の背理』(紀伊国屋新書、1973年)という労作を出版し、私たち友人をびっくりさせ、かつ喜ばせた。1974年には、アルバイトで貯めたなけなしの金でアメリカのボストンに渡り、3ヶ月ほど岡倉天心とフェノロサの研究に打ち込んでいる(これが、のちに『岡倉天心全集』平凡社の原文校訂に活かされた)。この時期の地道な研究が後年の多くのすぐれた業績の基礎となり、同時に彼の才能を錬磨する機会となったのではないかと思われる。
その後も彼の歩みは決して順調とは言えなかったが、どのような窮地や局面でも、明るく、誠実な人柄と真剣に生きる姿に共鳴した援助者が次々現れ、彼を助けている。
私の目には、彼の生き方は、ある時は未知の真実を明らかにしようとする先駆者のように、ある時は権威・権力に立ち向かう抵抗者のように、ある時はひたすら修行に打ち込む求道僧のように、あるいは「良心に恥じないで生きたい」と願う信仰者のように映る。一口で言って、彼は風雪に耐えるしなやかでしたたか(強靭)な竹のような人だ。

2、近代(現代)芸術思想史の研究者として

(1) 京都に住んで

① 「京都芸術短期大学」での仕事―車椅子で世界を駆け、日本美術史の再構築に取り組む
就職では苦労したが、1977年にかろうじて京都芸術短期大学(現在の京都造形芸術大学)美学美術史コースの専任教員としての職を得、本格的研究者の道を歩み始めた。美術史を担当したが、この時期の主な研究対象は、東アジアの近代から現代にかけての芸術上の諸問題を人物や美術的事項を通じて再検討し、それまでの誤った通説や固定観念を払拭、打破しようという、まことに意欲的で新しい美術史への試みであった。それは既存の学会や美術界の権威から距離を置くもので、実証と自らの思考に基づいて真実の日本美術史を再構築しようとするものでもあった。
この時期、北一輝、高山樗牛、二葉亭四迷についても書いているが、研究の中心は岡倉天心(『岡倉天心の方法 詩の迷路』學藝書林、1989)、中井正一(『中井正一 新しい「美学」の試み』リブロポート、1995))、ゴッホ(『ゴッホ神話の解体へ』五柳書院、1989)であった。
中でもゴッホについては、この時期全力投入した。『ゴッホ神話の解体へ』以外でも、児童向けに『ゴッホ 画家になった男の子の話』(ブロンズ新社、1988)を出した。児童書まで出したゴッホ研究者は木下さんが初めてである。これは子どもにも真実のゴッホを伝えたかったからである。それまでのゴッホは、あるいは天才、あるいは狂人といったイメージで固定化されていたが、そうではなく、「一人の画家として少年のように夢中で生きた人」そして「何才になっても子どものままの心で生きた人」として描きたかったからだ。いわば「真の人間ゴッホ」を描きたかったのだ。
また美術的事項に関しては、1980年、81年には中国の「敦煌莫高窟」(甘粛省にある世界遺産、砂漠の大画廊といわれる)の美術(絵画、仏像など)調査に出かけた。さらに1983年~85年にかけては、この莫高窟を探検した東洋学者ポール・ペリオを研究するために、フランス政府給費留学生としてパリに行っている。この時の研究から、パリ滞在中に『敦煌―莫高窟の美術史ノオト』(五柳書院、1984)が生まれている。
このとき、フランス西南部ドルドーニュ県にある「ラスコー洞窟」の壁画の研究にも訪れている。(彼は後年、莫高窟とラスコー洞窟の二つの洞窟に行った美術史研究者は自分しかいない、とよく自慢したものだ)
以上のような多くの成果は不自由な車椅子に乗って、自費でなされたケースも多く、苦心の労作と呼べよう。これら調査の過程では、時には調査対象機関から「どこの馬の骨かわからない者に」と言って追い払われたこともあったが、大部分は親切に歓迎されている。また出版物も高い評価を得る一方で、既成の権威主義の学会や美術界からの批判にさらされてもいる。しかし彼の緻密で手抜きのない文献上の検証(英語、フランス語、中国語などの資料は原典で精読、既存の見解や学説の再検討を含む)と実地での丹念な調査と考察に基づいた研究は、それらの軽薄な批判をよせつけるものではなかった。
なおこの時期、『揺れる言葉 失われた明治をもとめて』五柳書院、1987、『マハーバーラタ』ピーター・ブルック+ジャン=クロード・カリエール著、木下長宏+笈田ヨシ訳、白水社、1987も刊行した

② 楽しい本も出版
一方木下さんは、固い学術的研究書だけでなく、出版社に頼まれてやわらかい楽しい本も出している。一つは、奈良や京都のガイドブックである。『奈良大和路散策案内:史跡で訪ねる古都』(1987年~1997年)、『散策&鑑賞奈良大和路編:古都の美術・歴史を訪ねて』(1999~2017、前掲書の改版)、『京都散策案内:古都千年の歴史を訪ねる』(1989~1996)、『散策&鑑賞京都編:古都千年の歴史を訪ねて』(1997~2014、前掲書の改版)があり、いずれも「ユニプラン」という出版社から出ていて、好評で版を重ねている。両都の主な社寺が対象だが、対象を一点一点訪ね、丁寧な観察と考察の上で解説をほどこしたもので、日本文化の淵源に迫り、美の在り方を教えてくれる、温かみのある血の通ったガイドブックとなっている。
いま一つは、『舌の上のプルースト』(NTT出版、1996)である。マルセル・プルーストはフランスの文豪で長編小説『失われた時を求めて』の作者だが、木下さんがもっとも愛した作家。『舌の上のプルースト』は、プルーストの本に出てくる多くの食べ物(マドレーヌやフロマージュ・ア・ラ・クレームなど)を作家の住んだ跡や旅した地方をたどりながら紹介し、その文化的背景を考察するもので、おのずから楽しいフランス文化論となっている。「舌で味わいながら」の珍しいフランス文学論でもあり、舌をかみそうな名前の食べ物が多いのだが、不思議にもいつのまにか食べてみたいという思いにさせる本である。グルメでフランス語に堪能な木下さんにはもっとも楽しい仕事であったろう。

③ 第43回「芸術選奨文部大臣新人賞(評論部門)」に輝く
木下さんは、『思想史としてのゴッホ 複製受容と想像力』(學藝書林、1992)により、1992年度の第43回芸術選奨文部大臣新人賞(評論部門)を受賞した。本書は、彼にとって、ゴッホ研究の出発点になったものだが、同時に「近代芸術思想史」という新しい領域に本格的に踏み込む第一歩となった記念すべき本である。心より祝したいと思う。
本書は、「ゴッホ」を日本人がどのように知り、どのように理解していったか、初めて日本に「ゴッホ」が活字として現れた1910(明治43)年から、ゴッホの本物の作品が一堂に集められた展覧会(東京国立博物館)が催された1958(昭和33)年までの50年の思想史的記録である。(その記録と歴史分析記述と資料アンソロジーを一冊の本の中に一体化させるために、本書は独特の構成をとっている。くわしくは、本書を手にとって見られたい。)
つまり、ゴッホに対する近代日本人(画家、詩人、小説家、批評家、研究者など)の受容のあり方を細かく観察するのが本書の目的である。その最初の50年は、人々は「複製」を見てゴッホに夢中なっていたのである。そして、じつに豊かな「ゴッホ」理解を共有していた。しかし、やはりそれは「複製」を通して得られた独特の「ゴッホ」像だった。その「日本的」なあり方に、日本近代の思想的特質を見つけようとしたのが、本書である。
だから、この本はタイトルに「ゴッホ」とあるが、日本近代思想史の書なのである。しかし、木下さんは、この本を書こうと決めた時、やはり「ゴッホ」のことをよく知っていなければいけないと考えた。この本の着想を持ったのは、フランス留学中だったという。その地の利を活かし、アルルやサン・レミなどゴッホゆかりの地を旅し(それが『ゴッホ神話の解体へ』に結実)、ゴッホの本物の作品を観るために、オランダや各地の美術館を訪ねた。こうして近代日本思想の研究者でありながら、ゴッホ研究にものめりこんでいくことになった。彼のその後の「ゴッホ」の本が、他のゴッホ研究家の本と一味違うのは、みずからも「近代日本知識人」の一人であることから逃れられないことを、よく心得つつ、「ゴッホ」という画家の仕事を考え分析しようとしているところにあると思う。

(2) 横浜に住んで
① 横浜国立大学教授として研究と教育に力を注ぐ
1998年4月、住み慣れた京都を離れ、横浜市に居を移した。それまでの学問的業績が認められ、新設された横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程の教授に招聘されたのだ。これも私たち友人を驚かせたが、同志社出身の国立大学教授は少ないので、心から喜んだものだ。
大学には2005年3月まで在職したが、この時期、日本美術思想史の研究をさらに進めた。研究代表者として、文科省科研費による共同研究「戦争と芸術論」(2004~2005)などをまとめている。論文も多く執筆しているが、ここではふれない。
また木下さんは研究だけでなく学生の教育にも人一倍熱心であった。学生に人気があったのも道理である。彼は授業については、二つのことを実践した。一つは授業内容、今一つは文章の書き方指導である。それらは、私も短期間大学教授の末席をけがしたが、到底まねのできないことばかりだ。
授業内容については、常に最新の研究成果を提示、学生に「自分で考えること」の重要性を教えている。この時、木下さんが自らに課したのは、同じ講義ノートは毎年使わないこと、自分の出した本を教科書代わりに使わないこと、自分の本だけを試験の時の持ち込み図書にしないこと、であった(多くの大学教授が木下さんと反対のことをしているのが現実)。ここにも木下さんの学者としての誠実さが現れている。
レポート、小論文の作成は学生が最も苦手とするものだが、木下さんはその指導にたいへんへん力を入れている。下記にあげているように、彼はわざわざこの方面の著書を二冊も書いたが、これも大学教授として珍しいことだ。それも「名文」を題材にして!これを可能にしたのは、これまでの彼の豊富な読書歴、執筆歴があったからだろう。彼はこの本の中で、「書くことはたのしいこと、それは身を装う(服装と同じ)たのしさと一緒だ」と述べている。きれいな服を着ると楽しいように、書くことの楽しさに目覚め、よい文章を書ける学生を育てたかったのであろう。教育者として面目躍如である。
『学術基礎 芸術を学ぶ学生諸君のためのレポートと小論文の書き方』京都造形芸術大学、1998(これは、京都造形芸術大学通信教育部の教科書)
『大学生のためのレポート・小論文の書きかた』明石書店、2000(上記教科書を一般大学生向きに改訂したもの)
『「名文」に学ぶ表現作法:続大学生のためのレポート・小論文の書きかた』明石書店、2005

② 著作活動などで活躍
〈著書の出版〉
この時期、多くの労作を世に問うた
1998年、『文芸論 文学入門のための入門講義』京都造形芸術大学(通信教育学部教科書)
1999年、『ゴッホ自画像の告白』二玄社(画文集)
2002年、『ゴッホ:闘う画家』六曜社
    『中井正一 新しい「美学」の試み』改訂増補版、平凡社ライブラリー
2005年、『岡倉天心』ミネルヴァ書房
2009年、『美を生きるための26章 芸術思想史への試み』みすず書房
2013年、『ミケランジェロ』中央公論新社(新書)
    『新訳茶の本』岡倉覺三著、木下長宏訳・解説、明石書店(翻訳)
2014年、『ゴッホ〈自画像〉紀行 カラー版』中央公論社(新書)
2016年、『自画像の思想史』五柳書院

 〈エッセイの長期連載〉
1、 木下長宏・阿木津英「往復書簡 短歌と美術の近代」は、以下の短歌雑誌に12回にわたって連載された。
『あまだむ』(あまだむ短歌研究会)
第1回(第7号、1993年9月)~第12回(第18号、1995年7月)
2、「断想〈失われた時〉を見出すとき」は、年6回の執筆で20年以上続き、現在第132回(2018年11月)に達している。次の短歌雑誌に掲載されている。
『あまだむ』(あまだむ短歌研究会)
第1回(第19号、1995年9月)~第97回(第116号、2011年11月)
『八雁』(八雁短歌会)
第98回(第1号、2012年)~
木下さんには、単行本、論文は多いが、エッセイは比較的少ないのでこれは貴重で注目に値する文章である。無償の作業であり、なみなみならぬ意欲があふれでている。貴重という理由は、連載の長さだけでなく、その内容が意味深いからだ。ここには木下さんのすべての思想、行動(主に近代芸術思想史に関するものだが)の基礎をなすエッセンスが原初の形で生のまま表れている。一つ一つの「言葉」と「事実」に誠実に徹底してこだわり、考察(模索、思考、反省、検証)する姿がある。喜怒哀楽がある。それゆえこのエッセイは木下さんが思索し、発語する最初の書斎であり、仕事場となっているように思われる。

 〈テレビ、ラジオへの出演〉
2010年11月28日(再放送12月5日) NHK教育テレビ「日曜美術館」
 「ゴッホ誕生~模写が語る天才の秘密」(ゲスト)
2014年4月10日~6月26日(全12回) NHKラジオ第2「カルチャーラジオ 芸術その魅力」
「カオスを描いた芸術家 ミケランジェロ」(講師)
2015年8月1日~29日(全5回) NHKラジオ第2「日曜カルチャー」
 「ゴッホ自画像の旅」(講師)
2016年10月23日(再放送10月30日)NHK教育テレビ「日曜美術館」
 「傑作ダンギ ミケランジェロ」(やまさきまり・茂木健一郎と)
〈「京都市芸術振興賞」を受賞)
木下さんは、1999年、「京都市芸術振興賞」(評論部門)を受賞した。授賞理由は、京都にいる間は、フランス政府の機関で、フランスの芸術家や研究者のための「ヴィラ九条山」(奨学宿泊施設、アーティストレジデンス)のアドヴァイザーもやっていたこと、さらに京都市中心部にある廃校になった小学校の建物を「京都芸術センター」にする準備委員と実現後も運営委員を務めた功績が認められたからである。

〈「国際日本文化研究センター」の共同研究に参加〉
横浜国大退職後のことだが、国際日本文化研究センターの共同研究(平成20年度「東洋美術・東洋的思惟」)に共同研究員として参加した(その成果は「「岡倉天心」神話と「アジアは一つ」論の形成」という論文にまとめ、『東洋意識 夢想と現実のあいだ』ミネルヴァ書房に入っている)。

③ 私塾〈土曜の午後のABC〉を主宰
木下さんは、2005年3月で「大学」という組織から解放され、待っていましたとばかりに2ヶ月もおかずに私塾〈土曜の午後のABC〉を横浜市で開いた。月2回、土曜日の午後に(現在は金曜日も追加されている)開かれ、取り上げるテーマはおもに人物だが、その頭文字をAからZまで26人を選んで語るという意味で、会の名に「ABC」をつけている。場所は、現在は「波止場会館」(中区海岸通り)である。
木下さんはこの会(集まり)の目的について、「僕の話を聴いてもらって、その日の午後のひと時、なんらかの知的活動の手応えを共有し合える、そんな集まりにしたい」と述べている。木下さんは組織に縛られないで(大学という組織は規則だらけ、拘束だらけなので)、自由に自主的にお互いの考えをぶつけ合い、お互いを高めあっていける、いわばすべての参加者が互いに教えあい、学びあえる場(‘知的活動の手応えを共有し合える場‘)としての真の意味での「私塾」を意図したのかもしれない。効用や利益がすぐに求められ、またそれを売り物にしている市民講座が町に氾濫している現代ではあるが、このようなじっくり考える場が存在するのはまことに貴重である。異色の集まりと言えよう。
会は、2017年度で第12期を迎えている。資格は問わず、いつでもだれでもが参加自由の会だが、美術、文学などに「好奇心のある方」が参加しているようだ。私は参加したことはないが、会のブログやファンサイトなど見ていて、自由闊達な会の雰囲気が伝わってくる。取り上げるテーマやテキストも普通の講座とは一味も二味も違う。たとえば2018年度は、「「老子」から教えられること」と「見開き日本美術史―作品編」だ。
この私塾について木下さん自ら次のように紹介している。これ以上の説明は要しないと思うが、じっくりと歩んでいってほしいと思う。
「木下長宏が企画、運営する、誰でも参加できる勉強会。美術、文学、思想etc.などのジャンルをクロスオーバーして、美の営みの根底にひそむものを考える。ジャンルや歴史区分で分かれ、パッケージングされた「美術史」のワクを取り払い、美の思想とは何かと問い、新たな美の歴史を問い直す連続講座。古代から現代までの詩歌、絵画、小説、哲学、神話、工芸等々に目を配り、人間の営みが生み出したひそやかな表現の襞から、その痕跡を丹念に読み起こす。内容は深く、難解な部分もあるが、誰でも楽しめる語りかたを目指している。」
④ 「芸術思想史」への壮大なる試み
 木下さんは、〈土曜の午後のABC〉で語った内容をまとめて、2009年に『美を生きるための26章 芸術思想史の試み』(2009)を刊行した。次の26の人物、事績が取り上げられている。
 日本人:与謝蕪村、北一輝、土田杏村、中井正一、岡倉覚三、幸田露伴、坂口安吾、浮世又兵衛、
 外国人:レオン・バティスタ・アルベルティ、屈原、ワシリィ・エロシェンコ、ミシェル・フーコー、アルベルト・ジャコメッティ、イエス、アナ・メンディエタ、マルセル・プルースト、ドン・キホーテ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、シモーヌ・ヴェイユ、フランシスコ・デ・ザヴィエル、尹東柱、張彦遠
 事績:大乗寺、埴師―土師、ラスコー、敦煌莫高窟
この編成について、木下さんは「人間の、あるいは人類の知の営みの全体の中で欠かすことのできない活動としての「芸術」と呼ばれる活動を、その活動の最も奥深いところへ目を向けようとした」ときになされたものだと述べている。したがってここでは狭い意味での「美術」の枠を超えて、文学や思想などを含む「文化」としての「人間の活動総体」、とくに「芸術」の世界が俯瞰されている。この視点に立って、彼は「芸術思想史」の可能性を模索しているようである。
 この本で取り上げられた対象は興味深いものばかりである。しかも、それらが読みやすい文章で(これは真の学者の必須条件)、古今内外の文献を駆使しながら、しかも緻密な考察の上で、自制された姿勢を保ちながら、内容の本質を深く掘り下げている。私にとっては、この本は木下さんの著作の中ではもっとも愛読しているもので、またもっとも啓発を受けているものだ。
 木下さんは、この本を始め、最近は『自画像の思想史』(2016)なる浩瀚なる学術的著書や、『ミケランジェロ』(2013)など一般人向け著書も出している。これら最近の活動を見ると、木下さんは、全力で「芸術思想史」への大きな扉を開こうとしているように私には思える。それは他の学者、研究者の追随をゆるさないもので、新しい「日本近代芸術思想史」という地平を開きつつあるように見える。『美を生きるための26章 芸術思想史の試み』(2009)でその第一の嶺を越えた以上、第二、第三の嶺を越えて「地平」の先にたどりついてほしい。
木下さんは、同志社が生んだ最大の近代芸術思想史の研究者と言えよう。また日本の近代芸術思想の分野でも、独自の屹立した地歩を占めつつあると思う。今後に期待するところ大なるものがある。

3、 木下さんとの愉快な思いで

木下さんとは50年に及ぶ長いつきあいとなるが、若い時には大いに語り、大いに食べ、大いに飲み、大いに旅行をした。また、大いにキリスト教関係の活動もした。当時は苦しいことも多かったが、今から思えばすべて楽しい追憶のかなたにある。
田舎者の自分にとって京都も大学もまったくの新天地であったが、学問はもちろん思想ことを同志社と「疾風怒濤」といってもよい時代が少しは教えてくれた。中でも友人との付き合いの中で学んだことが多かったが、木下さんは私に最も影響を与えた友人の一人である。木下さんを通じて生きるとは何か、思想とは何か、学ぶとは何か、友人とは何か、といった根源的なもの、現在の自分の基礎になっていることを多く教えられたことを感謝している。
追憶と言ったが、忘れてはならないことで、今でも意義があり、愉快に思っていることがある。それは木下さんの助力を借りて二冊の本を出すことができたことと、一冊の本に木下さんと共に名を連ねることができたことである。前者は、1、『変貌の季節を』(海声社、1988)、2、『言葉の礫 河崎洋子が問い続けたもの』(河崎洋子追悼集編集委員会編刊、2016)であり、後者は、3、『死ぬ日まで天を仰ぎ キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局、1995)である。
1と2は、大学時代の共通の恩師であり、友人でもある故同志社大学宗教部主事河崎洋子に関する本である。1は、河崎洋子の唯一の著書となったもので、木下さん、森田進さん(当時恵泉女学園短大教授)、それに私(当時国立国会図書館司書)の3人が協力して刊行したものである。2は、河崎洋子の追悼集(遺稿を一部含む)であり、同志社大学時代、キリスト教関係団体で知り合った上記3人と森田直子(森田進夫人)、工藤弘志夫妻、岡本紀明、菅野真知子、人見一晴の諸氏にも加わってもらい編集刊行したものである。苦しいことも多かったが、多くの仲間と共に同志社史に特筆すべき人物の記録を残すことのできた喜びと幸せを今でも感じている。
3は、同志社大学在学中に治安維持法の犠牲となり1945年に獄死した韓国の国民的詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)についてのもので、その没後50周年を記念したもの。日本基督教団出版局の編集したものだが、木下長宏、森田進、宇治郷毅など7人の共著である。
まことに思い出深い三冊の本であるが、これらにより木下さんと共通の精神世界を共有できたことを深く感謝している。

(うじごう・つよし、2018年1月21日記す)