坂本恭子さんから、年末の池内晶子さんの展覧会に対する文章をもらったので掲載します。

昨年末のgallery21yo-jの池内晶子さんの新作展、私も行ってまいりました。数年前に池内さんを知ってから、すっかりファンになって作品を追いかけてきましたが、今回は、戸惑いにちかい不思議な感覚に捕らわれました。あの場で見たもの、考えたことは、どれだけ反芻しても整理しきれないのですが、「2018年年頭のご挨拶」への返信にかえて、感想を送らせていただきます。

 池内さんの今回の作品の前に立ったとき、最初にやってきたのは、なにかを「うつす」というのはこういうことなんだ、という感覚でした。床に広がる絹糸の渦が、上に吊られた糸の姿を映しているみたいだと思ったのです。つづいて、そんな錯覚に近い感覚はそのまま逆転して、上に吊られた糸の渦が、床上にあらわれた円形を映して広がっているように感じられてきました。かたや右巻きに、かたや左巻きに逆回転しつつ、「Z」の字に似た捩れを描きながら、双方向に糸が流れ、遷っていく。静かにたたずむ二つの赤い塊のあいだに、私は確かに、そんな動きを見つめていました。
上下の相反は、糸の回転の方向にとどまりません。垂直軸をもつ構造と、水平面に展開する構造。空に浮く円と、床に密着する円。ぴんと張られた糸の硬質な広がりと、ふんわり落とされた糸のやわらかな広がり。上部で空白の円がかたどられる、その真下で、もっとも糸が密集している。互いが互いの陰画であるかのように、一方に欠けているものを受けとめ、埋めていくかのように、映しあい、遷りあう。反撥しながらも引きあわずにはいられない分身とも、反転・対称を内包する鏡像とも呼びうる二つの円は、「うつす」ということの本質を私に示すと同時に、「天」と「地」の関係をも想起させるものでした。天の姿をうつすように地が広がり、地で為される営みを孕んで天が広がる。天のめぐみを受けて地はそだち、地で育まれたものが天に還っていく。対立と相互補完を抱きしめて在る世界の様相を「かたち」にしようとするならば、池内さんの作品はまさに、そのひとつの実践ではないだろうか。
広大な宇宙のうごめきとして作品を見据えたとき、小さな、ささやかなものたち――自然の生命から人の手で紡がれ染められた一本一本の糸、鑑賞者の動きを受けて揺らめきはじめる細い細い糸、その細い糸に施された一つひとつの小さな結び目、糸を結ぶ指のわずかな動き、長い時間をかけて繰返された「結び」の堆積、糸巻のクセのままに旋回し渦を描いて重なる糸、巻きグセをもった糸を重力にゆだねて落とし、回り歩きながら拡げていく営為――こそが、世界・宇宙をつくりあげているさまを、目の当たりにしているように思えてきます。身体が小さくなって、宙空と大地にひろがる赤い糸のあいだに潜り込み、その真ん中に立っている気がしてきたり、はるか頭上と足の下の底ふかくに、視覚ではとらえきれない天と地が、響きのように延びひろがっていくのを感じるようでもありました。そして、そんな茫漠とした天地のイメージに攫われても、艶やかな絹糸に付された結び目の粒つぶが、あるいは、円の縁からぽろっと顔を出している、縒りのほどけた糸の終端が、「人」の営みとそのつつましさを思い出させ、いま生きている世界に私を連れ戻してくれる。この往還は、「小さな個々の生命が宇宙の大きな動きと交歓しようとしているとでも言えばいいのか」という先生の評と、かさなっているかもしれません。
 その結果、なのでしょうけれども(こういう感覚は、ほとんどいっせいに私に押し寄せてきたので、論理的に順序立てることはできないのですが)、ああ、池内さんのこれまでの作品の下にも、私はいつも、いま床に広がっているこの渦を見つめ、感じていたんだなあ、という、不思議な感覚に捕らわれました。一方で、私はどこかで、この床上の渦がふたたび、「作品」から姿を消していくことを期待してもいる。二つのかたちが上下になって映しあい、遷りあう構造を内に秘め、観る者に感得させつつも、実体としては姿をみせない、そんな地点に、池内さんの制作はたどり着けるのではないかと、勝手なことを考えていました。池内さん自身が、自分の制作が根源的に抱えもっている「なにか」を再確認した(しようとした)作品、そんなふうに感じたと言い換えられるかもしれません。今回の池内さんの作品に、戸惑いのようなものを覚えたと記しましたが、それは、ぱっと湧きおこった「うつしている」という感触のことだけではなく、赤い糸たちが、これまでにないくらい太く濃く、もったりとして見えたからです。先生の言葉を借りるなら、彼女の作品から放たれる「微妙な緊張感」がどこか欠けているようにも思えて、一瞬、ひるんでしまった。けれどもこの戸惑いは、作家が一歩を踏み出していると直感したときの、震えでもありました。
 アーティストにとって、自分の思考や実践のなまなましい過程は、できることなら他者には見せたくないものだと思います。それでも、どうしても、他者が観る場に移さなければ、決して獲得できない「なにものか」がある。自分の制作、できあがった作品に、尽きせぬ不足を感じていたとしても、ジャコメッティも、セザンヌも、モネも、作品を見せることは断念しなかった。「つくる」こと、あるいは「見せる」ことの無力にどれほど直面しても、両者の引力のあいだにこそ「作品」が立ち上がり、存在しうることを、彼らは見落とさなかったのだと思います。「不足」をかかえながら、自分の制作の根っこに繰返し立ち戻り、もう一度そこから出発し、そうして生まれた作品を他者に見せていく。池内さんの新作は、完成度を高めた作品というよりも、そんな「豊饒な不足」に満ちていました。ひとつの制作が、それ以前には目に見えるかたちで示してこなかった「なにものか」を、過去の作品群のうちにまで、「見つけた」「見つめていた」と観る者に確信させるつよさを、今回の池内さんの作品はもっていました。
 池内さんの作品を観るたびに、空気を彫っているみたいだと感じていました。糸がかたどる空白の円の縁で、空気がむくっとせり上がり、重力とともにその穴になだれ落ちていくのを見ているようでした。塗り残した部分が図になっていく水墨画のように、糸そのものを見ているのか、糸と糸の隙間にある空気を見ているのか、判らなくなることさえあります。決められた、動かしがたい空間に糸を設置するのではなく、一粒ひとつぶ結ばれていった「時」を溜めこむ、か細くやわらかな糸という材をもって、そこに在る空気を削り、その帰結として新しい空間が生成してくる。だから、池内さんの作品はつねに、私にとって「インスタレーション」ではなく、「彫刻」の新しい可能性を示すものでした。今回の作品で、「空気を彫る」ということは、ギャラリーの室内を満たす空気にとどまらず、その背後につらなり、うごめいている天地の関係、宇宙の相に手をのばしているのだと、彫刻のさらなる可能性に、やはり身体が震えました。

 先生は、池内さんの作品に、「編む>結ぶ」を見つめていらっしゃいます。池内さんの作品を「空気の彫刻」とするなら、糸という素材にまつわる人間の根源的で普遍的な行為、「結ぶ」「編む」(「結ぶ」の前に「縒る」も加えられるでしょうか)は、ABCの「日本美術史序説」で「日本美術史を貫く三つの思想以前の行動、思想を育てる身体的反応」として挙げていらした、「覗く」「握る」「削る」に比して考えることができるかもしれません。池内さんが覗いている、「見えない世界」を手繰りよせるヒントが、ここにもこぼれている。まだまだ考えなければなりませんが、先生の展評から、そんな手応えを感じました。